https://ebook.meisei-u.ac.jp/meisei_100/

# 学校法人 明星学苑創立100周年記念誌 ｜明星学苑

## Page 001
![Page 001の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000001.jpg)

【ページ内のテキスト情報】



## Page 002
![Page 002の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000002.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

刊行にあたって刊行にあたってFOREWORD今般明星学苑創立100周年の記念事業として、創立100周年記念誌を刊行することが叶いました。まずは、創立100周年記念誌を編纂するに際し、学苑は編纂のための組織を作り、その中心的責任者として明星大学に設置されている明星教育センターの初代センター長であった高島秀樹名誉教授にあたっていただくことになりました。記念誌の執筆編纂に際し、同名誉教授のほか、小川哲生名誉教授及び各設置校の関係者が執筆・編集を行い、無事に記念誌の刊行となりました。高島名誉教授・小川名誉教授のほか、執筆・編集にご尽力をくださいました皆様に深く感謝申し上げます。1923（大正12）年、当時実業家で篤志家でもあった星野鏡三郎氏の出資と児玉九十先生との出会いにより、明星実務学校を設立し、1927（昭和2）年に明星中学校に改組、その後高等学校、幼稚園、小学校と開校し、1964（昭和39）年には創立40周年記念事業として明星大学が開学され、今日に至っております。創立時30名の生徒で発足した学校が、現在は、在校生約14,000名、教職員約800名の総合学園として発展してまいりました。また、この間約14万人以上の「世界に貢献する」卒業生を輩出し、社会の発展に貢献してきたことは、本校の誇りであります。これまでの100年の歴史を、この創立100周年記念誌によって振り返り、次の時代へ伝えていくのは私たちの責務であります。学苑の歩んだ大正、昭和、平成、令和の4つの時代の道程は、決して平坦なものではありませんでした。時代の変遷による多くの苦難を乗り越えて、学苑の発展を担ってきた先人たちの努力と、教育にかける使命感をこの創立100周年記念誌から学び、改めて敬意を表し、感謝申し上げます。特に、戦後の混乱期に明星学苑の運営の傍ら、私学三法の制定等、日本の私学発展の基盤づくりに奮闘された児玉九十先生、また明星大学創設に建設資金の手当、土地探しから御苦労なされた児玉三夫先生のご尽力は特筆されるべきでしょう。私たちはこの100年を一区切りとして、次の100年の学苑の発展を考え実行していかねばなりません。この予測困難な不確実な時代の中、どのような時代が来ても社会で活躍し、社会に貢献できる人を育成するのが明星教育の使命です。そのため建学の精神に加え、次の100年を見据えたNext100ビジョン「自ら変革し続け、新たな時代、新たな世界を謳歌する人間性あふれる卒業生を輩出する学苑」を掲げました。教職員一同、力を合わせこのビジョンの実現に全力を尽くす所存であります。最後にこの100年の発展を支えてくださった卒業生、同窓会の皆様、保護者の皆様、明星教育を実践してきた教職員の皆様、そして明星学苑を応援していただいてきた地域の皆様その他多くの関係者の皆様に、改めて厚く御礼申し上げます。学校法人明星学苑理事長吉田元一YOSHIDAMotokazu

## Page 003
![Page 003の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000003.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

祝辞MESSAGE祝辞学校法人明星学苑の創立100周年をお祝い申し上げます。創立者・児玉九十先生は、私学設置の機運の高まりをいち早く捉え、1923（大正12）年に明星実務学校を現在の東京都府中市に設立されました。建学の精神「和の精神のもと、世界に貢献する人を育成する」を実現すべく、幾多の困難を乗り越え、現在では、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学・大学院を設置する学校法人として発展されました。において、明星学苑各設置校が新時代の人間教育に向かう姿勢を表するものと伺っております。グローバルな協働とローカルな地域貢献をともに大切にする次世代の育成は、我が国の教育機関に期待されるところです。100周年を機に、明星学苑が豊かなる次の100年に向けてスタートを切り、新たなビジョンの実現に意欲的に邁進され、益々のご発展を遂げられることを、心より希望いたします。このことは、吉田元一理事長をはじめ、歴代の役員、教職員の皆様の御努力の賜物であり、保護者や同窓会など関係各位の温かいご支援があってのことと、深く敬意を表する次第です。100周年を機に、明星学苑は新たなビジョン「自ら変革し続け、新たな時代、新たな世界を謳歌する人間性あふれる卒業生を輩出する学苑」を発表されましたが、このビジョンは、東京都多摩地域という文化と自然を豊かに兼備した場前文部科学大臣永岡桂子NAGAOKAKeiko

## Page 004
![Page 004の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000004.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

府中キャンパ府中校ス府中校明星学苑創設の地︑FUCHUCAMPUSスFUCHUCAMPUS

## Page 005
![Page 005の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000005.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

日野キャンパ日野校ス日野校広大な敷地と緑に恵まれたHINOCAMPUSスHINOCAMPUS

## Page 006
![Page 006の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000006.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学苑賛歌、校旗、校章校旗明星学苑各校の校旗は、1931（昭和6）年に制定された明星中学校校旗が基となっています。制定当時は星で囲まれた中央に「中学」の文字があり、星の下に中学在学生5学年を示す星が描かれていました。校章校章は、明星学苑のシンボルです。「明星」の文字とそれを囲む16個の星の輪は、「学天の明星」を目ざす明星学苑を象徴的に表現したものです。学苑賛歌学苑賛歌は、1958（昭和33）年に完成しました。作詞者である土岐善麿氏は、当時の国語審議会会長で芸術院会員の歌人でした。一方、作曲者の信時潔氏は、本学苑の卒業生の保護者で、作曲家、チェロ奏者として知られています。すこやかにまじめにともにつとめゆくこのよろこびを野の鳥もきけ野の空もみよ明星学苑賛歌土岐善麿作詞信時潔作曲学苑賛歌の碑学苑賛歌、校旗、校章校旗明星学苑各校の校旗は、1931（昭和6）年に制定された明星中学校校旗が基となっています。制定当時は星で囲まれた中央に「中学」の文字があり、星の下に中学在学生5学年を示す星が描かれていました。校章校章は、明星学苑のシンボルです。「明星」の文字とそれを囲む16個の星の輪は、「学天の明星」を目ざす明星学苑を象徴的に表現したものです。学苑賛歌学苑賛歌は、1958（昭和33）年に完成しました。作詞者である土岐善麿氏は、当時の国語審議会会長で芸術院会員の歌人でした。一方、作曲者の信時潔氏は、本学苑の卒業生の保護者で、作曲家、チェロ奏者として知られています。すこやかにまじめにともにつとめゆくこのよろこびを野の鳥もきけ野の空もみよ明星学苑賛歌土岐善麿作詞信時潔作曲学苑賛歌の碑SCHOOLDATA学苑賛歌︑校旗︑校章

## Page 007
![Page 007の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000007.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

創立100周年記念式典2023（令和5）年9月30日、府中校児玉九十記念講堂にて、創立100周年記念式典を開催しました。式典の司会に明星大学卒業生櫻井絵美里サヴァンナ氏を迎え、明星大学学友会吹奏楽団による『学苑賛歌』斉唱から、明星学苑吉田元一理事長による挨拶や学苑からのメッセージの発信や学苑のイメージを映像化した100周年記念映像の上映、続いて落合一泰副理事長により「Next100ビジョン」が発表されました。さらに、前文部科学大臣の永岡桂子氏による祝辞、各分野で活躍する同窓生から寄せられたお祝いのビデオメッセージを上映しました。そして、府中市長高野律雄氏、学苑卒業生でもある八王子市長石森孝志氏による来賓祝辞が披露されました。また、小学生から大人まで様々な世代の方にお楽しみいただけるマジシャンYUSHI氏による「学苑創立100周年記念マジックショー」を催し、盛大に幕を閉じました。

## Page 008
![Page 008の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000008.jpg)

【ページ内のテキスト情報】



## Page 009
![Page 009の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000009.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

創立100周年記念式典祝賀会創立100周年記念式典閉式後、総合体育館にて、創立100周年記念式典祝賀会を開催しました。式典と同様に司会には櫻井氏を迎え、明星中学校･高等学校校長の福本眞也校長による主催者挨拶、明星同窓会大室容一会長による乾杯が行われ、和やかな雰囲気で会がはじまりました。明星大学学友会チアリーディング部「ミラクル・スターズ」の演舞や明星大学学友会吹奏楽団による演奏などを催し、会は滞りなく進められ、お開きとなりました。

## Page 010
![Page 010の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000010.jpg)

【ページ内のテキスト情報】



## Page 011
![Page 011の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000011.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

CONTENTS目次学校法人明星学苑目次CONTENTS目次Ⅰ.建学の精神と私学教育創立100周年記念誌Chapter2刊行にあたって学校法人明星学苑理事長吉田元一祝辞前文部科学大臣永岡桂子府中校日野校学苑賛歌、校旗、校章創立100周年記念式典創立100周年記念式典祝賀会Part1第1部学校法人明星学苑の歩みChapter11第2章262明星学苑の建学の精神とその変遷―創立時の理念と建学の精神の確立まで―1.近代的学校の設置と私学の役割2.私学教育の源流となった私塾3.新たな私学の勃興と明星学苑の誕生4.現在の私学に必要な建学の精神Ⅱ.明星学苑の建学の精神の成立過程1.明星学苑創設時の教育方針2.児玉九十の明星実務学校長就任後の明星学苑の教育方針Ⅲ.児玉三夫理事長による学苑の建学の精神に対する考えⅣ.荒井正大理事長時代における学苑の建学の精神と教育方針の再構築Ⅴ.斎藤和明理事長時代における学苑の建学の精神Ⅵ.学苑創立85周年時に公示された学苑の建学の精神、教育方針、校訓及び各設置校の教育目標262264265267268268269280283285288第1章学校法人明星学苑の歴史Ⅰ.創設期1923（大正12）年～1927（昭和2）年1.星野鏡三郎と児玉九十2.明星実務学校の創設Ⅱ.発展期1927（昭和2）年～1947（昭和22）年1.明星中学校の創設2.太平洋戦争下の学校生活Ⅲ.学制改革期1947（昭和22）年～1963（昭和38）年1.学制改革への対応028028041070070102142142Chapter3第3章292明星学苑の経営方針と経営体制の変遷はじめにⅠ.学苑創設時の経営体制Ⅱ.財団法人化以降の経営方針と経営体制Ⅲ.学校法人化時以降の学苑の経営課題と経営体制Ⅳ.創立40周年以降の経営方針と経営体制2932952972992.私学法制の整備と児玉九十153Ⅴ.大学設置以降の学苑の経営方針と経営体制3003.明星幼稚園、明星小学校、明星中学校・高等学校女子部の創設156Ⅵ.創立50周年時の学苑経営の方針と経営体制3014.教育活動の充実165Ⅶ.創立60周年以降の学苑経営と管理体制302Ⅳ.拡大期1964（昭和39）年～1996（平成8）年182Ⅷ.創立70周年以降の管理体制の大きな変化と経営課題3041.明星大学の創設1821.新理事長・学長選任に対する「異議申し立て」への対応3052.海外日本人学校の創設2042.新理事会の直面する課題3063.児玉三夫、理事長・園長・校長・学長に就任207Ⅸ.創立80周年以降の経営課題と経営体制3084.いわき明星大学の創設213Ⅹ.学苑創立90周年頃の経営課題と経営の方向性3115.学苑長児玉九十の逝去2171.いわき明星大学を学苑傘下から切り離し、大学単体で運営できるⅤ.転換期1996（平成8）年～今日まで222独立した別法人化策を講じることによる再建3111.学校法人組織の改革2222.府中校一貫教育の整備3122.学校法人運営体制の整備2283.高等学校進学実績の向上3133.元理事長児玉三夫の逝去2364.「教職協同」による教育指導の推進3134.学校法人の活動の展開2395.将来に備えるための財務基盤の強化313付.周年記念事業253まとめ314

## Page 012
![Page 012の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000012.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

明星幼稚園明星小学校明星中学校・高等学校明星大学明星大学大学院園長の辞明星幼稚園園長渡邊智恵子教育活動PTA星座会校長の辞明星小学校校長細水保宏教育活動学校生活PTA校長の辞明星中学校・高等学校校長福本眞也教育活動PTA連合会学長の辞明星大学学長落合一泰理工学部人文学部経済学部情報学部教育学部経営学部デザイン学部心理学部建築学部データサイエンス学環通信教育部全学共通教育委員会明星大学学友会大学院同窓会Part2第2部設置校の現況3263283333383403433473503523623663683803863883903943974004034064084104134184322CONTENTS目次SchoolData組織機構図歴代理事長明星学苑組織機構（事務組織）理事、監事、特別顧問、評議員学生・生徒等数最近の11年の推移教職員一覧年表土地面積・建物面積キャンパスマップ436437438440441442460469470Part3第3部資料凡例•引用文については、原則として下記のように修正して掲載した。•旧漢字字体については、常用漢字字体に改めた。ただし、常用漢字に該当する漢字がない場合は、旧漢字のままとした場合がある。また、人名・地名など固有名詞は当時の表記に従ったものがある。•旧かなづかいについては、現代かなづかいに改めた。•カタカナ書きの文書については、ひらがな書きに改めた。•句読点の付されていない文章については、適宜句読点を補った。•年の表記については、「西暦年(年号年)年」に統一した。例「1923（大正12）年」•地名・組織名など当時と現在とで変更のある場合は、現在の名称への変更が判明する限りにおいて「当時の名称(当時、現：現在の名称)」と記した。例「東京都府中町(当時、現：東京都府中市)」なお、「満州・満州国」は現在使用することが不適切と考えられるが、歴史的事象を示すために「旧：満州(当時、現：中国東北部)」と表記した。•数字の表記は洋数字としたが、引用の場合は原文に従い漢数字のままとした場合がある。•引用文献の出典表示については、単著の場合は、「著者名・書名・刊行年・引用頁」とし、共著の場合は「著者名・論文名(掲載書名(巻号のある場合はこれを含む)・刊行年)引用頁」とした。3CONTENTS目次

## Page 013
![Page 013の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000013.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

第1部｜学校法人明星学苑の歩み

## Page 014
![Page 014の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000014.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

CHAPTER1｜第1章学校法人明星学苑の歴史

## Page 015
![Page 015の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000015.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部Ⅰ.創設期後に明星実務学校・財団法人明星中学校の理事・監事を務めた。二男諤次郎は錫の創設した東京製紙会社に入社して活躍、四男廣吉は母の実家工、特に篠ノ井線鉄道・鹿児島線などの難工事に取り組むとともに、海外から最新の技術・機械（アメリカ製削岩機）を導入するなどの功績を1923（大正12）年〜1927（昭和2）年重田家の養子となり、鏡三郎の仕事を助け、五男鋠吉は同藩の村上家の養子となり、海軍軍人あげた。鉄道敷設工事以外にも、桂川水力発電所水路工事や神奈川町地先埋め立て工事（現：横として活躍、後に明星実務学校・財団法人明星浜市神奈川区星野町、埋め立て工事施工ととも中学校の理事を務めた。に橋を寄贈、これらの功を記念して町名が星野1865（慶応元）年、6歳で藩候邸内の学問所に入町、橋が星野橋と命名された）など、広く土木建学したが、幕末維新期の乱離に巻き込まれ藩邸設工事に大きな業績を挙げた（沢和哉「土木の神を退去するとともに学問所を退校せざるをえな様―星野鏡三郎」（『鉄道に生きた人々「鉄道建設い状況になり、学問を続けることができなかっ小史」』15〜28頁）・鹿島建設株式会社本社総務た。後年「私が学問をしていたら、三井、岩崎に部資料センター『あなたの隣の明治の鹿島』6〜1.星野鏡三郎と児玉九十で、私はたいへん恐縮し、かつ重大な責任を感じました。負けないくらいな仕事もやれたろうに」と嘆息することがたびたびあったと伝聞されており、31頁）。この間、1894（明治27）年には日清戦争勃発とともに、特命により仁川―京城間軍用鉄道星野鏡三郎と児玉九十の出会い（児玉九十伝編纂委員会編『児玉九十自伝』1990年、164頁）これも晩年に社会奉仕として教育、学校運営を敷設、さらに1904（明治37）年には日露戦争勃発2023（令和5）年に創立100周年を迎えた学校法志した理由の一つとなったと推測される。幕末とともに、特命により朝鮮京釜鉄道敷設・黄潤人明星学苑の淵源は、1923（大正12）年に創設さ後に詳述するが、児玉九十は1914（大正3）年7維新期に父乾八は錫とともに国事に奔走、その鉄道敷設・同扶桑隧道工事、第二漢口鉄橋工事れた明星実務学校である。明星実務学校は、明月に東京帝国大学文科大学史学科（東洋史学専間、諤次郎は上野の学生院に預けられ、鏡三郎と、国策に基づく海外での鉄道敷設工事を担当治・大正期に土木工事、鉄道敷設工事、特にト攻）を卒業、同年9月に東京帝国大学文科大学史は母・廣吉・鋠吉と諸国を流浪したが、1870（明したが、いずれも予定工期を短縮して完成させンネル掘削工事に大きな業績をあげ、老後の社学科（東洋史専攻）大学院に入学、翌年4月には治3）年に12歳で縁あって鹿島岩吉方に預けらて国策遂行に大きく貢献した。これらの業績か会奉仕として人材の養成、教育、学校運営を志名教中学に奉職するために大学院を退学していれ、鹿島家に奉公し、丁稚から始めて職歴を重ら、業界では星野鏡三郎は「土木の神様」とたたした篤志家、星野鏡三郎と、若き日から私学にるので、大学院生時代とは1914（大正3）年9月かねていった。1879（明治12）年に鹿島岩吉が逝去えられたとの伝説が残っている。このような活おいて自らの理想とする教育実践を行おう、一ら1915（大正4）年3月の間であり、二人の出会いし、鹿島岩蔵の代になり、鹿島組（現：鹿島建設躍、鉄道事業発展への功績、公益事業への寄付生を私学教育に捧げようとの決意を持った教育は児玉九十の大学院生時代、1914（大正3）年秋と株式会社）が組織されるとその組員に加わり、本などにより、1919（大正8）年に紺綬褒章を受け、家、児玉九十の稀有の出会いによって生まれた。推測される。出会いの時に星野鏡三郎は55歳、社・地方出張所に勤務し、主として鉄道敷設工1921（大正10）年には鉄道50周年記念式典に際し二人の出会いについて、児玉九十は次のよう児玉九十は26歳であった。この記述によって、事に従事した。その後、1896（明治29）年には鹿てわが国鉄道事業発展に貢献したことから鉄道に記述している。二人の出会いの時期は明らかになり、その契機島組を辞し、星野商店（後：星野組などと名称変大臣表彰を受けた。となったのは児玉九十が星野鏡三郎から相談を更）を創設して独立、1907（明治40）年には同業の1914（大正3）年に東京府貴族院多額納税議員私の私学教育への出発は、大学院生時代受けたことであると理解できるが、なぜ二人が菅原恒覧・吉川久吉らと鉄道工業合資会社を創互選会に列したが、「政治はとうてい私の任ではに芽生え、新設名教中学校への奉職にはじ知り合い、なぜ星野鏡三郎が児玉九十に相談し設して理事となったが、1909（明治42）年には再ありません」として貴族院議員になることを辞まるわけですが、その具体的端緒となったたのかについては明示されておらず、現在参照び独立して星野工事事務所を設立し社長に就退し、それに代わって「今後老後の仕事として、のは、ふしぎなご縁で篤志家星野鏡三郎とできる他の資料からもその点は明らかではない。任、1919（大正8）年にはこれを星野合資会社となにか国家社会の発展のためにつくしたいと思いう人にめぐり会ったことに起因します。したが、1923（大正12）年には同社社長を退き、いますが、どのようなことがいいでしょうか」と当時、鹿島組から独立して、鉄道敷設事星野鏡三郎社長を女婿徳久次郎に譲り、相談役となった。児玉九十に相談し、これに対して児玉九十が「社業で大成功をおさめられた星野鏡三郎翁か星野鏡三郎は、1859（安政6）年12月6日に姫路鹿島組在勤時代・自社経営時代を通して星野会事業か政治事業か教育事業のいずれかに寄付ら、ご養子の秀一君の教育のことについて、44藩士星野乾八とけ以の三男として、江戸小石川鏡三郎は、日本鉄道会社線・山陽鉄道会社線・することだと思います。いちばんいいのは、や大学院生の私がはじめて懇切なご相談をうの姫路藩主酒井雅楽頭江戸屋敷邸内で誕生し碓氷線（軽井沢―横川間・碓氷隧道）・京都鉄道はり教育事業に寄付することでしょう」と答えけたのは大正三年秋のことでした。まだ修た。兄弟は5男1女の6人で、長女は夭折、長男会社線・北海道鉄道会社線・岩越鉄道会社線なたことから、明星実務学校・財団法人明星中学業中の私を見込んでのご相談だということ錫一郎（通称名：錫）は印刷業・製紙業で活躍し、ど全国の主要な幹線鉄道路線の敷設工事を施校（当時学校法人という制度はなく、学校を設CHAPTER1第1章028MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory029

## Page 016
![Page 016の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000016.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部置・運営するのも財団法人であった）・明星中学だ。跡見学校は、跡見花蹊が父である跡見重敬校を創設することになる。が大阪で開設していた私塾を引き継ぎ、その後1932（昭和7）年12月6日に伊豆伊東の別邸で「これで思い残すことはありません。楽に行けま1865（慶応元）年に京都に移転、さらに1870（明治3）年に東京に移転、それを1874（明治7）年に学Column1星野鏡三郎の略歴と事跡す。」を最後の言葉として逝去、享年74であった。校として創設したものであり、現在の学校法人明星中学校・児玉九十としては、明星実務学校・跡見学園（跡見学園女子大学などを設置運営）の財団法人明星中学校・明星中学校の創設者であり、逝去時には財団法人理事であることから学校葬を希望したものの、本人の意思に基づいて遺族が辞退した。それに代わって、12月8日の伊淵源である。1893（明治26）年、星野鏡三郎34歳、花子20歳の時に結婚した。星野花子について、児玉九十は次のように記述している。441859（安政6）年12月6日、姫路藩士星野乾八・け以の三男として、江戸小石川姫路藩主酒井雅楽頭の私邸内で誕生。1865（慶応元）年藩候邸内学問所に入学。幕末維新の乱離に巻き込まれ諸国を流浪。豆伊東の別邸から東京本邸帰着の際の出迎え、12月9日の本邸での葬儀に明星中学校全生徒が参列、明星中学校が刊行する『体験教育』第46号（1932（昭和7）年12月15日刊）を追悼号として刊行し、弔意を表した。逝去の半年後1933（昭和8）星野翁の花子夫人は、跡見花蹊先生門下生の四天王のひとりといわれたほどの、教育にはたいへん熱心な賢婦人でしたから、設立準備については、なにかと有益なアド1870（明治3）年鹿島岩吉方に預けられ、鹿島家に奉公し、家業に従事。1879（明治12）年鹿島岩蔵の代になり、鹿島組組織とともに組員に加わる。本社・地方出張所に勤務し、日本鉄道会社線（現：東北本線）・敦賀線（後に柳ヶ瀬線、現在は新線開通に伴い廃線）・碓氷線軽井沢―横川間・同碓氷隧道（後に信越本線、現在は廃止）・山陽鉄道会社線（現：山陽本線）、篠ノ井線鉄道（現：篠ノ井線、特に冠着隧道）など主として鉄道敷設工事を担当する。年6月6日には明星中学校および校友会が主催して「故星野先生追悼式」を明星中学校講堂に於いて挙行、芝増上寺僧侶のほか、星野家当主・夫人・親戚や教職員・卒業生・生徒代表などが出席し、読経・焼香・校長式辞・遺族代表追悼談バイスをいただきました。明星誕生にいたる間、花子夫人より賜わった熱心なお力添えは忘れることができません。後日、開校式に跡見花蹊先生のご出席をいただいたのも、このようなご縁によるわけです。1894（明治27）年日清戦争勃発とともに、特命により仁川―京城間軍用鉄道敷設にあたる。1896（明治29）年鹿島組を辞し、星野商店を設立する。京都鉄道会社線（現：山陰本線）・鹿児島線（現：肥薩線、嘉例川工区担当のほか鹿島組担当の矢嶽隧道工事への協力）・北海道鉄道会社線（現：函館本線）・岩越鉄道会社線（現:磐越西線）などの鉄道工事のほか、水路工事・埋め立て工事などを行う。などが行われた。式後には遺族とともに校長・教職員代表・生徒代表が多磨墓地の星野家墓地に墓参した。その後も、年忌などの機会には校長など代表者が参列、凝念時の訓話で取り上げて黙祷を捧げる、代表者が墓参をするなど追悼（『児玉九十自伝』1990年、176頁）明星実務学校創設にあたって星野花子の助力があったことは、後述するように、創設時に星野花子が理事となっていることからも推測でき1904（明治37）年日露戦争勃発とともに、特命により朝鮮京釜鉄道・黄潤鉄道・同扶桑隧道・第二漢口鉄橋工事にあたる。1907（明治40）年鉄道工業合資会社を設立し、理事となる。1909（明治42）年星野工事事務所を設立（1919（大正8）年に星野合資会社とする）、社長となる。1914（大正3）年東京府貴族院多額納税議員互選会に列する。することが続けられた。1937（昭和12）年の明星中学校創立10周年に際しては、その貢献を記念して、児玉九十が発議し卒業生・保護者が協力なおしして彫刻家後藤良（能美会・能彫会主催、帝展・る。学校創設後もしばしば学校を訪問しており、その記事が『体験教育』紙上に散見される。星野花子の逝去時には、『体験教育』に次のような訃報が掲載されている。1923（大正12）年星野合資会社社長を退き、相談役となる。明星実務学校を創設する。1927（昭和2）年財団法人明星中学校・明星中学校を創設する。1932（昭和7）年12月6日、逝去、享年74。日展審査員）作による胸像を製作し、記念式において孫の和子により除幕された。この胸像は今日も府中校内に置かれ、星野鏡三郎とその功績を偲ぶよすがとなっている。星野鏡三郎が明星実務学校創設に取り組む上で、夫人である花子の助力があった。星野花子（1873（明治6）年（不詳・推定）〜1942（昭和17）年「星野花子夫人の訃」本校設立者故星野鏡三郎先生夫人花子女史は、御主人御他界後伊豆伊東別邸にて静に老後を送って居られましたが一月二十九日午後五時、狭心症の為め六十九歳を一期として御他界、二月四日増上寺に於て御葬儀1909（明治42）年に赤十字への寄与により、日本赤十字社有功章を授与される。1919（大正8）年に公益事業への寄与により、紺綬褒章を授与される。1921（大正10）年に鉄道事業への寄与により鉄道開通50周年祝典に際し、鉄道大臣表彰を受ける。公益事業・鉄道建設への貢献により、紺綬褒章・鉄道大臣表彰を授与されたほか、多くの銀杯・木杯などの下賜を受ける。1月29日）は、和歌山県出身、後藤広貞の長女であり、跡見花蹊（1840（天保11）年〜1926（大正15）が行われました。夫人は内助の功深く且つ本校の誕生発展についても一方ならぬ御配星野鏡三郎年）が1875（明治8）年に創設した跡見学校に学ん慮を戴きました。蒲柳の質とは申せ至って御CHAPTER1第1章030MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory031

## Page 017
![Page 017の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000017.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部元気でしたのに突然の御他界、洵に残念至児玉九十が幼い時から聡明利発であり、いずれグマティズムに基礎を置くLearningbyDoingのこの間、星野鏡三郎による明星実務学校の創設極に存じます。謹んで哀悼の意を表します。児玉祖虔の後継者にと考えられ、また上級学校思想」などから、自らの終生を貫く独自の教育理に中村春二と共に参画し、1923（大正12）年には（『体験教育』158号、1942年2月、4頁）への進学を可能にするということが考えられて念としての「体験教育」という考えを形成してき創設された明星実務学校の理事に就任した。児の養子縁組であったといわれている。金谷小学た。このような考え方を実践することを目指し玉九十は、成蹊学園の吉祥寺移転が完了し、成なお、星野夫妻には、長女久子（1歳で夭折）・校には、創立100周年を記念して児玉九十の筆にて、大学・大学院在学中から教育の道に進むこ蹊高等学校（旧制、7年制）の設置認可も下り1925長男正一・養子秀一・養子房子があり、長男正よる石碑（文面：はばたけ金谷っ子たくましとを決め、その中でも国による統制を受けるこ（大正14）年4月創設となったことを契機に、1925一は星野鏡三郎の逝去後1933（昭和8）年6月20日く明治三十七年三月卒業明星大学学長児とが多く転勤もあって長期間一貫した教育実践（大正14）年3月に成蹊学園の一切の職を辞し、かに財団法人明星中学校理事となった。玉九十）が設置されている。当時、児玉祖虔は独を行いがたい官立学校よりも、私立学校こそがねて念願であった欧米教育事情視察のために同身であり、修学のために東京の曹洞宗大学林人間らしい人間を作るのに適したところ、教師年5月から1926（大正15）年1月まで、フランス・児玉九十（現：駒澤大学）に在学していたため、故荒見来が落ち着いて国家百年の大計としての人間教育イギリス・ノルウェー・スウェーデン・デンマー児玉九十は、1888（明治21）年11月15日に静岡道の夫人であるいし44の養育を受けた。1904（明治に取り組むという本質的な営みにふさわしいとク・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・イ県田方郡中郷村青木（現：三島市青木）で自作農37）年3月に金谷小学校高等科を卒業、静岡県立ころであると考えていた。タリー・オーストリア・ハンガリー・チェコス家である増島良吉・志か44の次男として誕生した。掛川中学校（現：掛川西高等学校）に進学するここのような考え方を持つ児玉九十が実際に私ロバキアを巡った後、アメリカへ渡り、横断し11月15日（七五三の日）に生まれたことで子どもとを希望し1年次入学試験に合格するものの、そ学教育の道に第一歩を踏み出したのは、大学院て各都市を視察した。が好きであり教育の道を志したことと、7カ月のの際に2年生の補欠募集があることを知って応での研究生活に半年間で終止符を打ち、1915（大帰国後、明星実務学校の初代校長である宮本早産児・未熟児であったが、後年、柔道などで募、試験に合格して4月から2年生として入学し、正4）年4月、名教中学校教諭に就任した時であ覚純が駒澤大学教授に転出する希望を申し出て身体を鍛錬し、健康に留意した生活を送ること寄宿舎生活を送り、1908（明治41）年3月に卒業る。名教中学は1915（大正4）年に二條基弘・大いたことから、星野鏡三郎に懇請され、創設期によって101歳までの長寿を全うすることになした。在学中薫陶を受けた西洋史専攻の二人の木達吉・柳原義光らによって創設された名教学からの関係もあり1926（大正15）年4月に明星実る健康な身体を作ったということは、晩年にい教諭の影響を受けて歴史学を学ぶことを志し、会が豊玉郡代々幡村（現：渋谷区富ヶ谷）に創設務学校校長に就任した。1927（昭和2）年には明星たるまで常々教え子などに語っていた。兄弟は二人の教諭の母校であり、西洋史学の泰斗の指した中学校であり、学制改革により1948（昭和実務学校を改組し、財団法人明星中学校・明星長女とみ・次女えい・長男正平（通称：正作）・導が受けられることから第四高等学校（石川県23）年に名教中学校・名教高等学校に組織替え中学校（旧制、5年制）とし、その理事長・校長に次男九十・三男治作・四男猪作（夭折）・三女か金沢市）に入学することを希望し、東京で予備校し、さらに1955（昭和30）年には学校法人東海大就任した。第二次世界大戦後の学校制度改革につ、の4男3女の7人兄弟であり、農業にいとまに入学して試験勉強に励んだ甲斐あって合格、9学に吸収されて東海大学付属高等学校に改称、ともない、1947（昭和22）年には新制明星中学校なき父母に代わって祖母とともに12歳年長の長月に第四高等学校大学予科第一部文科（英文）に現在の東海大学望星高等学校・東海大学付属浦校長、1948（昭和23）年には新制明星高等学校校姉とみの養育を受けたと回想している。「九十」入学した。第四高等学校では浦井鍠一郎（西洋安高等学校につながる系譜を持つ学校である。長に就任、その後、私立学校法に基づき財団法の名は、漢学に詳しい親戚によって、早産児で史）、赤井直好（漢文・陽明学）、西田幾太郎（哲名教中学校在任中、担任した1年1組に中村春二人明星中学校を学校法人明星学苑に改組、学校あった九十の長寿・健康を願って、また『詩経』学）らの薫陶を受け、1911（明治44）年3月に卒業夫人小波（旧姓：小藤）の末弟である小藤保雄が法人理事長に就任した。さらに明星幼稚の創設に由来して九十とは物事の原則を融通無碍に使した。9月に東京帝国大学文科大学史学科（東洋在籍したことから児玉九十の教育実践や人とないこなし、そこから賑やかさや幸福万来をもた史専攻）に入学し、1914（大正3）年7月に卒業、さりが成蹊学園の創設者・学園長である中村春二らすことを意味する言葉であるとして命名されらに9月に東京帝国大学文科大学史学科大学院に伝わり、中村春二から成蹊学園に来任するよたと述べている。に入学したが、この間主として白鳥庫吉（東洋うに勧誘を受け、1916（大正5）年に成蹊実務学校1895（明治28）年に中郷村立中郷尋常高等小学史）の指導を受け、学部では「道教と仏教」と題教諭に就任した。その後、成蹊実務学校主事、成校（現：三島市立中郷小学校）に入学したが、1898する卒業論文を完成させ、大学院では隋唐の文蹊学園主事、成蹊中学校校長、成蹊小学校校長（明治31）年に長姉が嫁いだ荒見茂霖（長泉寺住化史について研究していた。幼少時からの寺院を歴任した。学園主事とは学園長中村春二の補職）の父である荒見来道（故人）が住職を務めた生活で身に付けた仏教的素養、特に禅宗的素養佐役であり、実質的には副学園長に相当したが、静岡県金谷町（現：島田市）の曹洞宗金龍山洞善を基礎として、静岡在住時代から学んだ二宮尊中村春二が病気がちになり、1924（大正13）年に院の次代の住職である児玉祖虔の養子となって徳の「報徳思想」、特に「実践躬行」などの考え方、逝去してからは学園全体の教育・運営の実質上金谷町に移住し、金谷町立金谷小学校（現：島田さらに高等学校・大学・大学院時代に学んだ、王の責任者となり、特に1924（大正13）年の成蹊学市立金谷小学校）尋常科4年に転入した。これは陽明の「知行合一」の考え方、デューイの「プラ園の池袋から吉祥寺への移転の指揮を執った。明星中学校校長室の児玉九十先生CHAPTER1第1章032MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory033

## Page 018
![Page 018の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000018.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部（1949（昭和24）年）、小学校の創設（1950（昭和25）成蹊実務学校との関わり年）にともない園長・校長に就任した。1964（昭児玉九十が成蹊学園との関わりを持つ契機和39）年には明星大学創設にともない学長に就任、幼稚園から大学にいたる一貫教育の場を築は、前述したように1915（大正4）年4月に名教中学校教諭に就任したことにある。名教中学校教Column2児玉九十の略歴と事跡き、その全てを統括することになった。1978（昭諭に就任した年に1年1組の担任となったが、担和53）年4月には90歳と高齢になったため、理事任した生徒の中に成蹊学園長中村春二の夫人小長・園長・校長・学長の職を辞し、明星学苑長（後に名誉学苑長）に就任して高所大所から明星学苑の教育を見守っていくことになった。1989（平成元）年12月15日に逝去、享年101であった。波（旧姓：小藤）の末弟である小藤保雄が在籍していた。中村春二は小波夫人や小藤保雄の母を通して児玉九十の教育理念や教育実践について知り、自らの教育理念と共通するものの多いこ1888（明治21）年11月15日、増島良吉・志かの次男として、静岡県田方郡中郷村（現：三島市）で誕生。1895（明治28）年中郷村立中郷尋常高等小学校に入学。1898（明治31）年児玉祖虔の養子となり、静岡県金谷町（現：島田市）に移転、金谷町立金1926（大正15）年の明星実務学校校長就任以来逝去時まで明星学苑一筋の道であったが、それとともに求められて多くの公職に就き、私学のため、より広く社会のために貢献してきた。その主なものをあげると、太平洋戦争前・戦中間とを理解し、成蹊学園に来任するように要請した。児玉九十は「体験教育」という独自の教育理念を構築しつつあったが、この教育理念は中村春二・成蹊学園の教育理念と合致するものであった。この間の事情について児玉九十は、次谷小学校尋常科4年に転入。1904（明治37）年3月、金谷小学校高等科卒業、4月、静岡県立掛川中学校（現:掛川西高等学校）2年に入学。1908（明治41）年3月、静岡県立掛川中学校卒業、9月、第四高等学校（石川県金沢市）大学予科第一部文科（英文）に入学。1911（明治44）年3月、第四高等学校卒業、9月東京帝国大学文科大学史学科（東洋史専攻）には、全国私立中学校恩給財団理事・理事長、東京都私立中学校恩給財団理事・理事長、司法保護委員、国民精神総動員実行委員、大政翼賛会中央協力会議議員などを務めた。太平洋戦争後は、内閣教育刷新委員会臨時委員として戦後教のように記述している。私が担任した名教中学校の一年一組に小藤保雄という生徒がいました。私が、当時教育者として著名だった成蹊学園の創立者に入学。1914（大正3）年7月、東京帝国大学卒業、9月、東京帝国大学文科大学史学科大学院に入学（1915（大正4）年3月退学）。1915（大正4）年名教中学校教諭に就任。1916（大正5）年成蹊実務学校教諭に就任、その後、実務学校主事・学園主事・中学校長・小学校長などを歴任。育改革に寄与し、その後、東京都私学振興協議会委員、日本私学団体総連合会副会長、全国高等学校校長会常務理事、全国私立学校審議会連合会長、文部省社会教育審議会施設委員長、私立学校振興会監事、日本ユネスコ国内委員会委中村春二先生に知遇を得るにいたったのは、小藤君の縁故からでした。すなわち中村先生の夫人の末弟にあたるのが小藤君で、その母上から私のことが中村先生に通じていたわけです。さっそく中村先生から1923（大正12）年明星実務学校理事に就任。1925（大正14）年3月、成蹊学園の一切の職を辞し、5月〜1926（大正15）年1月、欧米教育視察。1926（大正15）年明星実務学校校長に就任。1927（昭和2）年明星実務学校を改組し、財団法人明星中学校・明星中学校（旧制、5年制）とし、その理事長・校長に就任。員、フルブライト教育者採用試験委員議長、中央教育審議会委員、私立学校教職員共済組合理事・運営審議会会長、国立教育研究所評議員、東京都私立学校特別調査会委員、東京都私立学校ぜひ成蹊に来てほしいという勧誘を受けました。…（略）…中村先生も東京大学で国文学を専攻され、学生時代から曹洞宗第一中学校の講師をしたりして、禅に深い理解を1947（昭和22）年新制中学校校長に就任、その後、新制高等学校校長・幼稚園長・小学校長・学校法人明星学苑理事長・大学学長に就任。1978（昭和53）年4月、明星学苑の理事長・大学学長などの職を辞し、明星学苑長に就任。1989（平成元）年12月15日、逝去、享年101。助成審議会委員、文部省教育職員養成審議会委もっておられました。教育は空理空論でな員、財団法人能力開発研究所理事、東京都教科用図書選定審議会会長、私立大学協会理事、社団法人東京都私立学校退職金社団理事、東京都私立中学高等学校協会会長、財団法人私学研修く、実践躬行でなければならぬ、という中村先生の主張と私の考えがまったく合致したことはいうまでもありません。翌大正五年四月、私は成蹊学園に移りました。1944（昭和19）年11月に藍綬褒章授与される。1964（昭和39）年11月に勲三等旭日中綬章授与される。1974（昭和49）年4月に勲二等瑞宝章を授与される。1981（昭和56）年10月には東京都名誉都民の称号を受ける。福祉財団理事長など教育・学校・教員関係の職（『児玉九十自伝』1990年、156〜157頁）を務めるとともに、東京都公安委員長、全国公安委員会連絡協議会副会長などを務めた。成蹊学園に移った児玉九十の活躍について、『成蹊学園百年史』には次のように記述されてい児玉九十る。CHAPTER1第1章034MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory035

## Page 019
![Page 019の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000019.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部中村に招聘され、一九一六年四月に成蹊に校長に相当する職であった。1918（大正7）年9等学校へ進学し、成蹊精神に立脚した確固大正新教育・大正自由教育について、成実務学校教諭に就任した。月には財団法人成蹊学園主事となるが、これはたる校風をつくりだしたのである。田龍一は地域における文化的実践・社会的掛川中学校時代に王陽明の知行合一や二学園長を補佐する役割であり、就任時に中村春（『成蹊学園百年史』2015年、237頁）実践と関連を持つ教育の領域における動き宮尊徳の報徳実践の考えに傾倒した児玉二からは「児玉君を学園主事に補したのは、副学であるとして次のように記述しているが、は、教育は理論ではなく実践躬行であると園長というつもりです。二十九歳の若さでは児玉九十の成蹊学園における特筆されるべきこれは今日における一般的な理解を示すもいう中村の姿勢に深く共鳴した。また、成仰々しすぎるので主事という名称にしましたが、功績は、1924（大正13）年4月に行われた成蹊学のであるといえよう。こうした文化実践の蹊では寄宿舎において生徒と生活を共にしすべて副学園長のつもりでやってください。」と園（成蹊実務学校・成蹊中学校・成蹊小学校・成動きは、制度をも揺るがす。たとえば、教たが、その間に、真実の教育は自らが率先して範を示すことにあると悟ると同時に、そのような第一義的な教育は私学でしか行いわれたという（『児玉九十自伝』171頁）。その後、成蹊実務学校から成蹊中学校に転じ、成蹊（大蹊実業専門学校の4校、この時高等女学校は目白に残った）の池袋から吉祥寺（当時：北多摩郡武蔵野村吉祥寺字野田北、現：武蔵野市吉祥寺北かなえ育の領域である。山本鼎による自由画教育が主張され、文部省唱歌が北原白秋あしだえのすけ批判され、芦田惠之助による綴はくしゅうによりつづかたり方教育がい得ないと感じ、以降一貫して私学教育に正9）年6月には成蹊中学校校長に就任、1924（大町）への移転の指揮を執ったことである。創設時展開された。いずれも、臣民の養成のため携わることとなった。児玉の教育に対する正13）年2月に中村春二が逝去した際には、そのには豊島師範学校や聖公会神学院があり、後にに子どもを型にはめ、個性を圧した強権的考え方は、多くの教員の中で最も中村に近後任として成蹊小学校校長を兼務した。成蹊中立教大学が移転してくるなど自然環境に恵まれな教育への批判である。かったと言ってよいであろう。翌一九一七年一月、成蹊実務学校主事になると、更にその翌年九月には財団法人成蹊学園主事になった。学園主事とは実質副学園長である。成蹊に着任してから二年学校校長としての児玉九十の教育実践について、『成蹊学園百年史』には次のように記述されている。一九二〇年六月、中村学園長兼校長が体て文教地域を形成していたものの、急速に市街地化が進む池袋から、教育活動によりふさわし（大正8）年に決定され、用地の購入・造成工事・校舎建築を始めたが、1923（大正12）年9月1日に関東千葉師範附属小学校や奈良女子高等師範附属小学校、茨城県石下町立小学校などではには、自由教育の実践もみられた。羽仁もとよねきち子による自由学園、赤井米吉の明星学園、西いさくいしげ村伊作の文化学院、あるいは、教育の世紀五ヵ月、弱冠二九歳にして中村学園長の補調悪化のため学園長に専念することになり、大震災が発生、池袋校舎に被害が発生するとと社の児童の村小学校など民間での動きとあ佐役に抜擢されたのであり、中村の児玉に各校主事制を各校校長制に改め、児玉九十もに、建築中の新校舎に大きな被害はなかったわせ、大正自由教育とよばれる教育面での対する信頼の厚さがうかがえる。一九一九が中学校校長に就任した。ものの建築の進行に影響が生じ、移転の際には改革である。これまでの公教育が、教育の年頃から中村が病気がちになると、学園長この児玉校長時代は、成蹊中学校がその輸送事情の逼迫が生じた。この頃から学園長中目的から指導方法まで画一的に統制されて代理として学園五校を統括し、その経営と特色を十分に発揮した時代であった。一九村春二が病床に臥すことが多くなり、1924（大正いたのに対し、大正自由教育は児童に着目教育の指揮に当たった。殊に一九二四年の一五年に開校した成蹊小学校の卒業生が、13）年2月21日に逝去した。この二つの困難な状して多彩な教育実践を試み、一九二〇年前中村死去の前後は、学園組織の改編、吉祥成蹊中学校に数多く進学してきたのは児玉況の下、児玉九十は吉祥寺移転の全ての指揮を後からの潮流のなかで主要な位置を占める寺移転計画など難問が山積していたうえに校長の時代で、ここに成蹊小・中を通じて執り、無事1924（大正13）年4月の新学年度までこととなった。関東大震災にも見舞われるなか、学園の全ての指揮に忙殺された。中村亡き後は、その一一年一貫教育が実現したのであった。児玉は円満な性格の人格者で、中村の教に成し遂げたのである。成蹊学園の吉祥寺移転が完了し、かねて準備・申請していた成蹊高等（成田龍一『大正デモクラシー』（シリーズ日本近現代史④）2007年、103〜104頁）の後継者として学園を牽引していく存在で育方針を最もよく理解し実践した人であ学校（旧制、7年制）の設置が1925（大正14）年2あったといえる。り、中村からも全幅の信頼を受けていた。慈月に認可され、1925（大正14）年4月に開校の運また、浜田陽太郎は新教育運動について「わが（学校法人成蹊学園『成蹊学園百年史』2015年、480頁）恵的愛情をもって生徒に接することで生徒びとなったことを契機に、1925（大正14）年3月国では、大正期に生じた新しい中等学校におけからも敬愛され、教師の病気欠講の際には、に成蹊学園の一切の職を辞した。る教育を指すことになる。だが一般には、大正ここに述べられているように、児玉九十は自ら英語、数学、国語、地歴の学科まで担期から昭和初期にかけての小学校における新し1916（大正5）年4月に成蹊実務学校教諭に就任し当した。特にその視野の広さは、修身の時大正新教育と成蹊学園の教育い学習活動を採り入れた教育や、カリキュラムたのを出発点に、1917（大正6）年1月には成蹊実間に時局を論じ、生徒たちに深く広い人生成蹊学園が成蹊実務学校として創設されたの改造運動など児童中心主義にかかわりをもつ務学校主事となった。この場合の主事とは、学観、世界観を植え付け、多くの有為の人材1912（明治45）年、明星実務学校が創設された1923ものをふくめてよんでいる。」ととらえたうえ園長である中村春二が各設置校全ての校長となを育成した功績は大きい。（大正12）年の時期の新しい教育思想・教育実践で、特に成蹊学園の教育について取り上げ、大り、その下で各校に主事をおき、主事が各校のこの児玉校長時代に、その薫陶を受けたとして注目されていたのは今日一般に「大正新教正新教育との関係についてについて、次のよう通常の教育・運営の責任をになうという実質的中学卒業生が、やがて新設された七年制高育」「大正自由教育」と総称される動きであった。に記述している。CHAPTER1第1章036MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory037

## Page 020
![Page 020の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000020.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部このような考え方を、わが国で最初に主張た。」と指摘している。その独自性について、中したのが谷本富（1906年ころより）である。村春二が当時の日本の学校教育の抱える課題にColumn3中村春二の略歴と事跡谷本は、「武士道」的教育を攻撃して、実用的な才能を強調した。彼の新学校の三原則は、対して「課題を批判にとどめず、実務学校をはじめとする成蹊各校で具体的な教育の事実を創出1）兵営主義を廃す、2）学級学校ともに小仕するなかで探究していった。多くの特色ある新掛とす、3）開放主義をとるであった。この機軸を打ち出していったが、中村はそれらの基成蹊学園の創設者で学園長を務めた中村春二は、1877（明治10）年3月31日に、中村秋香・清の二男として東京府猿楽町（現：東京都千代田区神田神保町）で生まれた。父の秋香は詩人・歌人・唱歌作詞家とし著名であり、宮内省御歌所寄人を務めていたが、同時に文部省勤務を経て女子高等師範学校などに勤務する教育家でもあった。母の清は、静岡県出身、画家鈴木香峰の娘でような考え方が具体化したのが1912年（明治45）、中村春二によって、東京池袋につくられた成蹊実務学校（のちの成蹊学園）である。中学校令によらない自由な教育をする盤として教育上、何を重んじていたのだろうか。」として、中村春二が教育実践の基盤として項目に整理してとらえている。自らも絵画に秀でていた。中村春二は番町学校（現：番町小学校）に入学、転居にともない転校した高等師範学校（東京高等師範学校、後に東京文理科大学、東京教育大学を経て、現：筑波大学）附属学校高等小学科を（明治23）年に同付属学校尋常中学科に入学、ここで高等師範学校校長加納治五郎ら多くの個性豊かな教諭と出会い、教育への道に進むことを考える契機となったといわれている。また、後に中村春二の教育事業の賛助者となる今村繁三、岩崎小弥太らの得難い友人を得た。ために実務学校と名づけた。（浜田陽太郎「新教育運動」（日本教育社会学会編『教育社会学辞典』1967年、所収）601〜602頁）浜田陽太郎の指摘によれば、成蹊学園の創設一、個性尊重と内面への着目中村は「教育は個人教育が本則」であり、「個性発揮という事が教育の本旨である」として、一人ひとりの個性と人柄を十分に理同校での6年間の修学を終え、1896（明治29）年9月に第一高等学校一部四之組文科に入学、卒業後1899（明治32）年9月に東京帝国大学文科大学国文学科に入学、1903（明治36）年7月に卒業するが、在学中から東京中学林（後に曹洞宗第一中学林、現：世田谷学園中学校・高等学校）の教諭を務めた。その後、曹洞宗大学（現：駒澤大学）・法政大学・高等師範学校付属中学・麹町女学校（現：麹町学園女子中学校・高等学校）・東洋音楽学校（現：東京音楽大学）など多くの学校で教鞭をとった。時の教育理念は大正新教育の教育理念を代表するものとされているが、『成蹊学園百年史』の「実務学校と中村春二の教育思想」によれば、中村春二の教育理念には今日一般的に大正新教育の教育理念ととらえられている考え方と共通する点解して指導できるよう、成蹊の各校では可能な限り少人数教育を徹底した。また、成蹊では、児童・生徒の内面と個性を理解する独特の方法が用いられた。二、鍛錬主義と自発的精神の発揮なお、大学卒業の年に小波（旧姓：小藤、陸軍少佐小藤享三の次女で、実践女学校（現：実践女子大学）卒業）と結婚、後に6男3女、9人の子どもを授かった。1906（明治39）年4月に中村春二は今村繁三（今村銀行（後の第一銀行）頭取）や岩崎小弥太（三菱財閥の第四代総帥）の援助を得て、自宅（本郷）に学生塾「成蹊園」を開設した。これは学校ではなく一種の奨学事業であり、中学以上の生徒・学生に寝食の場を提供し、学費を給与するものであるが、それだけではなく寄宿舎生活を通して薫陶を与えることを志した。成蹊園は徐々に規模はあったが、同時に異なる点もあったと理解される。「実務学校と中村春二の教育思想」によれば、明治の近代的学校教育の導入以来、国の教育のあり方は教育の推進・普及や一定の教育水準の成蹊の教育を通じて生徒には「自発的精神」、「自奮自発の精神」を身につけることが第一に強調された。自発性と学習意欲の喚起は大正新教育に共通する課題であったが、成蹊での大きな特徴は、生徒自身が心を拡大し、独立の塾舎（駒込）を持つまでに発展し、成蹊学園の淵源となった。さらに成蹊教育の深化を目指して独自の学校を創設することを志し、1912（明治45）年4月、池袋に成蹊学園最初の学校である成蹊実務学校を創設、1914（大正3）年に成蹊中学校、1915（大正4）年に成蹊小学校、1917（大正6）年に成蹊実業専門学校と成蹊女学校（目白、後に高等女学校）を順次創設し、独自の教育理念に基づく一貫教育を実践する場を完成確保を図るために「定型」的な形式を特徴とし、児童・生徒を受動的な立場に置き、知識を詰め込むことから「詰め込み主義」、「注入主義」との批判を招いた。これに対して1900年前後から欧米の新教育運動に刺激を受け、日本国内でもそ（精神）を整え、鍛えるための具体的な手段と目標を教えられ、身につけていたことであり、それが「凝念」と「心の歌（心力歌）」である。三、教師児童生徒との心の共鳴させた。その後、成蹊高等学校（7年制）の創設、池袋から吉祥寺への実務学校・中学校・小学校・実業専門学校4校の全面的移転を計画し準備を進めたが、病床に伏すことが多くなり、その遂行を見届けることなく1924（大正13）年2月21日に46歳の若さで逝去した。（『成蹊学園百年史』から抜粋・要約）れまでの教育の画一主義や形式主義、古めかしい修身教授などが批判され、総合学習や自学主義が主張され、新学校も開設され、これらの動きが大正新教育（大正自由教育）の大きなうねりを作り出すことになったと大正新教育をとらえ中村は、教育者は生徒より信頼、畏敬、愛慕される存在でありたいとし、師弟の関係は「精神上の血」が通って親子のような温かみがほしい、私立学校の特色は師弟間の親しい関係にあるとし、教師と児童・生徒とたうえで、「中村春二の公教育への批判意識もこの心の交流、心の通い合う関係を重んじた。中村春二れら大正新教育初期の論者と多くの点で重なっている。しかし、その批判の立脚点と改革の方特に、師弟同行、教師と児童・生徒との精神の融合一致、心の共鳴が追求された。向性には後で見るように大きな独自性があっ四、禅的な教育精神と「真我」の希求CHAPTER1第1章038MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory039

## Page 021
![Page 021の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000021.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部成蹊は特定の成立宗教を主義とすること鏡三郎翁』と呼んだゆえんは、その何びとも真似ここに記述されている星野鏡三郎の篤志が、月の理事会において決議された。これを知ったはなかったが、以上の一〜三には、禅宗、特のできない強烈な精神力と、教育事業をめざさ明星実務学校の創設に結実していくのである。中学校の生徒の保護者であった星野鏡三郎は、に、曹洞自力禅の思想と精神が底流としてれる崇高な熱意に敬意を表してのことでありま私財を投じて財政援助をして両校を存続するこ存在した。そして、「自己の中に尊きものを認めること」、「心の奥底に誰もが持つ尊いす。」と記述したうえで、星野鏡三郎が教育の道を選択した事情について次のように記述してい2.明星実務学校の創設とを申し入れた。星野鏡三郎は前述のように社会奉仕に力を入れており、その中でも教育への心」という意味でとらえられる「真我」の開る。成蹊実務学校の廃校と明星実務学校の創設援助を考えていたところであり、実務学校の教発が期待された。1920（大正9）年ごろから成蹊学園を援助する育について大きな意義を認めていたことからの（『成蹊学園百年史』2015年、172〜186頁）その年（補注：1914（大正3）年）、翁は東岩崎小弥太が率いる三菱の事情もあり、成蹊学申し入れであった。この申し入れは、実務学校京府多額納税者として貴族院議員に推せん園に関する基本的方向の転換が提起されるようの存続を願っていた中村春二にとっては望まし『成蹊学園百年史』においては、この4項目にを受けられましたが、これを辞退される、とになってきた。それは成蹊学園の教育体制を、男いものであったが、最終的に中村春二は理事会ついて、各々の具体的な考え方、それにもとづいう経緯があったからです。そのとき翁は子の小学校→中学校→高等学校、女子の小学校の決定を覆すことを潔しとせずに廃校を受け入く教育指導・教育実践に関してさらに詳述されしみじみと、「政治はとうてい私の任ではあ→高等女学校→同校専攻科という一貫教育体制れ、1922（大正11）年1月31日の理事会においてているが、それを参照すると明星実務学校・明りませんので、辞退することにしました。つとし、小学校から実務学校に入学する者と中学成蹊実務学校は1922（大正11）年度から新入生の星学苑の教育理念に共通する点が多く、明星実いては、今後老後の仕事として、なにか国校から実業専門学校に入学する者が減少してい募集を停止、1927（昭和2）年3月31日をもって務学校・明星学苑の教育のあり方は今日一般に家社会の発展のためにつくしたいと思いまる実態もふまえて、高等学校創設とともに傍系廃校とすることを正式に決定した。なお、実業大正新教育として理解されている教育のあり方すが、どのようなことがいいでしょうか」と化している実務学校と実業専門学校を廃校しよ専門学校は1925（大正14）年3月31日をもって廃と共通する点もあるが、それ以上に中村春二と質問されましたので、私は「社会事業か、政うという計画であり、これが1921（大正10）年11校とすることを正式に決定した。星野鏡三郎は成蹊実務学校・成蹊学園の教育理念に共通する治事業か、教育事業のいずれかに寄附をす傾向が強いと理解される。精神統一を図り、苦ることだと思います。いちばんいいのは、や難を克服し、気力を鍛錬する「凝念」と、心の力はり教育事業に寄附をすることでしょう」の偉大さをたたえ、心力・心霊を養い磨くことと答えました。の意義を説く「心力歌」を成蹊学園から明星学苑すると、翁は「私は幕末乱離の間に成人しが継承していることは、その最も象徴的な、重たため、正規の教育が受けられず、一生、非要な例といえよう。常に不自由をいたしましたから、いずれ時が来たならば、教育事業に寄附をさせてい明星実務学校創設へただきたいと思います。そのときはぜひ相前述したように星野鏡三郎は児玉九十と1914談相手になってください」とおっしゃいま（大正3）年に出会って間もなく、明星実務学校創した。設が具体的に考えられる以前から、児玉九十の私はそのとき、翁の理性的なものの考え示唆もあって老後の社会奉仕として政治の道で方と、名誉心を超越した大いなる社会奉仕はなく、人材養成、教育、学校運営を考えるよの信念に、いたく感動しました。この方は、うになっていた。児玉九十は出会いの時の星野まれにみる理知と、意志力と、人情味を兼鏡三郎の人柄について「いうまでもなく逆境かね具えた偉大な人物だと直感し、「実践躬ら身を起こし、徒手空拳で事業に成功された翁行」によって国家興隆の根源となる人材のの『実践躬行』の精神に、私ははげしく共鳴した育成に生涯を捧げたいという私の熱望に大わけですが、なによりも実業のなかで鍛えられいに共鳴するところがあったわけですが、た高邁な人格に傾倒いたしました。したがってそれが明星学苑創設の濫觴になろうとは、私より三十歳ちかくも年上で、功成り名とげたゆめにも思わなかったことであります。お方とはいえ、まだ五十五歳の氏をあえて『星野（『児玉九十自伝』1990年、164〜165頁）屋根の形状が印象的な創業当時の校舎（本館）CHAPTER1第1章040MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory041

## Page 022
![Page 022の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000022.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

して学校をつくるわけですから、ぜひ星野翁の姓名を後世に伝えるにふさわしい校名にしなければなりません。そこで星か鏡の文字のつく校名を得たいと、さんざん探しましたが、適当な文字がなく、結局「明星」という名を採用することにしました。これはたんなる抽象概念ではなく、よく輝く星、というはっきりした意味をもっており、星という天体を、若人のもつ無限の憧れ、あるいは理想になぞらえてみますと、非常に具体的で、しかも高踏的なロマンにあふれる校名だといえます。もちろん星野翁の「星」の一字もとり入れて、翁の崇高な社会奉仕の精神を象徴するものとして、これで表現することができましたので、文字のうえでは満足な結果を得たわけです。（『児玉九十自伝』1990年、166頁）さらに、この「明星」の読み方については、一般的な「みょうじょう」ではなく、「めいせい」としたが、その理由については次のように記述している。「明星」という文字は、ふつうの日本読みにしますと、呉音で「ミョウジョウ」と発音しますが、濁音のつくのはあまりよくないという説もあり、思いきって漢音読みに「メイセイ」とすることにしたわけです。一風変わった読み方ですが、これは中国の四書五経の中の「詩経」に「明星煌々」などとありますので、出典は堂々たるものです。（『児玉九十自伝』1990年、166頁）文中にあるように、『詩経』は中国の古典、四書五経の一つであり、そこに収録された詩が校名に反映され、特にその読み方はここから採用された。「明星煌々」「明星晳晳」の語句を含む原詩は次の通りである。成蹊実務学校廃校の決定を受けて自ら同様の実務学校を創設することを決意し、創設計画作成や準備の一切を中村春二と児玉九十に託し、これにより児玉九十は成蹊学園勤務のまま明星実務学校の創設に関わることになる。しかし、この時期から中村春二は病床に臥すことが多くなり、新しい実務学校創設の計画作成や準備作業は実質的には児玉九十がになうこととなった。成蹊実務学校が創設時に採用し、明星実務学校もその名称とした「実務学校」とは、中等教育段階の学校であるが、中学校令・実業学校令に依拠しない各種学校であり、私立学校令のみに規制され、学科課程などの制約が大きい中学校・実業学校と異なり、学科課程について自由裁量の余地が大きいことから選択された学校種別である。ただし、成蹊実務学校は1920（大正9）年に甲種商業学校となり（『成蹊学園百周年史』1380頁）、明星実務学校は創設時から制度上は甲種商業学校として発足している。また成蹊実務学校は修学年数5年、予科2年・本科3年であったが、明星実務学校はこの本科にあたる3年間のみである。入学資格・入学年齢も成蹊実務学校の予科は尋常小学校卒業・12歳、本科は高等小学校2年修了など・14歳であったが、明星実務学校は高等小学校2年修了など・14歳と定められ、この点からも中等教育段階の学校であることは明らかである。校名の由来明星実務学校の創設計画・準備が進む中で、大きな検討課題となったのが、どのような学校名とするかという点であった。校名「明星」は実務学校の創設者である星野鏡三郎の姓名に由来する校名としたい、その中でも校名にふさわしい「星」あるいは「鏡」の文字を取り入れたいと児玉九十が考案したものである。学校名の選定について、児玉九十は次のように記述している。星野翁が単独で寄附された基金をもとに042PART1第1部学校法人明星学苑の歩み園（みょうじょうがくえん）」が創設され、読み方は異なるものの混同されることもあった。そこで混乱を避けるために、1951（昭和26）年に法律改正に対応して財団法人から学校法人に組織変更した際に「学校法人明星学苑（めいせいがくえん）」とし、明星の読み方だけでなく、表記の上でも異なることを明確にすることとした。東門之楊二章章4句東門之楊。其葉牂牂。昏以為期。明星煌煌。東門之楊。其葉肺肺。昏以為期。明星皙皙。（『詩経』国風陳）なお、校名については後の1924（大正13）年に近接の地、三鷹市に赤井米吉らによって「明星学校名「明星」の由来と『詩経』Column4中国の古典文献であり、儒学の経典と尊重される文献をまとめて「四書五経」というが、四書は儒学の経典である『大学』『中庸』『論語』『孟子』であり、五経は儒学で尊重される『易経』『詩経』『書経』『春秋』『礼記』である。『詩経』は古代中国の詩を集めた作品集であり、周代に成立した中国最古の詩篇といわれ、『周詩』と呼ばれることもある。その内容は各地の民謡の歌詞を集めた「国風」、朝廷などの宴席で奏でられた歌の歌詞「雅」、祭祀に用いられた廟歌の歌詞「頌」の3部からなるが、「明星煌煌」「明星皙皙」は「国風」の第3巻の中の「陳」に含まれている。この2詩について『詩経集註三』では次のように注釈が加えられている。東門之楊（『詩経』国風陳風）東門之楊。其葉牂牂。昬以テ爲レ期ト。明星煌煌。【註】興也。東門ハ。相期スル之地也。楊ハ。柳之楊起スル者也。牂牂ハ。盛ナル貌。明星ハ。啓明也。煌煌ハ。大明ノ貌。〇此レ亦男女期會ノ。而有リ二負テ一レ約ヲ不ルレ至ラ者一。故ニ因テ二其所ニ一レ見ル。以テ起スレ興ヲ也。○東門之楊。其ノ葉肺肺。昬以テ爲レ期。明星晳晳。【註】音制〇興也。肺肺ハ。猶二牂牂ノ一也。晳晳ハ猶二煌煌ノ一也『詩経』043MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistoryCHAPTER1第1章学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年

## Page 023
![Page 023の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000023.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部「明星」という校名に関連しては、1927（昭和2）校が根底教育として今日最も大切なる教育止を惜しむ情義と実業家星野鏡三郎氏が老年に明星中学校を創設した際に寄せられた多く機関と信ずるものであります。更に学校の後の社会奉仕として教育事業に資産喜捨のの祝福の手紙の中の一通、曹洞宗第11代管長・生徒収容数が年毎に多数となり機械的に広篤志から設立されることとなったのであり総持寺現住5世管主である新井石禅からの手紙く浅い教育を実施する傾向の著しい今日又ます。それ故新設学校とは申し乍ら其教育に、校名をふまえて「学天の明星として教育界の一方に教育の徹底を期すべき根本問題たる方針は成蹊実務学校と同一なるべきことを新天地を打開されんことを…」と記されていた師弟間の情誼を密にし少数の生徒を収容し設立者が希望される為め理事に中村春二氏ことに児玉九十は感銘を受け、「学天の明星」のて狭く深い教育をするのも必要と存じます。を加へ教育方針の指導を托されました。そ語句を用いるようになった（『児玉九十自伝』167此等の見解から設立者が社会奉仕の微志れ故本校は成蹊実務学校の後身の如きもの頁）。そこには学校が「学天の明星」となることをより特に年々七千円の寄附をなし明星実務明星実務学校の第1期生と教員（本館前にて）であります故、父兄も安心して子弟を托し目指すという決意とともに、それだけではなく、学校を府下府中に設立し収容生徒数を百名得られ生徒も卒業後実業界に活動する上にそこに学ぶ一人ひとりが「学天の明星」、学問のとし全部寄宿舎に入れて根底教育として最された印刷物であり、第2の文書は冊子体（B6判、於ても成蹊の信用を継承してどれだけ心強世界で光り輝く星となるようにと願う意味が込も大切なる実業教育を徹底的に実施するこ表紙・写真と図1頁・本文9頁）であり、第3の文いか知れません。められ、児玉九十は「学天の明星たれ」と機会あとゝいたしたのであります。書は1枚刷り（B4判、両面印刷）であり、いずれ府中町と申すと東京市から三里を距てまるごとに教え子に語っていた。も生徒募集用に配布されたものと考えられる。2すが中村理事の意見で研学の校舎は是非清この「明星実務学校設立要旨」には執筆時期や文書とも発行年月日が記載されていないが、浄な空気で囲まれた閑静な境地で而も大東明星実務学校創設の意図執筆者名が記されておらず、いずれも不明であ1923（大正12）年3月23日実施の第1回入学試験京の刺戟を受け得るところと云う条件で選現在、明星実務学校創設の意図を記述した資る。しかし、原稿用紙は欄外に「かのめばえのの公告を含むところから、1922（大正11）年末か定したので校地五千坪で校地の周囲は広漠料として3種が残されている。したがき」「一〇、四、一きくのしゃをさめ」ら1923（大正12）年初頭に発行されたものと推測たる森林で囲まれた別天地でその上北十町その第1は、原稿用紙に手書きで記述されたと記されており、中村春二が主導した普通教育される。2文書の内容は、一、明星実務学校設立で省線国分寺の停車場あり南六町で京王電「明星実務学校設立要旨」であり、その全文は次から漢字をなくすことや歴史的かなづかいを廃の要旨、二、規定摘要（（一）目的、（二）学科及び車府中停車場を控えた交通の便のよい理想の通りである。して話し言葉どおりに書き表すことなどをめざ授業時間配当、（三）授業時間、授業日数、休業日、的な場所であります。す「かながきひろめかい」の機関誌『かのめば（四）生徒定員、（五）費用、（六）成績査定、（七）入そして本校は生徒全部を寄宿舎に入れる「明星実務学校設立要旨」え』用の原稿用紙である。『かのめばえ』は1920学時の費用、（八）服装、（九）卒業生、（一〇）設立設備といたしました。是は社会の刺戟の多教育の大切なることは世人の洽く知ると（大正9）年11月から1923（大正12）年8月の間刊者及び理事、（一一）入学者の心得）からなり、「二、く且強烈な今日では両親が特に余裕あり教ころであります。而してこの大切な教育が、行されており、内容から考えて明星実務学校創（一〇）設立者及び理事」を除いて全て同文である。育的頭と趣味がなかったら子女は兎角環境如何なる形式如何なる精神で実施されて居設に先立つ時期、1922（大正11）年ごろに記述さ特に重要な創設の意図については、次のようから悪化されがちであります。それ故本校るかと云う点を考えて見ましたら今日の教れたものと推測される。執筆者は原稿用紙を自に記述されている。は全部寄宿舎に収容して質素な生活の下に育の現状で満足が出来ないのであります。由に使用できる立場にあることや、記述内容か而も楽しく有益に三ヶ年間で人物陶冶と実高等教育も必要でありますが教育の根底ら考えて中村春二の可能性が高いが、あるいは「明星実務学校設立の要旨」業教育を修了せしめることと致しました。たる小学校の教育と中等程度の教育は最も児玉九十の可能性もあると推測される。なお、内今回東京府下府中町貫井に明星実務学校それ故父兄は安心してその子弟を託し尚且必要な教育であります。就中この中等程度容は次に掲げる2種の文書に記述されている創と云う文部省認可の商業学校（甲種）が設立つその成業就職迄を保証されるわけです。の教育は生徒の年齢の点から教育上最も困設の趣旨とは異なっており、下書きもしくは草せられ大正十二年四月から開校せられるこ人員一級卅名全校九十名としたのも中村難なもので、その点からこの中等程度の教案ではないかと推測できる。また、次の2文書とととなりました。理事年来の主張からであります。それは今育に徹底せるものの少きは遺憾の次第であ比較して、この文書では中等教育のあり方につこの学校の設立されたのは東京市外池袋日の学校制度が漸次總合の傾向となり多人ります。いて検討するなど基本的な教育理念についてのの成蹊実務学校が教育上著しい効果を挙げ数を収容し校舎の偉観を呈して来ました又一方に今日の中学校が根底の教育の重記述が多くを占める内容となっている。その卒業生の勤務ぶりが各会社銀行商店にが、それと反対に校風の低下を証する事実大問題から離れて高等学校の予備校と変じ第2、第3の文書はいずれも「文部省認可明於て年々信用を重ねつゝあるにも係らず、が日に多く顕われて来ました。それ故今後居る事実から考えますとこの予備教育と云星実務学校設立趣旨」と題され、発行者名として成蹊学園の学制改革から遺憾乍ら廃校の已は分裂の形式を取り小人数の学校に分裂すう見地から離れて実務的に教育する実業学「東京府北多摩郡府中町貫井明星実務学校」と記むなきに至ったのでこの成蹊実務学校の廃ることが教育の弊害を救う最良の方法と信CHAPTER1第1章044MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory045

## Page 024
![Page 024の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000024.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部じます。この点で本校は重い使命と覚悟とを有して居るのであります。本校の特色を略記しますと一、人物の陶冶と体育の重視二、実業教育の徹底三、定員一学級卅名全員九十名四、全生徒を寄宿舎に収容し健実趣味ある生活を取らせます。五、卒業後希望により就職を保証します。人物学業優秀のものは特に便宜を計ります。このように、この2文書には創設の経緯、教育環境、教育理念、教育実践のあり方などが明確に記述されている。冊子体と1枚刷りの2種の文書で唯一の相違点である「二、（一〇）設立者及び理事」については、各々に次のように記載されている。冊子体1枚刷り設立者星野鏡三郎設立者星野鏡三郎理事星野鏡三郎理事中村春二理事中村春二理事星野鏡三郎理事星野錫理事村上鋠吉理事村上鋠吉理事星野花子理事星野花子理事児玉九十ここに記載された設立者・理事について、星野鏡三郎・児玉九十、中村春二のほか、前述のように星野錫は星野鏡三郎の実兄、村上鋠吉は星野鏡三郎の実弟、星野花子は星野鏡三郎夫人である。1927（昭和2）年の財団法人明星中学校への改組後、星野鏡三郎は財団法人理事に就任し、その逝去後は星野鏡三郎の嗣子である星野正一（昭和8）年6月21日に理事に就任した。星野錫は財団法人監事に就任、村上鋠吉は財団法人監事を経て理事に就任し、その逝去後は村上藤太（村上鋠吉嗣子、尾上藤三と桂太郎の次女茂子の二男、成蹊学園出身、王子製紙株式会社勤務）が1943（昭和18）年5月に理事に就任した。いずれの文書も刊行年月日が記載されていな校地の制定いが、途中変更があったと推測されるものの、い成蹊学園が都市化の進む池袋から自然環境にみする。1923（大正12）年5月20日の明星実務学校開校式Column5「文部省認可明星実務学校設立趣旨」明星実務学校創設の意図を記述した書類、3種原稿用紙に手書きされた文書の1頁。「明星実務学校設立要旨」原稿用紙1枚目「文部省認可明星実務学校設立趣旨」と題された印刷物の一つで、冊子体のもの、表紙と1頁目に掲載された建築中の校舎写真と地図。CHAPTER1第1章1枚刷りのもの、ずれが先行しどのように変更されたか、変更の事情は詳らかにすることができない。ただし、恵まれ教育環境としてより望ましい吉祥寺に移転したのと同じ理由から、明星実務学校の校地標題が記されている面を除き、記述のある面を示した。『児玉九十自伝』には「大正十二年春を迎え、…は東京西郊の自然環境に恵まれ、しかし都会と（略）…成蹊在職のまま明星実務学校理事に就任あまりにも隔絶しないでさまざまな社会的・文いたしました。」（『児玉九十自伝』178頁）との記化的刺激を受けられる地がふさわしいと考えら場所の三ヵ所が候補となり、大正十年十二月二述があり、同書に掲載されている「児玉九十略年れた。児玉九十は、「私は当時、広瀬淡窓先生の十八日、この候補地の実地視察をした結果、百甲武鉄道（現：中央線）は1889（明治22）年に開譜」にも「大正12年明星実務学校理事に就任」咸宜園のような寄宿学校をたててみたいと思っ年以上の松の大木が百本以上もあり、うっそう通し、国分寺駅は開通と同時に最初の駅の一つ（518頁）と記載されているので、冊子体のものがていましたので、雑踏の都会地から五里位離れたる櫟林の現在地に決定し」（『明星ものがたり』として開業していた。文中に出てくる国分寺駅早く1922（大正11）年中に印刷され、1枚刷りのたところに土地を選ぶ事にし、国分寺駅附近と16頁）た、と記述している。校地の住所は当時北方20分ぐらいの所には明星実務学校開設後に方が後に1923（大正12）年に入ってから印刷・配決め、人に依頼したところ、国分寺駅北二十分「東京府北多摩郡府中町貫井」と表記されている一橋大学小平校地（1933（昭和8）年開設、現：小布されたのではないかと推測される。位のところと、国分寺駅の南の丘陵地と現在のが、現在の校地、東京都府中市栄町1丁目に相当平国際キャンパス）や陸軍経理学校（1942（昭和046MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory047

## Page 025
![Page 025の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000025.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部17）年開校、現：全国建設研修センター）が開設た、現：学園通り）の南は、当時は東京帝国大学かけたこともあった。」（「寄宿舎生活のこと」者の学校を設立して社会に盡し度き考は最され、国分寺駅南側には大倉高等商業学校（1946農学部府中演習林（1902（明治35）年開設）であ（『児玉九十先生を仰ぐ』所収、68〜69頁）と回想近偶発したるものに非ずして、年来の宿望（昭和21）年開設、現：東京経済大学、開設以前り、緑豊かな環境であった。1933（昭和8）年にしている。なお、「高等農林はまだなく、その予の発現なり。而して教育上の方針は設立者は大倉財閥系列の中央工業が立地）が開設されは、この演習林に東京高等農林学校（後に、東京定地は雑木林で」と記されているのは、前述のよが数年前より子息を托して教育を受けしめるなど、3候補地のいずれにも学校を設置するこ帝国大学農学部実科に改組されるなど組織の変うに実際は東京帝国大学農学部の演習林であっ非常に共鳴しつゝある成蹊学園と仝一の方とのできる規模の土地はあったと考えられる。遷を経て、現在は東京農工大学）の建築が始また。「府中刑務所」は1935（昭和10）年6月に巣鴨か針をとらんとす。由りて教育実施の方針になお、京王電気軌道（現：京王電鉄京王線）は1913り、1935（昭和10）年に開校し、現在にいたるもら移転してきたもので現在も同地（府中市晴見就ては既に成蹊学園長中村春二氏に監督指（大正2）年から順次開業していた新宿―調布間この地域は文教地域となっている。町）に立地しており、「蚕糸学校」は俗称と考えら導を得たき考えを以て、既に其内諾を得たを延伸して1916（大正5）年に調布―府中間を開当時の環境について、実務学校第3回生（1925れるが、1909（明治42）年に創立された東京府北り。敷地の選定、設備等も同氏の指揮を仰業し府中駅が開業しており、さらに1927（昭和2）（大正14）年入学）の清水重雄は「当時の学校周辺多摩郡立農業学校の後身である北多摩郡立府中ぎつゝあり。年には1925（大正14）年に開業していた玉南電気は雑木林と老松で囲まれ、門前まで行かないと農蚕学校（1923（大正12）年4月1日に都立に移管・設立者は将来敷地設備及維持費を生む基鉄道を合併して府中―東八王子間を開業した。校舎が見えないほどで、緑に囲まれた静かな、寂改組、第二次世界大戦後に学制改革にともない本金一切を寄附して、財団法人となし、後このように現校地は2路線2駅の利用が可能で、しいものであった。」（「明星の星よ輝け」（“児玉東京都立農業高校と改組され、現在も同地、府顧の憂なからしむるを期し、其の責に任ず交通条件に恵まれていた。九十先生を仰ぐ”明星同窓会編集委員会編『児玉中市寿町に立地している）のことである。るは勿論なり。後に、児玉九十は明星中学に6人の子どもを入九十先生を仰ぐ』所収）18〜19頁）と回想してい学させた父であり、この土地の旧所有者であっる。また、少し後になるが中学校第5回生（1931設置申請と校舎の建設「目録」た安斉直江から、この土地は奈良時代、府中に（昭和6）年入学）の石原重徳は当時の環境につい1922（大正11）年初めに校地4,615坪余（約15,229一、明星実務学校設置願武蔵国の国府がおかれた時代には国府と国分寺て「在学中の明星の附近は雑木林や麦畑などの㎡）の買収が完了したのを受けて、創設者星野鏡一、具申書を結ぶ街道（古代の街道の一つ、東山道武蔵路、広がる武蔵野であった。国分寺の駅は北口だけ三郎は文部省（当時、現：文部科学省）に明星実一、明星実務学校設置願添附書現在：西国分寺駅東方で発掘されており、一部しかなく、学校までに人家のあるのは本村の所務学校の設置願を提出した。現在東京都公文書一、収支予算表が復元展示されている）の中間の地にあたるこだけで野川沿いには田圃があった。農工大の前館に収蔵されている「設置願」、「具申書」と、これ一、学則とから、国府などに在任する役人の住宅地で身、東京高等農林はまだなく、その予定地は雑らも含む「書類目録」は次の通りである。一、敷地面積、校地々質、附近の状況、飲あったとの言い伝えがあることを聞いている木林で、府中刑務所の前を過ぎれば蚕糸学校ま料水質記事（『明星ものがたり』17〜18頁）。この説の真偽はではほとんどが桑畑であった。国木田独歩の『武「明星実務学校設置願」一、建物配置図、附近状況図発掘調査などによって確認されてはいないが、蔵野』や、芦花の『自然と人生』に出て来る武蔵私儀、今般実業学校令及商業学校規程に一、設備費予算書自然環境に恵まれ、歴史的な由緒のある土地が、野の情景がそのまま眼の前に拡がり、四季の移基き明星実務学校設立仕度候間、御認可被（東京都公文書館収蔵「実業学校設置ノ件」ID000128087）校地としてふさわしいと考えられたであろうこりかわりを肌に感じることが出来た。府中の街成下度、実業学校設立廃止規則に依り左記とは十分理解できる。を外れれば水田も多く、初夏には蛍が飛ぶので事項を具し、此段御願申上候也「明星実務学校設置願添附書」の内容は、一、校地の南側を通る道路（旧甲州街道といわれ夕方の食事がすむと寮生が打揃って蛍狩りに出大正十一年六月十七日名称、二、位置、三、学則、四、生徒定員、五、神奈川県横浜市□□町○○○番地ママ開校年月、七、収入支出予算表、八、職員数及設立者星野鏡三郎㊞び俸給額の予定、九、設置区域内に於ける当該文部大臣鎌田榮吉殿実業の情況、十、設立者の履歴である。さらに、上掲の目録には記載されていないが、星野鏡三「明星実務学校設立具申書」郎の「身分証明」、「資産調書（登記簿抄本・所有証本校は設立者星野鏡三郎が社会奉仕の微意明書など添付）」と、「明星実務学校建築物坪数調より校地建築設備維持費等一切を独力にて書」、「明星実務学校新築設計図」が綴りこまれて出損して設置せんとするものにして、敷地いる。四千六百拾四坪七○九も全く本校新設の為当時の事務手続きとしては、設立者から東京創立当時の学校全景開校当時の正門めに今回新たに買収したるものなり。設立府北多摩郡長宮城栄三郎、さらに東京府知事宇CHAPTER1第1章048MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory049

## Page 026
![Page 026の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000026.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部請負者代表（清水氏と記載されている）が列席しCHAPTER1第1章て地鎮祭を挙行した。9月はじめに着工、11月9Column6「明星実務学校設置願」と「認可書」、「進達・送付書」日には上棟式の運びとなった。『児玉九十自伝』には、校舎は、本館・講堂・道場・寄宿舎（3棟）・校長住宅・職員住宅の計8棟と記されているが、現存する「明星実務学校校「明星実務学校設置願」は1922（大正11）年6月17日付で、創設者星野鏡三郎から文部大臣あてに提出したものの写しである。正本は国の資料となっていると考えられるが、国立公文書館の収蔵目録には該当文書を見出すことができない。「認可書」（写し）は東京府が控えとして筆舎新築工事予算書」には、寄宿舎を一括して記す項目として記されている。写したもの、「進達・送付書」は東京府が文部省に進達し、結果を東京府から郡役所に送付することが記載されている。「明星実務学校校舎新築工事予算書」講堂一、金56,892円98銭也此の総建坪429坪（約1,416㎡）れた校舎などの図に示された建物と、正門脇の平均1坪当たり金132.61建物が記載されていない点を除いて、ほぼ符合内訳している。一、金23,181円11銭也本館教室之部工事は1923（大正12）年3月末に予定通り竣工、此建坪166坪（約548㎡）4月の開校を待つばかりとなった。1坪当り金139.64明星実務学校設置願一、金8,359円44銭也講堂之部此建坪50坪（約165㎡）創設時の教育と入学者の選考明星実務学校創設時の教育目的・教育内容や1坪当り金167.18学校生活について明らかにするために、初めに一、金2,040円58銭也小使室及廊下之部「文部省認可明星実務学校設立趣旨」の「二、規此建坪17坪（約56㎡）定摘要」の「一」から「九」を見ると、次のように1坪当たり金120.30記載されている。一、金2,501円54銭也便所及渡廊下之部此建坪21坪2合5勺（約70㎡）「二、規定摘要」認可書（写し）進達・送付書1坪当たり金117.71一、金17,400円23銭也寄宿舎之部一、目的本校は高等小学卒業又は中学校商業学校此建坪150坪5合（約497㎡）の二年修了の生徒を収容し三ヶ年実務家と（東京都公文書館収蔵「実業学校設置ノ件」ID000128087）1坪当たり金115.61しての自立自営を遂げ得べき人材を養成す一、金3,410円8銭也校長住宅之部るを目的とします。此建坪24坪2合5勺（約80㎡）二、学科及び授業時間配当佐美勝夫を経て文部省に書類を提出することに設置認可を得て校舎の建設を始めることにな1坪当たり金140.621学年2学年3学年なっていたようで、同綴りに星野鏡三郎から東京府知事にあてた「進達願」、郡長・府知事の「副申」も綴りこまれている。り、校舎の位置・設計を決定して1922（大正11）年7月29日付で東京府知事宇佐美勝夫へ校舎建築の「建築申請認可願」を提出、8月4日に認可と（横書きとするため漢数字を洋数字に改め、坪表示に㎡換算値を付記した）（東京都公文書館所蔵「校舎新築工事予算書・設計書・図面等」ID000128089）修身111読書433習字21―審査の結果、1922（大正11）年7月17日付で文なるが、『児玉九十自伝』の記述によれば認可に作文111部大臣鎌田栄吉よって認可となり、申請時と逆先立ち7月下旬に児玉九十・村上鋠吉（星野鏡三この予算書に示された建物は、前掲の冊子体数学555に文部省から東京府・郡役所を経て進達された。郎の代理）・宇佐美一（星野合資会社代表）・建築の「文部省認可明星実務学校設立趣旨」に掲載さ地理歴史32―050MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory051

## Page 027
![Page 027の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000027.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部課して専ら心身の健全を期すること。三、授業時間、教授日数、休業日Column7校地・校舎図面授業時間、授業日数、等は略同種の学校と同じ、但し休業日は日曜日大祭日記念日の外夏冬各二週間春一週間帰省期間として置くこと。四、生徒定員定員一学級卅名全員九十名とし全部寄宿舎に入らしめ、全責任を学校負う。五、費用校門の手入れ作業月謝一ヶ月五円食費舎費校友会費旅行費積立金として十七円（校友会費五十銭旅行時間開設されている点は、注目されるべき点で費積立五十銭）を前納すること、生徒の毎月あろう。また授業科目ではないが、修身と並ん小遣は二円以内とし毎月の収支計算は学校で「注意力涵養と人格養成の為め朝暮約廿分凝より詳細に保証人又は家庭に通知すること。念法を行い作業は毎日一時間を課して専ら心身六、成績査定の健全を期すること。」という活動が行われる点学年及学期試験を行わず、受持教員の考は、成蹊実務学校から受け継いだ明星実務学校にて時々試問を行い成績を甲乙丙丁に査定の教育活動上の特徴となる点であり、これは今校地、校舎・寄宿舎など配置図すること。日にいたる明星学苑の教育実践の伝統となって七、入学時の費用いる。1学年30名の単級制、3学年総定員90名と本校入学の際入学料として五円を納むるいう少人数制を採用した点も、師弟の関係・人こと。格的接触を重視し、それを通して教諭の指導・八、服装監督が充分に行き届くことをめざすという考え所定の制帽及び授業服洋服を用う。方に基づくものであった。九、卒業生明星実務学校への入学資格、入学者の選考に講堂・寄宿舎平面図本校の卒業生は何等の束縛なし、希望者は学校にて実業の各会社に就職の世話をなついては、「文部省認可明星実務学校設立趣旨」に、次のように明示されている。校舎・講堂・寄宿舎平面図し、将来永く師弟の関係を結んで補導督励東京都公文書館所蔵資料「実業学校設置ノ件」（ID000128087）内の図面からから作図（注：他に細部の異なる平面図も残されている）の責に任ずること。一一、入学者心得募集人員三十名、人物詮衡の上体格検以上の記述内容によって、創設時にどのよう査を行い入学を決定す、学科な教育目的が設定されており、どのような教育試験を行わず。英語777商業実践――3内容、学校生活がめざされていたのかを理解す願書受付大正十二年三月廿日限り。理科222体操222ることができる。授業科目・時間については、修詮衡日三月廿三日。経済―22計333333身、読書、習字、作文、数学、地理歴史、英語、資格高等小学校卒業生又は当年卒法制―13簿記332（注：横書きとするため、漢数字を洋数字とした）経済、法制、体操という中等教育機関としての一般的な科目のほかに、簿記、商品、商事要項、業の見込あるもの及び中学校二ママ年、商業学校二年収業のもの。商品――2備考注意力涵養と人格養成の為め朝暮約商業実践という実務学校ならではの科目が設置無詮衡入学遠隔の地に在住するもので在商事要項33―廿分凝念法を行い作業は毎日一時間をされている。なお、英語が各学年7時間、計21籍の小学校長の特に推薦保証CHAPTER1第1章052MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory053

## Page 028
![Page 028の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000028.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部みするものは特に詮衡を経ずしは新設として明星実務学校なる名称を附しからは創設計画の作成や準備の中心となった児町）大沢寺に移った。出願手続履歴書は本校からその用紙をく老後の奉仕として単に其出資のみを負担実務学校校長と中学校校長を兼任しており、そ塾「成蹊園」（本郷区西方町、現：文京区西片町、て入学を許すことも致しまたるなり。玉九十に校長就任の要請がなされた。しかし、1907（明治40）年8月曹洞宗第一中学林（当す。これには普通手続の外に当人の成績品校医の身体検査証明書を添えること。本校は斯の如き事情をもって設立したるもの故、設備は勿論教育の方針其他一切中村春二先生の指揮監督の下に置き、自分は全1923（大正12）年当時、児玉九十は成蹊学園主事として病床に臥すことの多い学園長中村春二を補佐して学園全体の指揮を執るとともに、成蹊時、後に旧制世田谷中学、新制世田谷中学・世田谷高校となる）を卒業したが、1907（明治40）年（明治39）年に創設した学生受け自筆にて認め学業成績証明書は小学校から交附を受けて戸籍謄本と最近手札形写真を添えて本校宛お差出しのこと。（照会二銭切手封入）（「文部省認可明星実務学校設立趣旨）したるものなり。元来、中村先生は目白のれ以上に成蹊学園の池袋から吉祥寺への移転の成蹊女学校を国分寺在住の今村氏邸内に移責任者としてその推進に当っていたため、成蹊し、吉祥寺に移転すべき成蹊学園を中心と学園を辞して明星実務学校校長に就任することして、成蹊女学校及び当校を三鼎立せしめ、はできなかった。なお、児玉九十は1924（大正教育上一般の指揮監督をなすと共に、三校13）年2月に中村春二が逝去し、1924（大正13）年連絡して教員の融通をなし、交互の節約便4月には成蹊学園の吉祥寺への全面移転が無事利を図り、経済上専ら維持経営を容易にし、実現し、さらに7年制高等学校（1925（大正14）年且つ入学志願者の一系統を作るべき予定な4月創設）が1925（大正14）年2月6日付で認可さりき。れたことなどから1925（大正14）年3月をもって（国立公文書館収蔵「明星実務学校廃校理由書」2〜3頁）この3校が相互に連携協力するという計画は、中村春二の逝去を大きな要因とする成蹊学園の状況の変化、成蹊女学校の国分寺移転が実現しなかったことから十分に実現しなかったが、創設計画時にはこのような連携協力構想があったことは注意されるべき点である。実際に明星実務学校創設当初は、成蹊実務学校との連携があって、その点について『成蹊学園百年史』には次のように記述されている。開校当初には、成蹊・明星両実務学校の生徒間の交流も行われた。また、明星実務学校の講堂には、創立者星野の写真とともに中村の写真も掲げられていた。成蹊実務学校及び実業専門学校の廃校後には、その図書や教材教具が寄贈され、更には講堂にあった「至誠」の額も譲られるなど、両校は密接な関係にあった。（『成蹊学園百年史』2015年、482頁）創設時の校長・教員明星実務学校の創設にあたって、星野鏡三郎当時、尋常小学校の修学期間6年間（6歳から12歳、1907（明治40）年に義務教育期間を6年間に延長）、高等小学校は修学期間が異なる場合もあったが原則2年間（12歳から14歳）であり、尋常小学校卒業後入学する中学・商業学校2年修業も同じ、在学期間8年間・年齢14歳となる。入学者の選考方法は、学科試験は実施せず、「人物詮衡」と記されているが、書類選考の上で面接を行った。遠隔地から受験する者に対しては、在籍小学校校長の推薦と書類などによって選考する「推薦試験」を実施していた。明星実務学校と成蹊学園・成蹊女学校との関係1926（大正15）年11月20日付で星野鏡三郎から文部大臣岡田良平宛に提出された「明星実務学校廃止認可願い」に添付された「明星実務学校廃校理由書」の中で明星実務学校と成蹊実務学校・成蹊女学校の関係が記述されている。そこでは成蹊実務学校廃止の事情と、実質的にはその継承であるが、形式的には新設として明星実務学校を創設した事情を記述した上で、明星実務学校と成蹊学園・成蹊女学校の関係について、次のように記述している。当校（補注：明星実務学校）は同園（補注：成蹊学園）特得の中村氏の精神を継承し、形式成蹊学園における全ての職を辞し、3月から翌1926（大正15）年1月まで、念願であった欧米（フランス・イギリス・ノルウェー・スウェーデン・デンマーク・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・イタリー・オーストリア・ハンガリー・チェコスロバキア・アメリカ）の教育視察の旅に出る。明星実務学校の初代校長に就任したのは宮本覚純である。宮本覚純は1886（明治19）年2月1日、島根県安濃郡川合村（当時、現：大田市）で誕生し、1889（明治22）年4月8日に島根県邇摩郡大森村（当時、現：大田市大森）栄泉寺において五十嵐絶聖に就いて得度し、次いで師にしたがって長野県北安曇郡大町（当時、現：大町市大生徒と教員後池袋に移転）に第2回生6人のうちの1人として入塾した（『成蹊学園百年史』76／94頁）。1913（大正2）年7月に第一高等学校（文科）卒業、1916（大正5）年7月に東京帝国大学文科大学教育学科を卒業した。在学中の1916（大正5）年5月には成蹊中学校教諭（修身・英語担当）に就任、（1918（大正7）年の教員名簿には「倫理講師文学士宮本覚純」と記載されている（『成蹊学園100年史』151頁））、その後中学校主事（1918（大正7）年9月〜1919（大正8）年9月）、実務学校主事（1919（大正8）年9月〜1920（大正9）年6月）、1920（大正9）年6月に中村春二が各校校長を退き学園長に専念することになったのを受けて、成蹊実務学校校長に就任したが、この時の教員名簿には「担当科目=修身・英語、職名=校長、卒業学校=東京帝国大学文科大学文学士」と記載されている（『成蹊学園100年史』430頁）。1923（大正12）年2月に成蹊実務学校校長を辞任して、創設時の明星実務学校校長に就任（1926（大正15）年3月まで）した。1926（大正15）年4月には駒澤大学教授に就任（1927（昭和2）年3月まで）、1927（昭和2）年4月には愛知中学校校長に就任（1932（昭和7）年9月まで）した。1932（昭和7）年10月からヨーロッパ諸国の宗教教育視察に渡欧（1年間滞在、イギリス・フランス・ドイツなどを視察、1933（昭和8）年9月帰国）し、帰国後も長野県社会教育事務嘱託、長野県社会教育主事、長野県高等女学校校長、岐阜県高等女学校講師などを務め教育界で活躍した。一方、仏教界においては、1913（大正2）年9月に東京府南多摩郡忠生村下山田（当時、現：町田市小山田）泉蔵寺26世住職に就任、1927（昭和2）CHAPTER1第1章054MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory055

## Page 029
![Page 029の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000029.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部年4月に長野県大町市大沢寺に転住、1937（昭和12）年7月に岐阜県武儀郡下有知村（当時、現：関市下有知）の祥雲山龍泰寺の49世住職に就任した。さらに、岐阜県曹洞宗宗務所長、曹洞宗宗議会議員や総持寺顧問などを務めた。また、地方自治の世界においても活躍し、1942（昭和17）年に岐阜県武儀郡下有知村村長に就任、1944（昭和19）年には岐阜県武儀郡農業会会長に就任し、太平洋戦争中の食糧事情の急迫下、暗渠排水の改良、120町歩の一毛作水田を二毛作水田にするなど食糧増産に尽くした。この間、司法保護委員、民生委員、調停委員などを務め、地方自治の向上に尽力した。教育界、宗教界、地方自治界において幅広く活躍し、多くの功績をあげた宮本覚純であるが、1957（昭和32）年12月29日に72歳で逝去した。【宮本覚純の生涯と事跡については、次の各文献を参照した。『成蹊学園百年史』／「第五節宮本覚純と宮本一純」（石川力山『美濃国祥雲山龍泰寺史』1980年11月9日刊、所収、154〜156頁）／中西悦夫「龍泰寺に詣でる」（『明星大学父兄会会報』第38号、1982年2月28日刊、所収、94頁）／「宮本覚純先生を悼む」（『成蹊会誌』No.15、1959年4月刊、所収、39頁）】明星実務学校創設時の教諭について『児玉九十自伝』には「宮本覚純先生に初代校長にご就任願うことに決まり、成蹊から三浦経太先生を教頭に、その他成蹊出身の気鋭の先生方五名を迎えて」と記述されているが、他に『成蹊学園百年史』（482頁）、『明星ものがたり』（21頁）、『明星学園創立五十周年記念』（262頁）などの文献の記述内容を抽出・整序すると、次のような教諭の名前が確認される。教頭三浦経太成蹊実務学校教諭（歴史・地理担当）、東京専門学校卒教諭黒沢清職員室成蹊実務学校卒、成蹊実務学校講師、後に商学博士、横浜国立大学教授・学長などを務める吉田松太郎成蹊実務学校卒、成蹊実務学校講師、後にオリエンタル酵母工業株式会社常務などを務める沼尻源一郎成蹊出身者、後に水戸高校教授・茨城大学教授・水戸短期大学学長などを務める八巻民弥成蹊実務学校卒業、後に愛知県立明倫中学校教諭などを務める田村整成蹊実務学校卒業増井治作成蹊実務専門学校出身者リチャード・ポンソンビー・フェーン英国人、成蹊実務学校・実業専門学校英語教諭この中でもリチャード・ポンソンビー・フェーンについては、『成蹊学園百年史』に「実務学校及び実業専門学校の廃校に憤慨して辞職した」（482頁）と記述されている。この例に限らず、成蹊学園・成蹊実務学校の教育に賛同し、尽力していた教諭陣が創設時の明星実務学校の教諭陣を構成したのであり、この点からも成蹊実務学Column8宮本覚純の略歴と事跡1886（明治19）年2月1日、島根県安濃郡川合村（当時、現：大田市）にて誕生1889（明治22）年4月8日、得度、長野県北安雲郡大町（当時、現：大町市）大沢寺に移る1907（明治40）年8月、曹洞宗第一中学林（当時、後に旧制世田谷中学・新制世田谷中学・世田谷高校となる）卒業1907（明治40）年成蹊園（本郷区西方町、現：文京区西片町）に入塾1913（大正2）年7月、第一高等学校（文科）卒業1916（大正5）年7月、東京帝国大学文科大学教育学科卒業1916（大正5）年5月、成蹊中学校教諭（修身・英語担当）に就任、その後中学校主事（1918（大正7）年〜1919（大正8）年）、実務学校主事（1919（大正8）年〜1920（大正9）年）、1920（大正9）年6月の組織改定により実務学校校長に就任1923（大正12）年2月、明星実務学校校長に就任（1926（大正15）年3月まで）1926（大正15）年4月、駒澤大学教授に就任（1927（昭和2）年3月まで）1927（昭和2）年4月、愛知中学校校長に就任（1932（昭和7）年9月まで）1932（昭和7）年10月、ヨーロッパ諸国の宗教教育視察に渡欧（1年間滞在、イギリス・フランス・ドイツなどを視察、1933（昭和8）年9月帰国）帰国後、長野県社会教育主事、長野県高等女学校校長などを務めた。1913（大正2）年9月、東京府南多摩郡忠生村下小山田（当時、現：町田市下小山田）泉蔵寺26世住職に就任1927（昭和2）年4月、長野県大町市大沢寺に転任1937（昭和12）年7月、岐阜県武儀郡（現：関市下有知）の祥雲山龍泰寺の49世住職に就任1942（昭和17）年岐阜県武儀郡下有知村村長に就任1944（昭和19）年岐阜県武儀郡農業会会長に就任、太平洋戦争中の食糧事情の急迫下、暗渠排水の改良、120町歩の一毛作水田を二毛作水田にして食糧増産に尽くした。地方自治関係では、司法保護委員、民生委員、調停委員などを務めた。宗教関係では、岐阜県曹洞宗宗務所長、曹洞宗宗議会議員や総持寺顧問などを務めた。1957（昭和32）年12月29日、逝去、享年72。1958（昭和33）年4月27日に龍泰寺において鶴見大本山総持寺貫首を導師として本葬が執行され、成蹊実務学校卒業生が弔辞を呈したと記述されている。（『成蹊会誌』No.15による）宮本覚純CHAPTER1第1章056MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory057

## Page 030
![Page 030の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000030.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部校の教育理念や教育実践のあり方が継承されたと考えられる。宮本覚純は仏教に関する豊かな素養を持ち、成蹊園の寮生として中村春二の薫陶を受け、成蹊教育を自らが受け、さらに教員として成蹊教ですから、全員白い作業服を着て式に参列したのが印象的でした。当時、男子の学校はすべて丸刈りでしたが、第一回生だという誇りにもえている様子はそのきびきびした態度にあらわれていて、すがすがしい入学式でした。1923（大正12）年5月20日には開校式を挙行、今日までこの日を「明星学苑創立記念日」としている。開校式について、児玉九十は次のように記述している。式は当時あった五十坪の木造講堂に、たくたが、その後の志願者・入学者は1926（大正15）年に作成された資料によれば次のように示されている。年度募集人員志願者数入学者数現在数1923（大正12）年度35513026育の実践にあたってきたことから、創設期の明星実務学校の指導者として最適任者であったと考えられる。創設時の明星実務学校の校地の中に校長住宅が建設されたことから、宮本覚純は学校内の校長住宅に住み込み、日夜生徒に親しく接し、教育指導にあたったと考えられる。宮本覚純校長以下、教員に成蹊実務学校の教員、成蹊実務学校などの卒業生が就任したことによって創設期の明星実務学校の教育のあり方に成蹊学園・成蹊実務学校の教育のあり方が反映され、それを基礎として、創設期の校長・教員が日々の教育実践を積み重ねる中で明星教育の独自の教育理念を形成してきたと考えられる。入学式・開校式と入学者入学者・教職員・校舎が整い、1923（大正12）年4月12日、第1回入学式が挙行された。第1回名と記録されている。志願者・入学者の多くは成蹊学園や児玉九十と何らかの縁がある者が多かったのではないかと推測されるが、その一例として、実務学校第1回生の橋本卓年後の座談会において「私も、兄二人が成蹊でお世話になっていたものですから、児玉先生が寄宿舎をつくられるというので、すぐ入れて戴きました。父親が児玉先生に心酔していたものですから……。」（「思い出を語る会旧制明星中学校寄宿生」（『体験教育』創立50周年記念特集、1973年、所収）15頁）と回想している。第1回の入学式の印象について、児玉九十は次のように記述している。第一回入学式を挙行したのは四月十二日でした。当日は制服が間に合わなかったもの（『児玉九十自伝』1990年、180頁）入学式を終えても、校内の整備はまだ完全ではなく、開校式が間近に迫っていたこともあって、生徒たちは授業のみならず、校内整備にも取り組んだ。その様子について、児玉九十は次のように記述している。ところがスケジュールでは、一ヵ月余り先きに開校式が迫っておりましたので、学校がはじまっても、大てい午前中で授業を打ち切り、午後はキャンパスの整備作業にふりかえるという日がつづき、成蹊から派遣された増井治作君の作業指導で、生徒たちはかいがいしく立ち働きました。自分たちの学校を自分たちの手でつくり上げるのだという意気込みがみなぎっていたからだと思います。前庭の木の大部分は、松の大木を除いて全部、その作業当時に植えたものです。小さかった植木がみな大きくなり、ヒマラヤシーダのごときは大木というより巨木になりました。（『児玉九十自伝』1990年、180頁）このような生徒たちによる作業について、橋本卓夫は前出の座談会の中で「私どもの頃はほんとうに初期でしたから運動場をつくったり、開墾したり、労働も厳しかったが、楽しかったですねえ……。」（「思い出を語る会旧制明星中学校寄宿生」12頁）と回想している。こうした生徒による作業は、その後長く、明星実務学校・明星中学校の教育指導の一環、校風として受け継がれてきた。さんの来賓、父兄を迎えて、星野鏡三郎翁をはじめ学校教職員、生徒列席のもとに厳粛かつ盛大にとり行われ、明星実務学校の出発を祝福し、かぎりない未来に激励が与えられました。この日は星野夫人の恩師に当たる跡見花蹊先生（跡見学園創設者）をはじめ、転地をして療養しておられた中村春二先生も、かなり健康を回復されたので列席していただくことができて、星野翁ともども喜びを分かち合いました。（『児玉九十自伝』1990年、180〜181頁）この後、場所をテニスコートに張った天幕内に移して、祝賀会が行われた。開校式に招待されて出席した星野鏡三郎夫人花子の師にあたる跡見学校創設者跡見花蹊は、その日記に次のように記述している。五月二十日癸巳日曜晴。予記星野鏡三郎氏学校開校式、明星学校。朝八時より雨宮と銀を連て水道橋より電車にて九時着。北多摩郡府中町貫井明星実務学校に行。電車下りて十八丁、道路ハ至極よろし。場所ハ大松処々に有て雑木林を開拓したる也。五千坪と云。空風ハよし、校舎は準備至極申分なし。講堂ニ集り、式全畢。跡（後）余興ありて庭園にテントの下に大食堂を設け食会（会食）ス、心地よし。後又余興にて二時済て帰。（跡見花蹊：跡見花蹊日記編集委員会編『跡見花蹊日記』第3巻、2005年、17頁、http://www.atomi.ac.jp/univ/kakei/PDF/4-10-54Taisho12.pdf）1923（大正12）年度の第1回入学者は30名であっ本年3月卒業261924（大正13）年度352017131925（大正14）年度353118171926（大正15）年度35393030現在残されている資料として、第1回（1923（大正12）年度）入学生については「大正十二年度第一学期成績表担任三浦経太」「大正拾弐年度第壱学年第二学期成績表担任三浦経太」「大正一三年度第二学年第一学期成績表担任三浦経太」「大正十四年度第三学年第一学期成績表」が、第2回（1924（大正13）年度）入学生については「大正十四年度第弐学年第一学期成績表担任和田勇」年度・学年・学期不記載の「成績表」が、第3回1925（大正14）年度入学生については「大正十四年度第一学年第一学期成績表」があり、在学生の氏名を次に記すように明らかにすることができる。ただし、入学時点と残された成績表の作成時点の間で途中退学や編入があったと推測され、上記の入学者数とは一致しない点がある。第1回（1923（大正12）年度）入学生「大正十二年度第一学期成績表」27名記載伊藤榮三池田充橋本卓夫萩野利夫大川幸一渡辺正人吉田弘信田村登高橋武雄竹内邦雄立岩範男中野関一郎松尾秀雄増田貞藤本宏小林健治秋丸敏男秋葉健蔵浅見菊雄佐藤芳猶佐藤房義三輪丈夫三上万吉郎三原嘉門森田正夫望月駿三鈴木良一郎第2回（1924（大正13）年度）入学生「大正十四年CHAPTER1第1章058MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory059

## Page 031
![Page 031の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000031.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部度第弐学年第一学期成績表」16名記載十、初代校長宮本覚純らの教育理念に基く独自能にしたと考えられる。浜杉郎堀部精一小川敬次の教育実践を展開していくことになる。明星実大森惇小俣一布大塚七三務学校が独自の教育実践を展開することができ教育活動・学校生活渡辺春信渡辺昇田村栄三郎た背景には、この時代、大正年間（1912年〜1926明星実務学校の創設前に示された教育課程に山本三郎松尾雄次郎荒見金吾年）の日本社会のあり方が存在していた。ついては「文部省認可明星実務学校設立趣旨」斎藤孝三実藤秋三宮崎芳皐大正期の日本は、一方において明治期日本のに記載されたものを先に示したが、実際に開校鈴木喜久治日清戦争・日露戦争に象徴される海外侵略の意された科目について完成年度である1925（大正第3回（1925（大正14）年度）入学生「大正十四年図をもつ軍事国家としての性格を残していた。14）年の各学年の成績表から見ると、次の通りで度第一学年第一学期成績表」18名記載1914（大正3）年〜1918（大正7）年の第一次世界大ある。道路直し作業（校門に学苑長の姿）橋本克男鳥居忠之大橋倉一戦では、ドイツに対して宣戦布告、中国に出兵大塚恒雄吉成新吾月江健し、青島・山東省のドイツ権益を接収した。1915第1学年作文」の欄外に「吉田」、「英書取習字」の欄外に中野弘室伏正史宇田川博（大正4）年には中国袁世凱政府に対して二十一修身国語作文習字英訳読英会「三浦」と書き込みがあり、各科目の担当教員の桑田寿草刈栄一桑原正毅カ条の要求を行い、中国国内における権益を確文作文英書取習字歴史地理代数一端を知ることができる。小林秀雄小西亮吉安倍川政治保した。1918（大正7）年〜1922（大正11）年には博物体操成績評価については「文部省認可明星実務横沢隆男清水重雄関綾二郎ロシア革命に対して英米諸国連合国軍の一員と珠算商業算術商事要項簿記学校設立趣旨」では「六、成績査定学年及学期してシベリアに出兵したが、その背景には北満第2学年試験を行わず、受持教員の考えにて時々試問を第1回入学生を迎えた1923（大正12）年9月1日州・沿海州まで勢力圏を拡大しようとする意図修身国語作文習字英訳読英会行い成績を甲乙丙丁に査定すること。」と記されに関東大震災が発生するが、新築間もない明星があった。文作文英書取習字歴史地理代数ていたが、残された成績表を見ると説明の通り実学校の校舎・寄宿舎などには大きな被害はなしかし、他方において国内では吉野作造の「民幾何法制経済化学体操「甲乙丙丁」で記入され「席次」も記入されていく、教育活動・学校生活に支障はなかった。し本主義」の提唱に象徴される「大正デモクラシー」珠算商業算術商事要項簿記る。かし、当時横浜に居住していた星野鏡三郎邸はの語に代表されるような民主化が進んだ。1918第3学年このような教育課程に従って、開校式を終え全焼し、寄宿舎の空いていた1棟に一家全員が仮（大正7）年には原敬を首相とする政党内閣が成修身国語作文習字英訳読代数て第1学期の授業が本格的に始められたが、そこ住まいし、翌年まで居住した（『児玉九十自伝』立、1923（大正12）年9月の関東大震災による打幾何物理体操で生徒が第一に感じたことは少人数教育という182頁）と記述されている。撃はあったものの、護憲運動・労働組合運動・商法商工政策珠算商業算術簿記ことであったようで、実務学校第3回生の清水重このようにして1923（大正12）年4月に創設さ女性解放運動などの社会運動が活発化、普選運商法商業実践雄は座談会で「私共の頃はたしか第一回卒業生れた明星実務学校は、成蹊実務学校の系譜につ動も盛り上がりを見せ、1925（大正14）年には満が二十五名程度、同じく第二回十三名、第三回ながる学校であったが、創設者の意を受けて学25歳以上の男子が衆議院議員の選挙権を持つ普これを見ると、教育課程は「文部省認可明星が十七名程で、合計五五名くらいだったと記憶校創設・教育計画を策定した中村春二や児玉九通選挙法が成立した。このように状況の下で学実務学校設立趣旨」に記載された教育課程からしております。ですから生徒七、八名に先生一校教育についても、明治期の全国画一的な教育、基本的に変更された点はない。「読書」が「国語」人という割合になりますか。ともかく、こんな国家主義的な教育とは異なる「大正新教育」といに変更になり、「数学」が「代数」と「幾何」に、「英少人数の時代があったわけですね。」（「思い出をわれる新しい教育理念が提唱され、それに基づ語」が「英訳読」と「英会文作文」「英書取習字」に、語る会旧制明星中学校通学生」3頁）と回想しく教育実践が行われるようになってきた。1921「地理歴史」が「地理」と「歴史」に、「理科」が「博ている。（大正10）年8月に大日本学術協会の主催で開催物」と「物理」「化学」に分割されたのは、教育内当時の授業の様子については残された資料がされた「八大教育主張講演会」に見られるよう容をより明確に示すためと考えられ、内容的な見当たらないが、明星実務学校の教育指導を通に、国公私立の学校において独自の教育理念に変更ではないと考えられる。3学年に「商法」として身につけたものについて、清水重雄は次の基づく教育実践が多様に展開され、それらが容「商工政策」が加わっているが、これは専門教育ように回想している。認されるようになってきた。このような社会的の内容の充実を図るためであったと考えられ背景や教育界の動向が、明星実務学校が独自のる。なお、1923（大正12）年度第1学年1学期成績勉強は能力の問題などもありますから多明星実務学校第一回入学式教育理念に基づく教育実践を展開することを可表を見ると、「英訳読」の欄外に「宮本」、「英会文少できが悪くとも、自分の思ったこと、あCHAPTER1第1章060MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory061

## Page 032
![Page 032の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000032.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部『心力歌』（抄）みるいはこれならいいなと思ったことをどんどん実践に移して行く教育が大切だと、私は自分なりに考えております。とくに、今のようなすさんだ社会といいますか、我々Column9次へと出てくるような世の中には、明星のには考えもつかないようなことが、次からような教育が非常に役に立つと思います。例えば、凝念の問題にしましても、時間がたってみなければわからないということを、私は特に強く感じて居ります。（「思い出を語る会旧制明星中学校通学生」1973年、7頁）「凝念」と「心力歌」ここに示された「凝念」は中村春二が考案して、成蹊実務学校創設時から実践されていたものであり、児玉九十が「心力歌」とともに成蹊学園から受け継いだものである。「凝念は静座して目を閉じ、手を下ろして軽く組み、下腹に力を込めて無念無想のうちに注意を集中する精神統一法」であり、「中村が以前より経験していた曹洞宗の座禅をもとに、学校教育の場で実施可能な形態を考案し」たものである（『成蹊学園百年史』152頁）。凝念は、その後今日にいたるまで明星学苑の伝統として受け継がれてきている。実務学校・中学校（旧制）時代は毎朝全生徒が講堂に集まって実施し、その後に校長の訓話が行われるなど、他の学校で実施されている朝礼としての意味も持っていた。第二次世界大戦後学苑内に幼稚園や複数の学校が創設されてからは全園児・生徒が集まって実施することは困難になり、学校ごとに週1回、曜日を定めて実施してきた。また、各授業開始時に凝念を行い、精神を統一して授業に集中するように図っている。なお、明星実務学校創設時に設置された凝念の開始・終了時に鳴らす鐘は、成蹊学園から贈られたとの伝聞がある。その後、この鐘は30年余を経て引退、1957（昭和32）年に卒業生有志から寄贈された新しい鐘と交換された（「凝念の鐘新調さる」（『体講堂での凝念験教育』189号、1957年4月、所収）8頁）。「心力歌」も成蹊学園に由来するものであって、1913（大正2）年10月に中村春二の構想により、実務学校幹事（後の主事、校長に相当）で、哲学を専攻し仏教にも詳しい小林一郎に依頼して制作したものである。心力歌は全8章からなり、人間の内面的主体性を意味する「心の力」の重要性を多角的に、また力強く説いている（『成『心力歌』蹊学園百年史』157頁）。児玉九十は凝念と心力歌について、次のように解説している。心力歌は「心の力」として1913（大正2）年10月に完成、1915（大正4）年10月に文言を若干「凝念心力歌に就いて」児玉九十修正して印刷・刊行され、改訂を経ながら今日まで歌い継がれている。一全8章からなるが、第1章の全文を紹介すると次の通りである。体操や教連は不動の姿勢、即ち不動の精神から出発する。剣道でも礼を交して正眼に構えた不動の精神状態に根本を置いて居る。人間の為す事は何事も中心が精神にあるのだから、先づ第一に精神状態を整えて掛るべきは当然の事である。それ故教育に於てもどうしても精神を整える事から取り掛からねばならぬと信ずる。二この心の整え方には色々の方法があると思う。神仏に礼拝祈願して掛るも良い。基督教の様に神に吾が正念活躍を願うのもよ天高うして日月懸り、地厚うして山河横はる。日月の精、山河の霊、鐘まりて我が心に在り。高き天と、厚き地と、人と對して三となる。人無くして夫れ何の天ぞ、人無くして夫れ何の地ぞ。人の心の霊なるや、以て鬼神を動すべし。人の心の妙なるや、以て天地に參ずべし。燦たる彼の月と日と、遥かに我が心を照す。我が心の凝りて動くや、能く日月を貫くべし。峨々たる山、漫々たる河、常に我が心に通ふ。我が心の遠く翻るや、能く山河を包むべし。ただ六尺の肉身に、限らるる我が心ならず。ただ五十年の生涯に、盡きぬべき我が心ならず。見よ、雲に色あり、花に香りあり、聞け、風に音あり、鳥に聲あり。此の中に生を託したる、我人にこの心あり。至大至剛はこれ心力、至玄至妙はこれ心霊。ただ此の心あるが故に、我人は至上至尊なり。夫れ眼前の小天地は、離合聚散常ならず。我と我が身とこころとを、此の中にのみ限るものは、天なる日月の精を見ず、地なる山河の霊を知らず。其の精と霊とを鐘めたる、我が尊さ我と悟らず。眼にさへぎる影を拂え、耳に塞がる塵を去れ。その影消え、その塵絶え、心はすみて鏡の如く、湛然として淵の如くば、彼の小天地に限られし、昨日の我を外にして、至上至尊の我あるを知らむ。（『成蹊学園百周年史』2015年、157〜158頁）い。又或る故人が実行した様に柱のふし穴を定めて置いて通過の度毎にそのふし穴を現在、明星学苑では旧かな遣い・旧漢字体を改め、現代文としたものを用いている。睨め付けて眼力を錬りながら心を整えたいという様な方法もある。かく方法は色々あCHAPTER1第1章062MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory063

## Page 033
![Page 033の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000033.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部るが、本校に於ては之を凝念という形で毎て得たる結果を学習を始めとして一切の日ママに帰校致しました。何卒御安神下さい。永朝毎晩講堂に集って職員生徒一緒になって常生活に活現せしめたいのである。の滞在中多大の犠牲をお払ひ下さって一日実行して居る。（『体験教育』第4号、1929年4月、所収）2頁）を親切にお世話下さいました事は何とも御三礼の申様が御座いません。学生等に暖かい凝念のやり方は、端座瞑目して丹田に力児玉九十も心力歌を自らの心の拠り所としてよい感情を培った事と大変嬉しく思って居を込めると同時に精神も丹田に集中せんとおり、海外旅行の際にも篋底に納めて持参し、時ます。何卒御主人様にも御分伝へ下さいま努力するのである。静座を腰掛にて行い、丹にこれを読んで心の支えとしたことを、後年機して、厚く御礼を申述べていただきたいと田に精神を集注するのである。様式は静座会あるごとに教え子に語っていた。存じます。昨朝愈々出帆に際しまして皆様に類し、精神は坐禅に近いものである。凝念と心力歌は生徒間にも浸透していたようの御姿がいつまでもいつまでも思って、殊斯様な方法によって精神統一の練習を積で、明星実務学校1回生である橋本卓夫は次のよに御主人様が両手に扇子とハンケチを持っみ、心を平静ならしめ、心を心其の者の状うに回想している。て振って居て下さったのは、何だか知れま態に置かんと力むるのである。形式はさし授業の時報は板木でせんが熱つい涙が出る様な気が致しました。て難事ではないが、雑念去って精神が統一寮に入りました晩に、歓迎会がございま何卒炎暑の折柄自愛専一として益々御健され、無念無想になる事は容易な事ではなしてね、凝念とか心力歌の話がございましを着ておられたのが、ほかの学校と比較し闘の程御祈り申上げます。い。併しこの精神統一の練習を続ける事にたが、やはり、初めて声を出して歌ったとてずいぶんミッションスクール的な感じを八月一日宮本覚純よって、段々と精神に落付きが出来、泰然きはびっくりしましたね。意味もよく分ら強くしました。また、玄関に入る前に大き星野御奥様たる態度が自然に現れて来る。ないし（笑）。私は兄から大体のことは聞いな松があり、その間をぬって花壇があって、二伸斯くの如く吾々の知識の種子を播くべきてたんですけど、何も知らないで寮に入っそこの草取りをさせられたのかしたのか此辺ハ毎日中々の暑さです。昨日は九十畑ともいうべき心の中を平らにし、雑念をた人はもっとびっくりしたんじゃないですは、はっきりと覚えておりませんが、今だ一度其前ハ九十三度であったと申します。ぬき、十分落付いた、整った状態にして知か（笑）。でもみんな懐かしいんですね、心に印象に残っております。それからグラン御地の温泉の御利益が忍ばれます。識を植え付けたい、又この落付き払った精力歌が。ドの真中にコンクリートでかためたテニス人夫かママ又来て居ますが校庭の草ハ大変で神を一切の言動の原動力としたいというの（「思い出を語る会旧制明星中学校寄宿生」1973年、19頁）コートが一面あり、その北側に砂場があっす。が凝念の根本目的である。ママて、そこでハイジャンプや幅飛びをやった文子さん、たか子さんによろしくご伝言四当時の明星実務学校の様子について、実務学思い出が今でも忘れられません。願ます。児玉先生の奥さんは廿七日に逗子凝念に於ては精神統一をなすのである校第3回生である清水重雄は次のように回想し（「思い出を語る会旧制明星中学校通学生」1973年、2頁）の方へ行かれたとの事です。が、其の精神即ち心とは何かという事を示ている。四日頃園長先生ニお目にかかります。したものが心力歌である。心力歌には心の絶対境を示して、心の完草創期の明星の様子ということですが、宮本覚純と星野鏡三郎と生徒たち明星実務学校の学校生活の中で校内における（漢字・かなづかいは原文のまま、句読点を適宜補った。付記：末尾の「園長先生」は成蹊学園長中村春二と推測される。）全無欠の状態、即ち吾々の修養によって美トンガリ帽子的な玄関の屋根が非常に印象学習・活動のみならず、校外に出かけること、今化された心の極致、心の神性を歌ったもの的でしたね。当時としてはとてもハイカラ日の修学旅行や宿泊研修、社会科見学のような手紙の内容から、宮本覚純が生徒を引率してである。な感じで。それから、職員室の前に板木が行事も行われており、「学則」第2章「学科課程及星野鏡三郎の伊豆伊東の別邸を訪問したことにかくの如き尊き心という宝は何人も所有あって、二丁か三丁離れた所からその板木毎週授業時数」には表のあとに「但、八月一日よ対する礼状であると推測される。手紙の文中にして居るのであるが、其の宝は吾々の修養がなりますと、ああもう凝念が始まるんだり八月三十一日迄の期間は心身の鍛錬のため、「御地の温泉」とあることからも、そのように考により光を発揮するのであるから常に心をということで、自転車を大股に踏んで来た水泳旅行等を課すことあるべし」と記載されてえられる。時期については、宮本覚純の校長在磨く事を力むべきであるという念を心力歌ような記憶もありますね。その時分は山びいる。この学外旅行に関連すると考えられる宮任は1923（大正12）年から1926（大正15）年の間で合唱により一層強からしめるのである。こで聞こえるわけですね。かなり遠くから本覚純の星野鏡三郎夫人花子宛ての手紙が残さあり、一方、星野家については1923（大正12）年即ち心力歌に依り各自所有の心力の偉大でも。それが今でもなつかしく思います。当れており、その内容は次の通りである。9月1日の関東大震災で横浜の本邸が焼失して、さと其の威力錬磨の必要を自覚せしめ凝念時、我々はご承知のように白い上っ張りを1923（大正12）年9月から1924（大正13）年5月かによりて錬磨実行の一歩に入らしめかくし着ていたわけです。そして先生方はガウン御別れ致しましてから午後二時半頃無事6月まで府中の明星実務学校寄宿舎へ避難、仮住CHAPTER1第1章064MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory065

## Page 034
![Page 034の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000034.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部まいしていたと『児玉九十自伝』に記述がある。益次郎・高野長英・上野彦馬など幕末維新期に常に此の精神に基きて生徒の個性に応じ、食物も栄養衛生に注意すると共に出來る限これらから考えると、これは1924（大正13）年8多くの人材を輩出した。広瀬淡窓の逝去後も存機に臨んで『生徒の爲になる事』を眼目としり変化を與え諸種の食物を摂らしめる様務月か、1925（大正14）年8月と推測される。いず続し、さらに清浦奎吾・朝吹英二などを輩出して監督指導を致します。換言すると、厳にめて居ります。れの年であるにせよ、星野鏡三郎の別邸を校長た）に共鳴していたこと、さらに自身が掛川中学するも、寛にするも決して画一には致しま六、日課表宮本覚純が生徒を引率して訪ねるということが時代・第四高校時代と寄宿舎生活を送ってそのせんで、生徒の心身の発育、個性及び其の一、起床午前五時半洗面掃除行われており、星野鏡三郎と宮本覚純と生徒た教育的効果について身をもって体験していたこ時の周囲の事情等を見届けて、生徒の幸に二、駈足黙祷朝礼六時校長指揮ちの間に親しい交流があったこと示している。と、成蹊学園で寄宿舎教育の実践に携わっていなるか不幸になるか、為になるか不為にな三、朝食六時半たことなどによると考えられる。後に、海外のるかの標準に照して、指導監督するのであ四、朝自習七時より八時迄寄宿舎の生活教育状況を視察した際にも、イギリスのパブります。それが為めには、校長舎監共に常五、登校受業八時より三時（土昼迄）「文部省認可明星実務学校設立趣旨」に記載リック・スクールなどの全寮制教育に共感してに厳父となったり、慈母となったりして、大六、運動三時より五時されているように、明星実務学校創設時には生いる。小何事でも頭を活躍し、如何なる時にも機七、晩掃除五時徒全員を寄宿舎に収容するという計画であっ現在、東京都公文書館に収蔵されている「明星械的に動く事なからん事を力めて居ります。八、夕食五時半た。それは「質素な生活の下に而も楽しく有益に実務学校新築設計図寄宿舎平面及び姿図」に三、組織只今寄宿舎は大中小三棟に別九、晩自習六時半より八時半三ヶ年間で人物陶冶と実業教育を修了せしめよれば、寄宿舎は「逆コ」の字型をしており、各れて居りまして、十人、十六人、二十四人十、晩凝念就寝挨拶八時半（講堂）る」ために考えられたものであるが、学校におけ辺に24畳15人詰の室が2室、計6室が設置され、宛、收容し得る様になって居ります。各舎十一、就寝挨拶後は随意就寝するか、自る授業時間にとどまらず、24時間の生活を通しさらに食堂・炊事室・炊事係室、浴室、養生室、に舎監が居りまして、生徒と起居を共にし習又は講堂にてラヂオ放送聽取等て「師弟同行」を実現し、生活を通しての教育を舎監室などが設置されている。寄宿舎には舎監て居ります。又校長が學校構内に居住しての靜なる娯楽実践するためのものであり、そのために教諭をの教員が居住（各教員は最低2年間は舎監を務め居りまして、舎監長という様な態度で、常十二、消燈午後九時半各寄宿舎の舎監として置き、さらに校長が校内に設けた住宅に居住することで「総舎監」ともいうべき役割を果たすことが意図された。寄宿舎るものとされていた）したほか、校長が校地内の校長住宅に居住して「総寮長」として監督（見回り）や、朝夕の行事参加などを通して指導にあに舎監生徒の指揮薫陶に当って居ります。随て本校寄宿舎は一般の寄宿とは大に異り、校長を中心にした一大家族であります。（七、金銭出納以下は省略）（児玉九十「明星中学校寄宿教育の方針並に舎則」（『体験教育』第1号、1929年1月、所収）2〜3頁）教育についての児玉九十の考え方の基礎には、たっていた。寄宿舎には大体を統ぶる舎則もありますこれによって寄宿舎がどのような方針に基づ江戸時代の私塾の教育、特に豊後国日田（現：大児玉九十は後年ではあるが、1929（昭和4）年1が、画一的に扱う必要のある点は統一的舎いて設置・運営されていたのかを具体的に理解分県日田市）に開かれた広瀬淡窓（1782（天明2）月に『体験教育』第1号に、「明星中学校寄宿教育則に依りますし、個別的に扱う方がよい事することができる。なお、室の大小・居住人数年〜1856（安政3）年、儒学者・詩人・教育者）のの方針並に舎則」として、次のように記述していは随時、舎監や校長の考で適当に處理致しについては創設時の設計図とは異なっている咸宜園の教育と生活（塾生の生活を「君汲川流る。この時期は明星実務学校（3年生）と明星中学ます。が、1923（大正12）年と1929（昭和4）年の間に変我拾薪」（君は水を汲め、我は薪を拾わん）と表現校（1・2年生）が併存していた時期であり、寄宿四、食事入浴食事は全體同一食堂に更があったのか、その間の事情は今日明らかにした詩句は今日でもしばしば引用される、大村舎には両校の生徒が居住しており、この規則も集って致します。此の際自己の食器だけはすることができない。児玉九十は校長と寄宿生両校の寄宿生に共通していたと考えられる。各自に處理する方法に致してあります。其の接触・懇親を図るために茶話会を随時実施しの他炊事場、浴場も食堂の隣に一個所に統ていたが、これについては「一ヶ月に一、二回ず「明星中學校寄宿敎育の方針並に舎則」一されて居ります。炊事一切と風呂焚きはつ私の宅に十二・三人位ずつ招いての茶話会は一、目的本校寄宿舎は学則にあります賄係りが致しますが、浴室掃除は生徒が当寄宿舎のおやつなどより若干上等のお菓子、果通り、父兄に代りて生徒を保護訓育し暖味番で代って致す事になって居ります。物、おすし、紅茶などが出ると言ってとても楽のある間に規律生活をなさしめ、徳育、体五、食物間食間食は大体に於いて避けしみにしていたようでした。残ったお菓子や果育、勉学共に常に舎生の幸福になる様に指させたいのでありますが、全然ないと家庭物があると、自室のお友達へのお土産だと言っ導し、特に自治独立、共存共栄の訓練に意を離れた生徒には淋しいのでありますかて、にこにこしながら持って帰るいじらしさは、を用いて居ります。ら、隔日にお八つを定めて出します。今でも眼に見えるようで、実に楽しい思い出で二、監督指導方針『寛厳宜しきを得る』又随時適当なる方法を取りて家庭的になあります。」（『明星ものがたり』33頁）と記述して寄宿生の校庭朝礼という事は本校訓育の標語でありますから、し、淋しみを起させない様にして居ります。いる。CHAPTER1第1章066MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory067

## Page 035
![Page 035の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000035.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅰ．創設期1923︵大正12︶年～1927︵昭和2︶年PART1第1部涙を流すのは今日かぎりにして、今後はど糧事情の悪化により閉鎖することとなった。九日（土）実務学校卒業式のようなことがあろうとも、けっして泣く午前十時より実務学校第四回卒業式挙まいと心に誓ったのである。実務学校、最後の卒業式行。来賓に星野先生御夫妻（設立者）、村上こうして寮生活が始まった。私が配属さ学校法人明星学苑の淵源となった明星実務学鋠吉氏（理事）、仁居津惠吉氏、庄村府中署れたのは三省寮であったが、先輩諸氏が頑校であるが、その存続期間は長くはなかった。後長、大藤府中小学校長、深井武徳氏（前本校張っており、一見粱山泊といったところで、述するように、1927（昭和2）年に個人立から財団配属将校）、臨席父兄多数出席せらる。はじめのうちはちょっと怖い感じがしたが、法人明星中学校に改組し、明星中学校を創設す卒業証書及記念品授與の後、校長の訓辞寄宿舎ー朝夕の掃除ーみな親切でやさしい人たちであった。時をることになるが、その過程で財団法人として実あり、特に己が境地に徹底し職務に忠実な知らせるのはすべて板木であった。板木を務学校と中学校の2校を設置・運営する計画も検れと戒められ、星野先生の祝辞として過去一方、寄宿生であった実務学校1回生の橋本卓打ち鳴らして起床の時刻を知らせる。それ討されたものの、さまざまな条件から実現せず、七十年間の奮闘生活を話されて感奮せしめ夫は、入舎時の様子について次のように回想しから校長を先頭に校庭を駆け足で三周する。実務学校は1927（昭和2）年度から生徒募集を停られた。尚、村上、仁居津両氏祝辞あり、ている。それから掃除である。掃除が終わって止、1926（大正15）年度入学生が最後となり、1923終って総代の祝辞あり、三年間力強く養わやっと朝食にありつける。食事が終わると（大正12）年度、1924（大正13）年度、1925（大正れし明星魂を持て、或は実業方面に、或は私が寄宿舎に入りましたのは大正十二年再び板木が鳴って朝の凝念が始まる。これ14）年度、1926（大正15）年度の4回、生徒を迎え上級学校に己が使命を果す旨を誓う。かくですね。国分寺から夜具布団・行李を人力は姿勢をただし、丹田に力を入れて、しばるにとどまった。て式を閉じたのは十一時半であった。来賓・車につんで、学校まで運んだんですが、国し黙想し、心力歌を合唱するのである。は1928（昭和3）年度末には最後の卒業生を送り父兄には粗餐を呈して歓談し、卒業生は職分寺から学校までの間に三軒しか家がなじめのうち、歌の意味が分からず、単に暗出すことになり、1929（昭和4）年3月8日に実務員と食堂に会して饗応せらる。午後一時よかったんですよ。藤塚というところに、筋誦しただけだったが、まことに心のこもっ学校卒業生送別会を実施、9日10時より実務学校り謝恩会あり。校長最後の訓戒に社会の一向いに二軒、それから少し行ったところにた人生訓であることが後に理解できた。最後の卒業式が挙行された。送別会と卒業式の員としての覚悟を固め、担任の挨拶に今更農家があったんですが、そんなもので、あこれが終わると教室に入り、授業が始ま様子について『体験教育』掲載の「教務日誌」ではながら過ぎし日を偲び、茶菓を喫しながらとは松林と桑畑の間を父親に連れられて、る。校長先生が成蹊学園出身であるので、中次のように記載している。今迄の師弟の隔りなく歓談して、何時盡く人力車のあとをトボトボついて行った記憶村春二先生の教えにそい、成蹊の長所を採るとも知らず。卒業記念の署名と真心籠めがあるんですよ。初めて親元を離れたんでり入れたものと思われる。私は明星に入学八日（金）実務卒業生送別会て贈られたアルバムは永く彼等を偲ぶよすすかが、みんな押入れの前にしゃがみこみして授業が面白くなり、成績も徐々に向上本年度実務学校卒業生を主客として午後がとなるであろう。まして、黙っているんですね。……こりゃしていった。〇時より送別会を開く。中学三年生の開会（「教務日誌」（『体験教育』第4号、1929年4月、所収）5頁）どういうことになるのかと思うような、淋（（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、所収）25〜26頁）の辞、校長の訓話、中学生思い思いの感想、しい場所でございましたね。実務生の感謝の辞あり。終りに堀内・野沢このようにして明星実務学校は終焉を迎え、（「思い出を語る会旧制明星中学校寄宿生」1973年、9〜10頁）針谷亀次は明星実務学校の第4回生として先生の所感があって閉会したのは三時半。1929（昭和4）年度には「実務が三月九日全部卒業1926（大正15）年4月に入学しており、この年度在校生の兄を失う悲しみの中に前途を祝福しましたので今月からは中学だけになります。中また、実務学校第4回生の針谷亀次は、入寮のは宮本覚純のあとをついで児玉九十が第2代校するあり。卒業生の過去三年間の回顧と各学最上級生は四年になりましたので、一、二、三、様子や寄宿舎での生活について次のように回想長に就任した時である。これは校長児玉九十の自の抱負覚悟を述べたる、平素無口と思わ四年と四学級になりました。」（「編輯後記」（『体している。下での寄宿舎生活についての回想であるが、創れた者も愈学窓を離れるとなると之丈けの験教育』第4号、所収）8頁）という状況になった。「明星学苑の発展を祈念」（抜粋）針谷亀次設期、校長宮本覚純の下においても寄宿舎生活決心力が附くものかと思われた。私は大正十五年四月、明星実務学校に入の状況は同様のものであったと推測され、創設学したわけである。私はそれまで東京には期の寄宿舎生活や寄宿生同士の関係、師弟同行行ったことがなかったので、父に連れられの実態について理解することができる。て上京した。入寮の手続きもしていざ一人寄宿舎は明星教育の一特色をなすものとしてとなるとたいへん心細い。父が帰った時にその後も長く、太平洋戦争下においても存続しは便所に入って泣いたものである。しかし、たが、1947（昭和22）年3月に太平洋戦争後の食CHAPTER1第1章068MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory069

## Page 036
![Page 036の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000036.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部Ⅱ.発展期私が今春欧米教育視察から帰朝後、官私各方面の学校からの交渉を皆断ってこの学校を引受けたのも、実は星野氏が成蹊実務星中学校を創設すること、学校の経営主体を星野鏡三郎個人ではなく財団法人とするという抜本的な改革であった。1927（昭和2）年〜1947（昭和22）年の後を引受ける時に中村氏と私とに教育上の一切の責任を持って貰いたいといわれ、責明星実務学校の廃校については、1926（大正15）年11月20日付で次に示す「明星実務学校廃止任を持つ事を誓った責任感からであります。願い」、「明星実務学校廃校理由書など」が星野鏡（国立公文書館収蔵、児玉九十「矢野貫城宛書簡」9頁）三郎から、東京府知事平塚廣義を経て、その副申を添えて文部大臣岡田良平宛に提出された。なお、この書簡中にある「官私各方面の学校からの交渉を皆断って」に関しては、1937（昭和12）「明星実務学校廃止認可願」年5月に挙行された明星中学校創立10周年記念私儀、今般別紙理由書に詳記の理由に依式の席上、来賓である神宮家庭寮長森本泉（大り明星実務学校廃止仕度候間、御認可相成1.明星中学校の創設につとめたのですが、氏の辞意は固く、逆に「この学校をやっていけるのは、あなたよ蔵・内務官僚を経て山形県知事、退官後、神宮家庭寮長を務めた）が祝辞の中で「前東京府立第度、別紙生徒処分方法、廃止期日を具し、此段奉願候也。児玉九十、校長に就任りほかにない」とまでいわれ、また星野翁か一中学校長川田氏が、自分は、かねてより自分大正拾五年拾壱月弐拾日児玉九十は、1925（大正14）年3月に出発したらも、「明星の教育その他いっさいを私に一の後任としては是非児玉氏に来ていたゞきたい東京府豊多摩郡□□□町大字□□□○欧米各国教育事情視察の途上、旅程の終盤に近任するから、ぜひ引き受けてもらいたい」とと思って居たのであるが惜しいことをして了っ○○○番地いアメリカ・シカゴ滞在中に明星実務学校の創の懇望でありました。た。児玉氏は明星中学が出来て、そちらに行っ明星実務学校設立者星野鏡三郎㊞設者・設置者である星野鏡三郎から、早急に解私としては、第一次大戦後の欧米教育をて了われたから、どうしてももはや氏は出て来文部大臣岡田良平殿決しなければならない案件が生じたので旅程を視察して、日本の中等教育はかくあらねばては下さるまいと申されたことがございました。」切り上げて帰国してほしいとの急な連絡を受けならないという雄図をいだいて帰国した矢（『体験教育』第102号、1937年、4頁）と、具体的「一、明星実務学校廃止理由書」取った。これを受けてアメリカにおける視察日先きでもあり、星野翁から、理想実現のたな校名を挙げて紹介している。大正十年十一月頃、池袋の成蹊学園は其程を若干短縮し、サンフランシスコから太平洋めには自由自在にやっていい、というありこれらから理解できるように、星野鏡三郎が学制を改革せんとするに際し、同学園の設横断航路をたどり、1926（大正15）年1月に帰国がたい条件を提示していただきましたので、成蹊実務学校の廃校を受けて明星実務学校の創立に係る成蹊実務学校を廃校する事となした。帰国した児玉九十に星野鏡三郎からは学身の振り方について、いろいろの方面から設を考えた当初から、その計画・準備に中村春二り、同学園父兄会の席上に於て此旨突如中校内部の問題についての相談もあったが、それの手厚い招請のあったのをすべてお断りしと共に参画し、中村春二逝去後は一人で尽力し、村同学園長より発表されしが、自分は一子以上に重要な案件は、明星実務学校創設時からて、創立以来ずっと世話をしてまいりまし創設と同時に理事となっていた児玉九十はそのを同園に託し居る関係上偶然此父兄会に列校長を務めてきた宮本覚純から駒澤大学教授にた明星にたいし、こんどは中心になって育責任感から星野鏡三郎の要請を受けて第2代校席し居り。同先生の教義は平素より深く敬転じたいので辞任したいとの申し出があり、そてて行くための全責任を帯びることにいた長に就任することを承諾したが、自らの考える服し、此悲愴なる演説を聞くに到りて同情の後任の校長を定めなければならないという案しました。私学教育・中等教育のあるべき姿・教育実践をの念禁じ難く、学校経営の如きは毛頭の経件であった。当時の状況について、児玉九十は（『児玉九十自伝』190～191頁）実現していこうという年来の思いが強く働いて験もなく、其廃校の原因は果して那辺に存次のように記述している。いたことも承諾の大きな理由となっていたと考在するや之を研究する事を知らず、只単にこれは後年に回想して記述されたものであるえられる。こうして、校長宮本覚純の下で第1回一時的の義侠心より如何にかして本校継続学校内部にちょっとしたもめごとがあり、が、当時に近い1926（大正15）年10月8日付で文卒業生を送り出した後、1926（大正15）年4月にの方法なきやを同園長に問いしに、所要のそのため翁（補注：星野鏡三郎）はたいへん部省実業学務局矢野貫城（矢野貫城は1919（大正児玉九十が明星実務学校第2代校長に就任した。経費其他の説明ありたるが、何分にも多大心配され、学校の将来に不安をもっていた8）年文部省事務官兼督学、1921（大正10）年～の費用を要するを以て自分の力能く之を支ところ、校長宮本覚純氏が駒澤大学教授に1924（大正13）年は実業学務局第三課長であっ明星実務学校の廃校え難き故一旦は之を辞退したりしと雖も、転じたいと申し出られたことが中心問題でた）に送られた明星実務学校廃校に関する書簡明星中学校校長に就任した児玉九十が最初に現在における本校の設備及び年額金七千円した。もちろん、私は極力、宮本氏の慰留の中でも、次のように同主旨の記述している。取り組んだ仕事は、明星実務学校を廃校とし、明宛の維持費あればその継続を為し得んとのCHAPTER1第1章070MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory071

## Page 037
![Page 037の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000037.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部事にて、其方法の提示と共に同園長よりの意義は全然消滅したるのみならず、意外なる多額の費用を要せざる得ざ廃止期日」頻々たる勧誘を受けたり。自分は他日実業二、同先生あって始めて行わるべき本校る苦境に陥れり。二、生徒処分方法界引退の後は老後の思出に身分相応の社会の一学級三十名宛三ヶ年制度の甲種如斯、中村先生の死は当校の存立に一大現在の第三学年、第二学年、第一学年奉仕を国家に捧げたき意志ありしを以て、商業学校組織は根底的に覆滅したる打撃を與えたるのみならず、自分は其当時生徒は大正拾六年三月より大正拾八年三旁々此位ならば引受け得らるべき予想を以て愈々同校の継承を決心したり。但、成蹊ものなり。此三箇年制度は何人は之を見るも、横浜に於ける自宅を始め、動産、不動産、并（ママ）に自ら計営する会社等尠からざる災害を蒙月迄に逐次卒業すべきに付、此等の生徒は順次全部卒業せしむ。学園の理事者側に於て其継承を肯ぜざるも教育上、生徒募集上至難なるは自明りし直後なりしを以て直ちに廃校せんと欲三、廃止期日のありたるが為め、当校は同園特得の中村の事なるも、中村先生は同氏に限れせしも、軽挙其影響の在学生に及ぶこと甚現在生徒を全部卒業せしめ、大正拾八氏の精神を継承し、形式は新設として明星る特有の力と長歳月の実験とを以て大なるを恐れ、爾来静視考慮、茲に二ヶ年年参月参拾壱日限り廃止す。実務学校なる名称を附したるなり。生徒の数を少くし、鍛錬、開発、教に及ぶも依然として志願者少く、経費のみ以上本校は斯の如き事情を以て設立したるもの故、設備は勿論、教育の方針其他一切中育を行い、三年の短期間に完了し、年限短縮の範を示すを以て理想とせら増加し、更に在学期間短きを以て生徒の成績も良好ならざるが故、五年制度に変改せ（国立公文書館収蔵「明星実務学校廃止願」、なお、大正16年は1927（昭和2）年、大正18年は1929（昭和4）年である）村春二先生の指揮監督の下に置き、自分はれ、同時に大正元年成蹊実務学校開んと欲せしも三学級に於てすら年七千円の全く老後の奉仕として単に其出資のみを負校以来の努力にて同先生の主義は大経費補足定額を以て之を支えること能わ長文の引用となったが、この「一、明星実務学担したるものなり。元来中村先生は目白のに世の信望を有し居られたるをもっず、事実上壱ヶ年平均壱万弐千円を要した校廃校理由書」を参照すると、明星実務学校創設成蹊女学校を国分寺在住の今村氏邸内に移て、生徒募集の如きも充分の確信をるより、之を見れば少くも一万五千円以上の事情、創設後の実態、廃校の理由などについし、吉祥寺に移転すべき成蹊学園を中心と有せられたるが、此二点は同氏にしを要するものと認めざるを得ず。震災の結て、創設者で設置運営主体である星野鏡三郎がして成蹊女学校及び当校を三鼎立せしめ、て始めて為し遂げ得るものにして、決果其財源に一大動揺を来したる自分としてどのように認識していたかが明確に理解でき教育上一般の指揮監督をなすと共に、三校して余人の企及し得ざるものなりとは到底斯る負担に耐える能わざるなり。左る。明星実務学校の廃校と明星中学校の創設に聯絡して校員の融通をなし、交互の節約便す。既に述ぶるが如く、当校は同氏すれば授業料の増額如何との議ありしも、関して、事前の接触・交渉を持ったと考えられ利を図り、経済上専ら維持経営を容易にし、の理想に依て成立したるものなるが都会商家の家庭と異なり本校在学生の父兄る校長児玉九十の文部省実業学務局矢野貫城宛且つ入学志願者の一系統を作るべき予定な故に同氏の死は直に生徒募集上に現資力は到底年六十円以上の負担を為さしむ書簡（国立公文書館収蔵、6頁）にもこれとほぼ同りき。然るに中村先生は本校開校の歳、即われ、即ち開校第一年に於ては其志ること能わず、強て増徴すれば愈々入学志様の事情が記述されているが、それらをまとめち大正十二年大震災後俄然として病に罹願者数五十一名ありしが、第二年即願者数を減少する外なきなり。又一学級のて、「要するに、改造の理由は経済上の方面からり、翌十三年二月を以て遂に他界せられ、随ち中村先生の死去せられたる年は定員を五十名にしては如何との議ありしと、社会の進歩より来れる生徒父兄の希望に応て吉祥寺に移転せられたる成蹊学園は三菱僅々二十名に過ぎざりき。爾来、極も、其経費補足額少くも壱万円を下らざるじたいという二点からであります。」と、実務学会社の直営に帰し、経営の方法、教育の方力募集上に努力を払いたりしも定数を得ざるのみならず、教育上生徒の不結果校廃校の理由については経済的事情が、中学校針共に一変し、事実上其根蒂破壊せらるゝに充つる能わずして今日に至れり。を来すは見易き理にして自分の社会奉仕と創設については進学を望む保護者の意向が、最と同時に、国分寺に移転せらるべき筈なり三、先生死去に因る第三の打撃は、三校して尽せる志は水泡に帰する外なけんのみ。も基本的な理由であると強調されている。し成蹊女学校も今村氏一個人経営の予定は連絡、教員融通の不可能になりたる依て、当校は止むを得ず現在学生の尽く明星実務学校の廃校は1927（昭和2）年2月22日一変し、今村氏外三名の共同経営となり、国事とす。始め時間数を多く分担する卒業する迄開校し、来る十六年度以降新た付で文部大臣から認可され、1927（昭和2）年度か分寺移転問題は遂に画餅に帰したり。教員のみを専任とし、他は成蹊学園、に募集を為さず、漸次卒業の終わるを俟てら生徒募集停止、1929（昭和4）年3月に最後の卒以上の如く中村先生の計画せられたる成成蹊女学校より相融通せんとの予想全然廃校閉鎖せんと欲する所以なり。要す業式を挙行して全ての生徒を送り出した。明星蹊学園、成蹊女学校、明星実務学校の三校なりしが、此関連絶ちたるを以て応るに当校の廃校は中村先生の死去と震災の実務学校は4回新入生を迎え入れ、6年間というは各主宰者を異にし、其主義、方針区々に援を受くること能はず、本校は単独影響に存するものにして、天数の然らしむ短期間存続し、明星教育の炬火を明星中学校にして経営の聯絡、教員の融通、入学志願者にて各教員を招聘せざるべからさるる處、人為の如何ともする能ざる事に属す。引き継いで、その歴史の幕を閉じた。統一の如きは全然不可能に終れり。即ち先に至れり。本校の位置は偏僻なる遠誰か天数を予断するものあらん哉。生の死は、距離に存在するを以て近傍に中等の財団法人明星中学校の設立一、同先生を中心として企図せし本校開校学校なく、兼任の教員を得るにすら「明星実務学校廃止に関する生徒処分法及星野鏡三郎と児玉九十が、明星実務学校の廃CHAPTER1第1章072MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory073

## Page 038
![Page 038の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000038.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部校と同時に意図したことは、星野鏡三郎個人立明星実務学校設立者星野鏡三郎㊞星野鏡三郎が義務教育とされてきたが、1907（明治40）年にの学校を財団法人立とすることと、明星実務学文部大臣岡田良平殿大正十五年十一月二十一日申請、財団法は義務教育就学率が97％を越えたことをふまえ校の発展的な後継校としての明星中学校を創設人明星中学校設立の件、民法第三十四条にて、尋常小学校の修学年限を6年間に延長するとすることであった。「總目録」依り許可すともに、尋常小学校6年間を義務教育とした。さ財団法人を設立し、学校を財団法人立とする一、財団法人明星中学校寄附行為年月日らに、第一次世界大戦期以後日本社会の近代化ことは、上掲の「明星実務学校廃止理由書」に記一、身分証明書（仁居津惠吉）文部大臣が進展し、具体的には工業化・都市化・大衆化述されているような財政事情を踏まえて、学校一、履歴書（星野鏡三郎）備考が進展した。このような社会状況の変化にともの存立基盤を組織的なものとして、その財政と一、公債証書保管証写一、名称財団法人明星中学校ない、人々の職業構造が変化し、この時期に「サ運営の安定を図るために考えられたものである。一、所有地証明証一、目的中学校令に基き男子に須要なるラリーマン」という言葉が一般化してきたようこの財団法人設立の意図について、児玉九十は一、建物証明証高等普通教育を施すを以て目的とすに雇用労働者が増加し、その中でも専門職や公次のように記述している。一、理化学機械器具標本図書目録千〇八一、事業明星中学校の維持経営務員、事務系職員などが増加してきたが、それ拾壱点（四千五百五拾弐円八拾銭）一、事務所東京府北多摩郡府中町字貫井らの職種に就業するためには一定段階の学校卒私は、明星をいかにして、星野翁個人立一、備品目録千百九拾八点（九千六百四前一万二千二百五十七番地業が求められることから、上級学校への進学をの私塾形態から、ひろく公共性を帯びた独十八円六十銭）一、資産希望する人が増加してきた。さらに学問研究の立独歩のものにするかについて研究をしま寄附に付参考書（A）設立当時の寄附財産進展や大衆文化の普及も、より上級の学校へのした。人格錬成のためには、私塾形態は必（国立公文書館収蔵「財団法人設立認可申請書」）＝詳細略＝進学、学校教育の大衆化を促進することとなっずしも非難されるべきではなく、むしろす合計二十一万六千九百四十九円た。他方で、より上級の学校への進学を可能とべての私学はそういう形式から出発して、添付された「財団法人明星中学校寄附行為」の（B）設立許可後の寄附財産する経済的余裕を持つ家庭も増加してきた。明個性豊かな人材を生む培養土の役割を果た「一、目的及び事業」には「第一條本法人は中学合計二万三千五百円星実務学校の入学者には多摩地域の比較的恵ましてきたわけですが、…（略）…経営形態を校令に基き男子に須要なる高等普通教育を施す＝詳細略＝れた層の出身者が多く、それらの家庭でも大学近代化しなければ立ち行かなくなる矢先でを以て目的とす」、「第二條前條の目的を達成（国立公文書館収蔵「財団法人設立の件指令案」）進学までを視野に入れた中学校・高等学校へのした。せんがため明星中学校を維持経営す」と財団法進学を希望する考えが強くなってきたと考えら（『児玉九十自伝』1990年、192～193頁）人の目指すものが明記されている。設立時の役この「指令案」文書には「大正一五年十二月二れる。当時は現在の三多摩地域には東京府立第員については、理事児玉九十、理事仁居津惠吉、十二日起案、二月二十二日採決定、二月二十三二中学校（1901（明治34）年、北多摩郡立川村に創財団法人化は星野鏡三郎も賛同するところと監事星野錫、本法人設立者星野鏡三郎と寄付行日発送」との記入があり、明星実務学校廃止認可設、現：東京都立立川高等学校）のみが立地してなり、「明星実務学校廃止認可願」を提出した翌為に明記されている。仁居津惠吉は、横浜市青と同じ1927（昭和2）年2月22日付をもって、財団いた。当時の学校体系は現在の単線型学校体系日、1926（大正15）年11月21日付で、次の「財団木町（当時、現：横浜市神奈川区青木町）在住、法人明星中学校の設立が許可されたと推測されとは異なり、複線型学校体系を採っており、原法人設立認可申請」が星野鏡三郎から提出され、株式会社戸部銀行（後に横浜銀行と合併）支配人る。則として大学に進学するには中学校、高等学校12月18日付の東京府知事平塚廣義の副申を添えであり、横浜在住である星野鏡三郎の縁故からを卒業することが求められており、実務学校（当て、文部大臣岡田良平に提出された。理事に起用されたのではないかと推測される。明星実務学校から明星中学校へなお、当時は現在の学校法人は全て存在せず、学明星を財団法人とする検討と同時に、設置す「財団法人設立認可申請」校を設置運営する法人は財団法人であった。る学校について明星実務学校と創設する明星中私儀、今般別紙寄附行為に依り財団法人設立認可申請は、1926（大正15）年12月22日付学の2校並設する案も検討された。この時期に中明星中学校を設立致度候間、民法第三十四で許可された。現在入手しうる資料としては、国学校の創設を意図したことの最も大きな要因と條により御許可相成度、別紙所要の書類を立公文書館収蔵の「財団法人設立の件指令・しては、当時の社会的な状況として上級学校へ添付、此段及申請候也案」があるが、その内容は次の通りである。の進学希望が増大してきたことがあげられる。大正拾五年拾壱月弐拾壱日日本では1872（明治5）年の「学制」によって近東京府豊多摩郡□□□町大字□□□○「財団法人設立の件指令案」代的学校教育が導入され、当初は初等教育・小○○○番地財団法人明星中学校設立者学校教育の普及が目標とされ、尋常小学校4年間通学風景CHAPTER1第1章074MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory075

## Page 039
![Page 039の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000039.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

「明星中学校設置願」私儀、明治参拾弐年二月七日附公布勅令第弐拾八号の中学校令（明治四拾年改正、大正八年改正）に基き、明星中学校を設置致し度、別紙の通り中学校令施行規則に依り書類調製提供仕り候間、御認可被下度、此段願上候也。大正壱五年拾壱月弐拾弐日東京府北多摩郡府中町山谷壱萬弐千弐百五拾七番地財団法人明星中学校代表者理事児玉九十㊞文部大臣岡田良平殿「目録」一、明星中学校設置願書二、願書添付具申書三、収入支出予算表四、学則五、設立者財団法人明星中学校代表理事履歴書六、建物配置及屋外体操場区域面積図七、付近情況図八、飲用水の定性分析表写九、校舎平面図（教室配置、用途、坪数記入）十、寄宿舎平面図「明星中学校設置願書添付具申書」一、名称明メイ星セイ中学校二、生徒定員貮百名三、開校年月大正十六年四月四、経費及維持の方法財団法人明星中学校設立者として本校を維持経営す。本校経費は別紙の通りなり。五、位置東京府北多摩郡府中町字貫井前壱萬弐千弐百五拾七番地（イ）校地面積四千五百五十八坪〇四勺時の制度上は甲種商業学校）からの進学は困難であったことから、明星実務学校の保護者や地域社会住民から明星に対して中学校を創設することが求められたと考えられる。このような中学校創設を求める動きがあることは、星野鏡三郎、児玉九十とも十分に把握していたと考えられる。しかし、並設については星野鏡三郎は財政上の懸念からと考えられるが、不賛成であった。この点について、児玉九十は次のように記述している。如何にして、明星をして星野翁個人立の私塾から公共性を帯びた独立独歩のものにするかを研究し、個人立から財団法人立にし、同法人が主体となって、明星実務学校、明星中学校の両校を経営するという結論を得、この詳細案を星野翁に出しましたが、星野翁は財団法人にすることと中学には賛成でしたが、経済上その他の理由で、両校並置は不賛成でした。（『明星ものがたり』31頁）このような決定に従って、財団法人設立が認可された1926（大正15）年11月22日付をもって、財団法人明星中学校代表者としての児玉九十から文部大臣岡田良平宛に次に示す「明星中学校設置願」が提出された。明星中学校時代の生徒と正門付近076PART1第1部学校法人明星学苑の歩み「財団法人明星中学校設立認可申請書」と「明星中学校設置願」Column1財団法人明星中学校設立認可申請書（国立公文書館収蔵）明星中学校設置願（東京都公文書館収蔵）いずれの文書も、東京府知事平塚廣義を経て文部大臣岡田良平宛提出されており、添付された東京府知事文書は次の通りである。寅学第一六七四〇号大正十五年十二月十八日東京府知事平塚廣義印文部大臣岡田良平殿財団法人明星中学校設立竝私立中学校設置の件管内豊多摩郡□□□町星野鏡三郎より表記の件申請に付、調査候處支障無之ものと認め、別紙及進達候上、左記事項を条件として可。然御詮議相成度、此段副申候也。一、基本財産の増殖を可成的速になすこと。一、校舎の増築を計画通実行すること。（国立公文書館収蔵）077MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistoryCHAPTER1第1章学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年

## Page 040
![Page 040の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000040.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部時は入学定員1学年1学級40名、在籍定員200名く「体験教育」という教育理念が最も基礎におかであったが、1934（昭和9）年度から入学定員1学れた。児玉九十は1929（昭和4）年1月に創刊したColumn2明星中学校校舎年2学級70名、在籍定員350名に増員、1944（昭和19）年度からは在旧：満州（現：中国東北部）明星中学校の広報紙『体験教育』第1号に、現今の社会的状況について明らかにした上で、その日本人子弟受け入れのため入学定員1学年3学級克服策としての教育のあるべき姿としての「体105名、在籍定員525名に増員した。験教育」について、次のように記述している。CHAPTER1第1章寄宿舎〈略〉所機械器具標本室理化教室教室便博物教室教室教室教室（ロ）屋外体操場面積壱千四百五拾壱坪（ハ）校地々質赤粘土質（ニ）屋外体操場区域面積図別紙の通り（ホ）付近情況図別紙の通り（へ）飲用水の定性分析表別紙の通り（東京都公文書館収蔵「明星中学校設置願」）添付された「明星中学校学則」によれば、その講堂校長応接室室玄関1922（大正11）年作図太線部増築・改築部分屋内体操場明星中学校校舎平面図（東京都公文書館収蔵「明星中学校設置願」内の「明星中学校校舎平面図））明星実務学校時の校長室・応接室・図書室を移転し、その跡を普通教室とするとともに、理科教室（兼：簿記室）を普通教室とし、普通教室を実務学校3学年に対応する3室から、中学校5学年に対応する5教室とした。ママ理化教室、博物室、機械器具標本室を増築し、さらに屋内体操場を増築して、中学校の教育内容に対応する施設を整備した。目的は「本校は中学校令に基き、男子に須要なる高等普通教育を施し、特に人格陶冶、国民道徳の養成に力むるを以て目的とす。」（第一章総則第一條）とされている。明星中学校の創設は、1927（昭和2）年2月22日付で認可され、1927（昭和2）年4月に第1回入学式を挙行、1年生と2年生を迎え、明星実務学校の後継校ともいうべき明星中学校が発足した。なお、明星中学校の生徒数については、創設明星中学校の教育―体験教育創設された明星中学校の教育内容について、「明星中学校設置願」に含まれる「学則」第5条に「学科目は修身、国語及漢文、英語、歴史地理、数学、博物、物理及化学、図画、体操とす。各学年に於ける各学科目、課程及其の毎週教授時数は別表の如し。」と規定している。別表は次の通りである。このような教育課程に従って日々の授業が行われたが、明星中学校においては教科教育のみを重視するのではなく、児玉九十の教育理念と明星実務学校の伝統を引き継ぐ「知行合一」、「考行一貫」、さらに「実践躬行」などの考え方に基づ「体験教育の提唱」（抜粋）児玉九十それ故、吾々は何事に向っても、先づ自らを責め、自ら当って事の解決進行を計らんとする実行の気風を養成するという事が、吾が国、現下の急務中の急務と信ずる。されば社会全体に向って実行気風の振興を計ると共に、教育に依って次代民心の確立を図らねばならぬと思う。吾人が体験を根本とする敎育に依り、日夜生徒の薰陶に沒頭して居るのも実にこれがためである。従来の教育が多くの場合に於て頭だけに止り、自然、出来た人物には口舌、筆尖に巧にして、実行力に欠けたる者が多い。之に反し、吾人の主張する体験敎育は、頭脳学科目、課程及毎週教授時数表第1学年第2学年第3学年第4学年第5学年学科目＼学年時数毎週授業時数毎週授業時数毎週授業時数毎週授業時数毎週授業時数修身道徳要領1道徳要領1道徳要領1道徳要領1道徳要領1国語及漢文英語歴史地理講読作文習字発音綴字読訳話作文書取習字日本歴史日本地理8同左873読訳話作文書取習字日本歴史満州地理世界地理73講読作文文法読訳話作文書取文法外国歴史世界地理6同左5講読作文67同左6同左73同左3数学算術4代数5同左幾何5同左5外国歴史地理自然地理人文地理代数幾何三角博物植物動物2同左2生物衛生2鉱物博物通論2物理及化学物理化学2同左4同左4図画自在画1同左1用器画1同左1同左1体操体操教練5同左5同左5同左5同左5計3132323232（東京都公文書館収蔵「明星中学校設置願」、縦書きを横書きとしたため「同上」を「同左」に、漢数字を洋数字に改めた）35078MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory079

## Page 041
![Page 041の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000041.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部の研磨に力を盡すと同時に頭脳の動そのものを吾々の全身に表現し実行する様に導く教育である。頭だけ出来ても実行に現れなければ目的の半分しか達せぬものと見るのである。それ故この教育は思索体験一致の教育という事も出来るし、考行一貫の敎育力歌については前述したので、勤労作業についての児玉九十の考えを取り上げると、次のように記述している。私が、創立のはじめから、凝念・心力歌のほかに、もう一つ、勤労教育としての作的応用と考える」と位置づけている。明星中学校の学校生活このような教育理念に基づく創設期の明星中学校の学校生活について、当時の生徒がどのように受けとめ、考えていたのか、中学2年生の次感じのする室である。之に向い合って左に一・二・三年の教室、右に職員室、実務、理科室、機械標本室、地歴室が並んで居る。他に講堂と道場がある。生徒は一組四十人。全部で他の学校の一学年にもたらない。それだけにまとまって、というてもよい。頭が実行に現れ、実行実験に依り一層頭脳を深めんとするのである。思惟を大に重んずるが、それは思惟の為めの思惟でなく体現のための思惟である。思索実行を一本の棒、一筋の縄と考えて行くのである。此の教育を行う為めには、教師は教壇上を唯一の活動場と見てはならぬ。又敎科書と機械標本のみが無二の敎材と考うべきでない。教場、運動場、寄宿舎、旅行等、如何なる時、如何なる場所に於ても生徒に伍して、徳育、知育、体育、何れの方面にも、自己の頭脳と身体の全力を傾注して教え子を導き、生徒をして自由自在に活躍する頭脳体力の所有者たらしめんと図らねばならぬ。（（『体験教育』第1号、1929年、所収）、1～2頁）業を課したことは、明星の特長といってよいでしょう。教師・生徒の自発的活動によっの作文が『体験教育』に掲載されている。大きな家庭を造って居るのである。生徒は誰も兄弟である。それが先生方のお父様にて、日々の学校生活をすすめてゆくのが本「明星学校」中二村松穀平導かれて仲善く勉強しているのである。校の体験教育です。だからすべての行事はどれをとってみても作業ということができるのですが、とくに勤労精神を養うために、園芸、除草、草刈り、樹木の手入れ、屋内外の掃除など、生徒に適し、生徒に出来ることはいっさい生徒の手で行わせるようにしたのが「作業」なのです。いうまでもなく、これらの作業は、あまり好まれない、地味で、退屈なものばかりですが、そのいやなことを行うなかから、本当に人間らしいよろこびを自ら発見させるのが、作業の目的ですから、体験教育には欠かせないものなのです。校門を入る。一面の芝生。雨の沐浴に、自然の化粧に、すらりと育った杉の大木、茂み合った櫟の林。其の中に櫟林荘とも云うべき赤屋根の家がある。校庭に一歩を踏み入った時、他の学校とは異った雰囲気がうかがわれる。芝生の間を縫った道を行くと玄関がある。赤い屋根。白い壁。いささかモダーン味を帯びて居る。コンクリートの敷石も常に美しく洗われて居る。玄関を上ると正面が応接室。続いて校長室がある。飾りけのない、然し純に美しい朝八時半になると『バンバンバン』と板木がなる。鈴や鐘やラッパと異なって非常に静かである。又底力のある響きである。生徒は一斉に講堂に集る。一つの声だになく、唯呼吸音がかすかに聞える。一人も居ない様に静まり返る。凝念中なのである。と『ボーン』と鐘の音が高く低く響く。其音の消ゆる頃沈黙破られて心力歌の合唱が行われる。……凝念、心力歌、之が此の学校の精神である。心を清められた生徒は此処に始めて授業につくのである。五十分の授業。『A・B・C』（『児玉九十自伝』221頁）CHAPTER1第1章ここに記述されている「体験教育」の理念は、その後も一貫して明星教育の基礎となってきたものであって、児玉九十は機会あるごとにその紹介に努めている。例を上げるならば、『体験教育』紙上では「我が校に於ける体験教育の実際」（第37号、1937年）など多くの機会に取り上げており、学外に対しても小原國芳『日本の労作学校』（玉川学園出版部、1931年）の1章として「明星中学校に於ける体験教育の実際」を寄稿している。この体験教育という教育理念から、勤労教育としての作業も重視された。児玉九十は明星中学校における体験教育の具体的方法として凝念、心力歌、勤労作業を実践し、これによって体験教育の効果を発揮し、明星教育の基本を形成するにいたったと後年評価している。凝念、心このように説明した上で、さらに作業を通じて自然の世界に触れて心が清らかになる、協同精神を養う効果がある、人間が宇宙の秩序に参加することになるとし、「作業を知育全体の総合園芸作業明星中学校の授業風景080MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory081

## Page 042
![Page 042の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000042.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部『第一課美しい国。』様々な声が聞こえて来1929（昭和4）年1月、すなわち1928（昭和3）年雰囲気や環境について、第五回卒業生中村忠生多彩な学校行事る。どっと笑う声。先生の笑いも聞こえる。度は、中学校創設から2年目、中学1～3年生徒、は後年次のように回想して、記述している。体験教育という教育理念を活かす活動とし全く楽しそうに授業を受けて居る。勉強を実務学校3年生が在学していた時期であるが、当て、学校内外における様々な行事や活動が実施楽んで居る様に感ぜられる。時の学校の状況や雰囲気がきわめて良く示され「森と林の中の小さな学校」（抜粋）された。十分の休み。教室を出た生徒はくもの子ていることから、長文ではあるが引用した。中村忠生その代表的な活動として「夏の学校」がある。を散らす様に運動場へ、芝生へと散って行また、後年になっての回想であるが、明星中国分寺駅から府中の中心部まで、ひと筋1929（昭和4）年に『体験教育』第8号紙上に夏の学く。ボール投げ。帽子取り。雑談する者。我学校第1回卒業生である向山敏治は、次のようにの街道がのびている。当時は舗装もない砂校についての記述が掲載されるが、それによれを忘れて遊んで居る。記述している。利道で、時おり荷を積んだ馬車や農夫が通ば7月20日の第1学期授業終了後、7月31日の終十分の休みが終って教室に集った生徒はるばかり、人影も少なかった。一日数便の業式までの間に水泳、山岳、学校の3班に分かれ前とは全く違った生徒である。「児玉九十先生いつまでもお元気で」バスが通っていたが、乗客も少なかった。こて活動した。水泳班は千葉県館山北條海岸（旧一午前中三時間。之がすむと待ちに待った、向山敏治の街道の中ほど、少し東に入ったところの、高水泳場）に合宿し、水泳、遠泳のほかに試胆会生徒の一憧憬なる弁当が頂ける。教育そのものは、世相が厳しい時代でし森と林に囲まれて立つ小さな学校が明星中なども行った。山岳班は上高地でテント生活、焼食料によって元気づけられた生徒は、又たから非常に厳しい教育でした。ただ厳し学校だった。岳登山などを行ったが、山岳班の目的地は年に一しきり飛廻る。綺麗な芝生の上で遊ぶ心いと申しましても体罰を加えるとか大声をなにしろ一学年四十名、一年生から五年よって異なる。学校班は学校内で補習授業やレ地よさ。よそに見る目も心地よい。張り上げるとかいうことではなく、常に誠生まで併せて二百名が、その生徒だったのコードコンサートなどを行うほか、学校内での午後は三時間。之が終わると又運動が始の心をもって生徒を指導する「ヒューマンだから、三角屋根の玄関を持った一棟の木作業として除草、潅水、芝刈、排水溝堀、大掃まる。自分の好きな運動をするのである。テタッチの教育」でありました。造校舎も、五教室で足りていた。そのほか除など、学校外では門前道路整備工事、大国魂ニスする者。ピンポンに熱中する者。『ポー「健康、真面目、努力」の校訓は私共の時に、講堂と剣道場が付属していた。神社清掃、多摩川河原テント生活と砂利採取・ンポーンピンポンピンポン』様々な音に代にはなく、「常に誠の心をもって接する」玄関横に職員室があり、その窓からは校水泳を行っているが、作業内容は年によって異又一しきりにぎわう。四時一切終わって皆と申されました。当時「修身」と言う学科が長の児玉九十先生が、登下校する生徒をやなっている。後には、学校外で動植物の採集を帰路につくのである。一週間に一時間ありまして、この時は九十さしく眺めている。正門から入って玄関の行う「採集班」や「図画班」も設けられ、学校班の『さようならさようなら』カバン片手に帰先生が自ら教壇に立たれたので、全校五ク近くに、薪を背負って本を読む二宮尊徳の中に気象係・気象器機作成部も編成された。9月る通学制の何と楽しげな姿だろう。ラスですから一週間に五時間は授業をされ銅像が立ち、生徒はその前で帽子をとって新学期開始時には、各班からの報告会が開かれ皆の帰った後は全く静かである。たのです。お辞儀をするきまりになっていた。た。夏の学校の活動は社会的な関心を呼び、1939校舎も元気なく沈黙して居る。その他、作業の時間があり、先生ご自身講堂では毎日全校生徒の朝礼が行われ、（昭和14）年8月5日には、夏の学校作業班の作業が生徒達の先頭に立たれて、雑木林の開こ児玉九十先生の発声で「心の力」の斉唱が行状況、多摩川原における5年生最終日の砂利採取生徒と先生の間の親しさ。之は全く他のんから草取りまでする徹底した勤労意欲育われた。作業について、作業開始時の生徒の宣誓文朗読、多くの学校の追従を許さぬ所であろう。成教育でありました。児玉先生は二百名の生徒すべての顔と氏教室を出た先生はもう先生ではない。年校舎の周囲は家一軒ない山林と畑でした名を熟知しておられた。だから、良いこと上の友達の如くである。世間話から昔話。生から在学中は外部との接触は全くなく、例でも悪いことでも、すぐに校長先生の知ると徒は腹をかかえて居る。之も生徒の少ないえば便所の排泄物の始末も総て生徒が行うころになる。生徒にとって、温顔に微笑を絶我が学校の特徴であろう。という今では考えられないことです。思えやさぬこの先生が一番こわい存在だった。明星学校。明星。其の名の如く、他の多ば之が真の体験教育であったと心から感謝（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、所収、75～76頁）数の星の中に立ち、比類なき光を放つ星でしています。それでも有名大学進学率は素あるのだ。晴しいものでした。これらはいずれも約70年後、1990（平成2）年武蔵野に咲く花。明星。明星。（四、一、二九）（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、所収、35～36頁、なお向山敏治は1931（昭和6）年3月卒業と記していることから、1927（昭和2）年に2年次生として入学したと考えられる）になって記述されたものであるが、これらの回想記によって創設当時の明星中学校の環境や校（『体験教育』第3号、1929年、所収、6～7頁）内の状況、学校生活の様子を思い浮かべることまた、若干後の時期になるが、明星中学校のができる。第1回夏の学校（水泳班）の様子（房州の北条海岸にて）CHAPTER1第1章082MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory083

## Page 043
![Page 043の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000043.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部校長訓辞、作業準備の様子、作業の様子などが実況音やアナウンサーの説明を交えて東京中央放送局から全国に放送された（『体験教育』第128号、1939年、3頁）。なお、この砂利は明星中学校南側の道路補修に用いるものである。このような夏の学校であるが、1941（昭和16）年夏には「時局下交通輻輳のため管外において行う訓練一切中止若くは延期」との指示があり、水泳・登山・採集・絵画の各班の行事が取りやめとなり、勤労作業のみになった（『体験教育』第152号、1941年、4頁）。学校行事としては、元旦、紀元節、天長節に野球試合など多彩な行事が実施された。課外活動としては、時期により異なるが博物研究部、吟詠部、謡曲部（都下学生連合謡曲大会参加）、自動車部などの活躍が『体験教育』紙上に紹介されている。学校外の行事としては、修学旅行・遠足が実施された。修学旅行・遠足の実施状況は年に依り、学年により異なり、特に創設初期は多様であった。1929（昭和4）年10月9日～16日に実務学校3年生が修学旅行として関西旅行を実施、後年生以下が旅行（2泊3日、大山・箱根・小田原方面）、5年生が修学旅行（6泊7日、関西方面）常会に参加することを得て、二宮尊徳の直弟子である岡田良一郎の教えを受けることができた。児玉九十が明星中学校校長に就任した1927（昭和2）年春に兵庫県立神戸三中校長近藤英也が学校参観に来て、明星中学校が二宮尊徳の報徳思想、実践躬行の精神を取り入れていることを知り、これを帰郷して神戸市の実業家・県会議員で二宮尊徳に心酔し、各地の学校にその像を寄贈している中村直吉に話したところ、中村直吉から明星中学校に二宮尊徳の少年時代の銅像を寄贈したいとの申し出がなされた。（『児玉九十自伝』209頁）。銅像は二宮尊徳14歳、金次二宮尊徳先生像除幕式寄贈を戴いたのである。は式が実施され、入学式、卒業式、卒業生送別になった。その後4年生が修学旅行として1週間会、創立記念日などの式も実施された。創立記程度の関西方面（伊勢・奈良・京都など）へ、5念日については節目となる年には比較的大規模年・2年・1年は近隣地への1泊程度の旅行に実施され、1932（昭和7）年の創立5周年時には、となる。また、毎年恒例の行事として兎狩り（小5月20日に教職員、生徒の外に星野家家族、法人宮村宇津木、現:八王子市小宮町）や社会科見学理事・監事、卒業生も出席した。式は凝念・心（新聞社・地方裁判所など）、梅見遠足（久地梅力歌斉唱に始まり、国歌斉唱、校長式辞、創立林・向ヶ丘遊園）も実施された。ただし、これら者星野鏡三郎祝辞、監事星野錫祝辞、祝電披露の諸行事は、その後の歴史の流れ、戦時体制のが行われ、凝念・心力歌斉唱で締めくくられた。強化とともに変化、中止せざるを得ない状況にその後、剣道場に新たに奉鎮することとなったなっていった。祭神の祭神式と剣道大会、大午餐会（講堂にて来賓ら約250名参加）、食後、校長挨拶・村上鋠吉報徳の教えと二宮尊徳像の設置理事挨拶があり、さらに余興として生徒演劇・児玉九十の「体験教育」という教育理念を形ピアノ演奏・講談、教員によるバイオリン演奏・作った基礎の一つに二宮尊徳の「報徳」思想、「実ゲストによる薩摩琵琶演奏があり、校歌合唱で践躬行」の精神ががあることは、自ら記述してい幕を閉じた（『体験教育』第41号、1932年、2～3るところである（前出『児玉九十自伝』208～209頁）。頁）。「報徳」思想とは、二宮尊徳が多年にわたる学校内の行事としては、運動会（当初は春季・農村更生活動などの社会活動の経験から生みだ秋季の年2回、後に秋季年1回に、種目に大国魂した考え方であって、その要諦は至誠（心を誠・神社往復マラソンもあった）、学芸会（プログラ徳・仁の状態におく）・勤労（至誠が行動に現れムには、朗読・英語暗誦・理科の話・理科実験・た状態として勤労に励む）・分度（無駄のない、贅英会話劇・独唱・合奏・独奏などがあり、研究沢をしない消費生活を送る）・推譲（至誠・勤労・発表会的な性格が強かった）、学期末全校大茶話分度の結果としての剰余を他に譲る）の4つの考会、創作品展覧会（当初学芸会と同日開催、図え方である。この考え方に基づく社会運動が展画・習字・製作品（模型・彫刻など）を展示）、剣開され、それをになう団体である大日本報徳社道寒稽古とその納会としての剣道大会、級別対が結成され、その本部が静岡県掛川におかれた。抗試合（野球・蹴球）、通学生対寄宿舎制の対抗児玉九十は掛川中学校在学中に大日本報徳社の郎時代の姿であり、作業着姿で薪を背負い手に二宮先生の銅像を中心に中村直吉氏、星持った書物を読みながら歩く姿であった。野先生、明星学校の教育精神と、何れを考1933（昭和8）年刊行の『体験教育』第8号には、えても現在の世相には至極美しき話で、真二宮尊徳の銅像除幕式について次の記事が掲載面目な而もすがすがしき気持がする。されている。此の銅像の斯くも由緒ある我校への来歴と、同時に一面識もない中村市から特に我「二宮尊徳先生銅像除幕式」が校に寄贈されたについては吾等全校職員体験教育の七月号で予報されていた二宮生徒は斉しく責任の重いのを感ずるもので尊徳先生幼児の銅像除幕式が七月八日午前ある。吾等は本校の主旨に依り一層の勤倹九時半より学校の前庭で大国魂神社神官司力行を励み、二宮先生の精神を体現し、寄祭の下に盛大に而かも厳粛理に挙行された。贈各位の御期待に対える所がなくてはなら此の銅像は昨秋の御大典記念として神戸ぬ。実践少年団長中村直吉氏より寄贈されたも此の日来賓として星野先生の代理正一ので、中村氏は現時の風潮に鑑み青少年に氏、星野夫人、武川農蚕校長、大藤府中学是非二宮先生のような勤倹力行の精神を喚校長、各新聞記者が列席された。起せしめたいと云う考から、御大典に際し神戸市各小学校へ此の銅像を寄贈されたのである。処が其後本校の実践主義、体験主義に共鳴せられて特別に追鋳して神戸第三（ママ）中学校長近藤苦也氏を介して特に本校に寄贈されたものである。右銅像の台石や据付工事は校友会でする事になっていたが、本校設立者星野先生は中村氏の快挙から銅像の我が校への由来に非常に共鳴されて、之が一切の据付工事費は勿論、台石の寄贈迄も是非自分にやらしてくれと仰言て、学校は御言葉に甘えて御（『体験教育』第8号、1933年、所収、3頁）銅像は正門を入った先、正面玄関の脇に設置され、生徒は登校・下校の際など前を通る時は礼をして、二宮尊徳の精神に思いをいたすものとされた。児玉九十は機会あるごとに銅像寄贈の事情・意義について話すとともに、時には「二宮先生の銅像に対する礼の不丁寧なる者ある由の注意出でたるが、若し然りとすれば、登校下校の際必らず礼拝して先生の偉徳と勤勉を偲ぶべき学校の趣旨に相反する事なれば、無意識的にも非礼に陥らざる様注意すべし」（「教務日誌」CHAPTER1第1章084MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory085

## Page 044
![Page 044の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000044.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部ことが必要であると考えた。そのため児玉九十は適度の費用を使うのは止むを得ない敎育は斯くあるべきもの、其の実現活躍は毎年の入学式で保護者に「新入生徒の父兄各位に対する希望」を述べることを常としていた。事としても、身分不相応な華美贅沢は（ママ）断然排折致したいと思います。は斯々、その結果は是々というた様な記事で、本校の日々活動のありの儘を此の小紙その内容について『体験教育』紙上では第4号、六、礼儀を重んじ、生意気を排し、奥ゆか面に現像させたいと思います。何卒、御気1929年に初めて掲載されているが、その内容（各しき紳士たらしむる事…吾が校に於て付の点は何なりと御示教、御助力戴きたく、項目の内容から抜粋）は次のようなものである。は知育、体育の徹底を期すると共に生切に御願して置きます。徒をして礼儀正しき、敬虔の念深き、人（『体験教育』第1号、1929年、所収、1頁）「新入生徒の父兄各位に対する希望」間味豊な、奥ゆかしき紳士たらしめた一、此の学校を親戚と思って戴きたい…教いと力めて居ります。『体験教育』の通常号はB5判8頁建て、月刊で育は先生（学校）、生徒、家庭、社会と七、結語…要するに学校家庭が一致協力しあった。刊行を重ねる中で学内刊行物の枠をこいう四つの力の合力から出来るものでて、皆様方の御子様を少しでも立派に教えるものとしての公益性が認められ、1929（昭和二宮尊徳先生像ありますから、此の四つの力が教育と育したいというのが切望で御座います。4）年6月24日付で第三種郵便物としての認可をいう一つの目的に向かって合致するこ（『体験教育』第4号、1929年、1～2頁）得た。主な内容としては、①校長児玉九十の教（『体験教育』第94号、1936年、所収）5頁）と朝のとが必要であります。育方針、教育問題・社会問題への論評、他誌紙凝念時などに注意を喚起していた。その後、1931二、不審は生徒の前で漏さず校長か先生に児玉九十は常に家庭教育、学校教育、社会教への寄稿や放送の原稿、②教育に関する情報提（昭和6）年1月29日には報徳教普及会主幹金原善お尋ねの事…学校の教育若くは施設に育のいずれをも重視し、相互に協力していくこ供などの教員の寄稿（例：海外教育事情視察報告三郎の講話「二宮尊徳先生について」を実施しついて、なにか不審でもある際は、生とが重要であると主張しており、後年『主婦のなど）、③学外者の講話の内容紹介、④学校行事て、二宮尊徳の思想を生徒に浸透させることを徒の前で発表しないで、必ず手紙なり、友』に家庭教育のあり方について連載し、これをを含む学校生活・寄宿舎生活の報告、⑤学校生行っている（「二宮尊徳先生について」（『体験教御来校下さるなりして直接御質ね願いまとめて著書『両親教育』を1936（昭和11）年に主活・学校行事・寄宿舎生活などについての生徒育』第26号、1931年、所収）2～4頁）。また、1931ます。不用意の批評を子供にきかせて、婦の友社から出版している。そのような考え方の作文などであり、「教務日誌」で学校の活動や（昭和6）年10月17日には児玉九十が開校十周年学校を信頼する念を薄からしむる様なの一環として、学校教育の効果を上げるために行事の様子も詳細に知ることができる点でも貴記念式に参列するため関西方面に旅行した途事は好ましき事ではありません。は学校と家庭の協力が必要不可欠であること重な資料となっている。しかし、その後の戦火中、中村直吉の自宅を訪問する（「関西旅行」（『体三、心身の変化に注意し其の原因を突きとを、毎年の入学式で保護者に呼びかけていたのの広がりの中で紙の調達が制限されるようにな験教育』第34号、1931年、所収）8頁）など、中村める事…生徒の心身の変化に就いて深である。り1941（昭和16）年9月・153号からは4頁に減頁、直吉との交流は続いてきた。甚なる御注意を願いたいのでありま1943（昭和18）年10月・177号を最後に突如休刊二宮尊徳像は他校などでは、金属の場合は太す。此の心身の変化に注意し、其の原『体験教育』の発刊の辞などなしのまま休刊となってしまった。戦平洋戦争中に供出の対象となったり、戦後に撤因をつきとめそれに対応する方法をと児玉九十は明星中学の教育理念や教育活動に中・戦後の混乱期を越えて1956（昭和31）年5月去される例も多く、今日設置している学校は少る事が教育上大切であります。ついて保護者、さらには社会に広報することが25日・178号から復刊、復刊後は現在まで刊行がなくなっているが、明星学苑では設置場所は変四、両親先生に対し秘密なからしむる事…必要であると考え、1929（昭和4）年1月1日に広報続けられている。更されたが、府中校内小学校北側に現在も設置両親、兄弟、先生に対しては一切秘密紙『体験教育』を創刊した。刊行の趣旨について、されており、明星学苑の園児・児童・生徒を日々なしという事にさしたいものでありま児玉九十は創刊号で次のように記述している。鮮満旅行見守り続けている。す。交友、金銭の使途、外出、信書の1930（昭和5）年7月17日から7月30日に5年生往復、読書等、青年期に近付くに従っ「発刊に際して」児玉九十18名が児玉九十・岩河信義の2名の教員の引率の保護者との連携て秘密にしたがるものでありますが、本校の教育方針及び日々の学校生活につ下、第一回鮮満旅行を行った。実現にいたる経明星中学校は創設以来、このように独自の教それは決してよくありません。何事もいて家庭の方々に充分理解して戴いて教育過について、児玉九十は「昭和二年四月本校開校育理念に基づく教育実践を展開してきたが、児打ち明け公明正大にさせる習慣をつけを一層徹底させたい、又本校敎育に対する当時、最上級の五年ができたら、朝鮮満州へ旅玉九十は十分な教育効果を上げるためには学校させたいものであります。一般の批判示教も仰ぎたいという様な考か行に連れて行こうと、漫談的に話したところ、生が努力するのみならず、保護者との間に望まし五、華美贅沢を禁ずる事…生徒を立派に仕ら、月々此の様な小紙を発行する事に致し徒は夢の世界の話でも聞くが如き様子で、喜びい関係、相互の信頼関係を築き、協力していく上げるために必要欠くべからざる事にました。はしつつも遠い話というような面持であった。CHAPTER1第1章086MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory087

## Page 045
![Page 045の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000045.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部其の夢でもあるかの如き話が実現して、愈々今夏、第一回鮮満旅行が行われた。」と記述していColumn3『体験教育』第1号第1面る（『体験教育』第20号、1930年、1頁）。海外修学旅行ともいうべき鮮満旅行には成蹊学園で実施していたという先例があり、児玉九十は1922（大正11）年と1923（大正12）年の2回、生徒を引率して経験していたことから、その意義を認めていたのではないかと考えられるが、児玉九十はその意義について、次のように記述している。CHAPTER1第1章第1回鮮満旅行「鮮満旅行を終えて」児玉九十一、本土を離れ、海外へ出る事の案外、億天着、奉天（炭鉱）・撫順（工場）・長春（都市）見劫でないという体験をさせたい。学、長春発・ハルビン着、見学、公主嶺・鞍山・二、異民族が多数、交錯して活動する実際湯崗子などを経て大連着、大連・旅順などを見に接して、国際心を自得せしめたい。学、大連出港、8月4日神戸港着・東京駅着後解三、日本歴史上に、未だ嘗て起らざりし大散というものであった。植民地経営という事を、吾々同胞が、充この旅行については、『体験教育』第20号、1930分成し遂げて居る事実を目撃せしめ、（昭和5）年8月刊に児玉九十「鮮満旅行を終え吾々日本民族は、處と資源を与えらるて」、第21号、1930（昭和5）年9月刊に児玉九十るならば、アングロサクソンやラテン「鮮満雑記」、岩河信義「鮮満旅行雑感」のほか、民族やスラブ民族等の地球上の他の優生徒の作文として、4年村松穀平「鮮満ところ秀民族に決して劣る事なき天賦の力をどころ」、4年木住野哲男「満蒙に於ける吾等の「体験教育」創刊号（1929年1月1日発行）十分持って居るという民族偉力の自己発見をせしめたい。使命」、4年清水博太郎「満州視察の感想」、4年近藤守廣「東支鉄道でハルビンへ」の4点が掲載四、二十五年前、護国の為に生命を擲ったされている。また、10月3日に開催された展覧会第1号（1929（昭和4）年1月1日発行）の内容は次の通りである。同胞の霊を吊い、国家繁栄の裏面には、には、鮮満旅行生徒による「鮮満展覧会」として発刊に際して体験教育の提唱明星中学校寄宿教育の方針並に舎則英国の国産奨励を見て御大礼奉祝会催諸記事教練査閲児玉九十児玉九十何時も斯くの如き人柱のある事を知らしめ、感謝報恩の念を強からしめたい。等、数え挙げれば際限がないが、以上の四点の如きは本校が鮮満旅行を企てた最も重要な主眼点である。鮮満の風俗や産業を展示、狭い会場に広漠たる満州の大平原を現出、支那街の背景画のもとに土産品・満鉄からの後援出品・家庭からの出品を展示し、満州の概要をとらえたと評された（『体験教育』第25号、1931年、3～4頁）。寄宿舎のあけくれ岩河御親閲中二村松穀平半月峠のをちこち中三速水信夫御大典のどよめき関西旅行期日光旅行記中一月江並実三小川泰三中二関義治（『体験教育』第20号、1930年、所収、1頁）このような目的をもって実施された鮮満旅行であるが、その日程は資料によって記載内容に若干差異があるが、7月17日東京駅発、18日下この鮮満旅行において生徒達はどのように見、どのように感じ、どのように考えたのか、作文の一部（抜粋）を次に示す。「鮮満ところどころ」（抜粋）小学校八百リレー決勝中一編輯後記鈴木欽治関着・暴風雨のため関釜連絡船欠航・下関泊、19日下関出港・釜山着、京城に向け出発、京城・四年村松穀平釜山に上陸して、先づ強く感ぜられたの仁川・平城・新義州などを見学、新義州発・奉は市街の日本化である。此の点京城も同じ088MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory089

## Page 046
![Page 046の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000046.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部であるが、全（ママ々）朝鮮の感はなく、總ての点処に新開町村が発生しつつある。130～131頁）。明星中学校生徒の作文を見ると、“思い出を語る会”」には上記の者と一部重複すに於て内地の中流都市に外ならないと思わ（『体験教育』第21号、1930年、所収、5／7頁）「日本人の偉大なる力」を認識すると同時に、「支るが、留学生の名前として、フィリッピンかられる。無論こうして日本の勢力の伸びて行那人特有の根強い力は偉大だ」という認識も示のアマド・カヤビヤブ、ハワイからの二世であくのを見て歓喜の情が湧かぬでもないが、一方、教員は生徒たちの受けとめ方をどのよされ、単純な日本人優位論に陥っていない。さる青野、吉村、宮越、ボルネオからの折田兄弟、幾分好奇心を懐いて渡鮮した我々にとってうらに捉えていたのであろうか。引率教員であらに「現在の満蒙は唯日本人の活舞台ではない。満州からの津未、近藤、板倉、大塚、井口、熊は、餘りの平凡なのに失望せぬでもなかっる岩河信義と児玉九十は次のように記述してい世界の活舞台として各国の注目を引き各国の競沢、青島からの豊島、朝鮮からの増田、アメリた。然し此の地を現今の地位迄にするにはる。争戦は今将に展開されんとしつゝある」というカからの生田兄弟、信田、山本、アルゼンチン甚大なる努力があったろう。京城の朝鮮神国際情勢の認識も示されており、成田隆一が指からの古田など多くの名が見られる。座談会に宮にしろ、総督府にしろ、政府の一手段な「鮮満旅行雑感」（抜粋）岩河信義摘した傾向以上により深い考察がなされているおける発言であるため、これらの留学生が在外る事は容易に観破する事が出来る。南山の中学生としては実に所謂鵬程万里の異域と理解することができる。日本人の子どもであるのか、二世なのか、外国歴史を考えても、単に位置の良否を以て神の旅行である。例えその感想の発表に於てこのような意図で始まり、一定の教育的効果籍なのか詳細は明示されていない。一例として、宮を建てたのではない事を知る事が出来、劣るとも各人は精神的に多大の収穫を齎しがあったと評価された鮮満旅行であるが、翌大塚春忠は、『体験教育』第164号、1942（昭和17）又王朝盛んなりし頃の遺物たる景福宮の前ている事は事実である。年齢から云っても1931（昭和6）年9月には柳条湖事件を契機として年刊、に掲載された作文「帰省」には、家族は満に、西洋文化の粋を極めた大建築を成した心的状態から考えても一生中重要なる転換満州事変が始まり、実施することが困難となっ州・新京に居住しており、その家庭に帰省した事の内容をも考え得られる。總てこうした期の一行が、あの広大無辺の満州の原野をて、2回目以降は実施されなかった。という内容を記述しており、この例は海外在住苦心あって現在の朝鮮と迄成し得たのである。書物で見た時よりも、目前にこれを眺めて一層其の感が深い。望み、邦人の活動、施設を見、支那人の活気を眼のあたり見ては、皆夫々の個性を透した深い感銘が胸底に蔵せられているので【注：「満州」「支那」など現在用いることが不適切な用語が含まれているが、本稿は歴史的記述であり、引用した原文に従って当時の用語を使用していることを了解されたい。】日本人の子どもが寄宿舎のある明星中学校に入学していた例であることがわかる。こうした国際的な視野を持ち、留学生を受けある。留学生の受け入れ入れていた経験が1943（昭和18）年からの満州在「満蒙に於ける吾等の使命」（抜粋）鮮満旅行を通じて生徒の国際的な視野を涵養任日本人官吏子女の受け入れ、さらに1960年代四年木住野哲夫「編輯後記」しようと考えた児玉九十、明星中学校であるが、からの海外日本人小学校の受け入れにつながっ静寂そのまゝの大曠野に轟々たる音響を鮮満に於ける日本人の活動、特に大満鉄同じ観点から明星中学校では留学生の受け入れていくと考えることもできる。残して猛進する満蒙列車。の溌剌たる大活躍を見て日本民族の偉大なも積極的に行われた。『体験教育』紙上に留学生満蒙に於ける日本人の勢力は実に斯の如る底力については充分識得が出来たと思い受け入れの記事が初めて掲載されたのは、第45校旗・校歌の制定きくものである。ます。同時に支那人の偉力も認識し、国際号、1932（昭和7）年9月刊、であり、カナダ・バ明星中学校では、1930（昭和5）年に1年生から大曠野に唯一人、全線六百九十五哩に及競争についてもわかった様であります。病ンクーバー生まれ、カレッジ1年修了の小林實が5年生が揃い、完成年度を迎え、校旗・校歌を制ぶ鉄道の経営はもとより、埋蔵炭量実に十気其の他、何一つ故障なく旅行を終り、帰っ大学を一年休学し、日本に留学して日本精神を定しようという機運が高まってきた。その中で、餘億噸といわるゝ撫順大炭鉱の採掘権はいて後、疲れの出た者もなく、大成功であり研究したいという目的についての教育を依頼さ5年生から卒業記念として校旗を制定・製作し、うに及ばず、極東貿易の権威たる大連築港、ました事は申す迄もありませんが、旅行のれ、1932（昭和7）年9月から1934（昭和9）年6月寄贈したいとの申し出があり、実現することなっ又は各都市の建設に、改良に、農業に、工内容に於ても充分収穫を得ました。（淡岳）まで在籍した。その後、1933（昭和8）年9月にはた。その事情や、1930（昭和5）年10月23日に実業に、あらゆる方面に其の力を傾注して、過去二十餘年の間に現在の如く満蒙を開いた（淡岳と記名されているが、これは児玉九十の雅号である）（『体験教育』第21号、1930年、所収、2／8頁）アメリカ・ハワイから青野質、吉村定二の2名を受け入れたほか、桐生正巳、信田一義らをハワ施された制定式について、『体験教育』第25号、1931年、紙上には次のように記述されている。日本人の偉力は世界の人々を驚嘆させずにイから、アメリカから聴講生宮城正志を受け入は置くまい。嗚呼吾々日本人は偉大なる力成田龍一は1914（大正3）年に中国（上海、南京、れたなどの記述が散見される。また、1940（昭和「校旗制定式」を所有する民族である。底力のある民族で「満州」）と朝鮮に修学旅行に出かけた広島高等15）年9月には、満州国（当時）特別留学生として本校に於ては、校旗と校歌は一年から五ある。師範学校生徒の作文集『大陸修学旅行記』を分析呂洪凱を受け入れ、フィリッピンからアマド・年迄全学年が揃ってから作る方針になって而して赤裸々の満蒙にも文化の風潮は次して、それを手がかりとして「二〇世紀の日本のカヤビヤブを受け入れている。居た。それは此の両方共、当校精神が生徒第と流れて原野は切り開かれて小部落を、人びとは、こうした帝国意識が瀰漫している」こ『体験教育』創立50周年記念特集（1973（昭和48）を通じて躍動して居る処を象徴したかった小部落から一村落を都邑を、いう風に到るとを指摘している（成田龍一『大正デモクラシー』年11月刊）に掲載された「旧制明星中学校寄宿生からである。そして又、吾等の学校というCHAPTER1第1章090MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory091

## Page 047
![Page 047の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000047.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部念を強からしめるために、全学年が揃って依頼することとし、東洋音楽学校（当時、その後制定式をあげたかったのであった。東洋音楽短大、東洋音楽大学を経て現：東京音Column4明星中学校校旗第一回の大旅行たる鮮満旅行も終り、愈々着手しようとして居る処へ、不図、五楽大学）の創設者で校長である鈴木米次郎（1868（慶応4）年～1940（昭和15）年、音楽教育家・作年級から卒業記念に校旗を寄贈したいとい曲家・東京フィルファーモニー会主宰者などとう議が起り、爾来四ヶ月を費やして十二月して活躍）に依頼し、1931（昭和6）年1月に完成二十日完成し、二十三日朝贈呈式があり、続した。いて同日十時半、大国魂神社神宮司祭の下完成した校歌の発表は、『体験教育』第26号、に最も厳粛なる制定式が行われた。1931年刊、の「教務日誌」に記述されているよう本校の新校旗は斯様にして生まれたものに、「二月四日（水）、曇後小雨、校歌発表、岩河で極めて意義深いものである。先生原作者として歌詞朗読、歌曲は東洋音楽学朱色の塩瀬に金モールで校章を縫い出校長鈴木米次郎氏の作なる旨発表。」された。まし、その左右には大小五個の銀星が配してた、「五日（木）、細雨、本日より能先生指導の下ある。一年から五年迄明星章を中心に一致に、各学年共校歌の練習をなす。」と記述されて団結して校風をあげるという事を示したもいるように、生徒たちは練習を重ね、校歌になのである。朱色は明星健児の意気と赤誠をじみ、2月11日の紀元節の式後校歌斉唱を行い、表し、荘重にして而も明るく、且つ上品に事実上の発表会とした。その後3月10日の第1回出来ていて、徹頭徹尾魂がこもって、一見卒業式でも斉唱され、以後様々な式日などで歌襟を正さざるを得ない。われるようになった。この校歌は「くぬぎ葉萌ゆこれ全く至誠以て一貫している経過そのる」の愛称で長く親しまれてきており、第二次世明星中学校校旗（旧：5つの星付き）明星中学校校旗（1930年制定）ものが示す当然の結果であるが、校風が如実に現われ欣快の至りである。界大戦後の学制改革を経て創設された高等学校男子部の校歌となり、現在は明星中学校高等学吾々は此の校旗の下に一層奮励努力して校の校歌となっている。校風の充実を計らねばならない。明星中学校校歌作詞岩河信義作曲鈴木米次郎（『体験教育』第25号、1931年、所収、5頁）教育課程の改定と定員増一、櫟葉萌ゆる武蔵野に北斗をつかん意気高き正義真理の殿堂は明星健児の学び舎ぞなみ三、行手の波濤は高くともとわ歴史を永久にかざるべき理想を貫く信念はれいろうふよう玲瓏芙蓉とゆるぎなしき二、我が日の本の精神をうけてよき外つ国々の長を取り人たる道を本領と吾等の主義は新日本四、多摩の流れとよどみなく言行一致の若人が団結此処にたぐいなきあか明き誠の道ぞふむ『体験教育』にはこの記事に続いて、「校旗贈呈の辞第五学年総代森谷歳雄」、「校旗制定式の祝辞生徒総代橋本武雄」が掲載されているが、いずれも校旗を明星精神の権化、表徴、淵源ととらえ、今後この旗の下に一致団結して、校風を発揮していくべきことを記述している。校歌についても、1931（昭和6）年3月の卒業式を目途として制定に取り組むこととし、1930（昭1931（昭和6）年1月10日付、文部省令第2号、改正中学校令施行規則によって開講科目の規程が変更され、それに対応して明星中学校でも次頁掲載の表のように学科目・家庭・事業時数を改定した。これを旧課程と比較してみると、公民科、音楽、作業が増設されたが、国語漢文、英語、数学、理科については時間数を減少している。教育課程の変更に伴い新設科目を担当する教員を充みょうじょう五、見よ学天の明星はたかひかり崇き星光を放つなり和5）年9月頃から準備に取りかかった。作詞については明星中学校の教育に携わり、その教育足すること、授業時間数の減少する科目担当教員を専任として維持することなどから、入学定員雄々しく進め諸共に咲けよ万朶の花のごと理念などを十分に理解している現職教員に作成してもらうこととし、岩河信義が作詞、制定委の増加を行うこととなった。定員増についての文部省宛申請書、その理由を説明する添付資料とし員会を経て決定した。作曲については専門家にての理事会決議書写しは次の通りである。CHAPTER1第1章092MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory093

## Page 048
![Page 048の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000048.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部み「学科目、課程及毎週教授時数表」校地・校舎の拡張70号、1934年、6～7頁）。歴史地理33333の明星実務学校設置願には校地4,614坪7合09勺年、中学校校舎・講堂増築と記載している。ま学科目＼学年時数修身第1学年毎週授業時数1第2学年毎週授業時数1第3学年毎週授業時数1第4学年毎週授業時数1第5学年毎週授業時数1明星実務学校の創設、明星中学校の創設、学級増などに対応して、校地・校舎の拡張が進め『創立六十周年記念誌』には、「校舎等沿革」と題して年表形式で、1923（大正12）年、実務学校公民科22られてきた。校舎建設、1925（大正14）年、実務学校校舎増築、国語漢文76655校地の拡張について見ると、1923（大正12）年1929（昭和4）年、中学校校舎増築、1934（昭和9）英語数学理科532533653644644（約15,226㎡）、1927（昭和2）年の明星中学校設置願には校地4,558坪04勺（約15,041㎡）、1934（昭た、「発展のあと」と題して校地・校舎面積の変遷が記載されているが、そのうち太平洋戦争終了図画11111和9）年の明星中学校定員増申請書には6,916坪5直後までの校地・校舎面積の変遷は次の通りで音楽111作業22111体操55555計3030323232（東京都公文書館収蔵「明星中学校定員変更申請書」、縦書きを横書きとしたため「同上」を「同左」に、漢数字を洋数字に改めた）「明星中学校生徒定員変更申請書」本財団法人設立明星中学校生徒定員は現在弐百名（一学級四十名宛五学級）に有之候処、今般別紙添附理由書具申の理由に依り、壱百五拾名を増加し、全校定員参百五拾名（一学級三十五名宛十学級）と致し、昭和九年四月より実施致したく候間、御認可被下度、理事会決議書写、定員増加の理由書、収入支出予算書、校舎平面図を附し、此の段申請候也。昭和八年十一月八日東京府北多摩郡府中町貫井前一二二五七財団法人明星中学校正中学校令施行規則によれば学科目の増加改廃行われ、従って各学科の毎週授業時数変化し（概して各学科の時数減じたり）本財団設立の明星中学校の現制の如き単級制度（全校にて五学級）に於ては、教員の配置上不便多し。依りて複級（全校十学級）になし、教員の配置に過不足なからしむるを要す。然れども生徒員の増加は教育の徹底上出来得る限り之を避くる必要あるを以て、現在定員弐百名に対し百五十名を増し、定員を参百五十名になし、一級三十五名（現在一級四十名より五名減）となすことを適当と認む。昭和八年十月二十五日理事児玉九十㊞文部大臣鳩山一郎殿財団法人明星中学校の理事会決議書に記述されているように、できる限り専任教員を確保し、「理事会決議書写」（抜粋）一、主務省の認可を得て、本財団報人設立の明星中学校生徒定員弐百名（一級四十名宛五学級）を参百五拾名（一級三十五名宛十学級）に変更すること。その教員間の授業時数負担の平均化を図るという人事上の配慮と、明星実務各校以来伝統として来た少人数教育という教育理念をどのようにして調和させるかということを考え、その結果学級数は増加させるものの、一学級あたりの定員を減ずるという方針に至ったと理解される。（理由）昭和六年一月十日附、文部省令第二号改合（約22,822㎡）と記載されている。この間、1934ある。（昭和9）年には理事星野正一より西隣の土地1500坪（約4,950㎡）が寄贈され、7月末には登記年度校地面積（㎡）建物面積（㎡）が完了したとの記事「校地拡張」が『体験教育』1923（大正12）年13,5001,855（第68号、1934年、12頁）、に掲載されている。1927（昭和2）年13,5001,950校舎の増築について見ると、1923（大正12）年1937（昭和12）年24,3992,844の明星実務学校設置願には、本館166坪（約547.81947（昭和22）年43,1462,844㎡）、講堂50坪（約166㎡）、寄宿舎129.5坪（約427.3㎡）など、計7棟、429坪（約1,415.7㎡）と記載されており、1934（昭和9）年の明星中学校定員増申請書には、校舎101坪2合5勺（約334.1㎡）、講堂20坪（約66㎡）など、計5棟、146坪7合5勺（約484.2㎡）を増築したと記載されている。この増築工事は、1934（昭和9）年7月6日に竣工し、引き渡しが行われ（『体験教育』第67号、1934年、8頁）、1934（昭和9）年9月7日には新校舎落成祝賀として、新校舎では第7回展覧会（絵画・習字・製作品・標本・写真などを展示）を、増築された講堂では学芸会（朗読・講話・唱歌・暗誦・剣舞・英語暗誦・ピアノ独奏・劇など）を開催し、全校をあげて完成を祝っている（『体験教育』第講堂の掃除（『創立六十周年記念誌』1983年、26頁、なお、上記の数値と若干の差異がある）寄宿舎生活明星実務学校創設以来、寄宿舎生活を通じての教育指導を教育理念の一つとしてきたが、この考え方は明星中学校となっても変わらずに受け継がれており、児玉九十は『体験教育』紙上で第14号、1930年）、「ヒューマンタッチの教育としての寄宿舎教育に就いて」（第97号、1937年）など、寄宿舎生活の意義を繰り返し記述している。入学定員の増加や近隣からの通学生の増加などによって全員が入寮することにはならず、1930（昭和5）年の入学式の校長挨拶の中では、「私は五十人の寄宿生と百五十人の通学制を預って居る」と述べており、在学生の4分の1程度が寄宿舎生活を送っていたと推測される。寄宿舎の建物については、増築・改築など変遷があり、資料によって記載に若干の差異があって、明確に捕えがたい点がある。実務学校創立時には木造平屋建の逆「コ」の字型の建物であり、北棟・西棟（合わせて165㎡）・南棟（82㎡）CHAPTER1第1章094MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory095

## Page 049
![Page 049の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000049.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART1第1部CHAPTER1第1章学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史便所Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年Column5明星中学校校舎増設寄宿舎〈略〉準生徒図書室講堂（増築）講堂屋内体操場太線部増築・改築部分理科、機械標本室理科教室実験室兼用（増築）博物教室教室教室校長備室・暗室応接室便所教室教室教室教室生徒昇降口玄関教室1学級、全5学級の増設のために、既設校舎の東南方に普通教室室各学年5室を増設したが、1学級定朝の校庭で駆け足する紙上の記事が見られ、部屋割に変遷があったと理解される。寄宿舎における生活について、『体験教育』第2此の間、私共は小鳥のような軽快な□□になって静かに楽しい朝餉の合図を待つ。（□部分は欠損のため判読不能）号、1929年、は寄宿舎特集ともいうべき内容に教室なっており、長文の舎監（教諭）岩河信義「舎監「冬の黙祷」中一青木豊富教室室より」（4～6頁）のほか、次の生徒4名の作文が掲載されている（7～8頁）。おや今まで静に我家の夢を見て居た若者は俄に寮を騒がし出した。まだ十四五歳の教室少年等は、起床と聞いてはじっとして居な1933（昭和8）年作図教室「寮生活の朝」中三下村徳市バン、バン、バン、バン………起床の合い。『オイ、縁側に居る人。霜はどうだい』と部屋からどなる。『やあ厚いぞ、早くこいよ、（東京都公文書館収蔵「明星中学校生徒定員変更の件」内の「明星中学校校舎平面図））明星中学校校舎平面図（1934年の定員増に対応する増築後）図が闇の静寂を打ち破って私共のやすらかな夢路をさます。これから一日の活動が開始されるのだ。私共はいつも無言の中に手もう始まるぜ』と大声でどなって居る。時計を見ながら眠そうな顔をして『黙祷だ、早く行って下さい』。部屋の電灯を消す早く洗面掃除をすませる。五時半と云えばが早いか、一せいに校庭に跳出す。霜は真員が35名と少人数のため、既存の普通教室（4×5間＝20坪、約66㎡）より小型化（3.5×4.5間＝15.75未だ暗い。そして起るのは少し苦しいけれ白に降って足跡がのこる。『スーウ』『おゝ寒坪、約51.9㎡）している。また、講堂を拡張するとともに、理科教室・準備室（暗室）、生徒図書室を増築した。ど輝いた健康への試練としてみれば耐え忍べる。やがて六時になると墨絵のようなグい』。天には月がまだ光々として居る。嗚呼何と気持ちの良い事だろう。市内の七時八ラウンドの周囲を背景として駆足が始ま時と眠てごろごろして居る『モヤシ』連中にる。校長先生を先頭に私共は一列に後に続此の気持を味わせてやりたい。からなり、北寮（北棟と西棟を合わせての名称と門近くの建物を寮として利用したが（次の生徒く。ほの白いあたり一面の霜柱を踏みくだこんな事を考えながら、皆の集まって居考えられる）・南寮と呼ばれた。1928（昭和3）年の作文で「旧北斗寮」と記述されているのは、こきながらザクザクザクと朝の新鮮な大気をる所に行く。校長先生は御宅からいらっには、北寮・南寮を移築して1棟（215㎡）とし、の寮と推測されるが）、新「北斗寮」開設とととも肺一杯に呼吸しながらポッカリと暖かくなしゃった。いよいよ駆足だ。先生の目をぬ「北斗寮」と命名、残された中央棟部分は「松下に寄宿舎としての使用は取りやめられた。原則るまで。駆足が了わると庭球コートの上ですんでポケットに手を入れる。なんと寒い寮」と命名した。1930（昭和5）年に北斗寮の北に的には、この4寮体制（『児玉九十自伝』206～207宮城の方に向い心で黙祷する。總ての幸い事だろう。耳なんか無いと同じだ。此がす1棟（木造平屋建82㎡）新築し、「啓明寮」と命名頁）が第二次世界大戦直後の廃止まで続いた。寄をお祈りし一日を真面目に努力することをむとこんどは黙祷だ。宮城に向って陛下のし、さらに1933（昭和8）年に向かい側に1棟（木宿舎は1室4名を原則としたが、1929（昭和4）年陛下にお誓いする。それから改めて朝の□万歳、国家の安泰、両親の健康を心中で陛造平屋建174㎡）新築し、「三省寮」と命名した。こ4月には1室に1～4年生4名、1932（昭和7）年4□□云い合う。かくしてその日その日のエ下に祈り、今日一日の正活動を陛下にお誓れ以外にも初めは職員住宅として建築された正月から学年ごとに1室としたという『体験教育』ネルギーが養われる。此の後は暫時の休□。するのである。096MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory097

## Page 050
![Page 050の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000050.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部に実施した。み「夜の自習」中一早川博宣と描き出し、これによって当時の雰囲気を思いと最上級生としての態度、入学試験準備等に就自習だ―寄宿の夜の自習。隣の室では、誰いても感慨深く思い出されており、第2回卒業生ことが理解される。このような行事だけではな行した。式次第は次の通りであった。時計の音が、カッチンカッチンと寂しく浮かべることができる。寄宿舎生活は生徒にき御注意があった。其の他色々の話合をなし八当日は、テニスコートに天幕を設置して1,000室に響く。とって印象深いものであり、1990（平成2）年に刊時散会、直ちに凝念に行く。（啓明寮高倉林太名収容の椅子席を設けて会場とし、600名を越え時々櫟の林をがさがさと木枯らしが吹き荒ぶ。行された『児玉九十先生を仰ぐ』に掲載された卒業生の記述の中でも、卒業して長い年月を経て郎）」と記述されており、この茶話会が懇親の機会であると同時に、指導の役割も果たしていたる来賓を迎えて、生徒・教職員・卒業生も出席して、午前9時より創立10周年記念祝賀式を挙かが話をしている。次第々々に大きな声になる。分った。新潟生れの安藤君と那須の清水君との御国自慢だ。新潟だ。いや那須だ。スキーが出来るか。温泉があるか。御国自慢の争いだ。『ガラガラ』と玄関の戸が開く。校長先生がお出でになった。御国自慢はハタと止んだ。………………校長先生がお帰りになると又始る。終いにはそれにもあきて、又元の静けさに帰る。此の静けさを我者顔に時計の響きと櫟の林が語り続ける。舎生は自習に余念がない。大前肇、第5回卒業生石原重徳、第7回卒業生九里光、第9回卒業生野村義弘など多くの卒業生が寮生活を回顧している。中でも野村義弘は、板木、朝の駆足、ホタル狩り、試胆会、差し入れ、夜食の買い出し、便所掃除、運動、病気など項目を挙げて詳しく思い出し、記述している。寄宿舎生活を彩るものとしては、学校行事とは異なる寄宿舎のみの行事が実施されていた。春は新入寮生歓迎会（新入寮生・父兄と会食、名乗り会）に始まり、花見（小金井堤など）、夏はホタル狩り（多摩川）、試胆会、秋は月見遠足、茸狩り・栗拾いなどが実施されていた。また寮対抗試合（野球・庭球・籠球・陸上競技・総合競技）「旧北斗寮の思い出」中二大前肇や、寮生対通学生対抗試合も活発に実施されていた。寄宿舎に生活する生徒にとって大きな楽入学当時の懐かしい北斗寮。僕はそれを思うと色々な事が頭に浮んで来る。夜になると便所に行けないで、多くの者しみであったのは、校長宅で茶菓のもてなしを受け、懇談する会であった。この茶話会について、児玉九十は次のように記述している。が便所の前に列んで便所の中の人のお化番をしていた事や、先生の室に集って化物の話に花を咲かせていると、皆の顔が真中に集って来て皆だまって終う事など、今思い出すと実に面白い。こういう時は少しの音でもずいぶん大きく聞こえ、ふすまのかたんかたんという音は人のあるく音の様に思われた。丁度其の時、先生が「やっ」と一声気合を掛けられると、皆一せいに飛び上った事や、寝すぎて黙祷に出なかった事。又一ヵ月に一、二回ずつ私の宅に十二、三人位ずつ招いての茶話会は寄宿舎のおやつなどより若干上等のお菓子、果物、おすし、紅茶などが出ると言ってとても楽しみにしていたようでした。残ったお菓子や果物があると、自室のお友達へのお土産だと言って、にこにこしながら持って帰るいじらしさは、今でも眼に見えるようで、実に楽しい思い出であります。芝生で野球した事を思い出すと、あの小さ（『明星ものがたり』1976年、33頁）い一家同様に楽しく暮した北斗寮の一年に今一度帰って見たい気がする。生徒は『体験教育』掲載の「寮日記」で、「四月四日六時五十分より、啓明寮生一同、校長先生いずれの作文も当時の寄宿舎生活を生き生きのお宅へ招かれ、茶菓の御馳走になりつゝ懇々く、寄宿舎の回覧誌『みなかみ』も刊行されていたとの記録（1929（昭和4）年9月）もある。このように明星教育の一特徴をなし、寄宿生（昭和22）年3月に、第二次世界大戦後の食糧事情の逼迫により閉鎖せざるを得なくなった。児玉九十はこの時期の事情について、後年になって次のように語っている。食糧事情からどうにも維持できなくなったんでね。あの時分は、ぼくはもう、みんなの顔ばかり毎日見ていたんですよ。食べられる野草を探して歩きましてね。ほんとうに情けない状態になって、ちょっと生命の危険さえ感ずるようになってね。ヤミ買いをすりゃあいいのだけれども、なんとしても、道徳を説いて、うらに廻って、ヤミ買いをしているというんじゃ……。みんなの布団にも困ったね。（略）それで遺憾ながら寄宿舎を閉鎖するということになったわけです。（「思い出を語る会旧制明星中学校寄宿生」（『体験教育』創立50周年記念特集、1973年、所収）9頁）創立10周年開校記念日祝賀会1927（昭和2）年に明星中学校が創設されてから、特徴ある教育実践を展開し、年月を重ねて1937（昭和12）年には創立10周年を迎え、祝賀行事が盛大に実施された。明星中学校では、そして今日の明星学苑も、1923（大正12）年に明星実月20日を創立記念日としているが、この年の創立記念祝賀行事は、出席者の便宜を考え日曜日である5月23日創立10周年記念祝賀式生徒、卒業生、職員、来賓、校旗入場凝念、心力歌第一章開式の辞君が代奉唱創立者故星野先生胸像除幕星野鏡三郎孫、星野和子徐幕学校沿革報告学校長式辞児玉九十来賓祝辞全国中学校長協会代表東京府立第一中学校長西村房太郎全国私立中等学校連合会幹事長荒川五郎府中町長桑田祐栄神宮家庭寮長森本泉父兄代表祝辞父兄総代福田稔卒業生代表祝辞明星同窓会総代森谷歳雄在校生代表祝辞生徒総代平井次郎勤続職員表彰記念品贈呈謝辞校歌合唱CHAPTER1第1章098MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory099

## Page 051
![Page 051の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000051.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部る。さらに、生徒の作文9篇・詩（「創立十周年の破し（柳条湖事件）、これを中国軍の仕業として校教諭河合一郎、静岡県庵原中学校教諭熊明星中学校」第5学年高柴孝明）・短歌・寮日誌軍事行動を開始し、「満州事変」が始まった。満州谷孝などの教育者をはじめ、日本青年協会伊などが掲載され、祝賀気分のあふれる内容と（昭和7）年藤文次郎、保導協会主事稲田良助、多摩少年なっている。このうち、第5学年小山鑅造の短に清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建院長小川恂蔵など青少年指導機関の職員、さ首である。国（1934（昭和9）年帝政に移行、溥儀は満州国皇らに陸軍省新聞班少佐大久保弘一、陸軍省大み帝に就任）したが、これに対する中国の排日運動佐名、海軍少佐野村などの軍人も明星中学校創立10周年記念式挙行凝念、心力歌第八章閉式の辞校旗、来賓、職員、卒業生、生徒退場祝賀記念式に続いて、運動場に設置した600名を収容する天幕を会場として祝賀会を開催、来賓に対して祝賀の食事を供した。さらに、午後1時より3時まで、講堂を会場として学芸会を開催、生徒による詩吟、謡曲、明星アンサンブルによる音楽演奏などを行ったほか、ゲストとして招いた大宮大洋による奇術、西村小楽天による漫談が披露された。この間、新校舎各教室を会場として製作品展覧会を実施し、習字や図画などを展示、寄宿舎においても各室を装飾して公開した。『体験教育』102号を6月15日付で特大号、12頁として刊行、児玉九十「十周年記念号発刊に際して」を巻頭に、記念祝賀式における校長式辞・来賓祝辞・父兄総代祝辞・生徒総代祝辞、教員である岩河信義「明星十年の回顧」、加賀谷篤一郎「記念祝賀式前後」を掲載した。岩河信義は「明星十年の回顧」の中で、中学校創設時には1・2年合わせて約80名、実務学校2・3年生合わせ約50名から出発し、現在10学級、生徒360名、職員22名、入学志願者も80名前後から1937（昭和12）年名と増加したこと、校舎・運動場・寄宿舎の整備充実状況などを詳しく記述してい櫟葉の若芽燃え立つ春の日もは激化し、上海においても日中両国が衝突（第1視察に来訪している。所属・職名の記載がないくれない紅燃えし秋も幾とせ寿ぎて学び舎めぐる櫟葉に日はうらうらと山鳩のなくはぐくととせ育みし十年の影を武蔵野のおきな空に放ちて翁ほほえむ星一つ高くさやかに輝けり櫟の葉ごしに学び舎の上悠久の星の光をしるべにて我等は進まん荒波の世を（本項の内容は全て『体験教育』第102号、1937（昭和12）年刊による）1927（昭和2）年に明星中学校が創設されてから、1937（昭和12）年に創立10周年を迎える間、明星中学校は独自の教育理念に基づく教育実践を日々積み重ねて順調に発展し、卒業生を送り出し、社会的な評価を得るようになってきた。しかし、明星中学校を取り巻く日本社会の状況は、この10年間に太平洋戦争にいたる軍国主義化の道をたどっていた。1927（昭和2）年には国内において金融恐慌に見舞われるなか、日本人居留民の保護を名目に親日派の満州軍閥張作霖を支援しようとして中国山東省に出兵（山東出兵、1928（昭和3）年まで3次にわたる）、1928（昭和3）年には陸軍関東軍の一部に張作霖を排除して満州を直接支配しょうするという動きが顕著となり、奉天郊外で「張作霖爆殺事件」を起こし、これを契機に軍事行動を起こして満州を占領することを意図したが失敗に終わった。張作霖の死後、その子張学良が後継者となり中国東北部も国民政府に帰属したが、これに対して関東軍は1931（昭和6）年には奉天郊外柳条湖において南満州鉄道の線路を爆次上海事変）した。1937（昭和12）年には北京郊外の盧溝橋において日中両国の衝突事件が発生（盧溝橋事件）、これを契機として日中の全面戦争に発展し、1945（昭和20）年まで続く長期戦となった。明星中学校創設からの10年間、日本はこのように海外への侵略を図る軍国主義化への道を歩んだのであり、1941（昭和16）年開戦の太平洋戦争も含めて、このような日本社会の動向は明星中学校の歩みにも大きな影響を与えざるをえないことになったのである。体験教育への注目と児玉九十の活躍明星実務学校・明星中学校の独自の教育理念である「体験教育」とそれにもとづく教育実践、その主導者である児玉九十に対しては、10年間の実績もあって、教育界はもとより広く社会からの注目を集めるようになり、その評価も高まってきた。それにしたがって、全国各地から見学者が来訪することが増加してきた。『体験教育』紙上にはほぼ毎号「教務日誌」欄があり、学校の動きが日ごとに記載されているが、その中には来訪者も記載されている。一例として、創立10周年に（昭和12）年度1年度間を見ると、府立一商岡田潤一郎・田中正名・中野、群馬県館林中学教諭ママ佐々佐、聖和学苑高橋、静岡県松崎実科高等女学校浅賀和助、鞍山中学校出村耐造、石川県師範木佐貫重元、石川県大聖寺中学堀五十二、長崎県大村中学校校長牧秀賢、京城第二高女安井俊彦、東京商大専門部学生課長太刀川浩一郎、石川県金沢中学者も多数に上るが、その中には仏教研究者宇井伯寿（後：駒澤大学学長）や、リトミック教育研究者小林宗作（トモエ学園創設者、国立幼稚園（当時、後に国立音楽大学付属幼稚園となる）園長）なども含まれている。児玉九十がその教育理念や教育実践について明らかにすることが求められることも多くなり、一例として前述のように玉川学園長小原國芳が編集・刊行した『日本の労作学校』（1931（昭和6）年、玉川学園出版部刊）では、小原國芳の考える労作教育の実践に取り組み大きな効果をあげている全国7校の一つとして明星中学校が取り上げられ、その1章として児玉九十「明星中学校における体験教育」が収録された。また、『岩波講座教育科学』第15冊（1932（昭和7）年、岩波書店刊）では、「中学教育の問題シンポジュウム」に分担執筆、府立第一中学校校長西村房太郎、府立実科工業学校校長津田信良、東京市富士尋常小学校校長神沼久之丞、府立第五中学校校長落合寅平、東京帝国大学助教授阿部重孝、朝日新聞社副社長下村海南と並んで、私立中学校の代表としての立場から参加し、1．中学校修業年限問題、2．中学教育と画一打破、3．上級学校入学試験と大量的教育問題、について論じている。また、教育専門誌である『帝国教育』、『教育週報』、『訓導生活』、『教育研究』にもしばしば論考が掲載されているほか、私立中学校恩給財団十周年記念祝辞演談、東京府知事主催「教育改善座談会」、東京市・帝国教育団主催「東亜教育大会」（中等教育部会）はじめ、小学校や師範学校、さらには近接する府中刑務所などにおける講演も数多く行っている。CHAPTER1第1章100MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory101

## Page 052
![Page 052の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000052.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部一般向けには、婦人雑誌『主婦の友』に「両親日本からの3人のうちの1人として入選し、フン変」が始まった。1932（昭和7）年1月28日の「第大きな出来事があった場合には、校長児玉九教育」を連載、これをまとめて著書『両親教育』ボルト賞とドイツマルクトブライトで開催され一次上海事変」、1937（昭和12）年7月7日の「盧溝十が朝の凝念時に訓話で取り上げていること（1936（昭和11）年、主婦の友社）を、さらに『教る夏期講座聴講の権利を得たことが詳しく記述橋事件」を契機として、全面的な日中戦争（当時、が、『体験教育』紙上の「教務日誌」に記載されて育者としての母』（1939（昭和14）年、主婦の友社）されている。『体験教育』第94号、1936（昭和11）日本では「支那事変」と称した）が始まった。1932いる。一例として、1931（昭和6）年9月18日に発を出版している。『大法輪』、『家の光』など多くの年には、論文（原文ドイツ語の日本語訳）が掲載（昭和7）年3月1日には、関東軍は満州の主要地生した満州事変の例を見ると、第34号掲載の「教雑誌、『読売新聞』など新聞にも論考が掲載されされているが、論題は「独逸語の知識が私の職業域を占領し、その下で清朝最後の皇帝愛新覚羅務日誌」9月21日欄（抜粋）に次のように記述されている。放送についても、当時は東京周辺ではの内外に於て如何なる役に立つか」であり、ドイ溥儀を執政として旧：満州国を建国、1934（昭和ている。放送協会東京中央放送局一局のみであったが、ツ語の知識が自分個人にとって、また日本人全9）年3月1日には溥儀を皇帝とする帝政に移行さ『体験教育』紙上に転載されたもののみでも87号体にとってどのような役に立つのかを論じていせた。廿一日（月）、晴、から158号まで17回放送したことが確認できる。る。ドイツ語を学ぶことそのものも意味があるこのような状況の進展に伴う軍事色の強化、凝念訓辞、日支両軍が満州に於て衝突しまた、東京府の委嘱により1939（昭和14）年4が、ドイツ語を通してドイツ文化を学び、東西戦時体制の構築は学校教育の上にも大きな影響た事は、既に新聞紙上で承知の事と思うが、月22日から5月12日の期間、府立中学校校長5名両洋の文化の真の綜合を図るべきことを、日本を及ぼしてきた。明星中学校の創設以前、1925我々国民としてはあくまで自重して時局のとともに北支・中支を視察した。視察結果は1939の歴史や文化に関連付けて考察する内容である。（大正14）年度の新学期から中等学校以上の学校推移を観察すべきである。そして戦線の変（昭和14）年5月16日1・2時限目に生徒に報告す理工学系の分野においても卒業生の活躍は見では軍事教練が必修化され、陸軍現役将校が配化などに就ては地図などを見てハッキリしるとともに、『体験教育』127号（1939（昭和14）年）られ、北海道帝国大学理学部在学中の島内文雄属された。た知識をうる様にしなければならぬ云々。に「支那視察から還りて」と題してその要旨を掲は1936（昭和11）年6月19日に北海道で観測され軍事色の強化、戦時体制の構築は明星中学校（『体験教育』第34号、1931年10月、3頁）載しているが、そこでは交通（鉄道）状況、通信た皆既日食観測に参加、明星中学校でも観測のの立地する地域社会の環境を変化させてきた。事業、産業（工業・鉱業・農業）、教育文化政策、予定があったが降雨のために観測できなかった工業生産の拡大を目指して都内に立地する企業この記事をはじめとして他の記事から見る邦人の進出、戦争状況などが報告されている。ことを補う意味もあってか、『体験教育』第92号、が多摩地区に工場を新設することが多くなり、と、児玉九十の発言内容はきわめて慎重なもの1936（昭和11）年、紙上で「日食観測行」と題して、府中町内の農蚕学校（現：東京都立農業高校）西で、客観的な認識を促すとともに、中学生とし卒業生の活躍観測実施の状況や観測結果について詳しく報告方には、1938（昭和13）年に株式会社日本製鋼所て時流に流され、軽挙妄動することのないよう明星実務学校を廃校とし、明星中学校を創設している。「教務日誌」には7月10日に「来訪者、武蔵製作所（当時・後：東京製作所と改称）、1940に指導している。大きな出来事に関連して『体験する理由の一つとして、生徒・保護者からの上卒業生島内文雄君。」との記録があるが、生徒に（昭和15）年に東芝車両工場（当時・現：株式会社教育』紙上に校長の訓話や生徒の作文が掲載さ級学校への進学希望が強くなったことが挙げら対して講演を行ったのかについては記述がなく東芝府中事業所）が新設された。府中町の東に位れることもしばしばあり、一例として満州事変れていたが、その期待に応えて明星中学校卒業不明である。置する多磨村（当時・現：府中市）・調布町（当から1年が経過した1932（昭和7）年9月に発行さ生の進学実績は充実してきた。『体験教育』第133また、『体験教育』紙上には、卒業生が著書を出時・現：調布市）・三鷹村（1940（昭和15）年に三れた『体験教育』第45号を見ると、児玉九十「満号、1940（昭和15）年には、「卒業生だより」欄に版した報告も散見され、卒業生の活躍が示され鷹町、現：三鷹市）には東京府によって陸軍が主州国助成は天與の使命なり」、第五学年古宇田東京帝国大学に「東京帝大明星会」が組織されてている。に使用する飛行場（現：東京都調布飛行場）が建忠の作文「満州事変一周年記念に際して」、第五おり、月に1回定期的に昼食会を開き、情報交換設されることになり1939（昭和14）年着工、1941学年山浦三郎の作文「満州事変一周年を迎えや親睦を図っていることが記述されている。その中で大きな研究成果を上げる者も現れ、2.太平洋戦争下の学校生活（昭和16）年に竣工した。これらはいずれも後に明星中学校生徒の勤労動員先になる。て」が掲載されており、児玉九十はその中で次のように記述している（抜粋）。『体験教育』第91号、1936（昭和11）年には、明星日中戦争－戦時体制へ中学校第1回卒業生で浦和高等学校を経て東京明星中学校は1937（昭和12）年に創設10周年を明星中学校への影響―訓話・講演「満州国助成は天與の使命なり」（抜粋）帝国大学文学部独逸文学科在学中の藤戸正二が迎えた。この間、特色ある教育実践を積み重ね柳条湖事件、満州事変、旧：満州国成立、旧：東西文明を融合し、人類最高の新文化を創ドイツアカデミー（ミュンヘン）がフンボルト博て着実に教育成果を上げてきたが、この時期に満州国帝政へ移行、盧溝橋事件、日中戦争（支那造し、至公至平の見地に立って、真の東洋士（WilhelmvonHumboldt、1767（明和4）～1835なると明星中学校を取り巻く日本社会は軍事色事変）、上海事変など時々の状況について、明星平和を築き得るものは、日本民族を除きて（天保6）年、言語学者）百年祭記念事業として実を強め、戦時体制を形作りつつあった。中学校でどのように受けとめられたかについて他にありやと問うならば、何人と雖も「否」施した世界学生ドイツ語論文の募集に応募し、世1931（昭和6）年9月18日の「柳条湖事件」を契は『体験教育』紙上の記事・作文などから知ること答えるであろう。吾々、大和民族は今や、界31カ国からの多数の応募者の中からの40人、機として日中間の軍事衝突がおこり、「満州事とができる。新文化創造、正義世界創成の選手として世CHAPTER1第1章102MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory103

## Page 053
![Page 053の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000053.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部界の舞台面に飛躍中なのだ。想うて茲に至いている。この時期、中等学校段階では、この間行軍、発火演習を実施した記載も見られる。されば、天の吾々を選びて此の難関に当らしようにとらえられていたのであろう。らに、1941（昭和16）年1月31日には、寒中長距むる。又ゆゑある哉とうなづかるゝではな実際にどのような形態・内容の教練・演習が離行軍として3・4・5年生は明治神宮→多摩御陵いか。実施されていたかについては、『体験教育』紙上間45㎞、1・2年生は明治神宮→学校間23㎞を行吾々は、此の天與の使命を強く自覚し常に時々に紹介され、参加した生徒の作文が掲載軍した記事（第146号、1941（昭和16）年2月、31に最悪の場合に備えつゝ、幾難関を突破すされている場合もある。頁）も見られる。連合教練・演習としては、府中る覚悟が必要だと思う。日常の学校内で実施される教練については、中学校連合演習、東京府中学校連合演習、東京・（『体験教育』第45号、1932年9月、2頁）週5時間の枠内で実施されていたが、その成果を千葉・埼玉・神奈川・山梨中学校連合演習に参確認するために1年度に1回、現役将官による「教加している。また、観兵式拝観（代々木練兵場）、また、時々に学外者を招いての講演も実施さ練査閲」が実施されていた。『体験教育』第1号近衛歩兵第4連隊における射撃訓練、兵営宿泊れており、『体験教育』紙上にその内容が掲載さ運動会軍事教練（1929（昭和4）年1月）には、1928（昭和3）年12月（富士裾野板妻廠営宿泊演習、習志野廠営宿泊演れている。例をあげるならば『体験教育』第35号13日に実施された教練査閲について次の記事が習、近衛第三連隊兵営宿泊）など多様な活動が行（1931（昭和6）年11月）には陸軍歩兵大尉倉本敬も、動作中は是等誘惑物に惑わず、確実に掲載されている。われていたことが記載されている。さらに、1937次郎による講演の内容である「満州事変視察談」踏み締め踏み締め、又其気勢を他方面に殺（昭和12）年9月7日には「明星中学校防護団」を（1～3頁）が、第43号（1932（昭和7）年7月）にはく事なく、一路目的に向いずんずん進んで「教練査閲」結成し、防護演習を実施、9月15日～19日には海軍少佐加世田哲彦による海軍記念日講話の内行くのである。斯くして胆を練り、一歩一十二月十三日、昭和二年度の教練査閲が防空演習を実施している（第106号、1937（昭和容である「上海事変に就て」（4～6頁）が掲載され歩確実に基礎を作り元気溌溂如何なる困難行われた。当日近衛歩兵第四連隊長大濱大12）年10月、3～4頁）。ている。にも打克ち己が理想に邁進するのが、やが佐は午前八時来着、凝念心力歌合唱を参観この中の、1941（昭和16）年1月31日に実施して社会に出ても彼岸に達する秘訣ではなかされ、九時より実務、中学一年、中学二年、た寒中行軍としての5・4・3年生の明治神宮→多明星中学校への影響―教練・演習ろうか。中学三年の順に査閲された。昼食後、講堂摩御陵間45㎞、1・2年生の明治神宮→学校間23前述のように、1925（大正14）年度から、中等学校教練は斯様な精神で其制度を設けらにて講評があった。「教練開始後、日尚浅き㎞の行軍について、記事と参加した2名の生徒の学校以上の学校では軍事教練が必修化され、陸れ、其衡に当って居る者も茲に留意して教に拘らず、態度、動作、学科共に実によく作文が『体験教育』第146号（1941（昭和16）年2月）軍現役将校が配属されることとされたが、明星育に従事して居るのである。して見れば学出来ました。これ全く生徒諸君が校長の精に掲載されている。中学校においても1927（昭和2）年の創設時から生時代からの兵隊の稽古も満更馬鹿にした神教育を真面目に実行して居る結果と思配属将校を受け入れ、教練が実施されていた。ものではない、不思議でもないのである。即う。此の調子で行けば日本全国の模範とな「長距離行軍」「明星中学校設置願」に含まれる「学則」別表のち教練は精神を作るのである、人物を作るる事と信ずる。生徒諸君は一層御勉励あら今迄明治神宮から学校迄、多摩御陵から「学科目、課程及び毎週授業時数表」には学科目のである、兵隊の稽古ではないのである。此ん事を希望いたします。師団に向っては全学校迄の行軍は行っていたが、本年は三年「体操」の内容として「体操・教練」と記され、全意味に於て今や全国の中等学校以上の学生部優良と認むる旨を報告いたします」とい以上は明治神宮多摩御陵間四十五キロ（十学年週5時間配当となっている。生徒が此種訓練を受け、心身修養に努めてう意味のお話であった。終てから授業を参一里余）を十一時間で踏破する事とし、一月『体験教育』第2号（1929（昭和4）年2月）には、居るのである。慶賀す可き事ではないか。観された。卅一日午前七時明治神宮参拝、午後六時御教練についての次のような記事が掲載されている。（『体験教育』第2号、1929年2月、4頁）（『体験教育』第1号、1929年1月、4～5頁、記事中「昭和二年度の教練査閲」と記されているが、「昭和三年度」の誤記と考えられる）陵着参拝無事終了した。落伍者が二名出たのみで規律正しく行動し、予定通りに終筆者である藤原元明についてその所属や紹介わった。此の様に大成功に終ったのは平素「教練の目的」（抜粋）藤原元明が記されていないので、明星中学校の教員か配『体験教育』の記載を見ると、明星中学校が単の徒歩通学のためと思う。青年の血は燃えて居る、其意気は全身に属将校か、あるいは外部の者か明らかではない。独で実施した学校外における野外教練（演習）と漲って居る、其意気が歩法に態度に露われしかし、内容としては教練というと「学生が銃をして府中・甲州街道・天満宮方面、国分寺・国「行軍」第五学年大谷惠吾四周を風靡するの慨あるのが学校教練に於持って剣提げて武装厳しく兵隊さんの模倣事を立・府中刑務所方面、府中・中河原方面、多摩一月三十一日、我等明星健児一同は暁のける学生の連歩行進である。如何に物珍しするのが思い出される」が、そうではなく、精神聖蹟桜ヶ丘方面、小金井・多摩川方面など各方明治神宮から闇の多摩御陵へと結ぶ甲州街きもの滑稽なもの等の誘惑物が来ようとを作り、人物を作ることこそが目的であると説面に向けて行軍演習を実施した例が見られ、夜道四十五粁の行程を踏破して銃後日本青年CHAPTER1第1章104MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory105

## Page 054
![Page 054の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000054.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部の意気と健脚振りを発揮した。そしてこのて来たのだ。とした朝もやがかかり、川の流れもはっき争が全面的に始まる年であり、日本社会全体が行軍こそは我々五年生にとって数有る行軍豆の苦痛、筋肉の疲労は数分にして報いりときこえた。之から一気に突撃の気配だ。軍事色を強め、戦時体制を構築していく時期で中最も印象深いものであった。られるのだ。幾時もなくして目的は達成せ配属将校丸岡中佐の考えは、機先を制し直ある。この時期に、三多摩中等学校連合演習とそれは第一に我々としては最後の行軍でられるのだ。ちに突撃に入り川に飛び込んで、川幅七、八いう場で、このような言動をしたことは、児玉あったこと、第二に十一里餘の開校以来の御稜はもう間近である。最後の締括りだ。米を一揃に渡り敵陣に強攻突入と言う事だ九十の教育者としての信念、生徒を思う心情が記録を樹立した行軍であった事、第三に寒僕は、はやる心を制えながら、力強き一ろう。散開している吾々の頭の中にも、あどのようなものであったかを推測させるもので風に頬を曝され乍ら頑張り通した寒中行軍歩々々を踏みしめて歩いた。の川を渡るのだな、深いだろうかな、冷たあり、このような時代にあっても何よりも生徒であった事等挙げられるが、それにもまして森厳の気満つる両先帝の神鎮まります両（『体験教育』第146号、1941年2月、8／5／6頁、□は欠損のため判読不能）いかな、という心配が横切ったりしたが、川を渡る覚悟は出来ていた。腰の短剣を抜き、の安全や健康を願うところに児玉九十の真骨頂が表れている。文中にあるように、この発言が聖地を結ぶ行軍であった事が我々の最も深銃の先に装填してジッと突撃の命令を待っどのような反響を生んだかが懸念されるが、こく感ずる点であった。この記事によって行軍の概況を知ることがでた。の時期の『体験教育』各号には関連する記事を見暁の明治神宮の大前に、今日の行軍の成き、生徒の作文によっては生徒がどのように受その時、丁度本当にその時だった。「川に出すことができない。功をお祈り申し上げて後、四十五粁を踏破けとめ、どのように考えていたかを知ることが入るな！」大声がした。児玉九十校長の声、して、闇の多摩御陵で今日の行軍の成功をできる。どこに居たのだろう。皆ギクリとした。「生明星中学校への影響―学校行事御奉告申し上げたその時、寒さも疲れも一徒がカゼをひく。やめなさい」校長が丸岡中明星中学校では創設以来（『体験教育』紙上の時に失せて、朝、明治神宮で感じたと同じ野外演習と児玉九十佐に詰め寄っている。中佐は口をへの字に記事としては第8号、1929（昭和4）年8月、が初□□なる気持ちに打たれたのであった。このように学校内外において、学校単独また連曲げて横を向いたまま。すべては止ってし出）夏季休暇前の時期に「夏の学校」を実施してかくして思い出の行軍は終った。そして合しての教練・演習が数多く実施されていたが、まった。校長は今一度前を向いて「川に入るきており、当初は水泳班・山岳班・学校班が設此の行軍から、我々は日本臣民としての強校長児玉九十はどのように考えていたのであろな！」と叫んだ。おしつぶした様な静けさ数けられ、後に採集班・図画班が加わった。1941い自覚と健脚の自信と、耐寒忍苦の精神とうか。第9回卒業生田中滋は児玉九十の百歳を祝秒。突然あっちこっちの岸で空砲が盛んに（昭和16）年には戦時下にあって管外での学校行を得た。賀する記念文集『児玉九十先生を仰ぐ』に、演習なり、随所に歓声が湧いている。そして戦事を中止するよう指示が出るが、それ以前に明征服の喜び！行軍に於て身を以てこの時の児玉九十について次の文章を寄せている。闘ヤメのラッパが長く長く響いた。演習は星中学校では1937（昭和12）年の日中戦争（支那喜びを體得した我等は、前途遠く険しき学終わった。事変）開戦を受けて、1938（昭和13）年に夏の学校問の道に於ても、この喜びを得る様努めね「川に入るな！」（抜粋）その時の校長の服装といえば、中折帽子の各班の中で学校外で実施する活動を中止し、ばならない。田中滋九星会に作業ガウン、ゲートル、それに右手にシッ作業の実施のみとした。『体験教育』第116号頃は昭和十二年、今から五十一年の昔のカリと洋傘。今でも私の脳裏に此の姿と、あ（1938（昭和13）年8月）には、次に掲載する児玉「行軍」第五学年瀬沼辰正話。其の年の五月、三多摩中等学校連合演の声がハッキリと甦る。あれから五十一年、九十「暑中勤労作業の終了に際して」、「教務日さすがに粛然として来た。御稜はもう間習なるものが行われた。当時の三多摩は、思えば其の時九十先生のお年は逆算して四誌」のほか、下記の題目の生徒の作文が掲載され近である。玉砂利の音も静かに一隊は歩い北、南、西とかなりの範囲で、中等学校の十九歳の初夏という事になる。こんな事がている。て行く。中天に懸れる弦月の淡い光に照さ数も八十はあったのではないか。吾が明星あって九十先生に対し軍の圧力が加わったれながら一隊は黙々と歩を進める。木の影も四年生と五年生が全員参加した。演習はか何うか定かではないが、何等かの報復が「暑中勤労作業の終了に際して」（抜粋）は一隊が歩を進める毎に一人々々の背を撫多摩川をはさんで、東軍と西軍が遭遇戦を行われた事は容易に推測出来る当時であっ児玉九十でるようにして後へ行く。展開するという想定であった。星空の午前た。七月廿日から廿九日に至る十日間の夏の今日この日、未だ経験せざる強行軍に自二時、愈々遭遇地点多摩川に向って行軍開（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、100～102頁）学校も、無事滞りなく、予定通りに完了し分の脚を疑いながらも限りある身の力試さ始。やがてあたりが白々として来た頃道はた。んとて勇んで参加したのだった。そして今林でさえぎられた。其処から散開して静か卒業後50余年が経過してから回想して記述さ従来夏の学校は、学校作業班、北條水泳やその行程四十五粁を踏破せんとしているに奥に分け入った。此の櫟林が終ると多摩れた卒業生の文章であるが、この文章によれば班、登山班、植物採集班の四班に分れて行のだ。朝に明治神宮を拝し、夕に多摩の御川の川原という処で止れの合図があった。1937（昭和12）年5月の出来事であると記述されう慣例であったが、今年の如き非常時下に稜に額づく日本的の感激に振えながら歩い伏せをして前方の川原を見ると、ほんのりている。この年は盧溝橋事件が発生し、日中戦あっては国策順応上、出費は出来るだけ、之CHAPTER1第1章106MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory107

## Page 055
![Page 055の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000055.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部みを節約する事が当然の事であるから、海や多摩川の一日第三学年荒井正大夕食新運動場地均し、ペンキ塗、非常用水池コ砂利取作業第三学年吉田甸行軍山に行く事は一切取り止めて、校内作業、学勤労奉仕第一学年山田健兒四合のお米何のそのの元気で皆おなかへ校門前町道改修工事、大国魂神社境内清掃、道路工事第五学年瀬沼勲どんどんつめ込む。皆余程おなかが減った多摩川原作業の四部に分けて実施した。砂採り第三学年佐藤芳文のだろう。膝をくづさずに坐っていたら、忽校内作業は除草、草刈、園芸場耕作施肥、大国魂神社の清掃奉仕第五学年高島文雄ちトックリ仙人の名前を頂戴した。ンクリート作業、校舎内の洗磨等である。夏の学校第一学年川島康通学校前の町道改修工事は停留場より山谷天幕生活の一日第五学年月江理四辻に至る一キロ余に亘る二間半の道路の夏の一日第三学年大谷惠吾両側に排水溝を掘り、その土を以て道を鈍砂取作業第一学年渡邊弘蒲鉾形にし、多摩川で採集の砂利を敷く作砂取り其の他第四学年桑田榮雄業である。多摩川原作業は河原における砂、砂利採集、水泳、飯盒炊爨、夜間行軍、天幕露営の五項である。各生徒の作文の中で、多摩川での活動について詳細に記述した第3学年の荒井正大の作文は次の通りである。何れの学年も順次漏れなく当るので、どの学年も毎日変った作業に服し、十日間に「多摩川の一日」第三学年荒井正大二た廻りした訳である。創立以来、日常に作業於ても小使すら用いずに先生生徒の共働きで日々の勉学及び一切の生活を作業としてやっているために、此の様な集団作業も何の苦もなく、いとたやすく、すらすらとやって行けるのは喜しい事の第一に挙ぐべき事である。廿一日、視察に来られた東京府視学員山本猛先生も此の点につき「生徒が皆、仕事を楽んでけママっているのは、他に見られぬ事ですね」と感想を漏らして居られた。班別、御注意等、とどこおりなく終り、敵前徒河の様な気持で川を渡る。遠くからではさして深いとは見えなかったが、やはり膝を越える所迄水がやって来た。いよいよこれから第一作業時だ。僕達はふるいでふるった砂を担架で運ぶのが役目であった。―「おいそんなに押すなよ痛いじゃないか」「だってついやっちゃたんだよ」…この作業は初めてなので面白さもあり、そうつらいとも感ぜぬ。其のうちに砂「教務日誌」（抜粋）七月二十日（水）―二十九日（金）「夏の学校」を開設、（一）多摩川に於て砂利及砂採取、水泳野営、（二）府中町道約千米余の改修工事、（三）大国魂神社境内の清掃、（四）防火用水槽工事、（五）運動場地均し工事、（六）ペンキ及防腐剤塗布作業、（七）各種園芸作業、（八）防空演習等を実施し、大略優秀の成績を以て予定を完了したり。の山は少しづつ高くなって来た。これを見ると今更の様に岩をおし流してきた水の力の偉大さを知ると同時に、大自然を切りくづして戦う我々が非常に大きなものに考えられた。「休息！」「わあー」「しめた休憩だ」。皆大喜びで流れの中に飛込んだ。皆誰の心にも我々の世界だという様な気持ちで一杯だったろう。十一時頃になると誰も赤銅色に体がやけ生徒作文題目て来た。僕も今迄にこんなに焼けたことは多摩川の砂利採取作業なかった。しかし帰宅してからこの焼けた体を家中のものに見せびらかしてやろうとさらにシャツをぬいで大いにはしゃいだ。昼寝昼食をすますと昼寝だ。みな口々に「早く寝ろよ」「騒がしいぞ」等と言っているが、その人々も一時半から水泳のことを考えて寝つかれぬのであろう。しかし泳げぬ僕にはそのうれしそうな言葉も悪魔の怒りの呪文としか聞えなかった。水泳人員を調べ終ると、泳げぬものは河下へ、勿論僕もその一人だ。そして泳げる者は対岸へ泳いで渡った。準備運動も終って、しばらく水につかった後泳げぬものでも、その泳ぎ方を調べるとのことで皆呼ばれた…「冗談じゃないよ、本当に泳げないんだよ」お菓子をもらう時の一番組はこの時ばかりは一かどの人物の様にゆづり合った。しかし遂に泳がねばならぬ時が来た。実際この時程泳げる人をうらやんだことはなかった。…飛込むと夢中で泳いだ。自分では物凄いスピードで泳いでいると思ったが…僅かに五米やれやれと思ってがっかりした。しかし第一の難関突破だ。早く上手になりたいものだと皆な思った事だろう。思う存分泳いで又天幕に戻ることとなった。聖蹟記念館への行軍は思ったよりも道程が長く思われたが、しかし一、二度来たことがある為か大して苦しいとは思わなかった。只水も飲めないのがつらかった。記念館へ着くともう真暗だ。下方を見下ろすとかすかに電灯の光が点々として見え趣が深かった。向うに動いて見えるのは電車の電燈だろう。帰途は田圃の一本道を通ったが蛍が飛んで美しかった。夜営「おい耳元でがさがさするなよ」「だれだいぺちゃくちゃしゃべっているのは」「先生だ先生だしっしっ」「あんまりさわぐとしかられるぞ」、こんな声が四方から聞える。しかし時が経つにつれて一人二人と深い眠りに落ちていた様だ。…「おう寒い」ふと眼を開くと冷い月光がさし込んで来た。「そうそう野営だったのだ」静かにあたりを見廻すと重いはずだ、隣のN君の手が僕の腹の上にのっていた。再び毛布をかけなおして眠ろうとしたが多摩のせせらぎが耳につき目が冴えてねむれないが、無理に目を閉じて眠りに入った。朝誰か起きたな。僕も一つ大きなあくびをした。もう朝だ。東の空がほのかに赤みを帯びて来た。第二天幕でも起きるものがいる。しかし「もう少し寝むろうよ」等というお寝坊さんもいる。手拭を持って外へ出て清らかな朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。東を見ると真っ赤な太陽が正に昇り切らんとして居り、河波に光をうつしていた。ひとりでに頭が下る何んと力強いCHAPTER1第1章108MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory109

## Page 056
![Page 056の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000056.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部日の出だろう。戦線の勇士もねむれぬ眠りました。に立派な体質で、在学中も相撲、フットボーこの後も、『体験教育』紙上には、献納やそのたからさめきっと今日の勝利を誓ったことで乱筆にて申上げます。何時も変らぬ校長ルを始めとして各種のスポーツに於て級中めに物品を持ち寄ることについての記事が散見あろう。先生の御仁慈に依り故星野先生の記念品迄重をなした程でありまして、クリークの激され、太平洋戦争終結まで活動が続けられたと多摩の清流をくんで顔を洗った時の気持よさは到底筆舌では盡し難い。もう一度しママ戴き、真に有難うございます。一月君命を拝して出動以来、満露国境守備として匪賊戦に於てもあの体質とスポーツにて養った機知を縦横に振って、あっぱれな働をされ、とらえられる。これ以外にも、慰問文や慰問品を送る活動や、校長・教諭・生徒代表が陸軍第のさわやかな気を心から味う日のあること討伐に従事し、約百日目で琿春に帰りまし遺憾なく使命を果された事と思います。謹一病院（牛込）に戦傷将兵の慰問に行く（『体験教を期待する。た。目下兵力不足の為め明旦は二十五里程んで衷心よりの弔意を表します。育』第110号、1938（昭和13）年2月、8頁）などの（『体験教育』第116号、1938年、1／3／3～8／3～4頁）の奥地の警備に午前三時に出発の豫定で（『体験教育』第108号、1937（昭和12）年12月、8頁）活動を行っている。す。此の琿春の山奥にも近く大道路が開通なお、献金・献納活動については軍事関係のこの作文には野外活動の状況や、そこに参加するらしいです。新聞にも社会にも遠く離応召・戦死の記事はその後もたびたび掲載さみならず、東北凶作に対する義捐金や興望館セした中学生の生活・気持ちが十分に示されていれている私等ですから何もよくわかりませれるが、さらに後になり戦時体制が強化されるツルメント（1919（大正8）年、墨田区本所に設立る。作業や行軍はあったが、集団生活には若者んが。何だか近く大きな戦争があるようなと防諜のため掲載されなくなる。された）へ寄贈品を贈るなど多様な取り組みもならではの楽しみもあり、1938（昭和13）年当時予感がいたします。日中戦争が開戦し、戦争が深化するとともに行っている。は日中戦争が始まっていたが、いまだ深刻な状（『体験教育』第57号、1933年9月、8頁）生じてきた物資不足に対応して、献金、廃品回況・気分にはならずに、余裕があったのではな収、さらには飛行機献納などが実施されるよう明星中学校への影響―勤労奉仕いかと推測することができる。この記事を初出として、この後『体験教育』紙になってくる。『体験教育』第106号（1937（昭和12）日中戦争に伴い国内の労働力が不足し、それその後、1939（昭和14）年も作業のみであった上に、卒業生の動向として応召・出征中の者の年10月）の「教務日誌」には次のように記載されを学生・生徒や女性によって補う政策が実施さが、1940（昭和15）年には作業のほか水泳・登山・消息が散見されるようになっていく。『体験教ている。れるようになり、年を追ってその要請は強化さ採集の班が復活、1941（昭和16）年には再び作業育』第105号（1937（昭和12）年9月）には「応召出れてきた。明星中学校に対しても当然このようのみ、1942（昭和17）年には水泳・登山・採集・征者」欄が初めて設けられ、卒業生である岸喜九月四日（土）曇な要請があった。『体験教育』紙上では第130号図画・勤労作業の5班となるなが、1943（昭和18）一・村田幸之助・吉野金吾・向山敏治・林治雄・凝念訓示先般も訓示し置きたる如く、（1939（昭和14）年10月）掲載の「編輯後記」に「十年には作業のみになるなど、各年の状況に対応内田耕作・日下章の7名の氏名・出征先などが記銃後国民の赤誠を披瀝せんが為、今回諸子月一日から五日迄、五年四年という様な順で、調して夏の学校の内容は変化している（『体験教載され、「編輯後記」欄には教職員である鈴木太の小遣銭竝に学用品の節約と廃物の利用と布飛行場（東京府で新設の五十三万坪の大きな育』関連各号「教務日誌抄」から抜粋）。一（教練）=留守隊附・大野博三（庶務）=出征の2により、国防献金を行う事を計画し、之をもの）へ、勤労奉仕作業に、一日宛参りました。」名が1937（昭和12）年8月15日に召集されたこと通知するに付、諸子は細かく心を用いて小（8頁）と記されており、参加した生徒の作文も掲明星中学校への影響―出征・献納が記載されている。遣銭節約の工夫を凝らし、或は古釘古ペン載されている。明星中学校では原則として在学生が召集され『体験教育』第108号（1937（昭和12）年12月）に等の金物、銀紙等の廃物を一定の日に学校て出征することは年齢からなかったが、卒業生・は次のような卒業生戦死の記事が掲載されておに提出する如くすべし。此為に家庭の負担「調布飛行場における勤労奉仕」教員が召集され、戦死するなどの戦争の被害はり、現在確認されている限りでは卒業生戦死のを増すが如き事なき様呉々も注意を望む第四学年古沢陽一免れえなかった。記事の初出である。（校長先生）。上石原の駅前に集合して直ちに飛行場に『体験教育』紙上では、第57号（1933（昭和8）年七日（火）曇時々晴れ向う。午前八時、碧空一点の雲なくして、躍9月）の卒業生の動向を記す「消息」欄に応召・出「吉野金吾君の戦死」凝念訓示（抜粋）（一）今般全国中学校のる朝日の光がさんさんとふりそそぐ。秋晴征中の卒業生からの次のような便りが掲載され吉野金吾君は加納部隊と共に九月廿九日名に於て愛国飛行機の献納をなす為、十月の素晴しい天気に恵まれて今日一日を汗にている。頃上海上陸、直ちに第一線に立たれました末日迄に金五十銭宛を拠出し、全国四十万働くのだと思うと自然に張りきって来る。吉成新吉君（実三卒）が、十月四日ウースンクリークの激戦に於て名誉の戦死を遂げられました。武運長久の中学生より二十万円を得て、陸海軍に各一台宛を献納する計画あり。近く之に関すやがて飛行場に着いた。ママ続いて国旗掲揚があり校長先生の明訓示満州国琿春派遣隊土門子守備第四分隊にを祈って居りましたのにも拘らず、上陸数る具体的方法を指示すべきに付、十分倹約があった。居られる同君から慰問袋を開けてお菓子を日を出でずして、此の不運に遭遇せられ、誠をなし置くべし。（校長先生）「今や大陸政策は着々進捗しつゝあり。そ食べている写真と共に次の如き手紙がありに同情に耐えません。併し同君は生来非常（『体験教育』第106号、1937年10月、3頁）れと共に我が大日本帝国は未曽有の発展をCHAPTER1第1章110MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory111

## Page 057
![Page 057の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000057.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部なしつゝある。いづれこの飛行場完成の暁忘れられない程に旨かった。午後は一回作二・二六事件と明星中学校―一教諭の参加山本又は事件後、受刑中に主導者の一人安藤輝には大陸と東京とを結ぶ重要な役割をする業を行って終りになった。昭和戦前期の日本において、政治をはじめ国三大尉からの依頼もあり、獄中で『尊王討奸事件事であろう。凡そ総ての事は国家の為にな今日の勤労奉仕は非常に得る事が多かっ家・社会に対する軍部の影響力を強め、軍国主の梗概（二・二六事件）雪の曙昭和維新』、（後る事ではあるが斯く直接目に見えて国家のた。又、戦地に於ける皇軍将兵の苦労並び義化を進める契機になった要因・出来事には多に『二・二六日本革命史』と改題）を1936（昭和為になるのであるから昨日の五年生の優秀に満州建設の苦労を充分に知る事ができくのものがあったと考えられるが、その有力な11）年3月から1940（昭和15）年11月までの在監な成績に負けぬ様しっかりやって戴きたい。」た。又馴れない為の疲労を剛心健体よく克契機となった出来事の一つに1936（昭和11）年2中に執筆（実際に執筆したのは1938（昭和13）年6そうだ、我々は帝国未曽有の発展たる大服し得たのは、充分明星精神を発揮し得た月26日に発生した未遂のクーデターである「二・月から1939（昭和14）年2月の間と推測されてい陸政策の一役を買って、本日此所に働くのと思う。二六事件」があったことは、今日多くの研究者がる）、これが後に発見され、原文・現代語訳・保だ。最後に愛国行進曲を力強く唱って稍西に共通して指摘している。二・二六事件について、坂正康による解説をまとめて『二・二六事件蹶起1粁も歩いてやっと中央に張ってある天傾いた陽を浴びて、解散したのであった。加藤陽子は次のように記述している。将校最後の手記』として2013（平成25）年2月に幕についた。早速先生の指揮に従って上着を脱ぎ、軽快な作業服姿になった。（『体験教育』第130号、1939年10月、5頁）これが『体験教育』紙上、勤労奉仕に関する記あさいち三六年二月二十六日早朝、磯部浅一、栗やすひで原安秀ら青年将校に率いられた、第一師団刊行された（現在は文春文庫に収録）。以下これを中心に参照して山本又と二・二六事件との関わりについて概観する。鍬を握り直ちに仕事に着手した。我々の事・作文の初出である。このほかにも、土木建の歩兵第一・第三連隊を主力とする一四○山本又は1895（明治28）年9月2日、静岡県賀茂大陸政策は開墾と云う形になって表われたのである。「根は土をふるって後に投げる様に」築作業（1940（昭和15）年6月16日、宮城外苑（現：皇居前広場）桜田門外・二重橋前整地など）、軍需工場での作業（1941（昭和16）年7月19日～20○名余の軍隊は、首都東京でクーデターをけつき起こした。蹶起部隊は、斎藤内大臣、高橋じょうたろう蔵相、渡辺錠太郎教育総監を殺害し、鈴木郡の農家に生まれ、尋常小学校・実業補習学校を卒業、1915（大正4）年に陸軍に歩兵第三十四連隊（静岡）志願兵として入隊、中国出征・駐在な浅田先生が大声で言われた。日、東京補給廠など）、工場での作業、援農（1941侍従長、牧野前内大臣を襲撃した上、四日どを経験するとともに、身延山に通い日蓮宗に僕は最初から大きな根にぶつゝママかった。（昭和16）年7月22日～30日、府中町内などの出間にわたり、警視庁・陸将官邸・陸軍省・帰依し、さらに国柱会（田中智学主催、日蓮主義鍬を高く振り上げて力一杯打ち込む。忽ち根は取れてしまう。征農家の農作業援助など）など、時期が進むとともに多様な活動が行われ、勤労奉仕期間も長期参謀本部などを占拠した。かん反乱軍はその蹶起趣意書には君側の奸を深め広めることを目的とする組織、愛国分子の実践活動への踏み台といわれている）に入会「おお、大分大きいのを取ったな」に及び、やがて通年となって行くのである。特しん臣・軍賊の排除を謳うだけだったが、裏面した。昭和に入り特務曹長に昇格、1928（昭和3）直ぐ後で先生が云われた。徴ある勤労奉仕としては、「カメラ奉仕」がある。あずかるには岡田内閣を倒し、後継首班奏薦に与年には済南事件に出征、帰国後、1930（昭和5）年それからは夢中だ。三米許りは一息にこれは写真部員の生徒が出征家族を訪ねて家族宮中側近を排除した上で、皇道派に同情的4月28日に陸軍歩兵少尉に昇進、同時に待命、予やってしまった。振上げる、打下す、とっ写真を撮影、その写真を贈呈し、出征者に送っな軍事参議官の働きによって皇道派の暫定備役となる。退役後1932（昭和7）年に退役軍人た根を後ろに投げる。皆一生懸命にやっててもらうという活動であり、『体験教育』第144号内閣を樹立する計画があった。のために東京高等師範学校で実施されていた陸いる。東の方に天文台の円屋根とアインシュタイン塔がくっきりと黒い森を染め抜（1940（昭和15）年12月）の「教務日誌」には「十一月三日（日）晴午前八時半明治節拝賀式を挙（加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』（シリーズ日本近現代史⑤）2007年、197～198頁）軍省退職武官講習（中等教員養成講習会）を受けて教員免許を取得、1933（昭和8）年4月より明星いている。既墾地は既に青い芝の芽が薄く行。式後船越大村青木睦の三先生銃後家族慰問中学校体育教員（体操・剣道担当）に就任した生えている。遠く西には、関東の連山が起撮影の為生徒写真会員引率、村山村に出張せらこのクーデターは陸軍皇道派を中心とする若（『体験教育』第52号（1933（昭和8）年4月）掲載の伏している。そうして日光はさんさんとる。」の記載がある。また、第143号（1940（昭和手将校が主導したもので、国家改造・軍部政権「教務日誌」には、「昭和八年四月四日（火）雨我々の上に降りかゝっている。この日光を15）年11月）には参加した生徒の作文（「慰問写真樹立をめざしたが、結果として反乱軍として鎮午前九時より新学年準備職員会議開催先づ新吸収する毎に身体が益々丈夫になって来る撮影一片」第五学年宮永修平）が掲載されてお圧され、未遂に終わった。しかし、二・二六事任職員、笹谷、神作、山本の三先生の紹介挨拶」様な気がして、仕事は益々捗る。相当やっり、第147号（1941（昭和16）年3月）の「教務日誌」件後、陸軍の政治的発言力はいっそう強まり、以と記載されている）。この前後から二・二六事件た頃「作業止め」の号令がかかった。第一休には1941（昭和16）年2月11日には府中町内出征後の内閣に対する軍の介入をさらに強める契機の主導者磯部浅一・村中孝次と知り合い、国家憩だ。青々とした草の上に寝転んだ。空に家族を対象に実施したことが「放課後写真部生となったと考えられている。革新運動に賛同していったのではないかと考えは何鳥かすいすい飛んでいる。徒、府中町出征家族撮影奉仕の為出動」と記載さこの昭和史の一つの転換点となった二・二六られている。二・二六事件に参加したが、「山本やがて第二次作業をやり、第三次を終れている。事件に、明星中学校の現職教諭である山本又が又は四十二歳、予備でもあり、若い隊付将校とわって昼食をとった。勤労後の弁当の味は中心的なメンバーの一人として参加していた。は考えも分別も違うが、純情素朴である。彼はCHAPTER1第1章112MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory113

## Page 058
![Page 058の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000058.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部熱烈な日蓮宗の信者である。」（松本清張『昭和史発掘』8、2005年、194頁）といわれているように、若い現役将校を中心とする事件の主導者24名の中では、年齢の点や予備役である点など異色の存在であった。事件中も、山本又は他の主要な参加者とは異ある（117頁、□は中学校と推測される）。『体験教育』第87号（1936（昭和11）年3月）掲載の「教務日誌」には「二十四日（月）曇後晴三年生、青木、ママ山本、大村、蓬澤の四年生御引率の下に近衛第三連隊に兵営宿泊を行う。二十五日（火）晴兵営宿泊中の三年生、午後三時無事信濃町駅に安堵して業務に精励するを要す。殊に学生生徒たる者は、斯る事件に直接の関係を有せざるに付、落着きて勉学に励しむ心構え肝要なり（校長先生）。二十八日（金）雪る。三月二日（月）晴凝念時、校長先生より二・二六事件其後の経過、竝に事件に関する政府の声明書に対する吾人の心得に就きて懇々御説示あなり首相官邸や警視庁など各所への襲撃には参於て解散。」（4～5頁）と記載されており、同じ号加せず、本部において上層部や戒厳司令部などに第三学年森谷悟の作文「兵営宿泊」（7～8頁）との連絡や警戒にあたっていたと記録されている。事件終結前の29日午後2時、反乱軍の本部となっていた山王ホテルをただ一人脱出、日本山妙法寺（神奈川県御殿場）に一泊、身延山久遠寺（山梨県）へ行って被害者と事件参加者中の物故者の回向を依頼し、3月4日に帰京、東京憲兵隊に自首した。それに先立ち3月2日には「今回のも掲載されているが、山本又についての言及はなく、二・二六事件直前まで教諭として特異な言動もなく、職務を遂行していた推測される。2月25日午後3時に解散したのち、明星中学校の一教諭と新宿で喫茶店に立ち寄り、その後、午後6時頃に二・二六事件の主導者の一人で、山本又にとって同志である磯部浅一宅を訪問、以後事件中磯部浅一らと行動を共にする。事件に関係ある将校の免官左の如し陸軍歩兵少尉山本又」との内閣発表があった。3月4日二・二六事件と明星中学校―明星中学校の対応には自首を受けて、司令部発表として「叛乱軍に参加しありたる元予備役歩兵少尉山本又（三月二日免官）は予て行方不明中なりしが、四日午後二時二十五分東京憲兵隊に自首せり」とラジオによって伝えられた。1936（昭和11）年7月5日、二・二六事件とそこに山本又が参加していたことを明星中学校としてはどのように受けとめ、対応したのであろうか。『体験教育』第87号（1936（昭和11）年3月）の「教務日誌」欄を追うと次のように記載されている。参加者に対する陸軍特設軍法会議の判決が出され、多くの主導者が死刑判決を受ける中、山本又は禁固10年の判決であった。在監中、『二・二二十六日（水）晴本日早暁帝都に重大事件勃発の報、午前六日本革命史』を執筆、1940（昭和15）年恩赦に十時頃に至り判明す。より刑期5年に減刑され、1940（昭和15）年11月3日に釈放された。釈放後は日本山妙法寺を経て故郷静岡へ帰り隠棲、農業に従事するとともに信仰生活を送り、1952（昭和27）年11月1日に57歳で逝去した。二・二六事件の前日まで、2月24日～25日には明星中学校3年生を引率して近衛第3連隊兵営（赤坂）に宿泊見学、25日午後3時に信濃町駅前で解散してから、新宿駅付近で同行した教諭の二十七日（木）曇凝念訓示、昨日早朝、青年将校の一部は、突如首相、内大臣、侍従長、陸軍教育総監、蔵相邸等を襲撃し、或は即死せしめ、或は重傷を負わしめたる未曾有の大事件勃発したり。此に就きては、未だ真相の判明せざる折柄、彼等の批評を慎しむべく、且つ戦時警備下令せられ居る際なれば、警備司令一人と会食して別れたという。『二・二六日本官の希望する如く流言蜚語を慎み人心を動革命史』には欄外に「新宿ニテ明星□□□ノ一先生ト喫茶店ニテ別レ…」との鉛筆書きの加筆が揺せしむるが如き言動断じてあるべからず。尚警備の手配も十分つきたる由なれば、凝念訓示、二、二六事件の尊き犠牲として、高橋大蔵大臣は遂に薨去せられたる由、り、自己反省と中道を歩む心の必要なる所為を力説せらる。多年我国財政の為に、多大なる貢献をなされたる偉大なる功績を思い、痛惜此上なきを感ず。諸子と共に、深甚なる弔意を表さんと欲す。這次の事件に関しては、昨日も注意せる如く、飽くまで沈着冷静以て諸子四日（水）曇午後二時半より父兄会を開催、校長先生より二・二六事件竝たママ山本先生の件に関し詳細のお話あり。の課業に精励せざるべからず（校長先生）。二十九日（土）曇五日（木）晴凝念訓示二・二六事件に関係しては二、二六事件の為、交通杜絶に付、臨時休業す。午前八時半までに集合せる生徒に対しては、校長先生より、二・二六事件其後の経過と、之に対する心得、茲に臨時休度々訓戒しある通りよく落着き、兎角の世評に関する事なく、一路諸子の目的に向って邁進し、断乎毅然として動かさるゝ事なき態度あらん事を切望す（校長先生）。業の止むなきに至りたる事由と本日の行動に対する態度に就き、懇々諄々たる御訓示ありたり。（『体験教育』第87号、1936年3月、5頁）二・二六事件に現職教諭が参加していたことについて、明星中学校としては対応する必要があり、2月25日付で退職とした。その上で『体験教育』第87号（1936（昭和11）年3月）紙上に学校名で別掲の「御挨拶」を掲載した。そこでは、寄せられた見舞に対するお礼に始まり、山本又についての説明、さらに事件後の学校としての対応と状況について記述されている。また、「編輯後記」において「山本先生は二月廿五日附退職さる。」と簡潔に山本又の退職を知らせている。2月29日の事件終結後も、明星中学校では校長が凝念時に生徒に対して訓話を行うなどの対応がとられた。『体験教育』第88号（1936（昭和11）年4月）掲載の「教務日誌」には次のような記載があ（『体験教育』第88号、1936年4月、3頁）後年、児玉九十は事件について次のように記述している（抜粋）。山本先生は、陸軍省および東京高等師範学校内「退職武官講習所」の推せんで、昭和八年四月着任され、教練、剣道を担当、兼ねて生徒監をつとめられていた予備役少尉で、正義心、感謝、報恩の念篤く、常識に富み、恪勤精励、生徒指導に専心しておりましたので、私は得がたい先生だと思っていました。あとでわかってきたことですが、山本先生は、熱烈な日蓮宗の信者だったということで、そこまでは私たちは知らなかったのです。そういうことから考えますと、宗教的なものが昂じて、あのような過激な思想に染まっていったのだろうと想像がついたCHAPTER1第1章114MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory115

## Page 059
![Page 059の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000059.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部のですが、日常の勤務ぶりからみて、まるの著者。伯父様に物理学者石原純先生）の家で、赤穂浪士が、討入りまでの期間、世をの近くにあった渡辺錠太郎陸軍大将のお家あざむいて生きたように、山本先生もそういう過激な考え方は、ひたかくしにしていたのだろうと思います。…（略）…が襲撃され大将は即死された。学校からの帰り、伊藤君と弾痕を見に行った。その朝、母の弟の叔父が近くに居て朝のColumn6二・二六事件と山本又についての明星中学校の「御挨拶」ところが、学校では、現職の先生が叛乱犬の散歩に我が家に寄り「兵隊さんはこの軍に加わったというので大さわぎとなりま大雪の中御苦労さんだね―演習のようだっした。感受性の鋭い生徒たちにとって、こたよ」と話したところであった。れほど大きなショックはありません。神聖ラジオは「本朝午前五時三〇分頃陸軍青な教職にある人物が、宗教的信念からとは年将校の一部は左記の所を襲撃せり。一ついえ、直接行動に走るとは、前代未聞のこ首相官邸、岡田首相即死！……最後に大蔵とだからです。私は自らの不明を恥じて歯大臣高橋是清負傷！」というものであった。がみするとともに、生徒、父兄、社会に対山本先生は猛烈な日蓮宗の信者で、学科する責任の重大さにおののく思いがいたしの時は必ず黒板に南無妙法蓮華経と大書しました。しかし生徒たちは、漠然とながら、て合掌されていた。歴史の動いてゆく方向の激烈さを肌で感じ（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、115～116頁）とったのでしょうか、意外に平静を保ってくれました。もちろん当座は入ってくる情上に引用したほかに『体験教育』紙上には二・報は逐一かみくだいて伝える一方、山本又二六事件関係の記事は見当たらない。第87号の先生は二月二十五日付で退職という処置を「編輯後記」冒頭に「二月二十六日事件、只々意発表して、禍根を排除することにつとめま外、困った事と申す外ありません。」と記されてした。また、各方面からお見舞いや問い合いるが、これが当時の率直な感想であったのでわせが殺到しましたが、学校としては厳然はないかと推測される。続いて「併し一億国民はとして教育上に汚点を残さぬよう、あくま心の奥底から反省し転過為福すべきです。」と記でも転禍為福の方針を堅持いたしましたのされているが、このような考え方が生徒たちにで、事件処理がすすむにつれて、徐々にも伝えられたのではないだろうか。ショックは解消してゆきました。現在入手することのできる記録・文献などを（『児玉九十自伝』1990年、233～236頁）参照する限りでは、山本又が二・二六事件に参加したのは、当時の社会的状況、特に経済的状後年、当時の在学生の一人である永井正は事況、農村の疲弊などに対して、何らかの政治の件について次のように回想している。改革が必要であると考えたためととらえられる。さらに参加したことについては、鎌倉時代「校長先生との思い出」（抜粋）に二度にわたるいわゆる「元寇」（蒙古襲来、1274永井正十星会（文永11）年「文永の役」・1281（弘安4）年「弘安の明星一年生の冬、二・二六事件が起り、教役」）を機に、国難の到来を予言して布教を進め練の山本又先生が参加されていた。た日蓮への帰依、日蓮宗の信仰が深く影響して大雪の朝、荻窪の家から線路を歩いて学校に着いたのは昼近かった。いたと考えられる。山本又は国の政治のあり方として「君側の奸」を除かなければならないと考『体験教育』第87号、1936年3月15日、8頁伊藤晃君（父君は陸軍少将で陸軍戦争史えていたとしても、後に太平洋戦争にまでいたCHAPTER1第1章116MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory117

## Page 060
![Page 060の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000060.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部る軍国主義的な国家、好戦的な国家の実現を望んでいたとはとらえられないことは、保坂正康が山本又の日記などを引用・参照して記述している内容―例として太平洋戦争について真珠湾攻撃のラジオ放送を聞いて「日本はこの戦争に必ず負けるぞ。馬鹿なことをするもんだ」と発言至らんとし風楼満つの概あり、『時艱にして英雄を思う』の時、屠蘇に酔い炬燵に入り、遊戯に夜をふかし時を費して日を送るの輩あるに、我等明星学舎の同行六名只だ君国安かれと祈るの外他意なし。早朝より心身を清め、宿を立ち粛々として聖殿に向う。心1940（昭和15）年4月にはドイツはノルウェー・デンマークに、5月にはベルギー・オランダ・ルクセンブルク・フランスに侵攻、戦線は全ヨーロッパに拡大した。日本は1940（昭和15）年9月23日、フランス領インドシナ当局との間に軍事協定を結んで北部る。後半においては「教育上の応急改革」として、①勤労奉仕などにともなう教授時数の減少に対応する授業時数・教授要目の整理を行うべきこと、②休暇を短縮し勤労奉仕を実施するなどの休暇の適当な改廃・利用法を講ずべきこと、③非常時に学校に集合しやすくするための学区制したとのこと、敗戦後「もし私たちの革命が成功したなら、こんな戦争はしなかったし、こんな日本になることはなかった」と語っていたとのこと（保坂正康「解説事件の観察者」（山本又『二・身清浄にして聖門前に直立不動、礼拝し題目三唱の後門を入り、見上ぐる石段恰も人生行路の指針と見て一歩一歩進みて霊殿に達す。一同浄めの水にて心身を祓い、大国二六事件蹶起将校最後の手記』2015年、所収）聖、日蓮大上人の霊位に立正安国を祈る事245～246頁）―などからも理解される。山本又が日蓮に深く寄与し、日蓮宗の強い信仰を持っていたことは、明星中学校教諭としてしばし、坐に胸迫り、落涙滂沱として頬を伝う。更に奥の院に参拝のため五十余町の急坂を攀じ二時間余にして奥の院に達す。在職中に生徒とともに身延山久遠寺に新年の参拝に行っていることからも理解される。これについては『体験教育』第64号、1934（昭和9）年4月、に「立正安国祈願行」と題する報告を記述している。その意図を示す冒頭部分と、参拝の様子を示す部分は次のように記述されている。この時の行程は、12月29日=国分寺→上野原、30日=上野原→石和、31日=石和→身延山、1日=身延山→楮根、2日=楮根→富士→東京・新宿泊5日であった。途中自炊を行ったり、名物のまんじゅうを購入して食すなど、教員と「立正安国祈願行」（抜粋）山本又生徒がともに楽しく旅行した雰囲気をうかがうことのできる記述となっている。この紀行文か昭和八年の年も将に暮れんとし、武蔵野平野は見渡す限り万象ことごとく厳寒の感一入深き十二月二十九日正午、君国の艱難を坐して見るに忍びず、乃ち神仏の国安からんと祈る余りに、六百五十余年の往昔、元寇の国難を予告し、且つ博多の海辺に立正安国の大祈願をなし、遂に元軍十万をして神風一陣僅か三名を残して海底に葬り去らしめ、奇勝を博して神国の名を中外に轟かしたる正因に参ぜし大国聖日蓮大聖人在します身延の霊山に参るべく、明星学舎の五らも、山本又が当時の状況についてどのように考えていたか、きわめてあつい信仰心を持っていたこととともに、教員としての様子を十分に理解することができる。なお、このほかに山本又は『体験教育』紙上に第68号、1934年8月）、「教練査閲」（第73号、1935年1月）、「寒稽古納会」（第74号、1935年2月）を掲載しているが、身延山参拝、信念参拝の記事は見出すことができず、身延山への信念参拝が1934（昭和9）年以降も実施されたのか知ることはできない。年生河内、上領、中込、高崎、小野の五君と共に、甲州街道行脚の決心にて武蔵国分寺を後に発足せり。…（略）…明くれば昭和九年元旦、天晴れ地明かなり。然れども君国の艱難は正しく山雨正に日中戦争から太平洋戦争へ（昭和14）年9月1日にドイツがポーランド侵攻を開始、これに対して9月3日にイギリス・フランスがドイツに対して宣戦を布告、第二次世界大戦開戦、ソ連も参戦し、仏印（フランス領インドシナ、現在のベトナムに相当）に進駐、1941（昭和16）年7月28日、資源確保を目的として南部仏印（現在のベトナム・ラオス・カンボジアに相当）進駐を開始、これは後の東南アジア・太平洋諸島への侵略の起点となった。これに対してアメリカ・イギリス・オランダは日本に対する石油輸出を禁止した。1941（昭和16）年12月8日午前2時15分（日本時間）に日本陸軍はイギリス領であったマレー半島コタバルのあり方、少くとも高等学校において綜合制とともに、学区制を採り入れるべきこと、④高等諸学校の入試において中学校における実績（学習・活動状況）を重視する方法へ改正すべきことについての所説を展開している（『体験教育』第155号、1941（昭和16）年12月、1～3頁）。太平洋戦争開戦にあたっても、学校教育のあるべき姿を考え、提言していることは、教育者としての児玉九十ならではの主張と理解できる。に奇襲上陸、3時19分（日本時間）に日本海軍はアメリカ合衆国ハワイ州オアフ島真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告、太平洋戦争（当時、日本は支那事変（日中戦争）を含めて大東亜戦争と称した）が始まった（吉田裕『アジア・太平洋戦争』（シリーズ日本近現代史⑥）2007年、参照）。戦争は1945（昭和20）年8月15日の敗戦まで長期にわたって続き、日本社会に広範で深刻な影響を与えたが、学校教育にも影響は及び、明星中学校も様々な影響を太平洋戦争下の学校生活太平洋戦争期の明星中学校にとって特筆すべき出来事は、1943（昭和18）年4月に、後に学校法人明星学苑第2代理事長、明星大学学長・各校の校長・園長を務める児玉三夫が教諭として就任したことである。児玉三夫は東京帝国大学文学部教育学科を卒業、児玉九十の女婿であり、社会科を担当した。『体験教育』第172号（1943（昭和18）年5月）の「四月教務日誌抄」には「四月五日受け、対応を余儀なくされた。（月）雨後曇午前八時出欠調査内外大掃除の児玉九十は太平洋戦争の開戦に際して、『体験教育』第155号（1941（昭和16）年12月）に「対米英宣戦布告の大詔を拝して」と「学徒の銃後協力態勢強化」の2論稿を掲載している。「学徒の銃後協力態勢強化」は児玉九十が議員を務めていた大政翼賛会第2回中央協力会議への提案の原稿であり、会議第1日目の総会の席上で提案説明する予定であったが、太平洋戦争の開戦によって会議が中止され、説明できなかったものをここに掲載したと注記されている。前半においては、太平洋戦争開戦にともなう学生・生徒の協力体制の構築について、学校報国隊の充実強化、地域における活動組織編成などについて提言してい後、第一学期始業式並に児玉三夫先生親任式。」（1頁）と記載されている。1937（昭和12）年の日中戦争開始以来、明星中学校にも戦争の影響は及んでいたが、1941（昭和16）年の太平洋戦争開戦によって、戦争の影響はさらに強く及ぶようになってきた。開戦翌年、1942（昭和17）年の例を見ると、7月25日に第1学期終業式、8月20日に第2学期始業式と夏休みを短縮している。夏休み前の「夏の学校」については1942（昭和17）年には、7月16日（水）～24日（金）の期間に水泳・登山・採集・図画・勤労作班が設けられて実施されているが、翌1943（昭和18）年には、7月14日（水）～23日（金）の期ママCHAPTER1第1章118MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory119

## Page 061
![Page 061の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000061.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部間に出征農家への勤労奉仕・校内勤労作業・砂ここに記載されている「廠舎」が軍隊の施設かた、在学生が陸軍幼年学校などの軍関係の学校採取作業・水泳練習等に内容が変化し遠隔地へ他の施設かは不明であるが、学校外における宿に入学することはあった。行くことはなくなっている。なお、この年には泊を伴う教練・演習が実施されていたこと、夜学徒出陣が実施された1943（昭和18）年10月21夏の学校中の修練に新しく滑空班が加わり、新間就寝中も0時と4時の2回非常呼集が実施され、日に明治神宮外苑競技場において「出陣学徒壮購入の滑空機で小金井緑地帯において練習したその翌朝に距離・標高は明記されていないが登行会」が開催され、これを受けて1943（昭和18）と「編輯後記」に記載されている。また、8月16山行軍を実施するなど厳しい内容であったこ年11月7日に明星中学校では同窓会壮行会を開日（月）に第2学期始業式を実施した後、8月17日（火）～21日（土）を夏期鍛錬期間とし、体錬・勤と、それを中学生がどのように受けとめていたかが理解できる。太平洋戦争の開戦を間近に控催したが、それについて『体験教育』第177号（1943（昭和18）年1ママ0月）には次のように記載され労作業・滑空訓練・教練等を実施している。学えて、中学生に対する教練・演習もさらに厳している。校行事も変化し、1943（昭和18）年には運動会のい内容になってきたと理解される。名称も「秋季鍛錬大会」となった（『体験教育』第軽井沢夏期大訓練「同窓会壮行会」163号・第164号、第175号・第176号「教務日誌明星中学校への影響―召集・出征十一月七日午後二時学校講堂に於て同窓抄」等から抜粋）。大分歩いてから「去年見学した近衛前首太平洋戦争の深化とともに兵力の不足が深刻会主催出陣学徒壮行会が行われた。出席者相の別荘はここらへんだな」と思ううちに化し、1943（昭和18）年10月には「在学徴集延期六十名近頃になき盛会であった。児玉校長、明星中学校への影響―教練・演習旧軽井沢の町に入った。いよいよこの町の臨時特例」が公布され、それまで中学校以上の学村上理事、同窓会代表村山君の壮行の辞に太平洋戦争の開戦とともに学校外における学外れから上りであるが、一先ず町外れで小校の在籍者は24歳まで徴集を延期することが認対し、出陣学徒を代表して、東京帝大法学校行事は実施されないようになってきたが、教休止して鋭気を養った。められていたが、これを廃止し、学徒出陣が始部学生藤江信君の謝辞があった。出席者の練・演習については学外における宿泊を伴う活その頃から雨が相当降り出し、その後もまった。さらに、1943（昭和18）年12月には徴集約半数四十名近くの諸君が、陸海空の三方動もその後の時期まで実施されていた。『体験教降ったり止んだりの天気だった。けれども年齢を1年引き下げた。中学生の場合、年齢から面に分れて出陣するのであるが、何れも晴育』第176号（1943（昭和18）年9月）の「教務日誌依然強行軍だ。久本先生が「大丈夫か」とい直接徴集対象となることは原則としてなかったれのお召しを蒙り、落着いた間にも毅然た抄」には「九月十三日（月）晴四五年生廠舎宿われた時に「大丈夫です」と元気よく答えたが、多くの卒業生・教職員の出征が相次いだ。まる決意の程を示されて居り、何ともいい様営の為軽井沢に出発。附添青木、船越、久本、青ものの次第しだいに銃が肩に喰込み、足は木芳、木田、菅先生。」（2頁）との記載があり、第鎖でもつけて居るように重くなる。しかし177号には参加した生徒の次の作文が掲載され頂上迄の辛抱だ。僕は断然頑張った始めのている。うちは、昔はここを自動車で登ったものだと小学校時代の事を考え乍ら進んだが、最「登山行軍」第五学年田中誠之後はそれどころではなく、ただ足だけが機七時半、軍装に雑嚢という出で立ちで廠械的に動くのみだった。頂上も間近になる舎を出発。やがて駅に通ずる大きな道路をと、皆が軽井沢通の松山にあとどれ位だか左に折れて旧軽井沢駅に通ずる大きな道路を何度も聞いた。そしてあの角を曲れば頂に出た。上だとか、あそこを登り切った所がそうだ空はどんよりと曇って居たし、今朝は零等と聞く度に元気を振い起して進んだが、時に火災呼集があり四時から非常呼集で起一向に目的地は現れない。そこでとうとうきたので、此の前の夜間行軍の翌朝のよう松山に愛想をつかして誰も聞かなくなってに、途中の風物を眺めて歩いて行くうちに、しまった。そのうちに遂に見晴台入口の門今が何だか夕方のような錯覚を起し、登校の所に出た。途中の国民学校の生徒を見て「もう帰るのああとうとう征服したのだ―。途中の苦だな」と考え、後で気がついて「どうかしてしみが大きいだけに僕の喜びは大きかった。居る」と独りで苦笑した。（『体験教育』第177号、1943年10月、4頁）丸の内付近への勤労動員CHAPTER1第1章120MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory121

## Page 062
![Page 062の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000062.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部のない明朗勇壮な会であった。開会の初に1943（昭和18）年7月にはこれを改正して、男子荒井正大君から母校を日本一、否世界一の12歳以上60歳未満・女子12歳以上40歳未満を徴学校にする為に同窓生が後援をしたいと其の方法につき提議があり、其実行方法につき荒井君と学校当局に研究を委託し午後五用対象とした。学生・生徒の勤労動員については1943（昭和18）年6月に「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議Column7明星中学生の勤労動員先―現存する太平洋戦争遺構・戦災遺構―時会を終った。決定して動員体制を強化、1944（昭和19）年1月（『体験教育』第177号、1943年1ママ0月、4頁）には「決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」を閣議決定して中学校以上の学生・生徒を年調布飛行場は東京府（当時）が現在の府中市・調布市・三鷹市にまたがる地域に建設した飛行場で、1939（昭和14）年4月に着工、1941（昭和16）年4月に竣工、太平洋戦争下では陸軍『体験教育』の記事は以上のみであって、校長・理事（この当時村上鋠吉に代わって村上藤太が理事に就任していた）・同窓会代表の壮行の辞や出陣学徒代表の謝辞の内容は記載されていない。児玉九十は後年、学徒出陣に対して「教育に間4ヶ月継続して動員可能に、さらに同年3月にはこれを改訂して通年軍需工場などに動員可能に、1944（昭和19）年8月には「学徒勤労令」・「女子挺身勤労令」を制定、1945（昭和20）年3月には「国民勤労動員令」を制定するなど、時を追ってが使用した。明星中学生は建設途上で勤労奉仕に参加、開墾（抜根）・整地作業に従事した。調布飛行場は、敗戦後アメリカ軍に接収されたが、現在は東京都営コミューター空港として使用されている。太平洋戦争当時、航空機を格納し空襲から守るためにコンクリート製の掩体壕が約130基作られたといわれるが、現在府中市域に2基、三鷹市域に2基、4基残されている。【調布飛行場・掩体壕】たずさわるもののうち誰が内心、学術文化の衰出征中の兵士以外の労働力を総動員する体制を弱、教育のゆくすえを憂えぬものがあったで作ってきた。近年の研究によれば、「これらの措しょうか。」（『児玉九十自伝』275頁）と記述して置によって、学生・生徒は、戦時における労働いるが、当時このような感想を明らかにするこ力動員政策の重要な一翼を担うようになり、敗とは許されなかったであろう。なお、この記事戦時における動員学徒数は、約一九三万人にもの後半に記されている卒業生荒井正大（当時、東達している。」（吉田裕『アジア・太平洋戦争』（シ京高等学校在学中）の発言についても、その内容リーズ日本近現代史⑥）2007年、168頁）とされ（写真提供：府中市文化スポーツ部ふるさと文化財課）は記載されておらず、発言の意図は不明である。1943（昭和18）年には児玉三夫も招集され、中国戦線に出征した。卒業生神谷武は後年児玉三夫の出征について「三夫先生が出征される時、赤る。『体験教育』などの資料によれば、1941（昭和16）年の太平洋戦争開戦以降の勤労動員については、陸軍東京補給廠や調布飛行場の建設など旧：日立航空機株式会社立川工場は北多摩郡大和村（現：東大和市）に1938（昭和13）年から建設が開始された飛行機のエンジンを製造する工場であった。軍需工場であったため1945（昭和20）年には多数回の米軍による空襲を受け、111人が犠牲になったと伝えられる。特に2月17日の空襲では78人が、4月24日の空襲では28人が犠牲となった。明星中学生も勤労動いえりのお姿を拝見し、…（略）…新婚後あまりたってないのに兵隊に行かれるのはお気の毒と思っていた。」（「思い出」（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、所収）215頁）と回想している。明星中学校への影響―勤労動員直接軍に関わる勤労動員、多摩川関戸方面用水路工事（耕地拡大策）、西府村地先多摩川護岸工事、府中町内や西府村など近隣農家への援農など農業生産拡大に関わる勤労動員のほかに、1944（昭和19）年の新学期からは2年生以上は府中町に立地する東芝車輌府中工場（東芝を経て員されていたが、当日振り替え休日であったため被害を免れたものの、他校の動員学徒10数名が犠牲となったと伝えられている。変電所も空襲による爆撃を受けたものの、決定的な損傷を受けずに残り、敗戦後も長く使用された。現在は今に残る数少ない戦災遺構として、東大和市が譲り受け、1995（平成7）年10月に東大和市の文化財に指定、保存と活用に取り組んでいる。【旧：日立航空機株式会社立川工場変電所】1937（昭和12）年の日中戦争開戦以来、労働力現在東芝インフラシステムズ株式会社府中事業不足を補うために学生・生徒の勤労奉仕が始ま所）や日本製鋼所武蔵製作所の工場へ動員されてり、明星中学校においても生徒の勤労奉仕は始いる。別の資料によれば、1944（昭和19）年現在、まっていた。しかし、戦争状況の深化、太平洋近隣の調布飛行場のほかに、3年生は府中町に立戦争の開戦とともに労働力の不足が深刻化し、地する日本製鋼所武蔵製作所、東芝車輌府中工これに対応して国は1938（昭和13）年4月に「国家場、4年生は北多摩郡大和村に立地する日立航空総動員法」を制定し、その下で1939（昭和14）年7月には「国民徴用令」を公布、1941（昭和16）年8機株式会社立川工場（現：東大和市、小松ゼノアを経て現在はハクスバーナ・ゼノア）、5年生は（写真提供：東大和市郷土博物館）月には「労務緊急対策要綱」を閣議決定、さらに北多摩郡小平町に立地する日本飛行機タイヤ株CHAPTER1第1章122MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory123

## Page 063
![Page 063の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000063.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部生徒の作文が掲載されている。み式会社（現：小平市、ブリヂストン東京ACタイ星中学は当日、振替休日という幸運に恵ま訓練が行われた（神谷武「思い出」（『児玉九十先れ東大和市の文化財に指定されているが、1945山崎豊彦十六星会明星中学校への影響―寮生活屈して今は開墾隊の一隊が孜々として努力ヤ製作所）に勤労動員されたと記録されている。勤労動員された生徒は空襲の危険などに遭遇しれ、犠牲者は出さずに済みました。（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、237～238頁）生を仰ぐ』1990年、所収）222～223頁）という記述があるが、明星中学校の資料では確認できな「開墾」第五学年小野榮久た。日立航空機株式会社立川工場は現在も空襲い。武蔵野の面影を留めて、日々の学びに親による銃撃の跡を残した変電所の建物が保存さ「天下一品の笑顔」（抜粋）しかった、明星北方の櫟林も、時局の波に（昭和20）年には数次の空襲を受けた。当時の在学生は次のように回想している。「暗い谷間の寄宿舎生活」（抜粋）四年生になった昭和十九年からは、立川の奥にあった日立航空機製作所の工場への勤労奉仕が授業に代り、毎日奉仕隊として通勤した。太平洋戦争の深化とともに、海外からの物資の輸入・移送が途絶し、国内生産も労働力不足や空襲被害などによって減少し、物資の不足は深刻化し、国民生活に大きな支障が生じてきた。松尾八恵茂十六星会お硫黄島が陥ちてからは漸次米軍機が東京そのような状況に対応するために、国は配給制学徒動員動員された日立航空機立川工場は二十四時間フル操業の三交替制でした。当然に未成年者の学徒も、女学生も深夜労働に従事に来襲し始め、沖縄が占領されると空襲はより激しくなった。飛行機を造っていたこともあり、動員先でもしばしば空襲に遭った。昼食時、戦闘機の来襲があり、逃げこ度を実施、1940（昭和15）年6月から六大都市で砂糖・マッチの配給制を開始し、1941（昭和16）年4月からは六大都市で主食（米）を、1941（昭和16）年11月からは魚類を、1942（昭和17）年2月かさせられました。一週間毎の三交代勤務は、その度に食事時間や睡眠時間が変るわけで、次第に胃腸の調子が悪くなり、睡眠不足になって行くことは経験者でなければ、理解して頂けないかも知れません。私の仕事は小型旋盤でエンジンの部品を作ることでしたが、仕事そのものよりも、寄宿舎から往復三時間もかかる早朝、深夜の通勤が苦痛でした。やがて立川工場もグラマンの空襲を受け、工場は半壊、動員学徒十数名を含めて、多数の死傷者が出た模様ですが、当時のこととて数字の公表はありませんでした。明終戦まぎわの食糧難時代のトウモロコシ畑での作業コーリャンめしんだ松林が縦横に銃撃され、僅かな高粱飯どんぶりの入った丼を必死に抱えて伏せるすぐ横を、耳元でドラムを叩くような音と土煙をたてて銃弾が過ぎて行き、生きた心地のなかったこと、ある時は避難した防空壕の中で、ズーン、ズーンと骨身に応える爆弾炸裂の地響きに身動きもできず、終って壕から出た目に映った破壊の惨状―やがて動員の中・女学生が何人かが爆死したのを耳にした。（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、246頁）このように明星中学生に危険、悲惨な体験を強いた勤労動員であったが、1941（昭和16）年12月以降は防諜上の理由から勤労動員先は『体験教育』紙上において匿名化され、「軍勤労奉仕作業」、「○○本廠勤労奉仕」などと記載されるようになり、さらに『体験教育』は第177号（1943（昭和18）年10月）を最後に休刊となり、詳細は具体的に把握できない。1945（昭和20）年ごろには3・4・5年生が常時勤労動員されるようになっており、明星中学校の使用しない教室に陸軍東部軍経理部府中教育隊（経理下士官候補生の訓練隊）が入って、教育らは衣料品・味噌醤油を、1942（昭和17）年11月からは青果物を、と次々に配給制を実施した（吉田裕『アジア・太平洋戦争』（シリーズ日本近現代史⑥）2007年、124頁）。このような物資、特に食糧の不足は食べざかりであり、勤労動員で肉体労働に従事する多数の中学生が生活する寄宿舎の維持に大きな影響を及ぼした。当初は食糧不足を補うための自給自足を図り、1939（昭和14）年には校内「北斗寮西側にこの度、一千五百坪程の農園を新設する事になり、開墾を終り、区画も出来まして、生徒の活躍を待って居ります。」（「編集後記」（『体験教育』第123号、1939（昭和14）年3月）8頁）と記載されており、第125号には、「北斗寮の西側一千六百坪の開墾は三月中に完了して居りましたが、新学年と共に、作業時間に其の仕上げに取り掛り、二週間で完了、今は立派な農園になりました。国策に従って、蔬菜類・米麦類・甘藷・綿花と言った様なものを主に作って居ります。」（「編集後記」（『体験教育』第125号、1939（昭和14）年5月）8頁）と記載されている。さらに1943（昭和18）年には明星中学北方の櫟林が開墾され、明星中学校生徒もこれに参加、『体験教育』第172号（1943（昭和18）年5月）紙上には開墾に参加した奮闘して居る。拓土希望は我が潔よしとする所勿論真先きに参加した。放課後残照を背にして、一つ一つ鍬を打ママち込む。我が裸体の肉魂が隆々と動き、その度に荒地は平らにされて行く。事業は未だ始めた許りであるのに参加者の相当に多いのは、矢張り明星かなど嬉しくなる。見渡せば亭々たる松林に続くあたり点々と鍬が動いて居るのだ。空に銀翼の爆音轟き、校庭よりは運動に鍛えて居る若人の気合が四隣に木魂して来る。皆やっているなと心に叫び度くなって来る。よし一つやろう鍬は熱して来る……。「松下村塾だ。」市谷の声だ。そうだ。此の地拓いて国に役立て、心身を鍛えて、切られて行く武蔵野の櫟葉に、そして身を武蔵野の土とされた松陰先生に我は今汗して応えまつるのだ。（『体験教育』第172号、1943年5月、3頁）このような努力によって太平洋戦争中は寄宿舎を何とか維持してきたものの、敗戦後になって主として食糧事情から寄宿舎を維持することができなくなり、1947（昭和22）年3月には閉鎖のやむなきにいたった。児玉九十は当時の状況を回想して卒業生（寄宿生）との座談会で次のように語っている。食糧事情からどうにも維持できなくなったんでね。あの時分は、ぼくはもう、みんなの顔ばかり毎日見ていたんですよ、食べられる野草を探して歩きましてね。佐藤君なんかも記憶あるだろう。CHAPTER1第1章124MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory125

## Page 064
![Page 064の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000064.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部ほんとうに情けない状態になって、ちょっところが米空軍の空襲に変化が起こり二と生命の危険さえ感ずるようになってね。月頃から七月までは、焼夷弾による夜間のヤミ買いをすりゃあいいのだけれども、なんとしても、道徳を説いて、うらに廻って、都市爆撃に代ったのである。寮では十五、十六、十七星が勤労動員でColumn8海外勤務者子弟の委託受け入れヤミ買いをしているというんじゃ……。み疲れて眠る頃、毎夜のB29の訪問を受けた。んなの布団にも困ったね。綿だけになっ空襲警報になると眠るのをやめて防空壕へちゃうんだ。それで、うちの家内が廻って行かねばならない。寮ごとに入る防空壕は歩いて修繕するんだけれども、恥ずかし定まって居り私の入る壕は、学校の講堂横がってみんな隠すというんだね。綿の出たの松の木のそばである。のを。それくらい可哀そうなんだが、布地私も他の寮生も考える事は同じである。がないんだ。それで、しょうがないから浴一、布団の中で、ゆっくり眠れればよい。衣を解いて、それを使ったんです、糸もな二、寮生のベークライトの食器が、瀬戸物いんで、浴衣を解いた古い糸を使ったものの茶碗に戻って、おひつから御飯を、盛ですね。何もかもひどかった……。それでり切りでなく、たべてみたい。遺憾ながら寄宿舎を閉鎖するということに三、動員がなくなり授業を再開してほしい。なったわけです。しかし、諸君にとって寄この三つが主なる事であった。宿舎生活というのは、思い出としてもいろいろと深いものがあると思うんですね。（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、219～220頁）（注：文中の「中島飛行機武蔵工場」は隣接する武蔵野町（現：武蔵野市）に立地していた）（「思い出を語る会旧制明星中学校寄宿生」（『体験教育』創立540周年記念特集、1973年）9頁）この文章には戦時下の中学生が、当時の状況や日々の生活についてどのように感じていたの満州国・明星中学校覚書1923（大正12）年の明星実務学校創設以来、明かが率直に綴られている。星教育の一つの大きな特徴となり、多くの教育効果をあげてきた寄宿舎も、時代状況にはあら海外勤務者子弟の委託受け入れがえず、このような状況に陥って閉鎖せざるを1932（昭和7）年の旧：満州国建国以来、旧：満えなくなった。州国政府勤務などで旧：満州に在住する日本人なお、明星中学校は寄宿舎も含めて空襲を受も増加してきたが、その子どもたちの中等教育けることはなかったが、府中市には陸軍燃料廠についてどのようにすべきかが課題となり、旧：も立地しており、近隣に軍需工場も立地してい満州をたびたび訪問するなどの縁があった児玉ることから空襲警報が鳴ると避難することが繰九十に相談がよせられた。その中で義務教育修り返された。当時の寮の空襲に対応する状況に了後の子どもたちに対して日本内地に新たに寄ついて、卒業生は次のように回想している。宿制中学校を開設する案も出たが、これは担当する責任者の問題もあって実現しなかった。そ「思い出」（抜粋）神谷武十五星会のため、方針が一転し、明星中学校で受託する空襲下の寮という案が出された（児玉九十『明星ものがた昭和十九年の十一月末から二十年の二月り』1998年、62頁）。この受託事業の実施についまで中島飛行機武蔵工場を手始めとして、て、『体験教育』第177号（1943（昭和18）年10月）明星中学校生徒定員変更申請書各地の軍需工場に対する昼間高々度精密爆紙上において次のように報告されている。国立公文書館収蔵「明星中学校生徒定員変更認可」撃が続けられていた。CHAPTER1第1章126MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory127

## Page 065
![Page 065の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000065.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部「満州国日本人官吏子弟教育の受託決定」に一学級を増置するものとす。中学校生徒定員増加の必要なる理由書」と題さ諭岩河信義・船越好文の3名が旧：満州国新京昨年来、満州国政府日本人官吏子弟の教（国立公文書館所蔵「明星中学校生徒定員変更申請書」添付文書）れ、かねて修学年数短縮（5年制から4年制へ）に（現：長春）に出張して実施、1945（昭和20）年度育を本校に依託したいと、同国政府から懇よって2学級減となることに対応して各学年3学入学生の選考については、1944（昭和19）年の冬請されていましたが、今春、校長渡満の節「覚書」第2条・第3条・第4条では定員増加に級としたいとの意図があったが、旧：満州国か季休暇中に校長児玉九十と教諭加賀谷篤一郎・同国要路と相談の結果、受託する事に決定伴う校舎と寄宿舎建築・毎年度経常費に関するらの毎年35名の依託要請に応ずることとしたこ麻田穂太郎の3名が出張して実施した。この年のいたしました。旧：満州国から明星中学校への資金援助、第5条とにより1944（昭和19）年度から実現することと選考修了後、児玉九十はすぐに帰国し、教諭加依託の児童は満州にある大東亜省管下のでは入学考査方法、第6条では中学校役員、第7したと記述している。「校舎増築明細書」も添付賀谷・麻田の両名は初めての渡満であることか国民学校出身の日本人官吏の子供で、願書条では生徒欠員補充、第8条では1944（昭和19）されており、普通教室（1室15坪7合5勺=約52ら、各地の視察に回ったが、海城で麻田が病気は満州政府の人事処に提出し入学考査に合年度の第1学年から1学級増を実施することが規㎡）4室・廊下・便所など校舎1棟、計90坪=297のため急逝するという不幸な出来事もあった格した者に限る事になっています。入学考定されている。この協定締結を受けて明星中学㎡、講堂（校舎平面図に記載されているものの、（『明星ものがたり』、62～66頁）。査は今年は、冬季休暇に行う予定でありま校においては種々の検討や準備を進め、1943（昭抹消されていると見られる）と寄宿舎1棟12室の1944（昭和19）年4月に受託第1期生と同時に明すが、第二回からは八月の夏休（個人鍛錬期和18）年5月23日開催の財団法人理事会において増築を行うものとしている。増築工事に関して星中学校に入学した吉田和夫は、「この年から明間）に入学考査を行う予定であります。人員受託生受け入れと、それに伴う定員変更を決定、卒業生荒井正大は、1944（昭和19）年10月10日発星としては初めて一学年が三クラス編成となは毎年卅五名宛であります。従って現在の二学級制が三学級制となり、将来は全校で1943（昭和18）年6月20日付で府中町役場経由、東京都長官大達茂雄を経て文部大臣岡部長景宛信の児玉九十の書簡の中に「資材難の最中での校舎増築工事に現在は既に姿を消して了った満り、生徒は百五人になった。…（略）…この年にママは満鉄（旧：満州、現：中国東北部）の日本人子十二学級となる訳であります。此に要するに、次の「明星中学校生徒定員変更申請書」を提州国在日大使の『絶大なる御努力によりすでに弟が初めて入学した年でもあったが、彼等は遠諸施設は近く着手する事になって居ります。出した。セメントも手に入り』とその協力ぶりが述べらく親元を離れて寮生としての生活を始めた。」（『体験教育』第177号、1943年10月、1頁、補注：旧制中学校は5年制であったが、当初は4年制に短縮されていた）「明星中学校生徒定員変更申請書」れ、当時の日本が置かれた内外情勢が眼前に描き出されるようであり、貴重な記録である。」（荒（吉田和夫「四十数年前の懐かしいことども」（『児玉九十先生を仰ぐ』所収）261～262頁）と回受託に関する協定は、1943（康徳=旧：満州暦本財団法人設立明星中学校生徒定員は現ママ在参百五拾名（一級丗拾五名宛拾学級）に有井正大「限りなき恩愛」（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、所収、126頁）との関連する記述がある想している。なお、明星中学校側の資料によれば受託入学したのは旧：満州国政府勤務者の子10・昭和18、併記）年5月15日付で、旧：満州国国務院総務庁人事処長星子敏雄と財団法人明星之候処今般別紙添附の理由に依り七拾名を増加し全校定員四百弐拾名（一級丗五ママことを紹介している。しかし、この校舎増築は現在残された資料から見る限りでは実現しなどもと記録されているが、この作文では満鉄勤務者の子どもと記されており、「覚書」に記載さ中学校長児玉九十との間で取り交わされた「覚名宛十弐学級）と致し度候間御認可下度かったと推測される。受託生のための寄宿舎建れている「選定」によって入学資格を得た生徒も書」となっており、その内容は前文と9カ条から理事会決議書、定員増加の理由書、収入支設については、新築が困難であったようで、地いたと考えられる。なるが、前文と第1条は次のとおりである。出予算書、校舎増築明細書、定員増加に伴方の農家の大きな蚕室などを買い入れて移築改旧：満州国在住の日本人の子どもを受け入れう設備明細書、定員増加に伴う設備費財源装する計画があったが、実現しなかったと記述たことは、海外に在住する日本人の子どもの教「覚書」（抜粋）明細書、学級編成表、最近五ヶ年間入学志されている（児玉九十『明星ものがたり』1998年、育機会の確保について対応していくことの必要満州国政府は財団法人明星中学校の教育願者同許可者数、校舎増築平面図、校地並67頁）。いずれも実現しなかった理由は、太平洋性について、留学生の受け入れからさらに組織方針に賛意を表し政府職員の子弟を同校にに校舎関係図等相添え此の段申請候也戦争下において建築資材などの物資供給の逼迫的対応が必要であるという認識を深める契機に入学せしむることヽし総務庁人事処長星子昭和十八年六月二十日や労働力不足による工事実施の困難の影響によなったと考えられる。これは、後にカフジ明星敏雄と同校長児玉九十との間に左記各項に東京府北多摩郡府中町貫井前一二二五七ると考えられる。小学校の開設に始まる各海外の小学校・幼稚園付意見一致したるに付本書を作成し双方記財団法人明星中学校定員変更申請は1943（昭和18）年9月7日付で認の開設に発展する明星学苑の国際化志向の出発名調印し各一通を領置す。理事児玉九十可採決定され、9月8日に東京都を経て進達された。点となったと考えられる。一、財団法人明星中学校（以下中学校と称文部大臣岡部長景殿この受託事業は、1944（昭和19）年度と1945（昭す）は毎年政府職員（総務庁人事処長の選定したる場合にありては政府職員以外のものをも含む、以下同じ）の（国立公文書館所蔵「明星中学校生徒定員変更申請書」、補注：現定員350名は中学校5年制にもとづく収容定員数であり、申請定員420名は中学校4年制に対応した収容定員数である。）和20）年度の2年間実施されたのみで、日本の敗戦、旧：満州国の瓦解によって終了した。1944（昭和19）年度入学生の選考については、1943（昭『体験教育』の休刊（昭和4）年1月1日に、その教育理念や教育活動について保護子弟三十五名を収容するため各学年添付文書のうち「定員増加の理由書」は「明星和18）年の冬季休暇期間中に、校長児玉九十と教者に知らせるとともに、社会に広報することをCHAPTER1第1章128MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory129

## Page 066
![Page 066の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000066.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部目的として広報紙『体験教育』を創刊し、以来B5たので、ずっと続けて居りましたが、昭和判8頁で、月1回発行することを続けてきた。太十八年八月に至り、大東亜戦争、愈々激化Column9『体験教育』の休刊―太平洋戦争下の最終号―平洋戦争の深化によって用紙の確保が困難になり、印刷事情も悪化し、新聞に関してさえ全国紙については統合や減頁が進んだことや、地方し、物資益々詰って来まして、この様な刊行物は一時廃刊する様に政府から勧告がありまして、已むなく、残念ながら一時廃止紙については原則1県1紙に統合が進んだことにする事になったのであります。象徴されるように、印刷物の刊行を継続するこ（『体験教育』第178号、1956年5月、1頁）とは困難となってきた。『体験教育』についても従来通りの刊行を維持することの困難さが増し太平洋戦争の影響は、このような小規模な刊てきて、第153号、1941（昭和16）年9月発行から行物の定期刊行を維持することさえ停止させるB5判8頁が4頁に減頁されたが、紙面には減頁にという点にまで及んだのである。敗戦後復刊の関する告知は掲載されていない。さらに177号、話は何度も出たようであるが、敗戦後の混乱・1943（昭和18）年10月発行を最後に休刊となった物資不足や、明星中学校が戦後の学制改革に対が、この際も紙面には休刊に関する告知は掲載応する改組や新設の業務に追われた事情などがされていない。告知もなく休刊にいたったこと影響し、復刊は約13年後になった。『体験教育』は、休刊が明星中学校にとって予期せざる突然の休刊期間は、日本社会にとっては太平洋戦争のことであり、外部からの指示によること、あの激化と敗戦、戦後民主化改革という大きな変るいは外部からの指示によることを明らかにで動の時期であり、学校教育にとっては太平洋戦きない状況にあったことを示唆している。争下の中学校の修学年数1年短縮や勤労動員な『体験教育』の休刊について、児玉九十は1956ど戦争の影響を受けた時期であり、さらに、戦（昭和31）年5月20日に復刊した『体験教育』第178後の教育制度の民主化改革等や新学校制度にも号に掲載された「体験教育の復刊に当って」の中とづく諸学校の創設などの大きな変革があったで次のように記述している（抜粋）。時期である。このような時期に、このような様々なできごとに対して明星中学校がどのように対「体験教育の復刊に当って」（抜粋）応し、どのように変化してきたのかを明らかにこの体験教育というのは旧制の明星中学することは重要な課題であるが、それを明らか校の発足三年目に当る昭和四年一月一日ににするための資料として後年回顧して記述され第一号が出されタブロイド判八頁の小新聞たものはあるが、当時の第一次資料、文書資料『体験教育』は1943（昭和18）年10月15日付の第177号をもって、休刊となったが、上掲は、休刊前最後の号の紙面である。でありましたが、小さいだけに一字残らず読むという便利もありまして、生徒、父兄、卒業生は勿論の事、一般購読者にもよく読である『体験教育』が発行されていないことは大きな限界を生じさせるといわざるをえない。上掲は第1面であるが、全4頁の内容は、次の通りである。国民の一挙一動皆戦力児玉九十満州国日本人官吏子弟教育の受託決定十月教務日誌抄倒而後已第四学年仁科荘三郎勤労奉仕第一学年鈴木孝一運動会の朝第二学年斎藤忠新なる覚悟で第三学年栗原美樹夫学制改革について第四学年石川昭登山行軍第五各年田中誠之同窓会壮行会まれたのでした。こんな訳で昭和四年六月二十四日には三種郵便の認可も出たわけでした。此の最初の八頁形は昭和十六年八月号即ち百五十二号迄で翌月からは四頁になりました。これは昭和十二年からの日支事学校制度の改編日中戦争、太平洋戦争の深化に対応して、日本の政治体制や経済体制、社会制度、社会や人々の生活のあり方など全てが戦時体制に変化していく中で、学校制度や学校教育のあり方も変化記事・生徒作文の題目からも、この時代の状況・雰囲気が感じとれる。変が五年目になって、紙なども段々少くなって来た為でありました。四頁に半減さしてきた。中学校に関して、初めに入学者選考方法の改れても教育上大切な機関になって居りまし革が実施された。1939（昭和14）年9月には文部CHAPTER1第1章130MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory131

## Page 067
![Page 067の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000067.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部省が中学校入学者選抜方法の改革を企図し、し、1945（昭和20）年度入学向けの上級学校受験も周章てる必要はない。我々としては已に十九年三月に「学徒勤労動員の通年実施」1940（昭和15）年度入学生に対する選考から学科をみとめ、1945（昭和20）年3月から実質的に4年この覚悟は出来て居た筈である。我が国がが指令され、各中等学校以上は、十九年の試験を廃止し、小学校からの報告書と中学校側卒業という制度を適用したと理解される。国の一兵でも多く必要とする時文科系統の学校一学期から学校を工場化するか、軍需工場が実施する口頭試問（人物考査）・身体検査の3者制度実施と明星中学校における実施の時期の間が縮少される事は当然な事であり、又中学に教場を移して、生産に従事するようにを総合して選抜することとなった。この目的はに1年の時間的なずれがあったように見えるが、生としても出来るだけ早く卒業して上の学なったのです。明星でも一年生が学校に残学科試験を廃止することによって極端な受験準資料が不足しており、残された資料間でも記載校へ進むようにせねば国家の要求に応じらるだけで、二年生以上は東芝や日本製鋼な備教育を廃し、児童の体位向上を図ることや小に不整合があり、実態を十分明確にすることがれないのである。我々は目前に入学試験をどの工場に入りました。先生はその工場へ学校における受験準備を中心とする「歪曲教育」できない。控えて居る。それを突破するためには唯努出かけていって、わずかばかりの授業をすを是正することにあるといわれた。この改革に卒業後の進路である高等学校については、文力するのみ、この夏海兵を受験して最後まるという毎日でした。しかし、昼夜交代制ついては、後述するように、大政翼賛会中央協科は定員を1/3程度の約1,000人募集とし、理科で残った人も居るのだ。その人々を手本との作業ですから、実際には殆ど授業にはな力会議における小説家菊池寛と児玉九十の論戦を増員、大学についても文科系統はごく少数のして先ず我々に与えられた一大試練たる入らず、各人が仕事の合間に自学自習するのに発展した。1942（昭和17）年度入学生に対するほか廃止するものとされた。さらに、1945（昭和学試験を突破しなければならない。何とが精一杯でした。二十年二月には、さらに選考からは、東京府の指示により東京府内の公20）年3月には「決戦教育措置要綱」を閣議決定いっても我々の職務は勉強をする事であ「国内学校の授業を停止、生産面へ勤労動私立中学校は同一日（第1回=3月8日、第2回=3し、国民学校初等科（1941（昭和16）年4月からる。勉強する事が国家の科学を進展させる員」という指令が出て、まったく名目だけの月18日）に入学者選考を実施することになった。1947（昭和22）年3月まで、小学校は国民学校と基礎となり、又大きく言えば戦力増強の一学校になりはててしまったのです。いま考これは一人の受験生が多数の中学校を受験する改組・改称されていた）を除く全ての学校の授業部分ともなるのである。しかし無茶苦茶にえると「授業停止」などと、よくもあれほどことを阻止することによって、過度の受験競争を1年間停止した（吉田裕『アジア・太平洋戦争』勉強するのはよくない。勉強する時は一心の徹底した教育否定の命令に従ったものだを是正しようとする方策であった。（シリーズ日本近現代史⑥）2007年、168頁）。こ不乱にやり、其の他運動もする。修養もすとも思えますが、その時は一億一心で戦うこのように中学校教育に改革が及ぶなかでの措置に加え、召集延期制度の廃止、勤労動員る。色々な事を織りまぜて始めて立派な人ことが先決だと、みんな異常なほど気を張も、明星中学校は教育実践に力を注ぎ、1941（昭の拡大化などもあって、学校教育の機能は縮小格は養成されるのである。唯此の大変革にりつめていましたので、それほどの違和感和16）年度と1942（昭和17）年度には科学教育振され、敗戦時が近づくにつれ遂にはその機能が遭っても我々は何も動ずる事なく常に着実はなかったように思います。興指定校の指定を受けている。学校外での水泳実質的に停止されていったといわざるをえない。に自分の学業に励むと共に益々心身を練磨（『児玉九十自伝』1990年、278～279頁）大会を1942（昭和17）年10月15日には貫井プールこのような相次ぐ学制改革について、当時のして皇国に御奉公出来る人間にならねばな（現：小金井市）で、1943（昭和18）年9月9日には中学生はどのように受けとめていたのであろうらない。この記述にあるように、学校教育は実質的に東京商科大学プール（現：一橋大学小平国際キャか。『体験教育』第177号（1943（昭和18）年10月）（『体験教育』第177号、1943年10月、4頁）は機能停止に陥ってしまっていたのである。まンパス）において実施、運動会（1942（昭和17）年には第4学年石川昭の「学制改革について」と題た、それに対する当時の受けとめ方も、ここに記10月4日）や、東京高校尋常科との対抗陸上競技された作文が掲載されている。中学生としても学制改革の意図については理述されているようなものであったと理解される。（1942（昭和17）年9月12日）などの体育行事も実解しており、それに対応していこうとする決意施していた。「学制改革について」が示されている。当時の社会的状況や、作文が戦時下、異例の卒業式1899（明治32）年施行の「中学校令」に代わり、第四学年石川昭公開されるという事情を考慮する必要はある1943（昭和18）年1月21日にそれまでの「中学校1943（昭和18）年4月1日には「中等学校令」（1943我々学生にも遂に決然立ち上る日が来たが、当事者としての中学生の考えが率直に綴ら令」に代わって「中等学校令」が勅令によって定（昭和18）年1月21日勅令）が施行され中学校は4年制とされたが、これを新規入学生から適用すのである。先に文科系統の学生の徴兵延期の停止が実施せられ今又中学校は二年繰上ママれていると理解される。しかし、この作文に示されているように生徒たちが勉強し、運動し、修められ、4月1日施行、中学校の修学年限はそれ年間から1年短縮されて4年間と変更さるのではなく、1943（昭和18）年当時の在学生にげて昭和二十年度より四年制度となるので養しようという意欲を持っていても、この後された。この「中等学校令」は1943（昭和18）年4月も適用し、当時の中学4年生は1944（昭和19）年ある。即ち現在の三年生から四年卒業とならに戦況が悪化するとともに通年勤労動員、授1日から施行され、1943（昭和18）年度入学生から入学向けの上級学校受験資格が与えられ、実質るのである。我々は昭和十九年度の入学試業停止となり勉強・運動・修養のできない状況適応するとされたが、これに先立ちこの新令の的に在学期間4年で卒業ということにされた。明験にはすべて上級学校の受験を許され一刻に陥っていったのである。趣旨に則して1944（昭和19）年度入学を目指して星中学校では、現在入手することのできる資料も早く御国に尽すように要求されたのであ児玉九十は1944（昭和19）年以降の状況につい1943（昭和18）年度中に実施される高等学校などからは1944（昭和19）年度在学の4年生から適用る。此の学制改革の時に際して、我々は何て、次のように記述している。上級学校の入学試験を中学4年生が受験できるCHAPTER1第1章132MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory133

## Page 068
![Page 068の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000068.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部こととされ、この措置によって実質的に中学校は在学期間4年で卒業ということになった。明星年遅れて対応したようで、1944（昭和19）年度末である1945（昭和20）年3月に、5年間在学した1940（昭和15）年度入学生と、4年間在学した1941（昭和16）年度入学生を伝』278頁）という児玉九十の記述もある。これはいずれが正しいかということではなく、勤労動員先の事情により、1日休暇を得て明星中学校で挙行された卒業式に出席できた生徒もあり、それができなかった生徒に対しては勤労動員先に校長らが出向き卒業証書を授与することが行わ中学校界、特に私立中学校界を代表する立場にある者として様々な公的活動に従事してきた。『児玉九十自伝』に掲載された「児玉九十略年譜」（『児玉九十自伝』1990年、518～519頁）と『体験教育』各号に記載された内容からは、次のような活動を読み取ることができる。する所あり其の功績顕著なり茲に教育に関する勅語渙発五十年の佳辰に方り之を表彰す昭和十五年十月三十日文部大臣綬三位勲二等橋田邦彦」に示されている。さらに、1944（昭和19）年11月には「多年私学教育に尽瘁した功」により藍綬褒章を授与されている。同時に卒業させるという異例の事態となった。この措置について児玉九十は「すでに学業年限は一年短縮されていますから、十九年度の四年生は、五年生と一緒に工場で卒業式を行う、というありさまでした。」（『児玉九十自伝』278頁）と回想している。1941（昭和16）年度に入学した生徒たちは、「入学した昭和十六年に戦争が始まり、戦時非常措置で、四年修了で全員卒業させられた昭和二十年が終戦の年という巡り合せで、まさに戦時下の明星の生活を味わわされた不運な学年でした。したがって本来の明星の教育を受け、良き時代の寄宿舎生活の片鱗が味わえたのは僅か一年足らずでした。」（松尾八恵茂『児玉九十先生を仰ぐ』）232頁）と回想しているように、在学年数の4年間への短縮、勤労奉仕や軍事教練の強化、授業時数の削減、勤労動員など異例ともいうべき中学校生活を送って卒業を迎えるということになった。卒業式は「卒業式自体は、何の感興も思い出も残らぬ味気ないものでしたが、『仰げば尊し』の代りに歌わされた『海行かば』の歌声が今もって悲しく耳元に残っております。」（松尾八恵茂「暗い谷間の寄宿舎生活」（『児玉九十先生を仰ぐ』）239頁）という、時節に合わせた内容であった。卒業生である4年生・5年生は勤労動員中であったが、卒業式の当日は「慌しい中で一日だけ、卒業式の日は動員先が休みをくれた。」（山崎豊彦『児玉九十先生を仰ぐ』1990年）248頁）という記述もあるが、他方、学校で挙れたのではないかと理解することが妥当であろう。卒業生の中には卒業前の2月、5年生在学中に軍隊に志願して、「卒業式は三月の中旬頃だったはずだが、その時には私は広島県の福山にあった暁第二九五三部隊の営庭で、二〇粍の高射機関砲の訓練をうけていた」（岡本孝成「回顧四〇年」（『児玉九十先生を仰ぐ』）196頁）者もいる。卒業後については、「増産体制を保持するため私達十五星と十六星は共に廿年三月卒業式は行ったが、そのまま三ヵ月動員が延長となり寮で頑張った。」、「三箇月間も上級学校への進学が延期され、新しい動員先への配置転換が実質の進学であった。」（神谷武「思い出」（『児玉九十先生を仰ぐ』）220／222頁）という事態になった。卒業までの在学年数の短縮、卒業式のあり方、卒業生の状況、卒業後の進路、勤労動員の延期など、いずれをとって見ても戦時下でなければ考えられない異常な状況であった。この年の卒業生の一人は「十六星会は多感な発育期を戦争で歪められた世代であり、明星中学校（旧制）の四年間が『大東亜戦争』という暗い、忌しい時代でした。もし平和な時代に、五年間みっちり明星の教育を受け、寄宿舎生活が体験できたらどんなに良かったろうと残念に思えてなりません。」（松尾八恵茂「暗い谷間の寄宿舎生活」（『児玉九十先生を仰ぐ』）232頁、注：16星会とは1941（昭和16）年旧制中学校入学、1945（昭和20）年卒業の年次を示す）と回想しているが、まさにこのように思わせる学校生活であった。児玉九十は成蹊時代の1922（大正11）年から全国中学校長協会理事に就任していた。1932（昭和7）年2月から全国私立中等学校恩給財団理事に就任していたが、1943（昭和18）年2月には理事長に就任、1942（昭和17）年3月から東京都私立中等学校恩給財団理事に就任、1944（昭和19）年には理事長に就任した。1932（昭和7）年からは静岡県育英会常務理事に就任した。1939（昭和14）年には東京府の委嘱により4月22日から5月15日の間、府立中学の校長5名とともに戦時下の中国（当時の表記によれば「北支・中支」）を慰問や文化建設状況視察のため訪問し、その成果につい月16日に全校生徒に対して講演、その要旨を『体験教育』第127号（1939（昭和14）年7月、1～3頁）に「支那視察より還りて」と題して掲載している。1940（昭和15）年7月8日から5日間、東京市・帝国教育会主催で開催された日満支三国東亜教育会議では日本の中学校代表として「我が国中学校に於ける日満華三国親善に関する教育の概況」と題して講演、その要旨を『体験教育』第139号（1940（昭和15）年7月、1～2頁）に掲載している。1943（昭和18）年4月23日から約1カ月、旧：満州国政府の招聘により、各地の視察と講演を行い、『体験教育』第172号（1943（昭和18）年5月、1頁）にその報告「躍進途上の満州帝国」を掲載している。これらを含む活動実績が評価されて、1940（昭和15）年10月30日には教育勅語渙発50周年記念式に際して教育功労者として文部大臣表彰を受けたが、表彰の趣旨は『体験教育』第143号（1940児玉九十の活動は教育界以外にも広がり、1939（昭和14）年3月に司法保護委員に就任した。1937（昭和12）年12月に国民精神総動員実行委員に就任したことを経て、1941（昭和16）年5月に大政翼賛会中央協力会議議員に就任した。児玉九十が大政翼賛会中央協力会議議員に就任した理由としては、3次（第1次=1937（昭和12）年6月～1939（昭和14）年1月、第2次=1940（昭和15）年7月～1941（昭和16）年7月、第3次=1941（昭和16）年7月～1941（昭和16）年10月）にわたって総理大臣を務めた近衛文麿（1891（明治24）年～1945（昭和20）年）と、そのブレーントラストともいうべき「昭和研究会」と関わりがあったことが考えられる。昭和研究会は、近衛文麿の下に組織された政策の研究・提言集団であり、後藤隆之助（1888（明治21）年～1984（昭和59）年）が主宰し、1933（昭和8）年から活動を開始、1936（昭和11）年11月に正式発足した。児玉九十は昭和研究会の正会員ではなかったと推測されるが、昭和研究会発足と同時にスタートしたその分科会と位置づけられる「教育問題研究会」の委員であった。この研究会の委員としては、阿部重孝、木村正義、大島正徳、城戸幡太郎、児玉九十、後藤文夫、後藤隆之助、佐野利器、下村宏、関口泰、田沢義鋪、宮本武之輔、前田多門、宮島清の名前が記録されており、ほとんどが研究者・大学教員、言論人であり、教育実践者の委員は数少なく、特に大学・社会教育領域以外の学校教育の実践者としては児玉九十が唯一の構成員であった。この委員会は、教育改革の目標を「教行した卒業式だけではなく、前述のように「十九（昭和15）年11月、8頁）に掲載された表彰状の文育の機会均等」と「教育の実際化」におき、具体年度の四年生は、五年生と一緒に工場で卒業式戦時下の児玉九十章「表彰状明星中学校長児玉九十夙に斯的内容として、①学校制度を単線型学校体系へを行う、というありさまでした。」（『児玉九十自日中戦争・太平洋戦争の開戦後も児玉九十は道に志し教学の振興に貢献し文化の発展に寄与改革、②各学校の教育内容を上級学校への準備CHAPTER1第1章134MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory135

## Page 069
![Page 069の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000069.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部教育から各段階での完成教育へ改革、③中等教育を普通教育を行うものと実業教育を行うものに整理する改革、④私立学校の制度・教育内容を自由化し特色ある教育を行うようにする改革のためには教育費を惜まぬ事。二、教育者は大政翼賛会の目的が臣道実践即ち教育勅語の実践躬行にある所から、我が事として、非常な熱意を以て、Column10考え方と共通する点を認めることができる（酒三、只、教育界として直面しつゝある大問などが取り上げられており、当時の児玉九十の翼賛運動の徹底に努力しつゝあり。井三郎『昭和研究会ある知識人集団の軌跡』題は、教員の大量欠員補充難と、師範172～175頁）。昭和研究会での活動が、のちの国民精神総動員運動、大政翼賛会への参画を求められる一つの契機となったと考えられる。1937（昭和12）年10月から、第一次近衛文麿内閣の主導の下で国民精神総動員運動が展開され、1937（昭和12）年12月に国民精神総動員実行委員が組織されると、児玉九十は委員に任命された。さらに、1940（昭和15）年10月に第二次近入学志願者の漸減の問題なり。此は国家の消長に関する重大問題にして、此が解決は一に教師の物心両面の待遇改善にあり。待遇改善は、皇国民錬成教育の徹底並に臣道実践の指導上、喫緊の大事につき翼賛会の熱意ある努力を切望す。という意味の三点だけを述べて置いた。児玉九十は明星中学校校長に就任する以前、成蹊中学校在任中から中国、朝鮮、旧：満州（現：中国東北部）を訪問していた。『児玉九十自伝』、『明星ものがたり』、『体験教育』各号などから確認できる訪問として、次のような訪問実績があげられる。1．1921（大正10）年夏全国中学校長有志30余名による「朝鮮・満州・支那視察団」団長として訪問。南満州鉄道会社主催によるものであり、旧：満州への人材招致のための視察を目的とする訪問。2．1922（大正11）年夏季休暇中成蹊中学校生の「朝鮮・満州視察旅行」を引率して訪問。3．1923（大正12）年夏季休暇中衛文麿内閣の下で国民動員組織としての「大政翼賛会」が発足すると、児玉九十は大政翼賛会臨時協力会議議員を総裁（総理大臣）から指名された。『体験教育』第145号（昭和1941（昭和16）年1月、3頁）「教務日誌」には「十二月十六日（月）晴校長先生先般大政翼賛会総裁より同会臨時中央協力会議々員を指名され本日より同会議に出張さる。」との記載がある。19日（木）には凝念訓辞の中で「大政翼賛会臨時中央協力会議の模様並に之に対する吾人の心構えに就いて」が取り上げられたとの記載がある。『体験教育』同号には「大政翼賛会臨時中央協力会議を了りて」と題した報告が掲載されている。その中で児玉九十が思想文化委員会である第四委員会において発言した内容の要旨とその反響について次のように記述されている。「大政翼賛会臨時中央協力会議を了りて」（抜粋）教育問題は思想文化委員会たる第四委員会で扱われたのであるが、発言僅に五分という事であったから、自分は一、世界をリードする人材養成のため教育の質の向上を教育国策の中心とし、此（ママ）此に対し、岸田文化部長から『教育待遇改善の事は、至極同感にて、政府にも進言し、翼賛会としても、已に一つの方法を考究中につき、今後共、此の両者を一層進むるつもりなり」という意味の回答があった。此の待遇改善の問題は総会にも報告され、翼賛会幹部にも、出席者にも相当の反響があった事と信ずる。（『体験教育』第145号、1941年1月、2頁、補注：岸田文化部長とは劇作家・小説家などとして活躍した岸田国士（1890（明治23）年～1954（昭和29）年）である。）ここに記述されているように、戦時下という時代状況に対応した発言も見られるものの、全体としては教育の充実や教員の確保・質的向上などを願う児玉九十の信念が戦時下においても積極的に発信されている。1941（昭和16）年6月17日・18日・19日に正式に大政翼賛会第1回中央協力会議が開催されたが、それに先立ち5月に児玉九十は正式に中央協力会議議員に正式に指名された。この時に指名された議員は各道府県代表・五大市代表と各界名であり、そのうち各界代表は106名であったが、児玉九十は中等学校（中学校・高等女学校・実業学校・青年学校）・小学校を代成蹊中学校生の「朝鮮・満州・東部内蒙古視察旅行」を引率して訪問。4．1930（昭和5）年7月17日〜8月4日明星中学校生の「第1回鮮満研修旅行」を引率して訪問。5．1934（昭和9）年9月20日〜10月3日全国中学校長協会の一員として朝鮮・旧：満州を視察するとともに、京城で「協議大会」、新京（長春）で「全国中学校長協会臨時総会」と「講演会」に参加。9月21日には旧：満州国皇帝溥儀に拝謁した。6．1939（昭和14）年4月22日〜5月15日東京府の委嘱により府立中学校校長5名とともに中国北部・中部を軍慰問・文化建設状況視察を目的とする訪問。7．1943（昭和18）年4月23日〜旧：満州国政府の招聘により各地の視察・講演のために訪問。新京（長春）で旧：満州在勤日本人子弟の明星中学校への受け入れについて武部総務長官と協議・契約に調印。8．1943（昭和18）年12月、冬季休暇中旧：満州在勤日本人子弟の受け入れのための現地入学試験実施のために訪問。9．1944（昭和19）年12月、冬季休暇中旧：満州在勤日本人子弟の受け入れのための現地入学試験実施のために訪問。このように旧：満州を数多く訪問していることから、旧：満州で実業家として活躍していた山下太郎と何らかの関係ができたのでないかと推測される。山下太郎は1958（昭和33）年にアラビア石油株式会社を創業し社長に就任、1960（昭和35）年から同社はサウジアラビア・クウェート中立地帯（当時、現：サウジアラビア）に原油産出基地としてカフジ鉱業所内開設したが、鉱業所内に1967（昭和42）年に山下太郎の要請によりカフジ明星小学校・幼稚園を開設したことにつながったと推測される。注：満州・満州国は今日では使用が不適切な名称であるが、歴史的事象を扱うために歴史的用語として使用したことを付記する。CHAPTER1第1章136MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory137

## Page 070
![Page 070の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000070.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部表する委員として指名された。児玉九十は会議が「現行制度の根本を変更する意思なし」と結論らなかったこと、国会議員にならなかったことした。生徒たちはそれぞれの持ち場で、あの玉においていくつかの提案・主張をしているが、そづけて発表し、当時の中等学校入学者選抜の方から、敗戦後の占領下で行われた戦争協力者で音放送をどのような気持で聞いたろうかと思いの中で特に社会的な注目を集めたのは、1941（昭法は変更されないこととなった。あったことを理由とする公職追放（いわゆるますと、いじらしさで胸がいっぱいでした。し和16）年6月17日・18日・19日開催の第1回（臨この児玉九十の主張、特に教員への信頼性をパージ）の対象者にならなかったと、児玉九十はかも内地はもちろん、東亜の各戦場で生命をか時を含めると第2回に相当）中央協力会議におけ強く主張したことに対しては、後日教育界から後年記述している（『明星ものがたり』1998年、75けてたたかっていた教え子たちはこれからどうる中学校入試問題をめぐる、小説家であり文芸多くの賛同の声が寄せられ、「菊池氏の言をラジ頁）。なるのだろうか、なんとかして生きのびてほし春秋社社長であった菊池寛（1888（明治21）年～オで聴いた人々は『実にハラハラしたが児玉先いという切ない思いが、この夏空を渡って届け1948（昭和23）年）との論戦であった。児玉九十生が反対意見を述べて下さって救われた。あの敗戦られないものかとさえ考えました。そして、不「大政翼賛会第一回中央協力会議に於ける中学時先生がいなかったら、是正する道なく、どう1945（昭和20）年8月14日に日本はポツダム宣運にも生命を落とした教え子の無念さに想いい校入試問題に就て」（『体験教育』第150号、1941なったろう』とわざわざお訪ね下さった方もあ言受諾を決定し、連合国側に通告した。国民は8たりますと、涙は溢れ出るばかりでした。」（『児（昭和16）年6月、1～2頁）によれば次のようにり、手紙を下さった方もあり、…（略）…多数の月15日正午にラジオ放送された天皇自身が読み玉九十自伝』282～283頁）と、教え子に対する思記述されている。先生を集められて私に対する感謝の会を開いて上げる「終戦の詔書」によってポツダム宣言の受いが何よりも強く浮かんだことを回想している。当時、中等学校受験競争の過熱化、国民学校下さいました。」（『明星ものがたり』75頁）と記述諾、すなわち戦争終結、日本の敗戦を知った。放送後、明星中学校では職員会議を開き、9月における受験準備教育の過熱化に対して、文部されている。この放送を聞いて児玉九十は「昭和二十年八15日までの1ヵ月間を臨時休業とすることを決省（当時）が中等学校の入学選考は筆答を全廃『体験教育』紙上には、このほかに児玉九十が月十五日正午のラジオ放送で天皇陛下の無条件めるとともに、「なにごともお勅語に従って行動し、口頭試問による人物考査・国民学校の内申行った大政翼賛会中央協力会議で提案趣旨説明（ママ）降服の詔勅を拝聴した時は、日本の歴史始まっし、けっして軽挙妄動してはならないこと、こ書・身体検査の三者を総合して合否を決めると「科学教育の振興上至急に改善すべき事項」（第1（ママ）て以来、初めての降伏、しかも無条件降服（ママ）であとここにいたっては、もはや敗戦の責任は国民いう制度に改革していた。これに対して、菊池回会議、第150号、1941（昭和16）年6月、2～3りますから、涙を流さぬものはなく、すすり泣全体にあるのだから、責任を転嫁するような軽寛は国民学校で作成する内申書の公平性や、中頁）、「学徒の銃後協力体制強化」（第2回会議、第き慟哭もございました。長い間、張り詰めて来はずみな言動はいっさい慎もう」ということを学校が短時間の面接で行う人物考査に対する信155号、1941（昭和16）年12月、1～2頁）、「下剋ただけに五体も支離滅裂になるかと思われる申し合わせた。「これを、在校の一年生には講堂頼性に疑問を呈し、国民学校校長の中等教育を上の風潮を打破せよ」（第3回会議、第165号、1942程、力がぬけ『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』において訓話し、東芝や日本製鋼に出動してい受けるに足るという認定に基づく推薦と中等学（昭和17）年10月、1～2頁）などの要旨が掲載さというお言葉だけを心の拠り所としようとしてる二年生以上には、それぞれの現場に出向いて校による体格検査のみを行い、定員を上回る場れており、さらに、第152号（1941（昭和16）年8も、心身共にふらふらして、考える力さえない伝え、それをもって終業式ということにしまし合は抽選によるという「無条件くじ引き入学論」月、1～2頁）には大政翼賛会中央協力会議議員ような虚脱状況に陥りました」（『明星ものがたた。」（『児玉九十自伝』284頁）と対応した。を提唱した。これに対して児玉九十は、内申書として1941（昭和16）年8月15日に中央放送局かり』76頁）と回想している。同時に教育者として放送を聞いた時の状況について、当時2年生でを作成する国民学校への信頼、中等学校が行うら放送した「われらは翼賛す」の原稿が掲載され「しかし、いやしくも人間教育の真実を信じ、私あった鈴木正樹は「終戦の日の昭和二十年八月人物考査の信頼性などを理由とし、文部省の改ており、当時の児玉九十の考え方を知ることが学に理想の火を掲げて突き進んできた私には、十五日太平洋戦争の終結を学徒動員で上級生の革に賛成の主張を展開した。特に、菊池寛の主できる。たとい国が敗れようとも、一刻も教育をゆるがいない校内で、一年生と共に昔講堂の西に井戸張に含まれる内申書の信頼性に対する疑問につ1942（昭和17）年4月に実施された第21回衆議せにするわけにはいかない、という気持ちがむポンプがあった松の木の下に整列し、真夏の太いては、内申書を作成する教員の公平性・信頼院議員選挙（いわゆる「翼賛選挙」）では、翼賛政らむらと湧き起こって来ました。」、「国は滅んで陽が照りつける中、汗もぬぐわず、天皇陛下の性を傷つけるものであるとして強く反対意見を治体制協議会の推薦で東京7区（三多摩）から児も国民が生きているかぎり、教育だけは滅ぼし玉音放送を児玉九十先生、船越弘文先生等と共主張し、あわせて中等学校の人物考査への信頼玉九十を出すようにとの東条英機首相の命令がてはならぬ、という思いがしたのです。」と受けに拝聴し、口惜涙を流した事が強く印象に残っ性も強く主張した。これに対して「菊池氏は自分あったという東京府知事の勧誘を受けたが、児止め、「沢山のたいせつな子弟を預かっている私ております。」（鈴木正樹「児玉九十先生の満百歳は人間の中では教師は一番善良だと思っている玉九十は政治に出る気はなく、学校の教育・運としては、あちらこちらの工場へ勤労作業に出の大慶に思い出を寄せる」（『児玉九十先生を仰が、教師に悪を強いる様な制度がいけないとい営という本務と両立しないとの信念の下に出馬動させて、ろくに勉学の時間も与えてやれないぐ』）257～258頁）と回想している。日中戦争・太う意味だという様な意見を述べられた」。ほかを断った。当時の状況下で東条首相の要請を断心の痛みのうえに、空襲のたびに無事でいてく平洋戦争の時期を通して、明星中学校では在学に、慶応義塾塾長小泉信三（1888（明治21）年～ることは、きわめて困難なことであったと、児れと祈る思いで寝苦しい夜を重ねておりました生の年齢から大学などとは異なり生徒が徴兵対1966（昭和41）年）の当時の入学選考制度に対す玉九十は後年記述している。結果として、大政だけに、なによりも生徒たちに会って、よく頑象となることはなかったが、在学中に軍隊・軍る賛成意見もあり、討論を終えて菊池文部次官翼賛会で意見を出す議員のみを務めて役員にな張ったと、ねぎらってやりたい思いがしきりで隊の学校に志願するものは少数ながらいたようCHAPTER1第1章138MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory139

## Page 071
![Page 071の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000071.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅱ．発展期1927︵昭和2︶年～1947︵昭和22︶年PART1第1部た。…（略）…運動会のプログラムだが、百米、四百米、千五百米、三千米などの競走種目のほか、走り高跳び、走り幅跳び、砲丸投げ、円盤投げなどのフィールド種目のほかにも、騎馬戦、棒倒し、綱引きなども行われて、秋の一日をたっみぷり楽しんだものである。」、「ちなみに四年生の1947（昭和22）年卒業アルバムに掲載された寄書である。また、当時の国の政策に従って学校でへの道を歩み始めることになるわけだが、学園の学習活動を中断して勤労動員に対応し、勤労の生活も元に戻った、先生や生徒の顔にも安堵動員先では軍需物資の生産に協力した。さらにの色が見られ、久しぶりに明るさが甦ってきた。創設時から、当時の教育課程に従って教練に相変わらず食糧事情は悪く、耐乏の生活が続くよって軍事教育を実施した。これらのことは、当わけだが、空襲もない平和の訪れは何ものにも時の国家体制・社会情勢の下ではやむをえざるまさる貴重な代償であった。少し前に畑に転じことであったが、間接的に戦争遂行に協力するたグラウンドが生徒たちの手によって再び元の結果となってしまったといわれてもやむをえな姿に立ちかえったのも、平和を象徴する一つのいことであり、創立100周年を機会として現代に出来事であった。が、教科書の一部は連合軍の生きる私たちが歴史を正しく認識し、考えなけ命によって、墨で黒々と塗りつぶされたものをればならない課題であろう。使用した時代でもあった。」と敗戦後の学校生活しかし、敗戦によって勤労動員や教練などのの状況や雰囲気を回想しているが、入学以来戦活動は一切停止された。学校・生徒はこれまで時体制下の学校生活しか体験していない生徒にのこれらの活動に対する反省とともに、戦時体とっては、新鮮な毎日であったと理解される。さ制からの解放感を味わい、平和をめざす社会の（昭和21）年秋には「入学以来、一回も中で本来の学校生活が戻ってきたことを歓迎し経験したことがなかった運動会が三年生の秋た。当時の学校・生徒の状況、雰囲気について、（昭和二十一年）に復活した。全生徒を三班に分当時2年生であった吉田和夫は「二年生の夏（八けて対抗戦形式で行われた。放課後になると連月十五日）、戦争が終結した。戦争に敗れて平和日のように応援の練習が繰り返され熱が入っ秋（1947（昭和22）年：補注）に行われた遠足は、高尾山から相模湖に抜けるハイキングコースで行われた。」（吉田和夫「四十数年前の懐かしいことども」（『児玉九十先生を仰ぐ』）268～270頁）と回想しているが、戦時体制下で中止されていた学校行事の復活も、学校に正常な生活の日々が取り戻されてきたことを実感させるものであった。8月下旬から連合国軍が日本へ進駐、9月2日には東京湾上の米艦ミズリー号船上にて降伏文書に調印し日本は正式に敗戦、アメリカ陸軍元帥D.マッカーサー（1880年1月～1964年4月）を最高司令官とする連合国軍総司令部が開設されて日本は被占領状態となり、次々と占領命令が出されて日本はその対応に追われる状況に陥った。日本の民主化改革が進められたが、教育界においても同様に民主化改革が進められ、明星中学校もこの教育改革に対応して改革を実施し、旧制中学校を新制中学校・高校に改組、財団法人を新法制にしたがって学校法人へと組織替えを行うとともに、さらに新しい学校制度の下で高等学校、幼稚園、小学校、女子部を創設するという拡充・発展を遂げていくことになる。CHAPTER1第1章140MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory141

## Page 072
![Page 072の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000072.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部Ⅲ.学制改革期中学校となり、1947（昭和22）年度入学生が新制中学校第1期生となった。また、移行措置として1946（昭和21）年3月卒業生は旧制中学校卒業、と「健康、真面目、努力」の三校訓にもとづく明星教育を学ぶ喜びを得ました。（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、278頁）1947（昭和22）年〜1963（昭和38）年1947（昭和22）年3月卒業生は新制中学校卒業とすることが原則とされた。新たに義務教育とさ旧制明星中学校もこの文章にある1946（昭和れた新制中学校はこのように旧制中学校など諸21）年4月の入学生を最後として、1947（昭和22）中等学校1・2・3年を基礎として創設された以外年4月1日から旧制5年制中学校（実際は4年生まに、国民学校（当時、現:小学校）高等科1・2年、で在学）の前半3年を、新しい法律・制度にもと青年学校普通科1・2年、旧制高等学校尋常科1・づく新制中学校へ改組した。明星中学校の学制2・3年など多様な学校を改組して創設された。太改革による5年制旧制中学校から3年制新制中学平洋戦争敗戦後の社会的混乱や経済財政状況の校への改組は、1947（昭和22）年4月1日付で認可中で地方自治体が旧来の国民学校などを基礎とされた。これに先立ち1946（昭和21）年4月1日付1.学制改革への対応すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利をして新制中学校を創設することは極めて大きな負担であり、以下に示す当時の生徒の回想文にで旧制中学校が5年制に戻され、入学定員35名3学級、105名、全15学級、収容定員525名と変更学制改革有する。2すべて国民は、法律の定めるところもあるように専用校舎の建設・教員の確保などすることが認可されており、これを基礎として太平洋戦争敗戦後、日本はアメリカ陸軍元帥により、その保護する子女に普通教育を受けさ基本的な点から早急に整備・充実することには新制中学校は、入学定員50名3学級、150名、全D.マッカーサーを最高司令官とする連合国軍のせる義務を負う。義務教育は、これを無償とす多くの困難がともなった。そのために以下に示9学級、収容定員450名で発足した。国は新制中占領下におかれたが、連合国軍最高司令官総司る。」と、教育について教育の機会均等、義務教す児玉九十の回想文にあるように、中等教育機学校を新設する場合は、1947（昭和22）年度は新令部（GHQ）の直接占領統治ではなく、その指育制度を基本とすることが定められた。この憲関としての伝統を持つ旧制中学校を基礎とする制中学校1年のみを義務教育とし、年度・学年を令・勧告の下に日本政府が統治を行う間接統治法規定にもとづいて1947（昭和22）年3月31日に新制中学校に対する社会的な評価は高く、多く追って実施し1949（昭和24）年度に全学年義務化の形式がとられた。そのような統治形式の下で、学校教育を含む日本の教育全体について広くその入学希望者があった。することとしたが、旧制中学校の場合1947（昭和「大日本帝国憲法」から「日本国憲法」への改正をのあり方を定める「教育基本法」と、その下で学旧制中学校の場合は1947（昭和22）年度は、2・22）年度から旧制中学2・3年を新制中学に切り替基本とする日本の政治・経済・社会のあらゆる校教育のあり方について具体的に定める「学校3年生が在籍する旧制中学校に1年生が在籍するえる学校が多かった。明星中学においても、1947領域におよぶ民主化改革が推進されたが、それ教育法」が公布・施行された。新制中学校が並置されるということになり、（昭和22）年度は新制中学校として入学した1年らの中でも教育・学校教育に関しては国民の意これらの法律の制定によって実施された学校1948（昭和23）年には新制高等学校が発足した。生、旧制中学校から新制中学校に移行した2・3識形成に大きな影響力を持つことから、根本的教育改革の主要な内容としては、①学校体系を（文部省（当時）編『学制百年史』1981年、参照）年生、旧制中学校4・5年生が在学するという変で広範囲に及ぶ民主化改革が進められた。小学校（国民学校は小学校に戻す）6年・中学校3則的な形で出発した。これが実現できたのは、校最も基本となる改革は、1872（明治5）年に公布年・高等学校3年・大学4年の「6・3・3・4制」へ新制中学校へ舎が空襲による被害を受けていなかったこともされた「学制」によって近代的学校制度が創設さの改革、②中等教育以上の各段階に異なる種類旧制中学校から新制中学校への改組により、れて以来、教育・学校教育は国家の重要な事項の学校が存在する「複線型」学校体系から、各段1946（昭和21）年度入学生が旧制明星中学校最後の一つであることから、それについて規定する階の学校を全て1種類にして直線的に結びつけの入学生となった。旧制最後の入学生は、入学のは天皇の大権であるとされ、天皇が直接そのる「単線型」学校体系への改革、③義務教育を尋時の状況を次のように回想している。あり方を定める「教育勅令主義」が採られてきた常小学校（当時は国民学校初等科）6年間から、小ことを、教育・学校教育のあり方についても国学校と中学校の9年間に延長する改革、④男女平「満百歳の御誕生日をお慶び申し上げます」民の代表が国会で審議して法律として定めると等、教育機会均等の理念に基づいて男女共学を（抜粋）松本尚夫いう「教育法定主義」へ改革したことである。こ基本とする改革をあげることができる。五年制の旧制中学校で旧制最後の年、終の原則に従って「大日本帝国憲法」には教育に関この改革は1947（昭和22）年度から直ちに実施戦後の混乱期の時代でしたので、私どもは、する規定が含まれなかったが、1946（昭和21）年され、旧制中学校（5年制、太平洋戦争中の教育明星中学に入学出来た、その喜びは夢と希11月に公布された「日本国憲法」には「第26条年数の短縮により当時は4年制）の1〜3年は新制望に満ち溢れて居りました。明星精神のも創立20周年記念CHAPTER1第1章142MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory143

## Page 073
![Page 073の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000073.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部りの教育への期待と、日本の再建をになう（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、286〜287頁）を友人たちと語りながら歩き、満員電車で人材育成への息吹がじかに感じられて、私通学した六年間、先生、先輩、友人、数々は敗戦二年で早くも教育のたくましい甦り「激動の時代に生きて―そして」（抜粋）の人との出会いがあり、思い出多い青春時を実感することができました。淡路宣男代であった。（『児玉九十自伝』1990年、292〜293頁）終戦は、国民学校六年の夏休み、炎天下（『想星』1997年、32頁）に家族総出で田圃の草取りをしていたとき1947（昭和22）年度に明星中学校に入学した生であった。隣の小父さんが、自転車で終戦「明星入学当時の思い出」（抜粋）徒は、当時の特異な状況を体験したことからか、を知らせにきてくれた。とにかく暑い日で篠宮郁男卒業後長年が経過した後もその記憶が強く残あったが、敗戦の報には余り衝撃を受けな私が明星中学校に入学した昭和二十二年創立20周年記念式典挙行り、また結束力も強く、中学校入学50周年を記かった。また、敗戦による色々な流言飛語は戦後間もなく、生活環境が悪く、特に食念して『想星明星中学校入学五十周年記念文が飛び交ったが、田舎故かさしたる緊迫感糧事情が悪かった。私は農家の次男であっ幸いした。集』を1997（平成9）年4月に刊行している。『児玉はなかった。たため白米の御飯は余り食べられなかった新制中学校発足時の状況や当時の考えについ九十先生を仰ぐ』に収録された記述や『想星』に終戦までは初等科六年修了で、中学校受が、「麦飯」や「いも」等で、おなかが空いてて、児玉九十は次のように記述している。収録された記述を見ると、児玉九十がここに記験資格があった。そのため、翌二十一年の困ることはなかった。述しているような状況について、当時の入学生春先に農学校を受験した。しかし、合格ラ昭和二十二年は「六・三・三・四制」の新全般的な教育状況は一刻の猶予も許さぬの視点からも理解することができる。インに満たなかったか、制度の混乱か覚え学制スタートの年であり、私の住んでいた、ありさまで、目前に迫った六・三・三新学ていないが、村の新制中学に入った。東京都北多摩郡神代村（現在は調布町と合制の発足に向けての準備に忙殺される明け「児玉九十先生の思い出」（抜粋）新制南多摩郡由木村（当時、現：八王子併し調布市）の新制中学校の開校が四月に暮れでした。篠田隆一郎市）立中学校の二年を終了し、明星中学三年間に合わず小学校（当時国民学校）の担任先かくて五年制の明星中学校は、二十二年昭和二十二年は教育制度が変わった年に進もうとして編入試験を受けた。しかし、生の勧めで私立中学校を受験することに四月一日から三年制の新制中学校として無で、私達は新制中学の第一回生である。昭学力差があるということから、やむなく二なった。母校深大寺国民学校より、明星中事発足いたしました。新制中学校はもちろ和十六年に国民学校に入って、国民学校を年に転校した。昭和二十三年四月のことで学校へ八名受験し三名合格した。合格しなん義務教育ですから、全国におびただしい出たので小学校には行ったことがない唯一あり、新制度における中学浪人第一号？とかったら、他の私立に行くつもりだったが、数の公立中学校ができたわけですが、私立の年代である。また昭和ひと桁と、ふた桁なってしまった。以来、高等学校を卒業す幸いに合格者三名の中に入っていた。である財団法人明星中学校は、希望者を選が併存する年代であり、銃後の小国民としるまで、五年間を明星学苑で過ごした。成入学試験科目は「面接」と「身体検査」で抜試験で入学させる制度は従来どおり実施て戦争とともに生きた時代でもある。績は、いつも第三番目のグループであったあった。し、開校直前の二十二年三月二十日、文部武蔵野町（当時、現：武蔵野市）の公立中が、心と体を造り、友達を得たことは確か入学時、伊藤先生担任の三組だったが、小省から発表されました新「学習指導要領（一学はいつできるのか分からないという状況で、強い礎となっている。生クラスで身長が一番小さく、「凝念」の行般編試案）」にもとづいて教育することにで、私立を受けることになり、担任の先生（『想星』1997年、12頁）われた講堂での席が一番前の角であった。なっていましたから、教育内容ではどの公の「あそこは真面目な学校ですよ」との言葉国民学校の先輩が私に気づき、「心力歌」を立新制中学とも同じでした。を頼りに願書を出しに行ったら、おとぎ話「河の流れのように」（抜粋）河洋一くださった。未だ先輩にお礼をしていない。ところが社会一般の風潮は、にわかづくの中の学校みたいであった。相模湖にも新制中学が出来たが、校舎がその「心力歌」も先輩がその先輩から頂いたりの公立新制中学にたいして不安をもつと空襲で家を焼かれたり、外地から引き揚なく小学校に同居すると言う状況だったのもので「ぼろぼろ」になっていたのを記憶しいうか、信頼感がきわめて稀薄だったようげてきた家庭も多く、新入生と言いながらで、先輩が沢山通っていた明星に入ることている。当時は物資がなく、物を大切にすで、伝統をもつ私立中学の安定した教育を服装などもマチマチだった。カーキ色の服にした。文字通り山出しの私にとって明星る教えでもあった。もとめて志願者が殺到いたしました。明星やら下駄ばき、戦闘帽に雑のうなどと、今は輝いていた。正面玄関は洒落た洋風建築（『想星』1997年、48〜49頁）中学校でも、従来にない競争率で、優秀なでは想像もできない格好をしながら、回りで、木々の緑と良くマッチしていた。校庭生徒が雲集したしだいです。これは非常にが皆そうだから各自頓着なく、元気に走りには、八重桜が咲き、テニスコートがあっこれらの記述からは、敗戦後の社会的状況の希望のもてる現象でした。湧き上がるばか回っていた。た。国分寺から学校まで櫟林の中の砂利道中で、変則的な経歴をたどって入学した生徒のCHAPTER1第1章144MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory145

## Page 074
![Page 074の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000074.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部存在、急遽創設された公立新制中学校の状況、そ等学校を創設、五月には、高松宮殿下をお面とともに社会へ眼を向けるよううながしれを受けての私立中学校志願の動機、明星中学迎えして、盛大な開校式を行いました。こて下さっていた。一週一度は私たちは新聞に入学した生徒の受けた印象や充実した学校生れでやっと本来の体制をとりもどすことがの記事に触れてのお話をうかがっていたよ活であったことなど、当時の状況・雰囲気を理できたわけですが、先きにも述べましたとうで、校長先生はおもむろにコトカタとい解することができる。特に、敗戦後の厳しい状おり、翌年四月に幼稚園が開園、二十五年うような微かな音をたててケースから眼鏡況の下で急遽設立された新制中学校とは異な四月に小学校が開校されるに及んで、教育を取り出して、記事を読み終わると再びおり、明星実務学校・旧制明星中学校以来の伝統システムの整備と校舎建設があいつぎ、校もむろにカタコトリと眼鏡をケースに戻さを持つ充実した学校・学校生活であったことや、内は繁忙をきわめました。れた。そんなことも懐かしく思い出される。戦争状況下の抑圧から解放され、敗戦後の自由（『児玉九十自伝』1990年、294〜295頁）（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、282〜283頁）な雰囲気の学校生活であったことなどを読み取新制高等学校開校式ー高松宮殿下ーることができる。新制明星高等学校においても、明星実務学校・「悪い生徒だった」（抜粋）斎藤和明1949（昭和24）年度には3学年、各学年3学級、公立校には一定程度採用されたものの、男子校旧制明星中学校以来の伝統は受け継がれてお名文というものをよく読まされた。教科全9学級が完成、1949（昭和24）年度末、1950（昭であった旧制中学校、女子校であった旧制高等り、1947（昭和22）年4月に新制中学校に入学し、書にもそういう名文が多かった。高校時代和25）年3月には新制明星中学校としての第1回女学校を基礎として創設された私立の新制高等1953（昭和28）年3月に新制高等学校を卒業したの英語のには、ディケンズがあり、暗誦さ卒業式を挙行した。校舎については、1960（昭和学校では男子高等学校・女子高等学校として創生徒は次のように記述している。せられたアレグザンダー・キングレイクの35）年5月に中学校・高等学校校舎（北斗館）鉄筋設された学校が多かった。新制明星高等学校も紀行文、スフィンクスの描写があった。名コンクリート3階建が竣工、その後体育館、武道旧制中学校としての伝統を引き継いで、男子高「『凝念』と『天声人語』」（抜粋）黒沢章文だった。国語のには、「清見寺の鐘声」が場、合宿所などを整備し、2004（平成16）年8月等学校として発足することになる。この施策に私たちが学校に通っていました昭和二十あって、それに「相模灘の落日」もよかった。に新校舎（現校舎）が竣工した。したがうとともに、明星中学校においては1947二年から昭和二十八年の頃は、毎朝「凝念」それにしても、いま思うと明星は生徒ら1947（昭和22）年5月25日には、明星中学校創（昭和22）年度末、1948（昭和23）年3月に卒業すといって、講堂に全校生徒が集合し、児玉にすごい教育を授けていた。いまになって、立20周年記念式を挙行したが、記念誌は発行さる生徒（旧制3年生が新制3年生として卒業）の進444九十先生が打ち鳴らされる鉦を合図に生徒じわじわとそれがわかる。体操の時間、木れなかったようで、『明星学苑創立五十周年記路の確保もあり、ただちに新制高等学校を創設一同が瞑目し、続いて同じく先生の発声にの根を掘っての運動場作りばかりだった念』誌1973年、352／353頁に式典の写真は掲載することが必要になり、新制高等学校の設立認44より「心力歌」を合唱したものでした。が、農業の時間というのも、臭くて鼻がまされているが、記述がなく記念式典・行事の詳可を申請した。この朝の行事である「凝念」は、“精神の集がったが、よかった。働いたという気持ち細は不明である。1948（昭和23）年3月10日付で、新制明星高等中力”を養うために実践されたものでしょをこんなに持たされたことがなかったから学校の設立が認可され、入学定員40名3学級、うが、私は「凝念」よりも“心力歌”が終わっだろう。新制高等学校の創設120名、全9学級、収容定員360名で発足した。た後、やおら老眼鏡に掛けかえられた先生（『想星』1997年、42頁）新学制にもとづいて設置される学校のうち、1948（昭和23）年5月13日には、高松宮の臨席をが、解説を加えながら、私たちに読んでく国民学校の小学校への改組、新制中学校の設置得て、明星高等学校開校式を挙行した。ださる「天声人語」が、いまでも強く印象にこれらの記述からは、新制高等学校になっては1947（昭和22）年4月から実施されたが、新制新制高等学校創設時の状況について、児玉九残っているのです。も実務学校・旧制中学校以来の伝統である「凝高等学校の設置は1948（昭和23）年4月から実施十は次のように記述している。（『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、280〜281頁）念」「心力歌」は受け継がれ、校長児玉九十ができされた。新制高等学校についても、新制中学校るかぎり直接生徒に話しかけることを重視してと同様に旧制中学校など諸中等学校4・5年、旧旧制中学の生徒を新制中学の一年から三「校長室でのこと」（抜粋）斎藤和明いたこと、また独自の教育実践を展開していた制高等学校尋常科4年・高等科1・2年、大学予年までに収容して、二十二年四月に発足し心の力の歌も懐かしい。高校時代に、わことが理解される。科1・2年、師範学校予科2・3年・本科1年、高た新制中学ですから、すぐ次年の二十三年れ手をふるって去れと言えばサイロウもそ他方、太平洋戦争敗戦後の解放感、民主主義等師範学校1年など多様な学校を基礎として創四月からは高等学校をつくらねばなりませの尾を垂れ、シチョウもその爪を包みコウ化の雰囲気の中で、勉学以外の課外活動なども設された。占領軍総司令部は新制高等学校につん。コウとしてわれを避くであったか、その名活発化し、次の記述にあるように楽しく充実しいて、①学区制、②男女共学、③総合制のいわ新制明星中学校では、発足当初からその調子が突如面白くなりだしたということもた高校生活を送っていた。ゆる「高校三原則」を原則としたが、この原則は準備をすすめ、二十三年四月に新制明星高ある。凝念の訓話で児玉校長は、自分の内CHAPTER1第1章146MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory147

## Page 075
![Page 075の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000075.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部（一般編試案）」が文部省（当時、現：文部科学省）み「耳順も過ぎて」（抜粋）牧谷実がいた。彼はリーダー格だった。彼とはそる。1950（昭和25）年3月に高等学校に3年在学しで、白馬駅も信濃四谷と称していた。豊科正月の箱根駅伝を見る度に、四十五年前であるが、その後、1983（昭和58）年度には26学教育のあり方の改革を最も象徴するできごと山岳部というネーミングで部活動を始めたのは、高校一年の時、北アルプス縦走をした頃からであろうか。松本駅からの松本の後大学も一緒だった。今でも時々逢う。（『想星』1997年、16頁）た第2回卒業生は78名（うち1名は旧制中学校卒業）と記録されている（『明星学苑創立25周年記念』1952年、24頁）。から発表されたが、これは「試案」とされ、学習指導要領を基礎としながらも、各教育委員会・各学校が地域社会の実態などを反映した創意工電鉄はまだ大糸南線、北線と言っている頃「駅伝を走る」（抜粋）新川一寿1学年3学級・全校9学級で出発した高等学校夫をすることが期待されていた。駅から常念岳、東大井、大天井岳、一の俣、槍沢の雪渓、槍ヶ岳、奥穂高、上高地へと船越先生、中村健先生がリーダーで山行を共にした。田中治君が落葉の堆積する山道ぎんりょうそうで、高山植物の白く半透明の銀龍草を見つけ「葉緑素が無い植物で炭素同化作用が出来ないのにどうして生きて行くのかなあ」と言った言葉を昨日の様に想い出す。そう言えば最後のキャンプ地、穂高岳の下に広ママがる涸沢の大雪渓で、真夏の太陽の元スくにキーの練習をしていた猪谷千春、父の六合お雄氏と記念写真を撮った事など楽しい出来事であった。（『想星』1997年、6頁）の高校時代に八王子青梅駅伝を走ったことが、懐かしく思い出される。当時はランニングシューズなどなくて、足袋で走ったものだ。特に小生は長い区間を走るのは嫌いで、よくサボるものだから、伴走にはいつも小岩先生、怖い竹村、松村、林諸先輩、その他多数の人がボロの自転車に乗り、叱咤激励をされながら走った記憶がある。お陰で、三度駅伝を走ったが、無事襷を渡すことが出来た。今にして思えば、冷や汗ものである。（『想星』1997年、49頁）「ミニミニ自分史・一つの断面」（抜粋）級にまで増加した（『創立六十周年記念誌』1983年、167頁）。また、高等学校には1961（昭和36）年度に工業課程（機械科・電気通信科、各2学級定員100×2=200名）を創設し、1963（昭和38）年度に電気通信科を電気科・電子科に改組、1964（昭和39）年度から機械科・電気科の2学科編成としたが、明星大学に理工学部を創設したこともあって、1973（昭和48）年度から工業課程の募集を停止し、1974（昭和49）年度終了と同時に廃止した。それに代わって普通科を2学級増募し、その中に理科・数学を中心とするコースを設けた（『創立五十周年記念』1973年、85/94頁）。校舎については、1948（昭和23）年に高等学校校舎を増築、その後1950（昭和25）年に増築、1951は、明治以来日本の教育のあり方を基本的に規定してきた「教育に関する勅語（教育勅語）」が廃されたことである。教育勅語は、1890（明治23）年10月30日に下賜されたものであるが、1948（昭和23）年6月19日に衆議院において「教育勅語等排除に関する決議」、同日参議院において「教育勅語等の失効確認に関する決議」が議決され、各学校に配布されていた「謄本」は回収することと4した。この決議の中で、教育勅語等に含まれていた「青少年学徒に賜はりたる勅語」の明星中学校からの回収に関する次の文書が府中市公文書館に収蔵されている。昭和廿三年八月十七日仲静宏（昭和26）年に増改築、1956（昭和31）年に体育館東京北多摩郡府中町「明星中学六年生」（抜粋）石川彌八郎高校時代になると遊び仲間もやや固定し新設などで対応してきた。1958（昭和33）年5月明星中学校長児玉九十私が高一の時、福生には明星の学生は五名程度しかいなかった。高三の桑原さんがボスであったが、或るとき多摩川べりでスキヤキパーティを四人でやることに決まった。映画も良く観た。学校下校時の映画は御法度であったが、随分と罪を犯したものでてきたが、府中方面に帰る連中は良く小さなラーメン屋へ寄り、なんとなく人生を語り合っていたのだと思う。時たまはブンジの方にも行ったが気の良い仲間、スマートな仲間もいたので面白かった。その頃は戦争などコロッと忘れ皆テキセに新校舎（本館）鉄筋コンクリート3階建が竣工、1960（昭和35）年5には中学校・高等学校校舎（北斗館）鉄筋コンクリート3階建が竣工、1963（昭和38）年2月には高等学校本館鉄筋コンクリート4階建、工業科校舎（啓明館）鉄筋コンクリート3階建が竣工、その後も実習工場、体育館、武道東京都教育局長殿教育勅語の返還について昭和二十三年七月二十七日附教總収第七七二號を以て通牒の首題のこと、左記の通り返還致します。記ある。夏休み、堂ヶ島の海水浴も楽しかった。太イ音楽のジャズやラテンに凝り米兵とも仲良くなった。吉祥寺のダンス学院へ仲間と場、合宿所などの整備をしてきたが、2004（平成16）年には新校舎（現校舎）が竣工し移転した。勅語等名称青少年学徒に賜りたる勅語交付された年月日昭和十四年五月二十二日学校等名明星中学校通数一備考教練実施十五周年記念式において交付陽が澄み切った海を照らし、身も心も輝い通ったのもこの頃だ。いつの頃か、後楽園（府中市公文書館収蔵「昭和二十三年教育綴小学校関係」）た。あれが楽園でなくて何が楽園なのか？身震いするような感動であった。下手なスキーも随分とやった。軍靴の踵に金具を付けてスキーの金具と接着させて滑ったものである。ストックは勿論竹製であった。それにしても八甲田山の雪は軽かった。海だ、スキーだ、まさに我が青春の大半は明星時代であった。そして、そこには必ず曽我君から座布団を持ち帰り先生に咎められた仲間もいたが、なんとなく微笑ましい限りで明星は品が良い。（『想星』1997年、66頁）なお、1949（昭和24）年3月に卒業した旧制中学校第18回卒業生は新制高等学校第1回卒業生と位置づける変則的な扱いがされたようであ教育内容の改革太平洋戦争敗戦後の教育改革は、法律の制定や教育行政・学校制度の改革にとどまるものではなく、教育内容についても日本国憲法に基づき、民主主義を基調とする教育内容に改革され、教育課程も国が一律に定めるのではなく、各教育委員会や各学校の自主的な編成が期待されることとなった。その手引として、「学習指導要領「青少年学徒に賜はりたる勅語」は、文書中に（昭和14）年5月22日に陸軍現役将校学校配属令施行15周年記念親閲式において下賜されたものであり、国家の隆昌・維持のためには青少年学徒が本分を守り、文武に励み、質実剛健の気風を養うべきことを説いている。この回収については、東京都教育局から北多摩地CHAPTER1第1章148MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory149

## Page 076
![Page 076の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000076.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部方事務所長堺榮伍を通じて1948（昭和23）年8月創立25周年を迎えた明星学苑は、明星幼稚園7日に府中町長森谷森三に指示があり、町長が各（1949（昭和24）年創設）、明星小学校（1950（昭和学校に指示したが、その指示に対応したものである。この一連の文書に含まれる府中町長から北多摩地方事務所長あての文書では明星中学校25）年創設）、明星中学校（男子部・1947（昭和22）年創設）、明星高等学校（男子部・1948（昭和23）年創設）を設置・運営する総合学苑となっていColumn1明星学苑配置図―1952（昭和27）年、創立25周年時―からの返還は「教育勅語追加返還について」と題た。ただし、幼稚園・中学校・高等学校は完成されており、他校の例を見るとこれに先立って年度を迎えて卒園生・卒業生を送り出していた明星中学校から「教育勅語」謄本、「国民精神作興が、小学校は完成途上にあり、4学年までが在学に関する詔書」、「教育者に賜りたる勅語」などもしていた。各学校の創設に伴い校舎の建設も続回収されたのではないかと考えられるが、このいていた。点についての資料は見出すことができなかった。『明星学苑創立25周年記念』によれば、当時なお、『明星ものがたり』『児玉九十自伝』におの明星学苑の概況は次の通りである。いても戦後の教育内容の改革に関して武道の禁止、武具の回収に関する記述は見られ、剣道具学校法人役員について回収・提出せず、解体して部品を園芸理事長児玉九十用品などとして再利用したという記述がある理事星野正一が、勅語等の回収に関する記述を見出すことは村上藤太できない。児玉三夫戦後の教育内容の改革を象徴するできごとの船越好文一つとして、教科も改革され、それまでの「修身」監事横地光雄「国史（歴史）」「地理」「公民」などに代わって「社小島善太郎会科」が新設されたことを代表的な例としてあ教職員げることができる。教育改革が実施された1947校長1名（昭和22）年4月に新制明星中学校第1回生として主事4名入学した岸本正一は、「私共は故児玉三夫先生か教諭37名（幼稚園3名、小学校5名、ら中学校の木造の教室で社会科の授業を受けて中学校・高等学校29名）おりました。社会科という科目も戦後の教育改講師2名革の中で考えられた新しい内容のもので、たし書記4名、助手1名、校医2名か新憲法について、慎重に語られておられたの在籍者数を思い出します。」（「追悼の辞」（『体験教育』第幼稚園88名（3組）535号、1996年12月、所収）8頁）と回想して記述小学校171名（4学年4学級）しており、児玉九十、児玉三夫を先頭に新しい教育実践に取り組む姿を推測することができる。創立25周年記念式1927（昭和2）年の旧制明星中学校創設から25中学校473名（3学年9学級）高等学校457名（3学年9学級）合計1,189名（付記：理事星野正一は星野鏡三郎の子、理事村上藤太は村上鋠吉の子）校地面積17,734坪4（58,522㎡）、運動場面積8,140坪（26,862㎡）建物1,423坪93（4,699㎡）内訳講堂120坪（396㎡）高等学校267坪（881㎡）中学校613坪（2,023㎡）小学校153坪305（505㎡）幼稚園79坪125（261㎡）校宅（7棟）191坪5（632㎡）年を迎え、1952（昭和27）年5月18日に三笠宮の臨席を得て明星中学校創立25年記念式を挙行し児玉九十は『明星学苑創立25周年記念』誌の＊原資料は坪表記のため、（）内は換算した概数（小数点以下四捨五入）である。出典：『明星学苑創立25周年記念』1952年、8頁た。巻頭に次のように記述している。CHAPTER1第1章150MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory151

## Page 077
![Page 077の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000077.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部「廿五周年に際しての反省と希望」（抜粋）ては科学教育、道徳教育の振興、終戦後の下ご臨席の下に、「創立二十五周年」の記念協力し、教育改革を実施するために設けられた児玉九十教育改革の行過ぎの是正等、経営と比べて式典を挙行し、殿下から、ありがたいお励総理大臣の諮問機関であり、私立学校からは慶学校法人明星学苑が財団法人明星中学校勝るとも劣らぬ幾多の難問を持って居ますましの言葉を頂戴いたしました。このとき、応大学総長高橋誠一郎・早稲田大学総長島田孝として発足したのは、つい此の間の様に感から、廿五周年に一時期を画し、更に一層お若い三笠宮様をご案内して、校内に展示一・和洋専門学校長稗方弘毅らとともに児玉九じて居りますが、昭和二年四月の事であり元気を新にして、『正義真理の殿堂』『学天のした児童生徒の書画をご覧ねがった写真が十が参加した。また、児玉九十は、1946（昭和21）ますから、廿五年前の事になります。明星』という建学の精神を振起し、人生の二残っておりますが、まことに甦った平和な年9月には日本私学団体総連合会の結成に参加、此の間に於ける国家の事を回想します大武器たる知力と体力を練磨し、之を駆使学苑を象徴する印象的な情景です。1947（昭和22）年3月には副会長に就任、1947（昭と、多事多難の一語に尽きる様な気が致しする立派な性格を養う『明星教育』の徹底に（『児玉九十自伝』1990年、298頁）和22）年3月には東京都私学振興協議会委員に就ます。邁進して、世界の信頼を獲るに足る真の人任しており、広く私立学校を代表する立場にあ国家が正に此の通りでありますから、国家の一細胞たる明星学苑が、この埒外に置材を輩出して、独立新日本の内容充実と発展に寄与いたしたいと念願いたす次第であ2.私学法制の整備と児玉九十る者として太平洋戦争敗戦後の教育改革、私立学校制度の確立、その基礎となる「私立学校法」かれる筈はないのでありまして、明星としります。私学三法の成立と児玉九十「私立学校振興会法」「私立学校教職員共済組合ても国家と共に常に苦難を満喫しつゝ歩み（『明星学苑創立25周年記念』1952年、1〜2頁）太平洋戦争敗戦後の学校制度の民主化改革、法」（いわゆる「私学三法」）の制定に関わり、大きを続けた訳でありますが、此の悪条件下に特に私立学校に関する諸制度の確立に児玉九十く寄与していくことになった。ありながら、昭和三年には東側隣接地二千この文章では、これまでの発展の軌跡を振りは大きく寄与している。「私立学校法」はそれまで私立学校について規坪を購入、昭和八年には西側隣接地二千坪返るとともに、創立25年時点での明星学苑の実児玉九十は先にも記したように、1932（昭和7）定していた「私立学校令」（1899（明治32）年8月施拡張と東校舎の新築、昭和九年定員三百五態、この後の課題、さらなる発展のための計画年から全国私立中学校恩給財団理事、1943（昭和行）に代わって、「日本国憲法」「教育基本法」「学十名の十学級制、昭和十九年定員五百廿五が説明されており、当時の児玉九十の考えを理18）年から理事長、1942（昭和17）年から東京都私校教育法」に基づいて制定された法律で、その出名の十五学級制、昭和廿二年には新制中学解することができる。立中等学校恩給財団理事、1944（昭和19）年から発点は内閣教育刷新委員会第1回建議（1946（昭校、翌昭和廿三年には新制高等学校設置となお、創立25周年記念式については、児玉九理事長を務めており、この領域において私立学和21）年12月）において私立学校の設置者を特別西校舎新築並び校地の大拡張、昭和廿四年十は次のように記述している。校を代表する立場にあったが、1946（昭和21）年法に基づく法人とするとされたことにある。そ幼稚園創立、昭和廿五年小学校設立、同廿8月に内閣教育刷新委員会委員、1947（昭和22）年の後、内閣教育刷新委員会・文部省（当時、現：六年新講堂、西新校舎新築並に旧講堂を視これで幼稚園、小学校、中学校（男子）、1月には内閣教育刷新委員会臨時委員に委嘱さ文部科学省）・日本私学団体総連合会との連携の聴覚教室、図書室に改造という風に年々発高等学校（男子）を擁する学校法人明星学苑れた。なお、『児玉九十自伝』の本文中（307頁）に下で法律案が作成され、1949（昭和24）年11月国展を続けて参りました。只今は敷地実測約は、新しい私学法のもとに、体制をととのは「二十一年八月、日本側に総理大臣の諮問機関会可決、1950（昭和25）年3月に施行された。こ二万坪、建坪千五百坪、生徒数千二百名、教えて運営されることになり、ちょうど、昭として臨時の「内閣教育刷新委員会」（のちの「中の法律は、①私立学校の自主性を重んじる教育職員五十余名の大総合学園となりました。和二年に明星中学校に改組されてから、二央教育審議会」）がつくられました。私は、その行政組織を確立すること、②私立学校の経営主此れ実に設立者故星野鏡三郎翁始め、理十五周年に当たる二十七年五月、三笠宮殿委員に委嘱された…（略）…」と記述されている体の組織・運営を定めてその公共性を確立する事職員、父兄、卒業生、並に蔭に陽に援助が、同書の「児玉九十略年譜」（519頁）にはそのこと、③憲法第89条との関係において私立学校を辱うする方々等の甚大なる御協力と生徒記載がなく、「昭和22年1月、内閣教育刷新委に対する公の助成の法的可能性を明確にするこ諸子の勉励の賜でありまして、衷心より感員会臨時委員に就任（同24年3月まで）。」と記載とをねらいとしたものであった（文部省『学制百謝申上げる次第であります。されており、「委員」と「臨時委員」の差異など記年史』参照）。この法律は現在にいたるも私立学併し施設方面に於ても小学校が卒業生を載に不整合があり、現時点で確認できない点が校に関する最も基本的な法律であり、私立学校出す時は女児のために中・高の女子部を設残る。内閣教育刷新委員会は、その成立に先立のあり方を規定しているが、この制定過程における必要もあり、科学、体育、芸術等の教つ1946（昭和21）年3月に日本の教育について調いて児玉九十は内閣教育刷新委員会委員、日本育充実上必要なる科学館、体育館、芸術館査し連合国軍総司令官D.マッカーサーに報告・提私学団体総連合会副会長として、大きな役割を等も実現いたしたいと念願いたしますの言するために来日したイリノイ大学総長A.J.ストッ果たした。で、此の方面に於いても倍旧の努力をせねダードを団長とするアメリカ教育使節団（第一「私立学校振興会法」は私立学校を援助するたばならぬと存じますし、教育内容方面に於創立25年記念ー三笠宮殿下ー次）の提言に基づく占領国軍の教育改革指令にめに積極的・恒久的に十分な資金を長期低利でCHAPTER1第1章152MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory153

## Page 078
![Page 078の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000078.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部貸し付ける公的金融機関としての私立学校振興ちの白熱したたたかいはつづきました。か明星中学校」を1951（昭和26）年3月1日に認可を会の設置・運営について定めた法律であり、1952えりみてそれは、私学の今日の隆昌のため得て、「学校法人明星学苑」に組織変更した。財団（昭和27）年3月に公布・施行された。法律上実の盤石の基礎固めの仕事であった、という法人明星中学校を学校法人明星学苑に組織変更施する事業は、①私立学校の経営に必要な資金気がします。することについての都知事認可書（写）は次の通の貸し付け、②私立学校の教育の事業に対する（法律の制定は）私学人こぞっての熱意、すりであった。助成、③私立学校の職員の研修、福利・厚生等なわち不屈不撓の精神があったればこそ、の事業を行うものに対する資金の貸し付けであできたのであります。私は当時、私学団体總学収第364号る。総連合会副会長をいたしておりました関係財団法人明星中学校「私立学校教職員共済組合法」は私立学校の教で、法律通過まえの危機にひんしたとき、已昭和26年2月10日付で申請のあった財団職員を対象とする社会保障制度（①健康保険にむにやまれず、生まれてはじめて、参議員第15回全国私立学校審議会連合会総会法人明星中学校が学校法人明星学苑に組織あたる短期給付、②年金にあたる長期給付、③会館で怒声を発せざるをえない場面もあり変更することを私立学校法附則第三項の規貸付、④宿泊施設の経営などの福祉事業）を実施ましたが、私学人のあの死にもの狂いの元立学校審議会連合会会長に選任されて就任し活定により認可する。する私立学校教職員共済組合の設置・運営につ気を思い出すたびに、熱い涙を禁じ得ませ躍を続けてきた。そのほかにも多くの公職につ昭和26年3月1日いて定めた法律であり、1953（昭和28）年8月にん。私はこの精神こそ教育の根本精神だといてきたが、1953（昭和28）年1月には中央教育東京都知事安井誠一郎印公布され、1954（昭和29）年1月に施行された。こ思います。不可能を可能にすることの熱烈審議会委員に就任した（1959（昭和34）年まで3期の法律の制定と、それに基づく共済組合の成立なまことの精神は、私学のような境遇でな6年在住）。組織変更し発足した際に制定された「学校法について、児玉九十は業務上きわめて深い関連くてはできない、したがって私学こそ真実人明星学苑寄附行為」には、学校法人明星学苑がを持ち、その前身ともいえる全国私立学校恩給の教育の行われる場だ、と私は信じており財団法人明星中学校から学校法人明星学苑へ財団法人明星中学校を継承するものであること財団理事長として積極的に推進した。ます。1947（昭和22）年3月に公布・施行された「教育は明記されていないが、次の2項からは後継する私立学校振興会と私立学校教職員共済組合（『児玉九十自伝』1990年、319〜321頁）基本法」において、「法律に定める学校は、公の性ものであることが明らかである。は、2000（平成12）年4月に組織の合併とそれを質をもつものであって、国又は地方公共団体の裏付ける法律の改正を経て、日本私学振興・共法律制定にいたる過程で多くの関係者が国会外、法律に定める法人のみが、これを設置する第一章総則済事業団となったが、児玉九十がその成立に尽対策や議員・所管官庁に対する折衝などのためことができる。」（第6条）と定められたことに基第三條財団法人明星中学校の創設者星野力した組織の理念は今日まで受け継がれておに都心に泊まり込んでいたのに対して、児玉九づき、同時に公布・施行された「学校教育法」に鏡三郎にこの法人の名誉理事長のり、功績はきわめて大きい。十は「私は学校が大事ですから、一度も泊ったこは「学校は国、地方公共団体及び私立学校法第3称号を贈る。児玉九十は当時の活動に関して、次のようにとはなく、朝、朝礼、凝念を終えるなり出かけ、条に規定する学校法人のみがこれを設置するこ第四章資産および会計記述している。深夜、バスもタクシーもない駅からの暗い道をとができる。」（第2条、ただし現在は放送大学学第二十二條この法人の資産は左の通りと歩いて帰りました。疲れて電柱にぶつかったり、園・国立大学法人・独立行政法人国立高等専門する。「私立学校法」はできましたが、それにつ雨のときなど、田や畑にすべり落ちたりしたこ学校機構・公立大学法人も学校を設置できるよ一、この法人設立当初の財団法人明星中学づく二法を成立させるため奮迅の努力を重ともあります。それは、あとでわかったことでうに変更されている）と定められた。これを受け校承継に関わる別紙財産目録記載の財ねる一方、私学法に定められた「教育行政のすが、過労と栄養失調のため、視力が弱っていて1949（昭和24）年12月に公布・1950（昭和25）年産ための審議会」を設置せねばなりません。そるからでした。」という苦労を重ねてきたことを3月に施行された「私立学校法」の目的の中の「私こで二十五年三月に「私立学校法」が発効す記述している（『児玉九十自伝』319頁）。このよう立学校の経営主体の組織・運営を定めてその公「学校法人明星学苑寄附行為」によれば、そのるやいなや、審議会の組織づくりがすすめに明星中学校校長としての業務を遂行すること共性を高めること」という理念を受けて、「私立目的は「この法人は教育基本法および学校教育られ、五月までには全国ほとんどもれなくのみならず、全ての私立学校のために尽力した学校法」の中で私立学校の設置者を従来の「財団法に従い学校を設置することを目的とする」（第出来あがりました。ことから、1949（昭和24）年11月には日本私立中法人」から私立学校の設置・運営を担う「学校法2章第4條）と定められ、「この法人が前條に規定その後、昭和二十七年に「私学振興会法」、学高等学校連合会理事長、1950（昭和25）年5月人」という特殊法人に代えることとともに、そのする目的を達成するために設置する学校は左に二十八年に「私学教職員共済組合法」ができには全国高等学校長協会常務理事、同年5月には具体的なあり方についても規定した。掲げるものとする。一、明星高等学校二、明て、いわゆる「私学三法」が揃うまで、私た東京都私立学校審議会会長、同年10月に全国私この法律制定を受けて、それまでの「財団法人星中学校三、明星小学校四、明星幼稚園」（第CHAPTER1第1章154MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory155

## Page 079
![Page 079の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000079.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部2章第5條）と当時の設置園・校が掲げられている。組織変更当時の学校法人の役員は次の通りであった。理事児玉九十理事星野正一理事村上藤太理事児玉三夫理事加賀谷篤一郎監事横地光雄監事小島善太郎年4月1日付で認可されたが、実際に認可が届い月末であり、準備もあったので、2学期、9月15日から正式に明星幼稚園として創設、開園した。創設時の状況について、児玉九十は次のように記述している。み（付記：理事星野正一は星野鏡三郎の子、理事村上藤太は星野鏡三郎の実弟であり、財団理事であった村上鋠吉の子、理事児玉三夫、理事加賀谷篤一郎、監事横地光雄は教員、監事小島善太郎は洋画家）このようにして新しい「私立学校法」に基づく学校法人明星学苑に組織変更することによっ学内幼稚園誕生のころて、この後の総合学苑としての各園・校の設置・運営にあたる主体としての基盤を確立することや□の座席の印がある位でございました。記ができた。3.明星幼稚園、明星小学校、明星中学校・高等学校女子部の創設明星幼稚園の創設明星実務学校創設以来明星教育の特徴の一つとなっていた寄宿舎であったが、1947（昭和22）年3月にいたって太平洋戦争敗戦後の社会状況、特に食糧事情の逼迫から閉鎖せざるをえなくなった。当時は戦争の影響や空襲により住宅事情も逼迫しており、閉鎖した寄宿舎に教職員15〜16家族ほどが移住、子ども12名ほどのために室を利用して自主的な校内幼稚園「明星子ども会」が始まった。これを知った明星中学校に通学する生徒の保護者や外部の者からもその子どもを入園させたいとの希望が寄せられたが、財団法人明星中学校としては外部から園児を受け入れるには正式の認可を得た幼稚園とすることが必要であると考え、認可申請をすることとなった。認可申請に対して、1949（昭和24）昭和二十二年三月、配給食糧の極度の不足で寄宿生徒の生命の危険すら感ずるようになり、寄宿舎を一時閉鎖した跡へ、十五、六家族の先生が移り住む事となり、このお子さん達のために開いた幼稚園が校内幼稚園の始まりで、清水先生の奥様などが率先して指導に当るということで多分十二名位のお子さんを寄宿舎の一室で指導をする、つまり内部のお子さんだけを教育する幼稚園としたわけであります。ところがこれをみた通学の生徒の父兄が是非加えてもらいたいということで、外部の人も入れるということになれば正式の幼稚園にしなければいけないということになり、出願致しまして、昭和二十四年四月一日付で明星幼稚園の認可がございました。日付は一日でしたが、認可の来ましたのが月末でございましたので、第二学期からはじめることにし、昭和二十四年九月十五日から正式に明星幼稚園として発足したのであります。（『明星ものがたり』1976年、112〜1136頁）創設時の状況について、明星幼稚園創設20周年時に児玉九十は創設時の状況について、具体的に次のように記述している。この寄宿舎の空室に十五、六家族の教職員家族が移り、お子さんたちが運動場で遊んでおりましたので、寄宿舎の一室を保育室に当て、幼稚園の母体となった「明星子供会」を開きました。オルガンも何もない畳の部屋（『明星ものがたり』1976年、158頁）1949（昭和24）年9月に正式な認可に基づく幼稚園として創設された明星幼稚園であるが、創月には中学校・高等学校とともに文化祭に参加している。次に示す文化祭の招待状が資料として残されている。謹啓時下爽涼の候愈々御清祥の御事と御慶び申し上げます。陳者、左記の通り、高等学校、中学校、幼稚園連合の文化祭を催しますから、御多忙中恐縮乍ら御賁臨の栄を賜りたく、略儀乍ら書中を以って御案内申し上げます頓首追って、受付へこの状御示し下さるよう願い上げます。十月十三日明星高等学校長明星中学校長児玉九十明星幼稚園長府中町長殿十月廿一日（金）午前九時演劇会（第一部）午後一時音楽会十月廿二日（土）午前十時演劇会（第二部）十月廿三日（日）体育会（雨天順延）十月廿一日より廿三日の三日間、生徒作品展覧会開設十月廿二日、廿三日はPTA婦人部主催の模擬店を開設致しますから精々賑々しく御来校の程、願い上げます。（府中市公文書館収蔵「昭和24年教育関係書類府中町」）男子中学生・男子高校生だけの文化祭に少数といえども幼稚園児が参加することによって、新たなにぎわいが生まれたのではないかと想像することができる。こうした学校行事だけではなく、日常の学苑生活も幼い子どもたちのにぎやかな声が加わり、さらに活気に満ちたものになってきたと児玉九十らは感じていたようである。創設時には、年長組・年少組各1組の全2組、在籍19名から出発した明星幼稚園であるが、CHAPTER1第1章156MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory157

## Page 080
![Page 080の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000080.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部1949（昭和24）年度の卒園児数は35名と記録され旧制明星中学校に改組した時期から、小学校を経営する。明星小学校設置申請書添付の「伍ヶ年計画概ており、途中入園児があったと推測される。開創設し、小学校・中学校の一貫教育を実施する変更第一條要」によれば、年度を追った計画は次のように示園5年目にあたる1952（昭和27）年には、主事1ことを意図しており、この考えに関して次のよ本法人は学校教育法に基き高等普通教育されている。名・教員3名、年長2組・年少1組の3組、在籍うに記述している。及専門教育、中等普通教育、初等普88名と記録されている（『明星学苑創立25周年記念』12／25頁）。開園後は順調に発展を遂げ、年年保育から、1960（昭和35）年年保育を実施してきた。園舎については、旧寄宿舎を利用して出発した明星幼稚園であるが、1959（昭和34）年9月には園舎が竣工し移転、さらに1967（昭和42）年9月と1974（昭和49）年12月の二度にわたって園舎を増築したが、1998（平成10）年4月には新園舎（現園舎）が竣工、さらに2007（平成19）年6月には幼稚園専用プールを新設、2007（平成19）年11月には園バスの運行を開始（2ルート）するなどの充実を図ってきた。このように校内幼稚園ともいうべき私的な形から創設された明星幼稚園であるが、既に創設私は第一回欧米視察の結果、日本は小中学校のような基礎教育に対し、もっと徹底した教育を行う必要のある事を痛感し、帰国後明星中学校を設立し、続いて小学校に着手しようとしている時に満州事変が勃発し、続いて支那事変が起こり、大東亜戦争になるといった具合で、小学校開設のチャンスを失っておりました。（『明星ものがたり』1976年、158頁）このように早い時期から小学校を創設したいという意図は存在していたが、1949（昭和24）年（昭和24）年度末、1950（昭和25）年3月に幼稚園第1回生が卒園する時期に合わせて小学校を開通教育並に幼児の保育を行うを以て目的とする。変更第二條前条の目的を達成するため明星高等学校、明星中学校、明星小学校、明星幼稚園を維持経営する。（国立公文書館収蔵資料「財団法人明星中学校寄附行為変更申請」）同時に小学校設立申請も提出したが、国立公文書館に収蔵されている資料は一部不足しており、申請の本文がなく申請書に添付された下記の説明書類が収蔵されている。一、目的本校は教育基本法に基き学校教育法に定める初等普通教育を施し、心身ともに健全な社会人を年度別職員数生徒数学級数備考昭和校長（兼）一、八十名二一年、二年廿五年度教員三（兼）二、事務員（兼）一、（使丁兼一）昭和校長（兼）一、一二〇名三一年―三年廿六年度教員四（兼）二、事務員（兼）一、（使丁兼一）昭和校長（兼）一、一六〇名四一年―四年廿七年度教員五（兼）二、事務員（兼）一、（使丁兼一）昭和校長（兼）一、二〇〇名五一年―五年廿八年度教員六（兼）二、事務員（兼）一、（使丁兼一）昭和廿九年度校長（兼）一、教員七（兼）二、事務員（兼）一、（使丁兼一）二四〇名六一年―六年備考教員は目下選考中（国立公文書館収蔵資料「明星小学校設置申請書類」中の「伍ヶ年計画概要」）されていた明星中学校・明星高等学校と合わせ、設してほしいとの希望が出されことが契機と育成することを目的とする。その後の幼稚園から大学までを設置運営する私なって、小学校の創設を具体的に検討すること二、名称明星小学校この計画に示されている通り、1950（昭和25）学としての一貫教育の場、総合学苑を構築するになった。それを受けて、財団法人明星中学校三、位置東京都北多摩郡府中町一二二五年度は1・2年の2学年、各1学級、在籍児童70名第一歩となった。として1949（昭和24）年12月に小学校の創設を決七番地で出発した。定した。四、学則（別紙）創設時の状況について、児玉九十は次のよう明星小学校の創設1949（昭和24）年12月25日開催の理事会におい五、経費及維持方法（別紙）に記述している。児玉九十は明星実務学校長に就任し、これをて、「寄附行為」を小学校創設に合わせて下記の六、学校開設の時期昭和二十五年四月一日ように変更し、同年12月28日付で「寄附行為変七、寄附行為変更許可願（別紙）幼稚園の教育効果を認められた園児の御更認可申請」を、東京都知事安井誠一郎を経由し八、理事会決議録別紙両親の皆様方が「大戦で物資のあてにならて文部大臣高瀬荘太郎宛申請した。（国立公文書館収蔵資料、文書題目不詳）ぬことと、子供をしっかり育てる事の重要性を身にしみて痛感しましたから、幼稚園財団法人明星中学校寄附行為変更申請この申請は1950（昭和25）年2月3日付で認可決に続く小学校を是非建てて頂きたい。二枚現行第一條済され、1950（昭和25）年4月から明星小学校をの着物を一枚売っても費用は負担いたしま本法人は学校教育法に基き高等普通教育創設した。すから」という涙の出る様な訴えをきき、か及専門教育、中等普通教育、並に幼創設当初の「学則」では、入学定員40名、1学ねて念願しながら連続の戦争のため阻害さ児の保育を行うを以て目的とする。年1学級、全6学年6学級、収容定員240名と定れていた明星小学校の設立を決意したのが現行第二條めた（第4章第十條）。校舎は専用校舎を建設する昭和二十四年十二月二十五日でございまし前条の目的を達成するため明星高等学が、創設時には竣工しておらず、幼稚園舎の3室た。小学校校舎上棟式校、明星中学校、明星幼稚園を維持を借用、玄関と便所を増設して対応した。胎動期が長かっただけに昭和二十五年四CHAPTER1第1章158MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory159

## Page 081
![Page 081の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000081.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部月、幼稚園の二室を借りて発足した明星小明星中学校・明星高等学校女子部の創設学校の発育は極めて順調で、同年九月には1950（昭和25）年4月に創設され、1・2年生をColumn2明星小学校校舎―1950（昭和25）年、設置申請時―現在の旧木造校舎に移り、昭和二十八年四月から単級制が二学級制となり、現在児童総数七七七名、卒業生を送り出す事二十二迎えて出発した明星小学校では1954（昭和29）年度末（1955（昭和30）年3月）に第1回の卒業生を送り出すことになる。男子児童については明星回、一、九三二名で本年四月を以って満二中学校・明星高等学校が受け入れることができ十六年となったのでございます。たが、卒業が近づくにつれ女子児童の保護者か（『明星ものがたり』1976年、113〜114頁）らその進学先としての女子生徒のための中学校・高等学校の創設を望む声が強くなってきた。1950（昭和25）年度に1・2年、各1学級、在籍これを受けて学校法人としては、女子生徒のた児童数70名で出発した明星小学校であるが、めの中学校・高等学校の創設を決定したが、児1952（昭和27）年5月の明星学苑創立25周年時点玉九十は「昭和二十五年明星小学校が誕生したでは4年生まで在籍し、教員は校長（兼任）1名、際に、入学した女子生徒の将来すすむべき上級主事（兼任）1名、教員5名（学級担任1〜4年各1学校として女子部設立のことをすでに考えつい名、音楽専科1名）、児童数1年=41名、2年=47ていた」（『明星ものがたり』114〜115頁）と記述名、3年=48名、4年=35名、全171名と記録されしており、女子生徒のための中学校・高等学校ている。その後、1953（昭和28）年度入学生からの創設は以前から財団法人明星中学校（1951（昭1学年2学級、収容定員480名とし、1958（昭和33）和26）年度から学校法人明星学苑）にとって次の年度に全学年2学級に、さらに1964（昭和39）年課題として意識されていた。度入学生から3学級とし、1969（昭和44）年度に女子生徒のための中学校・高等学校の創設に全学年3学級、収容定員720名になった。1954（昭あたっては、児玉九十の次の記述にみられる女和29）年度末（1955（昭和30）年3月）には初の卒子教育に対する独自の考えが基礎となった。業生を送り出すことになったが、女子児童が卒全体配置図と小学校校舎見取図（別表一）業することが中学校・高等学校女子部の創設に展開した。終戦後の国内情勢を顧みますと、新憲法発布に伴って諸般の改革が行われ、日本国校舎については、創設後1950（昭和25）年9月民のものの考え方にもさまざまな変化がもに専用校舎（旧木造校舎）が竣工して移転、そのたらされました。それらの変化の一つ一つ後5次にわたって増築した。1965（昭和40）年9月を子細に考えてみますと、進歩的なよい面【添付文書】明星小学校々舎期限内建築未完成の場合の処置一、明星小学校々舎建築は約二ヶ月を要するので、万一竣には新校舎（鉄筋コンクリート3階建）第1期工事竣工、1968（昭和43）年5月に完工、1981（昭和56）年7月には小学校専用プールを設置した。2002が多々あることはもちろんですが、一考を要する点も少なくなかったのであります。これを女性の方面について考えてみます工が開校期に間に合わない場合は現在の幼稚園々舎の一部を教室に充てる。（別表二参照）一、完成の際は直ちに新校舎を使用する。（別表一参照）一、幼稚園の一部を一時小学校に転用しても幼稚園定員に対する保育その他には差し支えはない。（平成14）年9月に新校舎（現校舎）が竣工して移転した。なお、明星小学校は企業から請われて海外にも展開し、1960年代以降3校を創設、同時に創設された幼稚園とともに海外在住日本人の子どもと、憲法に男女の平等が明示された結果として、わが国多年の弊風であった男尊女卑の考え方が急速に打破され、女性は男性の従属的存在ではなく、男性同様独立の人格的存在であるという自覚に目覚め、女性が幼稚園舎利用図（別表二）出典：国立公文書館収蔵資料「明星小学校々舎期限内建築未完成の場合の処置」の教育にも尽力した。非常な自信を持って社会に進出して来たことは、最も著しい進歩の一つであると思います。しかしこの改革は、外国の指導下でCHAPTER1第1章160MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory161

## Page 082
![Page 082の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000082.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部進められたために、ともすれば尊外卑内に現代において多くの人が持つ考え方とは異な陥ったり、反動的に男女同権思想の強調ばかりに走って、女子特有の使命を忘れ去ったかと思われるような行き過ぎも認めらるが、1950年代・昭和20年代にはまだこのような考え方も賛同を得ていたと推測される、このような児玉九十の教育理念に基づき、既存の明Column3「希望の鳥」―「仰和」の石碑―れ、十分反省しなければならない点が多々星中学校・高等学校を男女共学とするのではな（1964（昭和39）年11月、女子部創設10周年を記念して設置）あることは否めません。く、別学として創設することとした。1953（昭和戦後の日本を立派なものにするには、国28）年5月31日に開催した第7回理事会において、民一人一人が正しく協力し、男性も女性も次の議事録に記載されている通り審議、決定しそれぞれの個性を遺憾なく発揮して、平和た。な国家社会の再建に向かって邁進する心構えを持たねばならないと信じます。ところ第七回理事会が、基本的人権や男女平等の権利を主張す一、昭和二十八年五月三十一日（日）午前るの余り、ともすれば男女の対立、親子の十時半対立、老若の対立、都鄙の対立、貧富の対四、議案立、労資の対立、師弟の対立などと、権利4．中学校、高等学校の学級増加の件思想、利己主義ばかりかにとらわれて、日明星幼稚園、同小学校は男女共学本女性の伝統的な誇りである、慈愛、優雅、であり夫々上級学校進学につき謙譲などの美徳が軽視されるような傾向になってきたことは、識者がひとしく憂慮し父兄より学苑内に女子の中学校、高等学校に入学したき熱望事情を女子部創設記念碑ているところで、私もまた甚だ遺憾千万に思っているところであります。そもそも、わ理事長より説明。ママ四、決議「希望の鳥」について○学苑の永遠の発展を祈念し、女子部の教育精神を象徴するものとして高校女子部第一回が国は地理的および歴史的事情からみましても、東西両洋文化の長所を融合し、そこに独創的な新しい文化を創造すべき使命を持っているのであります。学苑創立以来、私はこの使命観に基づいて、左に傾かず、右2．議案第二号より第四号まで異議なく承認可決昭和二十八年五月三十一日理事児玉九十児玉三夫卒業生により発案されました。○以後本年度卒業生まで二千百余名がその志を継いで完成した学苑教育に対する愛情の結晶ともいうべきものです。○ブロンズ像「希望の鳥」は学苑美術科担当の清水綾夫、北村善平、伊藤喜久治の三先生の設計ならびに制作にかかるもので「和・優美・希望・飛躍」を象徴しております。○御影石造りの台の部分は松戸屋石材店主中本孝氏の理解ある御協力により完成されたもにも偏せず、古きになじまず、新しきにも惑わされず、あくまでも中道に立って穏健船越好文のであります。前面に学校長揮毫の「仰和」の二文字が刻まれております。中正な思想・信念・実行力のある男子の教育を主としてまいりましたが、戦後の社会情勢から察しますのに、女性もまた以上のなお、これに合わせて明星学苑女子部創設十周年賛歌「希望の鳥」（作詞松本一枝、作曲蛯名麗美）も作成された。（出典：『創立五十周年記念』1963年、99頁、『創立六十周年記念誌』1973年、238頁）ような根本思想を把握すると同時に、女性特有の使命を根底から自覚し、新時代にふさわしい近代女性として、男子とともに平和な家庭国家社会を形成することができるよう、その教育の必要性を痛感致し、今か明星中学校・高等学校女子部の創設期の教育の具体的な教育方針のうち「互尊互敬による『和』の教育」については「日常の学校生活は男女別学の教育を進めて人間としての平等性を知らせるとともに、男女それぞれ固有の使命をも理解させ、互尊互敬の教育を施して万物生成発展の原理である『和』の源泉を培う」と説明されている（『明星学苑40年』42頁）。このような「和」を重んじる考え方から「仰和」という考え方が女子部教育において重視されたことから、こら二十二年前創設をしたのでした。（『明星ものがたり』1998年刊、115〜116頁）れを石碑に刻んだものである。なお、児玉九十は女子部の卒業生に毎年「仰和」と記した色紙を贈ってきた。明星高等学校女子部の授業風景（被服）CHAPTER1第1章162MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory163

## Page 083
![Page 083の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000083.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部この理事会決定を受けて、1953（昭和28）年9月26日に開催した第8回理事会では、「中学校、高くぬぎの林風なごやかにひとしくこころ凝らすとき4.教育活動の充実てようやく条件が整い、178号、1956（昭和31）年5月20日発行から復刊した。休刊から13年目の等学校に収容の女子生徒の為の四教室と、同特鳥さえ近く慕いくるよ『体験教育』の復刊復刊であった。児玉九十は『体験教育』第178号別教室、職員室の建築を行うものとし之が建知性のひかり星あきらかに太平洋戦争敗戦後の新しい学校制度に沿っての巻頭に「体験教育の復刊に当って」を記してい築資金其他次の如くする」と決定、これらの計正しくまなびはげむとき創設された各園・各校はそれぞれ特徴ある教育るが、そこでは初めに『体験教育』刊行の趣旨、画・準備を進めて設置認可申請をし、認可を得踏みゆく草のはてもなしや実践を展開していたが、それらを設置運営し、総それが戦後の新教育のあり方にも沿っているこて、1954（昭和29）年4月に女子のための中学校・友情たがいにあふるるところ括する学校法人明星学苑としても学苑全体に共とを次のように説明している。高等学校を創設した。以来、既存の男子校部分まことの力すこやかに通する様々な教育活動を実践した。その一つとを「明星中学校・高等学校男子部」、創設された新しき日を常に迎えてして、1956（昭和31）年5月には広報紙『体験教育』「体験教育の復刊に当って」（抜粋）女子校部分を「明星中学校・高等学校女子部」と明星の名にこぞるべしを復刊した。戦後の我が国教育の中心になって居る教称することとした。明星中学校・高等学校女子（『創立五十周年記念誌』1983年、229頁）旧制明星中学校創設間もない1929（昭和4）年1育基本法の第二条に『教育の目的はあらゆ部の教育の「根本方針」は「（1）人格完成をめざす月に創刊した『体験教育』は保護者や社会に対しる機会にあらゆる場所において実現されな人間性の開発進展（2）女子特有の天賦の使命1964（昭和39）年11月には女子部創立10周年記て児玉九十や学校の教育方針、学校生活、日々ければならない』とありますが、この意味を観の徹底」とし、より具体的には「互尊互敬によ念式典を挙行、これを記念して「希望の鳥」碑をの活動などを報告することを目的とし、B5判8平たく言えば『教育の中心道場は学校である『和』の教育、科学および知性の重視と新倫理設置した。頁の形式で毎月刊行されてきた。しかし、太平るが、教育を行う場所は学校だけでなく、家観の教育、真実の健康教育」をめざすものとした洋戦争中の用紙など印刷資材の逼迫や印刷事情庭であろうと、工場、店頭であろうと、野（『明星学苑40年』42頁）。1954（昭和29）年の創設時には、普通教室4室・の悪化により、1941（昭和16）年9月刊行の第153原であろうと、苟くも人間の居る所はどん創設1年目は中学校1年68名・高等学校1年60音楽室・職員室・昇降口のみを備えた校舎（木造号から4頁に減頁し、1943（昭和18）年10月刊行な所でも教育の場と考え、森羅万象を教材名を迎えての出発であった。1956（昭和31）年度1階建）で出発したが、その後増築を重ね、1954の第177号を最後に発行休止のやむなきにいとして随時教育を行うべきである』というには全学年が揃う完成年度を迎え、在校生は中（昭和29）年3月には第1校舎（木造2階建）竣工、たった。第177号には休止の通知などは掲載され事になります。此の事が法文化されたのは学校305名（1年115名、2年92名、3年98名）、高1955（昭和30）年12月には第2校舎（木造2階建）ていないが、後に児玉九十は「此の最初の八頁形昭和二十二年ですが、教育というものは元々等学校246名（1年113名、2年76名、3年57名）と竣工、さらに1962（昭和37）年3月には鉄筋コンは昭和十六年八月号即ち百五十二号迄で翌月かその本質からして、そういうものなのであなった。1956（昭和31）年度末、1957（昭和32）年クリート3階建校舎（三省館）第1期工事竣工、第らは四頁になりました。これは昭和十二年からりますから、我が明星学苑では最初から此3月25日には第1回高等学校卒業式を挙行、59名2期工事、第3期工事を進め、1965（昭和40）年6の日支事変が五年目になって、紙なども段々少の様な考え方で一貫して進んで参りました。が巣立っていった。その後、入学者数・学級増月に完工、さらに1977（昭和52）年3月には鉄筋くなって来た為でありました。四頁に半減されそれが為に学校と家庭は精神的には親戚のが図られ、1983（昭和58）年5月現在の資料によコンクリート3階建校舎を増築した（『創立六十ても教育上大切な機関になって居りましたの如き固き結合がなくてはならぬし、広い世れば、中学校各学年4学級・高等学校各学年6学周年記念誌』274頁／256頁／14頁／20〜25頁かで、ずっと続けて居りましたが、昭和十八年八間も此に劣らぬ協力をして戴く事を念願し級となり、在籍者数は中学校579名（1年197名、ら抽出、なお在籍生徒数・建築竣工年月につい月に至り、大東亜戦争、愈々激化し、物資益々て居るのであります。2年189名、3年193名）、高等学校854名（1年297ては資料により若干の差異がある）。詰まって来まして、この様な刊行物は一時廃止この為にはあらゆる手段を尽して、学校名、2年277名、3年280名）と記録されている。このように発展を遂げてきた明星中学校・高する様に政府から勧告がありまして、已むなく、と家庭、学校と社会の結合を強くし、理解1957（昭和32）年3月に挙行された女子部第1回等学校女子部であったが、学校法人明星学苑と残念ながら、一時廃止する事になったのでありを深める事が必要でありますから、PTA組卒業式に合わせて土岐善麿作詞・信時潔作曲にして共学化へと方針を変更し、2003（平成15）年ます。」（『体験教育』第178号、1956年5月、1頁）織のない時分でも父兄会の組織を持って、よる「女子部の歌」が制定されたが、その歌詞は度中学校入学生から共学化を開始、年を追ってと記述し、休刊が政府の指示によるものであっ少くとも月に一回集まるとか、先生の家庭次の通りである。共学化を進め、2006（平成18）年度には高等学校たことを明らかにしている。訪問とか色々努力しましたが、此れでも足も共学化を開始、2008（平成20）年度に中学校・その後、何度も復刊を考えたが、太平洋戦争れりとせずして、生まれたのが活字印刷物富士の嶺高く雲は晴れて高等学校全学年の共学化を実現した。敗戦後の社会的経済的混乱、学制改革とそれにによるマスコン（ママ）ミュニケーション即ち大衆多摩川清く花も薫れり対応するための新制学校への改組、幼稚園・小通報の手段としての月刊『体験教育』という天地のあいだにわれらありて学校・女子部の創設に追われていたことなどか新聞の発刊でありました。ああむさし野の道ひろしら、実現できなかった。1956（昭和31）年になっCHAPTER1第1章164MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory165

## Page 084
![Page 084の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000084.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部次に減頁・休刊した事情を説明した上で、復あったのだ。刊について次のように説明している。Column4『体験教育』第178号（復刊1号）終戦後年も経ち、一般新聞紙も戦前通りとなりましたから、『体験教育』を復刊して我々第一回の卒業生が卒業以来三十数年の歳月が流れたわけであるが、常に知りたいのは母校の近況であり、同窓生の活動である。「体験教育の復刊」という朗報を聞いはとの話は何度出たかわからなかったのでたのは、つい四五日前であったが、第一号すが、学苑の拡張と充実のために追われて、の発刊が待たれることである。永遠に続く中々その運びに参りませんでしたが、愈々母校と共に、末永く本紙が継続されるよう此の度、復刊が実現する事になりました。廃に願ってやまない。刊から数えて正に十四年目で御座います。紙名、体裁、紙質編集方法等にも色々の意見もあるのですが、その様な事を論じて居るといつ迄も空ら回りばかりして、進行しませんから、一と先づ旧態の儘再出発しまして、色々の改革は今後にのこす事にいたしました。斯様な事情を御諒承下さいまして、皆々様の御指導、御援助によりまして再刊の本紙が恙なく育って参る様に呉々も宜しくお願申し上げる次第で御座います。（『体験教育』第178号、1956年5月、1頁）また、旧制中学校第1回卒業生による復刊を歓迎する文章も掲載されている。「『体験教育』の復刊に想う」（抜粋）杉本邦雄（『体験教育』第178号、1956年5月、2〜3頁）『体験教育』は、復刊時には複数の園・校を設置運営する学校法人明星学苑の広報紙となったことから「教務日誌」は掲載されなくなり、各園・校の状況や活動の報告、さらに「小学校教育相談室」、「小学校学年別教育懇談」、「幼稚園研究座談会」、「幼稚園質問・解答・解説」、「最近の学校行事」「同窓会便り」などが掲載されるようになった、。『体験教育』復刊第1号（第178号）を飾り、続く各号の紙面をにぎわしたのは、明星中学校1941（昭和16）年卒業生村木潤次郎のヒマラヤ・マナスル（8,163m）登山の業績である。村木は早稲田大学理工学部を卒業、当時は早稲田大学附属鋳物研究所所員を務める傍ら、1952（昭和27）年か年計画でマナスル登頂を目指す日本マナスル登山隊の企画・装備責任者を務めた。この登昭和十八年の中頃まで、母校明星の消息山隊は槇有恒が隊長を務め、5年目の1956（昭和が手にとるように判った。それは月々に送りとどけられる「体験教育」という月刊誌が第178号（1956（昭和31）年5月20日発行）の内容は次の通りである。あったからだ。しかし戦争と云う文化の敵体験教育の復刊に当って児玉九十が我々と母校をつなぐ唯一の便りを、と絶マナスル登山隊の企画・装備責任者村木潤次郎君―明星卒業―えさせてしまった。最も消息を知り度い時米国だより医学博士合田朗に、もっとも必要なものを失って、私達同『体験教育』の復刊に想う高校男子部の進学状況について第一回卒業生杉本邦雄女子部の概況窓生は何かさびしいものを感じていたが、明星小学校教育概況明星幼稚園の園児の概況戦後大発展の一途をたどっている母校明星夏の学校を語る女子部完成された学苑体育館のことを見聞するにつけ、願っていたのは、創立記念マラソン実施詩二つ小学四年松組藤田啓子この本誌の復刊であった。我々を横につな学苑PTA・母の会コーラス編集後記ぐ同級会、同窓会と相俟って是非とも、ほしかったのが同窓生と母校をつなぐ本誌でマナスル（壮行会）CHAPTER1第1章166MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory167

## Page 085
![Page 085の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000085.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部31）年5月にマナスル登頂に成功したが、この時1958（昭和33）年の学苑創立35周年を機にその具に村木は3回目の参加をし、第6キャンプ（7,800m）まで同道、サポートにあたった。『体験体化を図った。1958（昭和33）年4月に各園・校からの代表を選任して委員会を作り、準備を開Column「学苑賛歌」教育』第179号、1956（昭和31）年6月、1〜2頁に始した。委員会では、作詞・作曲を一般から公5―作詞土岐善麿作曲信時潔―は児玉九十「マナスル登山の成功を祝す」・村木募する案と専門家に依頼する案とが検討された―1958（昭和33）年作成・制定―潤次郎「マナスルだより」が掲載されている。が、各校の校歌以上に時をこえて愛唱されるな1956（昭和31）年2月8日に学苑壮行会が開催さどの条件を満たす作品とするために専門家に依れ、1956（昭和31）年7月16日に学苑歓迎会が開頼することとした。作詞・作曲を誰に依頼する催され、1956（昭和31）年9月11日に男子部・女かについても委員会での検討の結果、作詞を土子部・小学校に分けて体験談報告会が開催され岐善麿、作曲を信時潔に依頼することとした。たが、それらの記事が『体験教育』各号に掲載さこの学苑賛歌作成時の事情や学苑賛歌の内容れている。なお、村木は、後に富士製鉄（当時、などについて、児玉九十は次のように記述して現：日本製鉄）中央研究所に勤務、1959（昭和34）いる。年にヒマルチュリ―（7,893m）登山隊の隊長を務めるなどの登山歴を重ね、日本山岳会会長（1995作詞は当時の国語審議会会長で芸術院会（平成7）年〜1997（平成9）年）を務めた。員の歌人土岐善麿先生、作曲は本校卒業生のご父兄で、幅広く作曲活動をされている明星学苑賛歌の作成信時潔先生にそれぞれお願いすることとさ学苑全体に共通する教育活動の一つとして、明星学苑の建学の精神、教育理念をわかりやすれました。両先生とも快諾してくださいましたことはまことに幸運でした。「学苑賛歌」歌詞土岐善麿自筆く表徴し、園児・児童・生徒をはじめ多くの人上掲のとおり、土岐先生入魂の作品が生（出典：『創立五十周年記念』1973年、9頁）に親しんでもらうことを目的として、1958（昭和まれたのであります。みるとおり、学苑全33）年の学苑創立35周年を記念して「学苑賛歌」体の理想とする「健康・真面目・努力」の三を作成した。その歌詞は次の通りである。綱領が一行目から三行目に展開し、櫟林に囲まれたみどり豊かな自然のなかで日々の「学苑賛歌」学苑生活を楽しむ私たちのよろこびを「野作詞土岐善麿作曲信時潔の鳥もきけ」「野の空もみよ」と力強い語調すこやかにで呼びかけつつ、真理探究へすすむ若人のまじめに決意をうながしている、すばらしい内容でともにつとめゆくす。このよろこびをこのように生まれるべくして生まれた土野の鳥もきけ岐先生の詞に、信時先生がニ長調四分の四野の空もみよ拍子一部形式のすばらしい曲をつけてくださいました。詞の盛り上がりをそのままメ学校法人明星学苑が設置・運営する各校にはすでに校歌があったが、かねてからそれらとはロディーに託した、明るく力強く、親しみやすい、しかも荘重な曲によって、詞の内学苑賛歌の碑別に学苑全体の校歌ともいうべき「学苑歌」、各容にいよいよ深みと、張りと、うるおいが（出典：『児玉九十自伝』1990年、369頁）学校の園児・児童・生徒が親しめ、誰もが歌え加えられたわけであります。る「学苑歌」を作成したいという願いがあり、（『児玉九十自伝』1990年、368〜369頁）CHAPTER1第1章168MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory169

## Page 086
![Page 086の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000086.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部このようにして作成・制定された「学苑賛歌」1956（昭和31）年11月24日には、小学生・中学生卒業生である山田慶蔵の指揮によって男子部・よんだ。ぼくはどきっとしてすぐ目にきがは今日にいたるまで広く親しまれ、歌い継がれ（男子部・女子部）・高校生（男子部・女子部）が女子部の校歌が演奏されたとの記述がある（『体ちってばかりいてしようがない。だからそてきている。一例をあげるならば、1964（昭和39）参加して、英語についての耳による、口による験教育』第184号、1956年11月、8頁／第196号、れからはずっと目をつぶっていることにし年4月に明星大学が創設されたが、1969（昭和44）反復練習学習を主眼とする「校内英語レシティ1957年11月、7頁）。ています。年に大学歌が作成されるまで、「学苑賛歌」が卒ション・コンテスト」を開催した。参加者をA組このような新しい試みとともに、明星実務学（『体験教育』第197号、1957年12月、4頁）業式・入学式などで演奏・歌唱されていた。（小学校・中学1年）、B組（中学2年・3年）、C組校創設以来の伝統も重視され、「凝念」は全ての「学苑賛歌」制定から15年後の1973（昭和48）年（高校1・2・3年）に分けて発表、それぞれ1位か園・校で実施しており、幼稚園では「みなしずか」きわめて素朴な感想であるが、小学1年生が凝には、学苑創立50周年を記念して学苑同窓会から3位の児童・生徒が表彰された（『体験教育』第として実施していた。凝念に関連して、『体験教念をどのようにとらえて実践しているのか、どら「学苑賛歌の碑」が寄贈された。碑は三波石（高185号、1956年12月、4頁）。育』第189号には次のような記事が掲載されておのように効果を実感しているのかが明らかにさ90㎝、幅360㎝、奥行き120㎝）に土岐善麿直学苑全体の文化行事として、連合P.T.A.が「音り、1923（大正12）年の明星実務学校創設時に成なっている。筆の歌詞を拡大して刻んだもので、創立50周年楽と舞踏の会」（内容によって「音楽と劇の会」と蹊学園から贈られた第1代の鐘が引退したこと記念式典に先立ち1973（昭和48）年11月7日に除称することもある）を毎年開催した。現在確認でがわかる。『体験教育』各号には在学生・卒業生の様々な幕式を挙行した。きる資料によれば、『体験教育』第184号、1956年活動・活躍が紹介されているが、第179号（195611月には1956（昭和31）年11月1日に第3回が、第「凝念の鐘新調さる」（昭和31）年6月、3頁）には卒業生の中で教育・教育・研究活動の進展196号、1957年11月には1957（昭和32）年11月27卒業生の方達には数々の想い出をひめた学術・出版・放送・映画等の広い意味での教育幼稚園・小学校・中学校（男子部・女子部）・日に第4回が開催された記事が掲載されている。凝念の鐘も、三十有余年の寿命を果して引関係者からなる「明星教育懇話会」が1956（昭和高等学校（男子部・女子部）を設置運営する総合第3回について見ると、午後1時からと午後5時退、この程杉本副会長、向山理事その他卒31）年6月23日に開催され、児玉九十からの明星学苑となった明星学苑において、教育・研究活からの2回公演、会場は例年使用の共立講堂に差業生有志の発起による特別寄付で新品と交学苑の現状についての報告と、東京都教育委員動も活発に展開された。し支えがあったため大手町産経ホールを使用換され、この四月半ば頃から講堂では新し会教科研究委員・東大理学部助教授・東京医科研究活動としては、1956（昭和31）年11月1日、し、プログラムは次の通りであった。い音色が後輩たちの心を凝らす伴侶となっ歯科大学教授・私立小学校教員・市教育委員か東京都私立中学高等学校協会研究部主催の「数ている。らの報告があり、その後懇談を行ったことが紹学研究授業」が明星学苑を会場として開催され、第一部（『体験教育』第189号、1957年4月、8頁）介されている。また、『体験教育』188号（1957年370名を超える参加者が来校した。数学担当教員混声合唱明星高等学校音楽部月、1〜2頁）には「米国から招聘された明星出身の公開授業、青木教諭指導による研究授業（高等器楽合奏明星小学校合奏団凝念についての小学校1年生の作文が『体験教者」として、島内武彦（中学4回卒、当時：東京学校1年）、批評会、山田一橋大学教授の講演な女声合唱PTAコーラス団育』に掲載されている。大学助教授）がミネソタ大学に交換教授としてどが実施された。参加者の中には数学教育のみ第二部出向していることをはじめとして、合田朗、塩ならず、明星学苑の教育に関心を持つ者も多く、演奏東京シンフォネッタ・オーケストラ「ぎょうねん」（抜粋）一年加藤恭久月正雄、葛生秀、森山護、加藤俊二、鈴木重人学内の案内や学苑全般の参観を実施した（『体験独唱松島詩子ぼくはぎょうねんのとき目をあかなかっの7名の海外での活躍が紹介されている。また、教育』第184号、1956年11月、3頁）。1957（昭和第三部たのは、きのうからです。きのうからぎょ異色の卒業生として、1950（昭和25）年から墨田32）年12月3日、私立中学高等学校協会視聴覚教コミックバレエ小牧バレエ団うねんをきちんとしています。ぼくはこれ川近くの貧民居住地で北原怜子・ゼノ修道士な育研究部主催の「視聴覚教育研究会」が明星学苑からよくなろうとおもうのですが、よくでどとともに廃品回収などにあたる人々の救済活を会場として開催され、約50名の参加者が来校このプログラムと第196号に掲載された第4回きないところがあります。ぼくはぎょうね動に従事し、その活動を紹介する『蟻の街のマリした。午前中は男子部では社会科（日本史）の研のプログラムを見ると、この会は園児・児童・んするときはつかれるのがなおっていいかア』（1958年刊）などの著書がある松居桃楼がお究授業を実施し、女子部では全学年・全学級の生徒の教育成果と保護者の文化活動の発表の場んがえがうかんできます。ぼくはぎょうねり、学苑に招いて講演会（題目「蟻の街の奇跡」）授業で視聴覚教材教具を活用している状況を公であり、同時に学外専門家、音楽家、劇団、芸んしているとき、きもちがよくなる。いいを開催している（『体験教育』第180号、1956年7開した。午後は児玉九十の海外視察報告講演の能人による上演の鑑賞会であり、「学校・家庭・おもいでがうかんでくる。ぎょうねんをし月、1〜3頁）。後、研究討議などが実施された（『体験教育』第卒業生など一体の家庭的雰囲気をかもしだすのているときはいそがしいきもちにならない。197号、1957年12月、2頁）。である」（『明星学苑40年』14頁）と評価している。うすめはいけないとおもったことは、うす学苑全体に共通する教育活動の一つとしてなお、第4回では芸大楽団の吹奏楽演奏の中で、めをしたとき、おとうばんがかとうくんとCHAPTER1第1章170MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory171

## Page 087
![Page 087の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000087.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部児玉九十・児玉三夫、世界教育会議出席・欧米教育「児玉三夫先生も外遊に」Column6児玉九十・児玉三夫の世界教育者会議参加と海外視察日程―1957（昭和32）年7月20日～9月24日―視察1957（昭和32）年7月〜9月に児玉九十と当時常務理事であった児玉三夫は、フランクフルトにおける世界教育者団体連盟主催第6回「世界教育学苑の常務理事、児玉三夫先生はかねてから、放送、出版文化関係について欧米の状況を調査視察する事の依頼を受けておりましたが、御承知の通り明星学苑長児玉九者会議」に児玉九十が日本代表の一人として出十先生が外遊されますので出来ることなら日程7月20日東京羽田発7月22日〜27日イタリア（ローマ）7月27日〜8月1日スイス（ジュネーブ・チューリッヒ）席することに合わせ、欧米の教育事情・文化状況などの視察のために渡航した。児玉九十と児玉三夫の海外渡航についての『体験教育』紙上の最初の記事は、二人の渡航が相次いで決定した御一緒に御出発になられることを学苑関係者一同が望んでおりました。それ以後、この話は日を追って積極性を帯び緊急にその交渉が進められておりまし8月1日〜16日ドイツ（フランクフルト・ベルリン・ハンブルグ）（8月2日〜8日、世界教育者大会に出席）8月16日〜18日デンマーク（コペンハーゲン）8月18日〜21日スウェーデン（ストックホルム）8月21日〜27日フランス（パリ）8月27日〜9月2日イギリス（ロンドン）ことを報告する次のような内容であった。「学苑長児玉九十先生渡欧世界教育会議日本代表として」学苑長児玉九十先生は、昨年来私学研修たところ、七月六日旅券が交付され児玉三夫先生の外遊が決定されたのであります。両先生が御一緒に御出発になられるようになったことは誠に幸であるばかりでなく、学苑にとっても名誉あることであります。9月3日〜23日アメリカ（ニューヨーク・ワシントン・シカゴ・サンフランシスコ・ホノルル）9月24日東京羽田着福祉会から、第一回海外視察員として推薦されておりましたが、外貨関係で実現困難両先生の壮途を祝し、終始御健康でお過しあそばれることを念願し晴れの御帰朝を第6回世界教育者会議日程日時：8月2日〜8日場所：西ドイツフランクフルトに逢着しておられました。ところが、このたびドイツのフランクフルトで開催される世界教育会議に日本代表心からお待ち申上げましょう。（『体験教育』第192号、1957年7月、1頁）日程：2日開会式会場：バウルスキルへ（プロテスタント教会）内容：大統領祝辞、世界教育者団体連盟会長挨拶、ユネスコ事務総長演説3日会場：フォルクスビルドウンクスハイム（教育会館）大講堂議題：「教員の不足とその救済策」4日・6日：教員不足の原因について4部会に分かれて研究討議として出席するよう、日本教育者連盟より依頼され、大体、七月二十日頃空路出発されることになりましたが、最近の欧州各国の科学教育状況も視察され、九月二十日頃帰朝される予定であります。『体験教育』第191号、1957（昭和32）年6月には児玉九十が「世界教育会議出席と欧米視察に就いて」と題して、参加にいたる事情について記述している。それによると児玉九十はこれに先立（昭和31）年度の財団法人私学研修福祉会5日ライン下り6日夜フランクフルト市長招待会カイザーザール7日・8日：総会教員不足の原因と対応策について各分科会の検討結果を踏まえて総括教員の待遇をよくすること、教員の昇進を早めること、教室定員を守ること、教育尊重の風を盛んにすることなどが強調されたこのたびの児玉先生の渡欧は、先生個人にとっての名誉は勿論のこと、やがては学苑の名誉であり、よろこびでもあります。出発まで余日いくばくもありませんがPTA・同窓会・生徒会の方々の間で児玉先による第1回海外研修（海外視察）者として推薦されたものの、外貨割り当ての問題から参加で8日夜ドイツ教育会招待会パルメンガルテン参加約50ヶ国、326名生が終始御健康に恵まれ、無事大任を果し大きな収穫を得られて帰朝されますことを『体験教育』第192号、1957年7月、1頁／第195号、1957年10月、1〜2頁念じつつ、先生の行を壮んにするくわだてが進められようとして居り、先生の外遊を心からおよろこびする気運が日毎に高まりつつあります。（『体験教育』第190号、1957年5月、1頁）CHAPTER1第1章卒業生の案内で、ウエストポイント見学172MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory173

## Page 088
![Page 088の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000088.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部きなかった。その後、世界教育者会議に日本か応答、4日・6日は教員不足の原因と思われる4ら公立で2名、私立で1名の代表が派遣されるこ項目について4部会に分かれて研究、8日の総会とが決定され、その私立学校代表として児玉九十が推薦されたが、これとあわせて科学技術庁で各部会の研究結果を承認した。教員不足に対する対策については、引き続きカナダのパターColumn7児玉九十・児玉三夫からの渡航中の便り（当時）の科学技術教育振興政策に関連して欧米スン博士に継続研究を依頼することとした。児の科学技術教育と基礎教育の面における理科教玉九十は「会議も有益だったし、お互の交歓、理育の視察をすることとなり、60日間という当時としては異例の長期海外渡航が渡航審議会において認められたと説明されている。太平洋戦争中はもとより、戦後になってもGHQ・日本政府解を深める点で、頗る意義が深かった」と記述している。世界教育者会議での知見と、欧米諸国の視察の結果として、児玉九十は①欧米では科学技術飛行機は至って快調、二十一日午前五時半マニラ飛行場着、アマトカビヤブ君（天戸真一君）は二時半に起きてかけつけて下さったとの由、飛行場で待っておられました。三、四十分休息室で話を交して出発、バンコック、カルカッタ、カラチ、アバダン、アテネに一時間宛止り、給油の上七月二十二日午後二時半ローマ飛行場に着きました。カルカッタから白雲が出た為にヒマラは国際的な状況や外貨事情などから海外渡航を厳しく規制しており、1963（昭和38）年4月からは職業活動や会社業務などの必要による渡航を個別の申請・認可によって可能としたが、それ（昭和32）年に海外渡航が認められが進み、産業が発達しているが人手が不足しており、日本でも科学技術者の不足が生じてきている、②日本が国際的に進出するには、世界中から信頼される日本人を育成することが急務である、③同じ敗戦国である西ドイツが短時日にヤ、エベレストは見られませんでしたがこの辺は八〇〇〇メートルの高さで飛びました。この度の旅行につきましては学校法人役員、職員各位、PTAの皆々様、卒業生諸氏、中協、中高連の各位、振興会、研修福祉会、科学技術庁、文部省、外務省と本当に皆々様から深き御厚意を寄せて戴きましたことを衷心より御礼を申し上げます。二人とも至極元気、今後も十分気をつけて参ります七月二十三日児玉九十児玉三夫（注：アマトカビヤブは太平洋戦争中の旧制明星中学校へのフィリッピンからの留学生）たのである。当時は民間人にとって海外渡航はきわめて貴重な機会であり、日本代表として海外出張することは名誉あることととらえられていた。出発前に学苑壮行式（7月16日、学苑内で実施）と、壮行会（7月17日、学苑外で実施、学復興を遂げ、繁栄しているのは国民の考え方の点、さらにドイツ人は理論と実践、理想と現実を結びつけて結論を出す国民であることが強調されている。また、ここには記述されていないが「米国ローマでは二十三日午後見物の時、雨が降りましたが後は連日快晴で無事視察を終り今ローマのチャンピオーニ飛行場でアリタリアという伊太利機に乗りスイスのジュネーブに行くところです。今はアルプス連山を眼下にしながら昼食中です。アルプスは白雪できれいです。二十五日の晩は太田大使から大使邸で日本食の招待を受けました。至って元気ですから何卒御安心下さい。七月二十七日児玉九十外私学関係者・学苑役職員・卒業生・PTA有志など参加）の2回の壮行会が開催されており（『体験教育』第193号、1957年8月、1頁）、帰国後は帰国当日羽田空港において歓迎式（9月24日）、学におけるにおける産学協同」についての意義を認め、賛意を別の文書において記述している。このような児玉九十が世界教育者会議や欧米視察から得た示唆は、かねてから考えていた大学創会議が昨八日夜で終ったので今早朝から現在の首府ボンに行き大使館に寄り大学（マルクスの卒業した学校）とベートーベンの家を見ました。明十日ベルリンに行きます。至って元気ですからご安心ください。八月九日児玉九十苑帰着時に学苑歓迎会（9月24日）、同窓会・PTA・設への願いを後押しするものであり、大学創設昨日は英国文部省のローチ氏に会いまして色々貴重な資料を得ました。今日はオックスフォー明星児玉会・学苑主催帰朝歓迎園遊会（9月29日）の3回の歓迎会が開催されており（『体験教育』第時の建学の精神・教育理念に大きな影響を与えたことが、児玉九十が後に記述した「明星大学設ド大学を見学して只今はロンドンに帰る車中でこのはがきを書いています。明日はケンブリッヂ大学を見学する予定です。遥かに皆さまの御健康を切にお祈りいたします。児玉九十195号、1957年10月、3頁）、これらのことからも海外渡航が自由に行える現代とは異なり、当時海外渡航がどのように受けとめられていたの立趣意書」の内容から明らかである。明後二日の夜八時にロンドンを発ってニューヨークへ向います。飛行機の乗具合にも大分慣れてまいりました。すべて計画的の行動に終始いたしておりますから安全第一ということになります。出発に際しまして皆様が大変御心配下さいましたが、以上の通りですから何卒御安心下さかが推測される。い。旅も半分を過ぎますと時間の経過は意外に早い様に感じます。皆さまどうぞお元気で。世界教育者会議の状況と各国視察結果の報告は『体験教育』第195号、1957（昭和32）年10月に児玉三夫（出典：『体験教育』第193号、1957年8月、2頁／第194号、9月、2〜3頁から抜粋）児玉九十が「欧米視察より帰りて」と題して掲載しており、『児玉九十自伝』にはほぼ同主旨でより詳しく記述されている。それらによれば、世界教育者会議については、8月2日開会式の後、3日の全体会において会議の中心議題である「教員の不足とその救済策」についての説明と質疑欧米教育視察から帰国された児玉九十先生（写真右）と児玉三夫先生（写真左）。羽田空港にてCHAPTER1第1章174MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory175

## Page 089
![Page 089の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000089.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部なお、その後も『体験教育』紙上に児玉九十は、「明年及び明後年の世界教育会議」（第196号、1957年11月、1頁）と題して、1958（昭和33）年のローマにおける第7回大会（テーマ「教育に対する世論の支援」）・1959（昭和34）年のワシントンにおける第8回大会（テーマ「東西文化価値の相育指導の効果をあげてきた。しかし、新築直後に関東大震災を被災した影響が残り、戦争中に空襲の被害を受けることはなかったものの、老朽化が進んでいた。このような状態を見て、1958（昭和33）年に同窓会から校長児玉九十に校長住宅を新築して贈呈しようとの提案がなされた。ついては、呉々も御無理のないようにお進め願いたい。と温情溢るるお言葉をいただき、委員一同却って感激し、この事業達成の日が一日も早からんことを念じつつ散会した。（『体験教育』第200号、1958年4月、8頁）「児玉学苑長先生を新居に訪ねる」（抜粋）児玉学苑長先生と御家族は三月の末に新しい御住居にお移りになられた。三月、四月は学苑の一番多忙な月で、卒業式、終業式が男子部、女子部、小学校、幼稚園と行われ、又入学式、始業式も夫々あ互評価の教育」）について紹介している。また、「世界教育者団体連盟に就いて」（第197号、1957年12月、1頁）と題して、世界教育者団体連盟の組織や活動を紹介しており、児玉九十が帰国後この提案とその実現にいたる経過について『体験教育』紙上に掲載された「同窓会だより」欄には次のように順を追って記述されている。「児玉先生住宅工事進む」児玉先生の古稀を祝してお贈りすることも強い関心を持ち続けていたことが示されている。児玉九十と児玉三夫が海外渡航中に明星学苑に寄せた便りのうち、『体験教育』に掲載されたものから抜粋して掲載した。ここに掲載した以外の報告も含めて読むならば、児玉九十にとってはいまだ航空便がなく、訪欧も、欧米間も、帰（大正14）年5月〜1926（大正15）年1月の欧米視察から31年ぶりの海外渡航であり、きわめて印象深いものであったことが示されている。また、後に数多く「同窓会だより」（抜粋）去る二月十日学苑に於いて理事会が開かれ、校長先生古稀の祝と学苑創立三十五周年を祝して、先生の老後を御安楽に過していただけるよう、御住宅を新築してお贈りするための協議が行われました。具体的内容については、いずれ趣意書をお配りして御諒承願うことになっているが、着々と準備が進行していることをお知らせするとともに、その節は会員各位の絶大なる御協力をお願いしたい。になった御住宅は、去る十一月十五日行われた学苑創立三十五周年記念式の式典で「明星同窓会」の名をもって無事贈呈を終りました。工事は予定より少し遅れてはおりますが、向山工事委員長の姿が連日工事現場に見られ、逐日完成に近づいております。あと電気工事その他の付帯工事を余す位となっていますから、建具が入ればお正月を新居でお迎えいただくこともできそうですが、庭木の移植等まで終ってすっかり完成海外渡航を行うことになる児玉三夫にとっては太平洋戦争中に召集されて中国に出征したことを除けば、実質的に最初の海外渡航の経験であり、大きな印象を得て、後の海外渡航への思いを形作る出発点となったと推測される。同窓会、児玉九十に住宅贈呈1923（大正12）年発行の『文部省認可明星実務学校設立趣旨』に記載されている校地・校舎図には敷地内の一角、北東方に「校長住宅」の記載があり、これに先立って提出された「明星実務学校設置願」添付資料のうち「明星実務学校校舎新築工事予算書」には「校長住宅建坪24坪2合5勺」（約80㎡）の記載がある。明星実務学校創設時の第1代校長宮本覚純、第2代校長児玉九十と、校長が常に校地内に居住したことから校長と生徒の間に日常的な接触が生まれ、「総舎監」（児玉九十の言）としての役割を果たすことができ、教（『体験教育』第199号、1958年2月、16頁）「同窓会だより」（抜粋）児玉先生住宅建築実行委員会が四月十九日（土）学苑にて開催されましたが、実行委員一致してこの記念事業達成に向って邁進することを申し合わせた。委員会終了後、児玉先生もお顔を出されて、学苑の近況についての御報告と、今回の記念事業についての御挨拶があり大変有難いお話で心から感激いたしました。しかし皆さんの御負担をも考えて、お気持ちだけで結構だからと御辞退を申し上げたのですが、再度の熱心なお話なので、熟考いたしました結果、せっかく皆さんが熱意を持ってお進め下さっていらっしゃるならと、皆さんの御好意を有難くお受けいたすことにしました。するのは、新春を迎えてからになる模様であります。建築資金の御賛助をいただいた会員各位には、誌上をかりて厚く御礼申し上げます。（『体験教育』第208号、1958年12月、20頁）このような経過を経て児玉九十の古稀祝いとして同窓会から贈られた住宅は校地内の北方、女子部・幼稚園の北に位置し、木造1階建であった。児玉九十は「心力歌」の一節「平らかに思い、安らかにうごけば、物は皆、われに親しくして、人は皆、わが友たるべし」から「平思荘」と名づけ、1959（昭和34）年3月から1989（平成元）年に没するまで終生ここに住み続けた。新校長住宅について、『体験教育』第211号には「児玉学苑長先生を新居に訪ねる」と題された次の記事が掲載され、住宅の様子と児玉九十の感想が次のように記述されている。るので、一応、総てが終ったところで、先生を新居にお訪ねすることにした。花の美しく咲さママ誇る女子部の前庭を通り女子部玄関前に出て、校舎にそって北に曲って一〇〇米たらずで、真新しい表札のある門に達する。夜には蛍光灯がつくので迷うこともなかろう。庭に歩を運ぶ。もとの御住居は木々に包まれていたので、やや暗い感じであったが、此の度は全く明るい感じのする気持ちのいいお住いである。青い瓦屋根をあおぎ、モルタルと鉄平石の貼られた外装の応接間を見ながら玄関の戸を開く。新しい木の香の中で遠慮、会しゃくなくあたりを見廻す。赤い“じゅうたん”も色がいい。先生にご感想をお尋ねする。「卒業生諸君が、ずっと以前にも私の住いのことを心配して下さったことがあります。以前の住いは雨もりがひどかったり、応接間の天井が雨で落ちてしまったりしたこともありました。父兄の方々もいつも御心配下され私の知らぬ間にお金をお集めになられたときき講堂に大きなピアノがほしかった時でしたから、わけをお話しして只今あるグランドピアノを買って頂いたのです。今度こそ古稀の祝にどうしても私の家をつくって伸々とやすめる様にしたいと卒業生の皆さんが申されるものですから折角の御厚情につき、それでは決して御無理の起らぬ様にと云うことでお受けすることにいたしました処、皆さんが心をこめられ、こんな立派な家を建てて下さって、CHAPTER1第1章176MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory177

## Page 090
![Page 090の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000090.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部全く思いもよらぬ有難いことで家族一同は、学苑長式辞、永年勤続教職員などの表彰、文感涙にむせんで居ります。部大臣はじめ東京都知事東龍太郎・府中市長矢卒業生の中には多方面の方がおられる部隆治らによる来賓祝辞、PTA及び同窓会よりので、その方々がそれぞれ専門の立場での記念品贈呈、「学苑賛歌」歌唱で一応幕が閉じ御尽力して下さいました。られたあと、卒業生・藤原歌劇団所属宮本良平実行委員長向山氏は雨の日も、風の日の作詞・作曲による祝賀歌「大国のけやきの如」も毎日欠かさず工事の進行状態を見廻らが宮本良平の歌唱により披露された。れ監督して下さったのです。皆さんに大変お骨折りをかけました。明星学苑四十周年をお祝いして深く感謝をしております。児玉学苑長先生にささぐどこを見ても心のこもったところばか「大国のけやきの如」りで大変気持ちよく生活をさせて頂いて宮本良平作詞・作曲おります。これからは益々健康に留意し星明りに黒き大樹の一本齢四十て教育に専心してゆきたいと思います。」枝をのばし根をはり中天にそびゆ（『体験教育』第211号、1959年4月、5頁）（注：文末に「4がつ15にちS」と記されているが、筆者名は明示されていない。内容から教職員ではないかと推測される。なお、文中に記されている「向山委員長」は旧制明星中学校第1回卒業生、当時、向山建設取締役社長、明星同窓会会長も務めた。）伸びよ直く栄えよ繁く年ごとに若き新めの香りも高く大国のけやきの如かぎりなく末ながく昭和三十八年十一月一日創立40周年記念式典での表彰私の学んでいるこの、明星学苑が誕生してから、四十年目になる。今、天高くそびえているたくさんの林も、この学苑が出来た時に植えられたのもあるだ（『体験教育』第261号、1953年12月、4頁）この学苑は、都会にはめずらしいほど、緑ろう。この学苑で学んだ私達も、この緑の卒業生から住宅を贈られるということは、児につつまれている。通りの、交通のはげし木のように、毎年少しずつ枝や葉をのばし玉九十と生徒・卒業生の間に在学中はもとより、記念式終了後、体育館を会場として来賓を招いそうぞうしさも、一歩校門をくぐれば、スてたくましく、成長していきたいものと思卒業後何年経過しても深いつながりがあったこいての祝賀式パーティが実施された。また、11ウーツと消えてしまう。う。とを示している。月9日には学苑グランドにおいて全園児・児童・春は、新緑が目にしみ、夏は強い太陽の生徒参加の生徒祝賀式も、11月10日には小学校日ざしから私達を守ってくれ、秋は足元に「創立記念式を迎えて」創立40周年記念行事、明星大学の創設へグランドにおいて父兄卒業生祝賀式が挙行されまう、落葉をおいかけたり、私はこんな緑女子部高三杉本昌子学校法人明星学苑では、1952（昭和27）年の創た。11月8日・9日・10日の3日間、男子部・工の林が大すきだ。木々の間を通ってくる空待ちこがれた秋が来た。秋は相反する二立25周年までは1927（昭和2）年の旧制明星中学業科・女子部・小学校・幼稚園では展覧会・演気は、とてもおいしい。つの顔を持っている。そろそろ冷たくなっ校創設を出発点として周年を数えていたが、新劇発表会を開催した。11月11日・12日には毎年明星学苑の生徒は、みな健康なわけだ。てきはじめた空気や、落ちる木の葉はなん学制の下で中学校・高等学校・幼稚園・小学校実施してきた「音楽と舞踏の会」を記念行事の一となく物淋しさを感じさせる。だが一方そを擁する総合学苑に発展したことを機に、1923環として八王子市民会館において開催した（『体れが学校にやってくれば、運動会、遠足、ク（大正12）年の明星実務学校創設を明星学苑の創験教育』第260号、1953年11月、1〜8頁・第261ラブ発表会と若さと活力で一杯に溢れた時設として周年を数えることとし、その節目の年号、1953年12月、1〜8頁）。となる。今年は学苑創立四十周年にあたっである1958（昭和33）年11月に創立35周年、1963ているので盛大で多彩な行事が用意されて（昭和38）年11月に創立40周年の記念行事を実施『体験教育』第260号、1963（昭和38）年11月にいる。しかしこの様な意義ある祭典をただした。は、次の作文など創立40周年を祝う児童・生徒単に余興的なもののみに心を奪われてし1963（昭和38）年の創立40周年にあたっては、の作文が掲載されている。まっていいのだろうか。私達には想像もつ11月9日に学苑講堂において慰霊祭を挙行、11月かない程の苦しい体験、すなわち戦争その10日に学苑講堂において創立40周年記念式を挙「四十周年おめでとう」他の大きな嵐を経てもなおその生命を保っ行、記念誌『明星学苑40年』を刊行した。記念式（小学校）六竹堀口治子創立40周年式校門アーチているばかりではなく飛躍、発展してきたCHAPTER1第1章178MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory179

## Page 091
![Page 091の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000091.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅲ．学制改革期1947︵昭和22︶年～1963︵昭和38︶年PART1第1部母校を生徒一人一人が心から祝福すると共にこの名誉ある学舎に学べる喜びと誇りを再認識すべきだと思う。今までに培われた基礎の上に、正しいことをさらに積み上げ、より素晴らしい校風を造り出してゆく時期にさしかかっていると思う。ごく限られた学を創設することとした。これに先立ち1957（昭和32）年5月12日の法人役員会（理事会・評議員会）では創立40周年記念募金計画が決定されており、使途計画から、大学創設はそれ以前に計画決定されていたと推測されるが、最終決定は1963（昭和38）年5月開催の理事会と記録されてまた、創立40周年記念誌『明星学苑40年』（1963（昭和38）年11月10日）に収録されている児玉九十「明星ものがたり」は明星学苑40年の歩みについて記述した上で、最後を次のような記述で締めくくっている。時間であるが、私も明星の一生徒として、学苑発展の原動力となりたいと思っている。「四十年目の年にあたって」いる。創立40周年に先立って1963（昭和38）年2月に学校法人明星学苑理事長児玉九十名で公表された「明星学苑創立四十周年記念事業趣意書」では、それまでの歩みや取り組みについて紹介「大学設置にふみきる」明星学苑は本年創立40年を迎えました。皆様の深い御理解と強い御支援御協力がありまして、この慶びをもたらせて下さいま男子部生徒会長松本啓祐した上で、創立40周年記念事業について次のよしたわけでございます。長い歴史と伝統を誇る我等の学苑は、ここに四十周年を迎え、各種の記念行事が盛うに記述している。本当にありがたいことでございまして心から厚く御礼を申し上げます。大に開催されることになりました。そのうち運動会は既に先号に掲載されまかねがね御父兄の要望もあります大学施設も具体化させねばなりませんが、この準幼稚園と小学校は男女共学で、中学校と高校は、その特性を磨くために夫々別学で、した。現在は生徒一同協力して目前に迫った文化祭を立派にやりとげたいと思っております。我々一人一人が自分達に課せられた仕事を精いっぱいやることが創立四十周年という記念すべき年に学苑に学ぶ我々の責任であると思うのであります。四十年という半世紀に近い歳月の経過の中にあって、今日まで着々と先輩が築いてきた明星学苑のよき校風を我等の時に失うことなく、更に新しい光を加えて我々に続く次代にバトンを渡したいと思います。来春には待望の大学が設置されることになり、今後ますます明星学苑も大きく発展していくことと思います。この時に当り、我々も出来るだけ努力して、生活の面にも学業の面にもより一層の向上を心がけようと思うのであります。（『体験教育』第260号、1963年11月、7〜8頁）このように児童・生徒に様々な考えをもたらした周年記念事業であったが、それまでの周年事業とは異なる注目すべき取り組みとして、学校法人明星学苑は創立40周年を機として明星大備の第一着手としては最少限約二万坪の校地買収の必要もあり、男子部普通科及び工業科の増築、女子部の特別教室増改築、小学校校舎改築、大講堂の新築、体育館の増築、学苑図書館及び食堂の建築、海の学校、山の学校用の施設、校内排水施設等々の施設拡充計画を逐次進めて参る予定でございます。ママ（「明星学苑創立四十周年記念事業趣意書」1963年2月）（『体験教育』第261号、1953年12月、1頁）大学は男女共学のもとに切さ琢磨して専門の学業を身につける構想をもって、明星学苑は歩んでまいりましたが、この佳年を迎えるにあたりまして、年来の宿願であった月30日に設置申請書を提出いたしました。これもまた大きな慶びでございます。どうぞ今後も、かわらぬ御厚志を賜りますよう、切にお願い申し上げます。（『明星学苑40年』1963年11月、134頁）11月10日に挙行された創立40周年記念式における「学苑長式辞」の中で、児玉九十は次のよう創立40周年を迎えて、学校法人明星学苑は既に大学創設について報告している。設の幼稚園から高等学校に加えて、新たに大学を創設し、一貫教育の場を設置運営する総合学この度四十周年記念事業として宿願の四苑としての完成を目指して、新しい段階に踏み年制大学を設立することになり、日野市高出したのである。幡の多摩動物公園の向側に四万坪の敷地をママ得、己に認可申請書を文部省に提出し二千二百坪の本館建設に着手いたしておる様な次第で、大学の認可が出ましたならば明年四月からは幼稚園より大学までの綜合学苑となる訳でございます。CHAPTER1第1章180MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory181

## Page 092
![Page 092の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000092.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部Ⅳ.拡大期1964（昭和39）年〜1996（平成8）年Column1「明星学苑創立四十周年記念事業趣意書」CHAPTER1第1章明星学苑が、ここ武蔵野の一角に呱々の声をあげたのは、大正十二年四月でありますが、本年は創立四十周年の記念すべき年を迎えることになりました。今日まで歩んで参りました三十九年間を回顧いたしますと、関東大震災、満州事変、支那事変、大東亜戦争と大事件が連続し、しかも最後は無条件降伏による経済難、外交難、思想難におそわれ、社会情勢の混迷と教育制度の大変革など実に多事多難な悪条件の中にありましたが、わが学苑は終始一貫建学の精神を堅持し、基礎教育機関をことごとく備えた総合学園1.明星大学の創設明星大学創設への動きられてきた。第2に、保護者からは高等学校卒業後も引き続いて明星教育を受けさせたいとの強い要望が寄として今日の発展を見るに至りました。これもひとえに学苑を信じて御子弟を託された御父兄の皆様、ならびに大和協力の精神で御子弟の教育に専心された教職員各位、及び学苑の教育精神を身に体して国家社会のために尽された卒業生諸君及び一般有志各位のなみなみならぬ有形無形の御援助御指導、御協力の学校法人明星学苑において1963（昭和38）年の創立40周年を機として大学を創設しようとの機運が高まってきた。これは明星学苑の内外の多くの要因によって生じてきたものであった。明星学苑内部においては、第1に、太平洋戦争せられており、「明星学苑創立四十周年記念事業趣意書」（1963（昭和38）年2月）には、「かねがね御父兄の要望もあります大学施設も具体化させねばなりませんが」と記載されている。第3に、児玉九十・児玉三夫は1957（昭和32）賜で深く感謝いたしております。また創立三十五年を契機として昭和三十二年度より諸施設の拡充計画実行に着手いたしましたが、現在までに学苑本館（男子部高等普通科及び管理部門）、幼稚園々舎、小学校増築（図書室・音楽室・会議室・水洗手洗）、北斗館（男子部中学校及び理科教室）、三省館（女子部高校）、啓明館（男子部高校工業科）及び工業科実習工場など、全学苑を通じ延約弐千五百坪の新築ならびに増改築を終り、更に昨年七月水泳プール完成など、当初計画の大半を実現すること敗戦後に制定された新学制の下で旧制中学校を新制中学校（男子部）・新制高等学校（男子部）に組織替えするとともに、幼稚園、小学校、中学校女子部・高等学校女子部を創設し、幼児教育から初等教育、中等教育にいたる一貫教育体制年7月〜9月の世界教育者会議への出席と、その機会に広く欧米教育を視察した結果、日本においても高度の科学技術者の養成が急務であること、それは日本の産業経済構造を支えるために必要であること、また日本人の海外進出のためができましたのも施設充実費として御協力いただきましたPTA各位の御尽力の結晶と深く感謝いたしております。創立以来今日まで地味ではありますが、着々諸施設の改善を図って参った事は以上の通りであります。しかし、まだまだこれで充分とは申し難く、創立四十周年を転機として更に学苑の飛躍的発展と内容諸施設の充実を図って参りたいと存じます。かねがね御父兄の要望もあります大学施設も具体化させねばなりませんが、この準備の第を構築していたが、さらに一貫教育体制を完成させ、独自の教育理念に基づくより充実した教育実践を展開するためには高等教育機関、大学を創設することが必要であるとかねてより考えには世界に信頼される日本人の育成が必要であること、教育のあり方としては産学協同が効果をあげることを強く認識して帰国していた。これは明星学苑の内的要因であるが、日本の将来を見通しそれにいかに対応していくかという要一着手としては最少限約二万坪の校地買収の必要もあり、男子部普通科及び工業科の増築、女子部の特別教室増改築、小学校校舎改築、大講堂の新築、体育館の増築、学苑図書館及び食堂の建築、海の学校、山の学校用の施設、校内排水施設等々の施設拡充計画を逐次進めて参る予定でございます。以上の拡充計画を推進するため、創立四十周年記念事業として別紙要項の学苑債（元金返済、無利息）を発行し、御父兄各位の一層の御協力を仰ぎたいという事が昨年五月十二日の法因であった。一方、明星学苑を取りまく社会的状況としては第1に、1955（昭和30）年以降の日本は高度経済成長の時期を迎え、専門的な教育を受けた人材に対する社会的需要が増大することと、家庭人役員会において最終決定を見た次第でございます。つきましては学苑当事者といたしましても諸経費を極力節約いたし所期の目的を達成するよう最善の努力を払いますことは申すまでもありませんが、御父兄各位におかせられても右趣旨御賢察の上、学苑の飛躍的発展充実のため全学苑をあげて御協力と御支援を賜わりますよう切に御願い申し上げます。の経済的条件などが整ってきた。社会がより高度の学校教育を終えた人材を求めるという「プ昭和三十八年二月学校法人明星学苑理事長児玉九十ル要因」と、それを可能とする家庭の経済状況の大学設立準備委員会実現や人々のより高度の学校への進学を希望す182MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory183

## Page 093
![Page 093の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000093.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART1第1部CHAPTER1第1章学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年Column2明星大学（理工学部）設立趣意書第二次世界大戦の結果、わが日本はいまだかつて経験した事のない敗戦に遭遇し、一億の日本国民は資源乏しき四つのせまい島で生きて行かねばならぬ運命となりました。私は教育者の立場から、国家再建のため戦後の日本教育を如何にすべきかについて、真剣に考え抜いた結果、戦後の日本教育の根幹は「道徳教育と科学技術教育」でなくてはならぬという結論に到達いたしたのであります。申し上げるまでもなく、帝国主義の時代は第二次大戦をもって完全に終りを告げ、今まさに世界各国は自国の産業振興に全力を傾け、他国と覇を争わんとする商工業競争中心の時代にはいっております。原料を輸入し、これを加工して、輸出することを産業の中軸とする日本としては、これらの競争に堪え国の繁栄を得んとすれば、高度の科学を中心とした強い道義心と、すぐれた技術によって、よりよき品を製造し、これを安価に売り出す以外に方途はないのであります。したがって、これに適する人材の育成が急務中の急務となっております。昨今人づくり問題が国家の方針としても叫ばれるようになったゆえんも、まさしくこの点からであるといってよかろうと思います。文部省における中央教育審議会において、工業高校三年と工業短大二年とを結合した五ヶ年一貫の技術教育による中堅技術者養成を企画した専科大学案の立案に私も微力ながら尽力致しましたのもそのためでありましたが、昭和三十二年西独フランクフルトにおける世界教育者会議に出席後の欧米視察において、各国の産業立国と教育との結合の強固さ、特に米国における産学共同（I・A・P又はI・L・P）の徹底的遂行の実情を見て、いっそう確信を強め、帰朝後準備に着手、昭和三十六年四月から明星高等学校に従来の普通科の他に新しく工業科を併設し、専科大学実現への一歩を踏み出しました。ところが、専科大学案は三度も国会に提出せられたにもかかわらず、三回とも審議未了の上ついに廃案となり、明星学苑としては、工業短大・四年制大学のいずれを採るかの二者択一をせまられるに至ったのであります。一方、四十五年迄の工学部出身者の不足は、現在の日本経済の伸び方をもってすれば約五十万人という統計も発表され、他方、所得倍増政策による所得の伸展は、高校ならびに大学進学者も急増を来して大学入学難はますます激化の一途をたどり、本年高校入学者の卒業する昭和四十一年以後は、現状をもってすれば日本特有現象たる浪人（全学連と浪人は日本の特有現象と世界からいわれています）の激増を見ることは火を見るよりも明らかな事でありますから、明星学苑としても四年制大学実現の急務たることを痛感し、如何なる困難をも克服し、これが実現をはかりたいと決意するに至った次第でございます。大学出身者の不足は、工科系だけではなく自然科学系全体でありますから、数学・理科専攻者の不足もおびただしく、高校・中学の理数科教師の如きは補充困難のため、学校間で奪い合いといういまわしい状態も頻出しております。そこで明星大学においては、現代工業技術で最も要求されている数学・物理・化学の基礎学科との融合を図る点の考慮と、理数教師の養成との両点から、理科と結合した進み方を採ることとし、明星大学最初の学部としては、「物理学科・化学学科・機械工学科・電気工学科・土木工学科」の五学科を内容とする理工学部として発足し、時代の要求に応ずる事といたしました。以上申し上げましたように、戦後の日本教育は道徳と科学技術教育を根幹とすべきであるという大前提に源を発しているのでありますから、明星大学は單なる学問技術の練磨をもって満足することなく「科学する心を持った道義心の強い技術者」の養成を行い、「世界に信頼される、日本人」たらしめようという明星学苑建学の根本精神に徹底せんとする「人づくり大学」である事を重ねて強調したいと存じます。昭和三十八年五月十七日学校法人明星学苑理事長児玉九十明星大学設立計画開設年月昭和39年4月所要資金資金調達総額128,100万円募金額50,000万円学苑調達資金78,100万円建設計画場所日野市程久保（多摩動物園前丘陵地）校地費12万平方米（4万坪）26,000万円建築費55,600万円機械器具費38,000万円図書費5,500万円備品費3,000万円合計128,100万円明星大学設立委員会会長明星学苑理事長児玉九十募金委員会会長工藤昭四郎副会長平山亮太郎長沢邦治杉本邦雄顧問会長平山亮太郎顧問＝（略）＝免税について＝（略）＝184MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory185

## Page 094
![Page 094の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000094.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部る意識の高まりなどの「プッシュ要因」が相まっ校法人明星学苑・児玉九十は1963（昭和38）年2案したが、成立するにいたらなかった。なお、付て、義務教育である前期中等教育、中学校以上月に「明星学苑創立四十周年記念事業趣意書」に言するならばこの構想は1962（昭和37）年に「高の段階への進学が増大してきた。当初は後期中おいて、創立40周年記念事業の一環として大学等専門学校」として実現した。等教育である高等学校への進学が顕著に増加を創設することを初めて内外に公にした。「趣意1953（昭和28）年1月から中央教育審議会委員し、「都市部では高卒が標準化する傾向にあり書」には、府中校地における既設園・各校の施に就任していた児玉九十は専科大学の意義を認（高校進学率は五五年五二％から七五年に九設・設備の充実などとともに、「大学施設も具体め、設置が可能となった暁には明星学苑でこれ二％へ）、学歴は、将来の職業生活を左右する重要な要素との認識が強くなっていった」（武田晴化させねばなりませんが、この準備の第一着手（ママ）としては最少限約二万坪の校地買収の必要もを実現することをめざし、その基礎として1961（昭和36）年に高等学校に工業科（機械科・電気通人『高度成長』（シリーズ日本近現代史⑧）2008あり…」と記している。この時期までには大学創信科）を創設した。しかし、法案が成立せず、専年、102頁）。高等学校進学率の増加に続いて、大設が学校法人明星学苑において具体的な計画と科大学が実現しなかったことを受けて、学校法学進学率も1955（昭和30）年には13.1％であったして決定されていたと推測されるが、現在参照人明星学苑、児玉九十・児玉三夫は既存の制度建設途上の校舎を臨むものが1963（昭和38）年には19.8％と増加しつつ可能な資料から見る限りにおいては、この機会に従い、理工系学部を持つ4年制大学、総合大学あり、大学進学希望者もさらに年を追って増加に初めて広く公表されたととらえられる。の創設を決意するにいたった。大学創設の基本融機関の学校法人明星学苑に対する評価・信用することが予測されていた。創設をめざした4年制明星大学の構想は文・理的な条件としては、当時の大学設置基準にした度も高まり、目標通りの資金の借り入れが実現第2に、大学には教育のみならず、高度経済成系学部を備えた総合大学であったが、その中でがえば府中校地では校地面積が不足することかするという効果もあった。さらに、大学創設に長の基礎となる科学技術の発達や世界的水準のも理工学部から出発しようとした背景として、ら、府中校地以外に校地を求めなければならな対して広く社会からも賛同・協力を得るために基礎科学研究を担うことも期待されていた。「専科大学」構想とその挫折があった。専科大学かった。また、創設時期については高等学校工大学創設資金の募金を実施することとなり、東アメリカの教育社会学者M.トロウの所説とは、太平洋戦争敗戦後の教育改革・学校制度業科第1期生の卒業に合わせ1964（昭和39）年4月京商工会議所会頭工藤昭四郎を委員長に招請（M.トロウ、天野郁夫・喜多村和之訳『高学歴社改革において学校体系は6・3・3・4制の単線型を目途として具体的な計画を検討・作成した。し、学校法人理事阿部豊明・鈴木秀男を推進役会の大学』1976年、63〜64頁）にしたがえば、日学校体系と定められたが高等学校に各種の専門決定した計画に基づいて「明星大学（理工学に大蔵省（当時、現：財務省）の寄付金控除の対本における高等教育も、社会の中の少数の能力課程が設置さたことと、短期大学の設置が認め部）設立趣意書」を1963（昭和38）年5月17日付で象とする許可も得て、1963（昭和38）年末から募その他の点で選ばれた者のみが高等教育を受けられていたことを基礎として、高等学校相当3年広く社会に公表するとともに、大学創設のため金活動を開始した。この募金活動は目標を達成る状態である「エリート段階」（進学率15％以下と大学4年のうち2年ないし3年を結びつけて、の資金を募ることとした。して1967（昭和42）年4月に委員会が解散するまをメルクマールとする）を脱して、高等教育を受中間技術者養成を図ることをめざすという目的で継続され、最終的には2億円を超す募金が寄せけたいという意思を持つ者全てにその機会が提から考え出された新たな学校種別である。1951明星大学創設の準備られた。供される状態である「マス段階」（進学率15％以（昭和26）年11月に戦後改革全般の検討を試みて大学創設のための基礎として、資金の確保と大学創設にあたって、府中校地以外に新たな上、50％以下）にさしかかっており、いずれは高いた政令改正諮問委員会が「教育制度改革に関大学用地の入手が第一に必要である。大学建設用地を入手することが設置認可を得る等教育を受けることがいわば義務化した状態でする答申」を発表し、その中でこのような学校に資金の確保のために金融機関からの借り入れために不可欠であった。学校法人理事会は大学ある「ユニバーサル段階」（進学率50％以上）に到ついての構想を「専修大学」の名称で提起した。を行わなければならないが、それと並んで学校建設用地として、①教育的な良い環境であるこ達すると考えられていた。さらに、中央教育審議会は1954（昭和29）年11月法人明星学苑として初めて取り組んだのは保護第3に、このような要因から「教育熱」が高揚に発表した「大学入学者選考およびこれに関連者に協力を依頼する趣旨による「明星学苑債」のするとともに、大学受験競争が激化し、大学受する事項についての答申」をはじめ、4回にわた募集であった。明星学苑債は、一口を1万円と験浪人の増加が社会問題化しつつあった。これりこのような内容の学校の創設を提起した。こし、在学期間中無利子で明星学苑に預けてもららの多くの要因から大学の増設が求められるこれらの答申にもとづき、文部省（当時、現：文部い、卒業時に返還するというものであった。計ととなり、大学の増設は政策的課題にもなって科学省）は1958（昭和33）年3月にこのような学校画では1億5千万円を目標としたが、実際に募集いた。を「専科大学」と名づけて新設する提案を「学校を実施すると2億円近い協力を得ることができこのような状況は、明星学苑にとっては大学教育法の一部を改正する法案」として国会に提た。明星学苑債は、大学創設が軌道に乗った1968の創設を求める外的要因となっていた。出したが審議未了となり、さらに1958（昭和33）（昭和43）年の時点で目標を達成して募集を停止こうした内外の状況についての認識の下、学年から1959（昭和34）年にかけて三度、国会に提した。この明星学苑債への応募実績を見て、金急ピッチですすむ校舎建築CHAPTER1第1章186MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory187

## Page 095
![Page 095の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000095.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部公園駅まで延伸され新駅が設置され通学の利便ことが推進された。教員については、学長に児性がより高まることが見込まれていた。富士山玉九十、副学長に児玉三夫が就任するほか、理Column3明星大学設置認可申請書・認可書を望む立地に関連して、児玉九十は大学創設後、機会あるごとに「日本一の富士山を眺めながら、工学部長には神戸高等工業学校教授・東京都立工業専門学校校長・東京都立大学工学部学部長・毎日の大学生活を送り、勉学に励み、日本一の東京都立工業短期大学学長などを歴任した工業人となるように」と学生に語りかけていた。教育の第一人者である清家正（1891（明治24）年校地が確保され、校舎の建設に取りかかった12月23日〜1974（昭和49）年11月19日、機械工が、1963（昭和38）年9月の校地入手から1964（昭学専攻）が就任した。大学設立準備委員が各学科和39）年4月の開学までのきわめて限られた期間の中心となる教授として就任、さらに明星学苑・に完成させなければならないという条件の下、児玉九十の教育理念に共鳴する教員、各領域に鉄筋コンクリート地上4階建・一部2階建の校舎おける一流の研究者・教育者を招くという方針1棟と付属機械室1棟を第1期工事として建設すが取られ、広く学界・実業界から多くの優れたることとし、工事に時日を要する地階建設は避業績を持つ人材を教員として招聘した。明星大学設置認可申請書けた。株式会社熊谷組に工事を発注、1963（昭和38）年10月22日に起工式を挙行し、4月の開学ま教育のあり方については、「科学する心を持った道義心の強い科学者の人づくり」を目標とし、での竣工を目標に休日返上・昼夜兼行で突貫工そのために「ヒューマンタッチすなわち人格接事が進められ、工事の休みは正月3日間だけ、大触によって、親切かつ厳格に指導に当たる」とい晦日には副理事長児玉三夫が現場を訪問し、年う考え方が基礎となったが、この考え方は第1回末年始に帰郷できない工事従事者の慰問・激励入学式における学長児玉九十の告示にも明確にに努めたことが語り継がれている。示されている。教育課程については、専門領域大学の学部・学科構成や教員構成、教育・研の講義・演習・実験・実習の充実はもとより、当究内容については、1963（昭和38）年春に大学設時の大学設置基準に定められている最低基準を立準備委員会を設置し検討を行うこととした。超えて、外国語教育の充実（第1外国語を1年か大学設立準備委員会は、委員長児玉九十、副委ら4年にわたって履修するとともに第2外国語を員長児玉三夫、委員落合盛吉（生物学）・近藤一1年から3年にわたって履修する）、保健体育科目明星大学設置認可書二（化学）・清家正（機械工学）・伊藤健雄（土木工学）・金谷一秀（電気工学）・山田嘉久（機械工学）・の充実（特に体育実技を1年から4年の4年間にわたって必修とする）、一般教育科目の充実（理工清水吉之助（物理学）、顧問上智大学理工学部長学部であっても人文科学系・社会科学系科目を田中敬吉（機械工学）・上智大学教授野村正二郎と、②できるだけ交通の便が良いこと、③敷地ら先頭に立って現地調査や折衝に邁進した結（機械工学）という構成員からなり、委員会を毎が広大であること、④土地価格が安価であるこ果、現在の日野校地が最終候補となり、困難な週1回開催し、検討・討議を重ねた。その結果、とを条件とした。この条件にあった適地を主と折衝の結果、文部省（当時、現：文部科学省）へ学部・学科として初年度は理工学部1学部、物理して東京都多摩地域、さらに山梨県まで広く各の大学設置認可申請の提出締切日1963（昭和38）学科・化学科・機械工学科・電気工学科・土木地に求め、現地調査や折衝を繰り広げたが、当年9月30日を目前に控えた9月17日に土地取得工学科の5学科で発足することとした。この後、時東京西郊は住宅建設などの開発が著しく進展契約が交わされた。大学建設用地（現：日野校地）審査過程において初年度に理工系5学科を創設中であり、条件にかなう大学建設用地の取得はは標高約150mの丘陵上に展開しており、西方にすることは負担が大きいのではないかとの懸念きわめて困難であり、一時は大学創設を1年遅ら丹沢山地を越えて富士山を望み、東方に多摩川も出されたが、児玉九十の理学と工学を融合しさざるを得ないという悲観的な見方も生ずる程を見下ろす恵まれた自然環境にあり、1964（昭和た理工学の総合学部とするという構想に基づであった。そのような状況の下、児玉三夫が自39）年春には京王線が高幡不動駅から多摩動物き、この学部・学科構成を変更せずに実現する大学設置審議会委員実地視察風景CHAPTER1第1章188MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory189

## Page 096
![Page 096の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000096.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部充実する）を特徴とする教育課程を定めた。このような準備を進める中で、文部省に対する大学設置申請準備が鋭意進められ、提出期限月30日夕刻に「明星大学設立認可申請書」を文部省に持参、提出した。提出された書類にもとづいて大学設置審議会・私立大学審議会の審査が始まり、1963（昭和38）年11月9日に大学設置審議会委員による実地視察が行われ、12月3日には私立大学審議会の委員による実地視察が行われた。それまでに教員組織などの審査は終えており、校舎が翌年4月に完成する見通しが立てば認可するという方向であった。それに対応するために、大学校舎の建設を一層加速するとともに、万一間に合わない場合を想定して府中校の高等学校の鉄筋コンクリート造りの新校舎完成に伴い使用されていなかった旧木造校舎に加えてプレハブ校舎を設置、そこに開学に必要な全ての図書・学術雑誌や実験実習用器具を準備し、大学校舎建設が遅れても4月開学に支障のないことを示した。1964（昭和39）年3月7日に再び大学設置審議会の実地視察が行われ、その結果1964（昭和39）年3月11日に大学設置審議会と私立大学審議会の両審議会から設置を認可すべきであるとする答申がなされ、これを受けて1964（昭和39）年3月18日付で、文部大臣灘尾弘吉により明星大学の設置が認可された。明星大学創設、第1回入学式を挙行1964（昭和39）年4月に明星大学は理工学部1学部、物理学科・化学科・機械工学科・電気工学学科をもって創設され、4月29日に241名の入学生を迎えて、第1回入学式を挙行した。前日の4月28日には京王線多摩動物公園線が開通し、より利便性の高い交通の便が確保された。入学生も教職員もともに新しい大学の出発に心躍らせ、自らが新しい大学を形作っていくという決意をみなぎらせて式に臨んだ。学長児玉九十は告示の中で第1回入学生に対して「諸君は、意義深き第一回生として入学され第1回入学式当日の校門付近たのでありますから、この大学の学風を打ち立てる責任がございます。学風は今後永遠に亘って、大学に来たり学ぶ者に対し大なる影響を与えます。」、「都心部の汚染された空気と全然違って、空気も実に清浄で、太陽の恵も豊なこの多摩丘陵の大自然境で浩然の気を養いつつ俗塵を離れて元気で心静かに明朗快活な大学生活を送り『世界に信頼される日本人』となる事を目標にして、世界的視野を持った人物となられる事を希望いたします。」と呼び掛けた。副学長児玉三夫は学事報告の中で大学創設の趣旨、大学創設の経過について報告した上で、「三月十一日認可決定とともに新聞に公表し四月中旬迄一ヶ月間、理工学部学生募集をいたし、全国各地タイ国等から多くの応募者がございましたが厳正かつ慎重な試験をいたしまして二三五名の合格者を得、本日ここに、合格者たる学生諸子、並びに御父兄各位、来賓各位の御臨席の下に、盛大第1回入学式ママColumn4明星大学第1回入学式を報じる『体験教育』―第265号、1964（昭和39）年5月20日刊―CHAPTER1第1章190MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory191

## Page 097
![Page 097の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000097.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部に入学式を挙行いたすことと相成りましたことを頂いたが、その一人である旧制明星中学校時は、誠に御同慶に堪えない次第でございまして代の保護者であり、明星教育を良く知る岸信介関係各位の御尽力にたいし衷心より感謝申し上げます。」と入学式にいたる状況を報告した。これに対して、第1回生としての期待を担う決意をは次のような祝辞を述べた。「祝辞」（抜粋）Column5「明星大学開学式」報告―1966（昭和41）年5月27日―もって入学した新入生を代表して、牛丸秋浩が元総理大臣明星大学顧問岸信介宣誓を行った。本日明星大学の開学記念の式典を迎えるにあたり一言ご祝辞を申し上げます。宣誓教育とは人間の養成であり、大学教育は私たちは明星大学建学の精神を体し学則社会の指導的な人材の養成を目的としておを守り学生の本分を盡くすことを茲に誓いります。指導的な人物とは、学識においてます優れていると共に、責任を重んじて率先難昭和三十九年四月二十九日きに当る勇気を持った人物であると考えま昭和三十九年度入学生代表す。終戦後今日までの学校教育の姿は、学牛丸秋浩識を偏重し、人格の養成を軽視するきらいのあったところに根本的な欠陥があったよなお、入学式後、諸準備のため2週間の休校期うに思われます。間をとり、5月14日から講義を開始した。私は名実ともに人材を養成する教育、特に大学教育の出現を待望しておりましたが、開学式を挙行ここに思いを致したわが国教育界の偉大な明星大学の創設当初の計画である2学部9学科先覚者、児玉九十先生を指導者として、単が開設され、校地も整備され、校舎も第3期工事なる学問技術の練磨をもって満足することまで完了して1号館から5号館が建設され、教育・なく、「科学する心を持った道義心の強い技研究に必要な基本的な施設・設備も整ったこと術者」の養成を行い、「世界に信頼される日から明星大学の誕生を内外に明らかにすること本人」たらしめることを根本精神とした大学、を目的として1966（昭和41）年5月27日に開学式即ち明星大学が開学されたことは、誠に時を挙行した。開学式は新設された明星大学体育宜を得たものであり、わが国の将来にとっ館を式場とし、文部省・他大学関係者・明星大ても御同慶に堪えないところであります。学設立募金委員会関係者・教育界代表・地元関大学が徒に校舎の壮麗を誇るのみでは無係者・教職員学生など約1,500人の出席を得て挙意味であります。本学建学の精神を、教職行した。学長児玉九十はあいさつの中で「『世界に信頼される日本人の育成』という明星学苑建学の大方針に基づき、明星大学を真理探究の学府、正義真理の殿堂たらしめるべく全力を傾倒したい。」と述べた。式では、文部大臣中村梅吉・元総理大臣岸信介・元文部大臣森戸辰男・私立大学協会会長稗方弘毅・東海大学総長松前重義・評論家岩淵辰雄・日野市長有山崧などから祝辞開学式当日の1号館CHAPTER1第1章192MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory193

## Page 098
![Page 098の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000098.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部された。理工学部においては学科に応じて高等し広い教養と深い専門の学芸を教授研究し人格学校教諭2級普通免許状（数学科・理科・工業を陶冶し併せて人類の幸福と世界の文化の進展科）・中学校教諭1級普通免許状（数学科・理科）に寄与することを目的とする。」と定め、学部、学を、人文学部においては学科に応じて高等学校科は「通信教育部、心理教育学科」、修業年限は教諭2級普通免許状（英語科・社会科（当時、現：「4年」、学士号は「文学士」、入学定員は「2,000名」、地歴・公民）・中学校教諭1級普通免許状（英語収容定員は「8,000名」と計画した。さらに当時は科・社会科）・小学校教諭1級普通免許状・幼稚正規の教員免許状を持たずに臨時免許や校種の園教諭1級普通免許状を取得できることとした。異なる教員免許で教壇に立つ者も多く、正規の明星大学創設期は日本が高度経済成長期を迎教員免許取得が教育行政の側からも、教員の側え、産業経済分野で活躍する人材が社会から多からも望まれていた実態があった。このようなく求められた。こうした状況を受けて人文学部状況を考え、小学校教諭1級普通免許状・幼稚園に経済学科を増設することとし、1965（昭和40）教諭1級普通免許状が取得できるように計画し年9月28日に文部省（当時、現：文部科学省）にた。1966（昭和41）年9月29日に文部省（当時、現：「人文学部経済学科設置認可申請書」を提出、審文部科学省）に対して「明星大学通信教育課程設開学式場全景査の結果1966（昭和41）年1月に認可となり、1966置認可の申請書」を提出、現地視察を含む審査の（昭和41）年4月に第1回入学生を迎えた。結果1967（昭和42）年3月25日付で文部大臣劔木員も学生も体得せられて、わが国大学の模語英文学）・飯田晁三（教育学）・安部三郎（心理さらに、「大学拡張=Universityextension」（当時、亨弘により設置認可され、同時に教員養成課程範となられるよう心から願う次第であります。学）を構成員とする人文学部設立準備委員会が児玉九十の掲げた言葉）に寄与すべく通信教育の課程認定も得ることができた。早速入学者の（『明星大学開学式』、1966（昭和41）年、3頁）設けられ、検討・計画作成を始めた。検討の結課程の創設をめざした。この背景には当時は向受け入れをはじめ、1967（昭和42）年7月20日〜果、人文学部は英語英文学科、社会学科、心理・学心に富み大学進学を志しながら、さまざまな8月25日には39名の受講生を迎えて第1回スクー岸信介の祝辞に込められた願いは、出席者に教育学科の3学科で創設することとした。委員会事情から通学制の大学に進学できない人々が多リングが開講された。通信教育の特性に鑑み通共通するものであった。で策定された計画に基づいて、1964（昭和39）年数おり、大学進学率が現在と比べ低い水準にと信教育部の機関誌『部報めいせい』を開設と同時開学式の挙行は新生明星大学の前途を祝福す8月28日に文部省（当時、現：文部科学省）に「明どまっていた実態がある。「明星大学通信教育部に刊行、学生への連絡、学習機会の提供などスるとともに、その存在を広く社会に知らしめる星大学人文学部設置認可申請書」を提出、大学設設置許可の申請書」に添付された「設置要綱」にクーリング時以外は大学に通学しない学生への機会となった。なお、1966（昭和41）年春には開置審議会と私立大学審議会による実地視察を含よれば、通信教育部の目的は「明星大学通信教育情報提供に努めた。なお、『部報めいせい』は毎月学式に先駆けて校旗を制定、後に1969（昭和44）む審査の結果1965（昭和40）年1月25日付けで文部は、本学人文学部心理教育学科の通常の教育刊として、今日まで継続刊行されている。年6月には草野心平作詞・池内友次郎作曲の校歌部大臣愛知揆一により認可された。1965（昭和課程に則して教育の機会均等の精神を拡大し主その後、1992（平成4）年4月に青梅校を創設、を制定、大学の象徴を整えた。40）年4月10日、大学としては第2回、人文学部として通信の方法により正規の課程として開設2学部4学科を創設するまで、この通学課程2学としては第1回にあたる入学式が挙行され、人文部9学科、通信教育課程1学部1学科体制が28年明星大学の拡大・充実学部には英語英文学科、社会学科、心理・教育間続くこととなった。明星大学は1964（昭和39）年に理工学部1学部学科の3学科合わせて269名が人文学部第1回生5学科で創設したが、学校法人明星学苑と大学創として入学した。学部・学科の増設・改組と大学院の創設設にかかわった人々の間ではそれにとどまるこ大学創設時から明星学苑・明星大学には教員、明星大学では創設期から通学課程2学部9学となく、社会運営の相互理解や人間性開発など特に理工系教員の不足に対応する意図があり、科、通信教育課程1学部1学科体制を継続してきのために不可欠な文科系の学部学科も持つ総合特に「明星教育」の伝統を受け継ぐ教員の養成をたが、1992（平成4）年4月に青梅校を創設、情報大学とすることが構想されていた。創設間もなめざすことが考えられており、これに加えて学学部（電子情報学科、経営情報学科）・日本文化い1964（昭和39）年5月には明星大学学長児玉九生からの要望にも対応して、1965（昭和40）年度学部（言語文化学科、生活芸術学科）の2学部4学十、副学長児玉三夫、総務部長落合盛吉、教務部長近藤一二、教授銅直勇（社会学）・百瀬甫（英から理工学部に、1966（昭和41）年度から人文学部に教員養成課程を開設することを申請、認可明星大学通信教育部。第1回スクーリングにおける児玉九十初代学長告辞科を創設した。これを契機に学問研究の進展・学問体系の変化や大学に対する社会的期待の変CHAPTER1第1章194MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory195

## Page 099
![Page 099の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000099.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART1第1部CHAPTER1第1章学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年Column6明星大学通信教育部設置認可の申請書・認可書Column7通信教育部機関誌『部報めいせい』創刊号―1967（昭和42）年4・5月号―設置要項表紙目次設置認可申請書設置認可書巻頭のことば児玉九十化に対応して学部・学科の改組に積極的に取り和46）年4月の人文学研究科社会学専攻修士課程大学院設置基準の改定によって通信制大学院組み、2023（令和5）年度現在、通学課程は理工学の創設を出発点として、年を追って各研究科・（当時：修士課程）の設置が制度上認められた部・人文学部・経済学部・情報学部・教育学部・専攻、修士課程・博士課程（後に博士前期課程・1999（平成11）年に初めて開設された4通信制大経営学部・デザイン学部・心理学部・建築学部博士後期課程と改称）を創設し、2023（令和5）年学院の一つとして創設したものである。の9学部12学科、通信教育課程は1学部1学科を度現在、理工学研究科・人文学研究科・経済学学部・学科・大学院の創設・充実とならんで、持つ総合大学に発展している。研究科・情報学研究科・教育学研究科・経営学明星大学では教育・研究の高度化や学生の多様学部・学科体制が整ったところで、学部段階研究科・心理学研究科の6研究科、13専攻を開設な学習ニーズに対応することをめざして、創設の教育・研究を基礎としてより高度で専門性のしている。さらに特徴ある取り組みとして、通当初から開設された図書館の他に、情報科学研高い教育指導や学問研究を担う大学院の創設を信制大学院教育学研究科博士前期課程・博士後究センター（1983（昭和58）年開設）、外国語センめざすこととした。明星大学大学院は、1971（昭期課程を開設しているが、これは日本においてター（現：国際教育センター、1989（昭和64）年開情報科学研究センター196MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory197

## Page 100
![Page 100の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000100.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部設）をはじめ、多くの付属教育研究機関を開設し順調に進展し、今日まで200点を超える書籍を発てきた。行している。めいせい出版（当時、現：明星大学出版部）の創設明星大学付属幼稚園の創設Column8明星大学付属幼稚園の設置関係書類明星大学における研究成果を広く社会に発信明星大学人文学部心理・教育学科においては、するとともに、教育に寄与すること、通信教育創設2年目にあたる1966（昭和41）年に教員養成課程のテキスト作成に協力することなどを目的課程の一環として幼稚園教諭養成の課程認定をとして1975（昭和50）年7月14日に、株式会社新受けた時点から幼児教育の研究・実践の場とし村印刷と協力して株式会社めいせい出版を設立ての付属幼稚園の設置を望んできており、学校した。設立時の定款には、その目的を①雑誌・法人明星学苑・明星大学もその必要性を認識し書籍・教科書の出版販売、②教育及学術に関すていた。他方、東京の過密化対策・住宅問題解る研究会・講演会・懇親会等の開催及後援、③決策の一つとして多摩西部の稲城市・多摩市・上記に付帯する一切の業務、と定めた。めいせ八王子市・町田市の4市にまたがる地域に、総面い出版の創設は児玉九十が明星大学創設時から積2,853haにおよぶ広大な多摩ニュータウンを開提唱してきた「大学拡張」の一環をなすものであ発することが1965（昭和40）年に計画決定され、り、大学の持つ知財を広く社会に還元すること順次着工、1971（昭和46）年から入居が開始されをめざしたものである。出版第1号は、児玉九十た。当初のニュータウン入居者は比較的若年夫が1935（昭和10）年に出版した『両親教育』の新版婦家族が多く、幼児も増加することから保育園・（教養選書Ⅰ）の改訂新版であった。1978（昭和53）年には大学の出版部であることをより明確幼稚園・小学校の需要が急増していた。こうした大学側の希望と地域社会の状況か明星大学付属幼稚園設置認可申請書明星大学付属幼稚園設置認可書にするために社名を明星大学出版部に改称するら、学校法人明星学苑・明星大学は多摩ニューとともに、一般社団法人大学出版部協会に加盟タウン地内、多摩市落合地区に明星大学付属幼した。1981（昭和56）年9月には大学出版部協会稚園を創設することを決定した。大学付属幼稚の関心事である子弟、子女の教育と研究の舎が1976（昭和51）年3月31日に竣工、固定遊具が主催する訪中団に学長であり明星大学出版部園としての設置の趣旨を明らかにし、それを基ため大学付属幼稚園を設置、東京都新都市や教具も備えられた。園長児玉九十・主事柴田社長の児玉三夫（副団長）らが参加、日本の大学礎として敷地の入手、園舎の建築、教員の手配建設開発計画の遂行に寄与することにあり千代・教諭3名・講師1名・養護教諭1名の教職などの研究機関の出版物の展示会、日中の大学などの諸準備を進め、1975（昭和50）年6月31日ます。員が就任し、初年度は4歳児1クラス22名・5歳や出版関係者の交流に努めた。その後、業務はに多摩市長富澤政鑒に対して「明星大学付属幼児1クラス10名、計2クラス32名の園児を迎え稚園設置認可申請書」を提出したが、そこに記載この申請は、審査の結果、1976（昭和51）年3て4月9日に第1回入園式を挙行した。5月12日された設置の趣意は次の通りであった。月29日に多摩市長富澤政鑒により認可された。には多摩市長・私立幼稚園園長・東京都の関係同時に学校法人明星学苑の寄付行為にも設置校者・工事関係者などを来賓に迎えて「開園式」を明星大学付属幼稚園設置認可申請書として明星大学付属幼稚園を加える変更を申請挙行、式後祝宴を実施した。なお、当日は保育1．設置趣意書し、1976（昭和51）年3月29日付で文部大臣永井は午前中のみとし、子どもたちには祝菓子、父明星大学（東京都日野市程久保）人文学部、道雄によって認可された。兄には赤飯と記念品を配布した。心理教育学科及び通信教育部に於いては幼認可を受けて、明星大学付属幼稚園は1976（昭1977（昭和52）年3月22日には第1回卒園式を稚園、小学校の教諭の資格を取得し得る教和51）年4月1日に開園した。挙行、編入児も含め14名が巣立った。育課程を持ち、幼児教育の学習、研究の場多摩ニュータウンの一角、多摩市落合地区の幼稚園として望ましい幼児教育活動を展開すとして幼稚園の設置を望んでおりました。約25,000㎡の敷地に鉄筋コンクリート2階建約るとともに、大学付属という特性から幼児教育偶々大学の至近距離にある多摩ニュータ1,000㎡、保育室6室、遊戯室、屋外遊技場（プーに関する教育学的研究や幼児の発達に関する心めいせい出版設立披露パーティーであいさつする児玉学苑長ウン住宅建設が再開された機会に入居住民ル）、保健室、職員室、会議室などを完備した園理学的研究を進めることを意図し、教育実践とCHAPTER1第1章198MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory199

## Page 101
![Page 101の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000101.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部研究の両面において幼稚園と大学が密接な関係家庭教育について山田栄を持つことをめざした。また、保護者に対して幼稚園と小学校甲斐規雄は明星大学教員を講師とする「母親教育講座」を開講、さらに機関誌『幼児教育』を発行するなどこのように大学付属幼稚園として独自の活動特色ある活動を展開し新聞紙上に取り上げられを展開し、その後入園希望者の増加もあり、4歳ることもあった。『幼児教育』は年1回の発行、幼児3クラス・5歳児3クラスまで規模を拡大した稚園の生活、1年の行事記録、保育実践の記録、（『創立60周年記念誌明星学苑』86頁）。しかし、教育資料、保育研究、母親学級講座などを掲載明星大学付属幼稚園の入園式多摩ニュータウン入居者の年齢構成の変化に伴した。創設後1年間の教育実践をふまえて1977い幼児数が減少し、2000（平成12）年3月31日に明星大学青梅校開学式（昭和52）年4月8日に刊行された『幼児教育』No.1「創刊にあたって」の中で、園長児玉九十は「明は閉園にいたった。の内容は次の通りであった。星大学付属幼稚園が多摩ニュータウンの一角になお、跡地には2014（平成26）年2月に明星大事会は青梅市の協力もあり、青梅市長淵に新学出来てから早くも一年が経過しました。この幼学硬式野球部寮を建設、今日も教育活動に活用部設置用地を取得することを決定した。1978（昭Ⅰ部稚園は明星大学心理・教育学科の教育理念の具している。和53）年7月に土地取得契約を行い、その後東京グラビア―幼稚園の生活―現化を目的とした幼児教育の実践の場でありま都に対する環境影響評価書の提出など所定の手創刊にあたって園長児玉九十す。このたび『幼児教育』という題名で、付属幼青梅校の創設続きを経て1985（昭和60）年3月に校地の造成工一年をふり返って主事柴田千代稚園一年のあゆみを振り返り、この一年間に行1964（昭和39）年の大学創設期から理工学部5事に着手、1987（昭和62）年7月に造成工事は竣一年の行事記録われました明星大学の先生方の『母親教育講座』学科・人文学部4学科・通信教育部1学部1学科工、7月31日に竣工披露式を挙行した。母の言葉を忘れずに教諭栗田瑞子といろいろな行事の記録を一冊の本にまとめてという体制で教育・研究活動を実践してきた明これと並行して学長児玉三夫を委員長とする私の教育理念教諭浅見均発刊することになりました。まことに結構なよ星大学であったが、創設10周年を迎えるころか設置検討委員会において新設の学部学科についフリーとしての一年教諭工藤京子ろこばしい企画と存じます。」と記述して大学付ら、学問研究の進展や社会の変動にともない新ての検討が進められ情報学部電子情報学科・経「センセイ、おなかがイタイの」属幼稚園としての位置づけを明らかにするととたな学部・学科を増設し、社会の要請に応える営情報学科と日本文化学部言語文化学科・生活養護教諭藤内とし子もに、「この付属幼稚園が、多摩ニュータウンの人材の育成を図ることを学校法人明星学苑理事芸術学科の2学部4学科、入学定員各学部300名子どもと英語一角で明星学苑建学の精神を担って、大学にお会・明星大学は検討を始め、同時に、日野校地の計画を定め、1990（平成2）年7月31日に文部省英語講師ラン・ザブスラックける学問の研究と現場における教育実践の一致には大学設置基準上限界があるため新たな校地（当時、現：文部科学省）に設置認可申請書を提保健室より養護教諭藤内とし子を、如何に探究するかということは極めて重要の所得も検討された。一方、東京都各市の中で4出した。明星大学付属幼稚園の概要な課題であります。」と付属幼稚園に対する期待年制大学が立地していない青梅市から1976（昭申請においては、新たに2学部を開設する理由Ⅱ部を記述している。和51）年に大学設置の要請があり、調査・検討のとして「21世紀の到来を目前にして、国際化・多『母親教育講座』講演要旨=略=1976（昭和51）年、創設1年目に実施した「母親結果1978（昭和53）年1月に学校法人明星学苑理様化の流れは目覚ましく、我が国においても、こ教育講座」の題目と講演者は次の通りであった。の時流に対応しうる人材養成が焦眉の急とされております。明星大学は、こうした情勢を背景明星大学付属幼稚園の目的児玉三夫とする社会的ニーズに応えるため、青梅キャン幼児のこころ戸川行男パスに全く新しく『情報学部』および『日本文化幼児教育の重要性岡田正章学部』を設置することにいたしました。」と記述子どもの心理－親子関係について―されている。情報学部においては、「情報科学と塚田紘一経営情報の両分野を融合した教育・研究を推進こどもの表現活動について稲村退三する」ことをめざし、学部に「広くエレクトロニこどもの身体について福山清胤クスなどの工学的分野を基礎とし、コンピュー親切な人は親切か菅野衷タのハード・ソフトウェアに関する電子情報を明星大学付属幼稚園音楽雑論とアンサンブルの勧め山田慶蔵青梅校竣工式テープカット中心とする『電子情報学科』と、情報の高度・大CHAPTER1第1章200MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory201

## Page 102
![Page 102の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000102.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部量・迅速な処理及び判断が求められる経営学のくまでも日野校舎と青梅校舎が一体となって建分野を中心とする『経営情報学科』」の2学科を開学の理想を実現することにあるのはいうまでもColumn9青梅校、情報学部・日本文化学部の設置申請設することとした。日本文化学部においては、「地球人類の一員として、個性的でしかも“自由ありません。すなわち『和』の精神を尊び、『健康・真面目・努力』の三綱領をたゆみなく実践するこな主体”となり得る有為な人材を、文化の比較・とによって『科学する心をもった、道義心の強対比を通して養成する」ことをめざし、学部にい、世界に信頼される日本人を育成』することに「日本の言語文化の独自性と普遍性を認識させ、ほかなりません。特に、本学が創立以来の特色国際社会において日本の言語文化の正当な知識とする、グローバルな視野をもった、新しい時と理解を深め、自らそれを表現できる人材を育代の開拓者を育てようとする熱望は、両校舎を成する『言語文化学科』と、日本独自の伝統文化通じていよいよ燃えさかっております。」と、先を中心に教授し、同時に今日の日本文化が直面端的な発想に立つこと、明星教育の伝統を重視している文化の分野も習得・援用させることにすべきことを強調する式辞を述べた。より、21世紀の国際社会においても十分に活躍しうる個性的人材を養成する『生活芸術学科』」日野校の再開発を開設することとした。申請に対する審査を経1996（平成8）年度に学校法人明星学苑・明星大設置認可申請書て、1991（平成3）年12月には設置が認可された。一方、1990（平成2）年12月には校舎・施設設学の運営体制が刷新されてから、教育・研究活動のさらなる発展・充実の基盤として日野校の備の建設に着手、1992（平成4）年3月には本館、大規模な校地・校舎の再開発を積極的に推進し講義棟、芸術実習館、厚生館など8棟、延べ約た。この大規模な再開発は、1964（昭和39）年の35,000㎡が竣工、1990（平成2）年3月に竣工して明星大学創設以来時々の教育・研究上の必要にいた体育館と合わせ、第1期の校舎が整備され対応して校舎の新増設を図ってきたが、それらた。教員には、各分野の優れた教育・研究の専を再検討し、全体としての統合を図り、最新の門家を明星大学日野校から移籍させるとともに、教育・研究のための条件の整備、快適なキャン外部から積極的に招聘し、学長児玉三夫の下、情パスライフの場の提供、より効率的な大学運営学部・学科設置の構成概念図報学部長横山保（情報学）、日本文化学部長井上英明（日本文学・比較文学）、総務部長荒井正大のための条件整備などをめざしたものであった。なお、これには、当時は青梅校に立地して（政治学・マス・コミュニケーション研究）、教いた学部・学科を順次再編成するとともに日野務部長岡田皓一（政治学、後、須崎祐吉に交代）、校へ移転することによって、総合大学としての学生部長須崎祐吉（地学）らが就任した。特色を活かした教育・研究の一層の進展を図るこうした経過を経て、1992（平成4）年4月14日という長期展望のための基盤を整備する意味もに632名の新入生を迎えて、青梅校第1回入学式含まれていた。を挙行した。10月25日には青梅校開学式を挙行1996（平成8）年度以降、23号館（講義室など）・したが、開学式において学長児玉三夫は、「この24号館（通信教育部事務室など）・新本館（事務局たび設置いたしました学部学科は、いずれも時など）・25号館（新体育館）・26号館（講義室・情代的、社会的要請に敏感に反応した視点から、新報科学研究センターなど）・27号館（研究室・講青梅校、校地・校舎しい思考力を開発する意図のもとに設置された義室など）・28号館（講義室・図書館・食堂など）・出典：『明星大学創立五十周年記念誌Ⅱ今日の姿』2014年、90頁＊芸術実習2号館・3号館・4号館、ラウンジ・アゴラは後日増設された。ものであることを強調しておきたいと存じます。」、「先端的発想による壮大な抱負をもつ学部29号館（実験室・研究室など）・30号館（実験室など）・31号館（部室など）・32号館（講義室・工学科でありますが、根本的にめざすところは、あ房など）・33号館（実験室・研究室など）を新設すCHAPTER1第1章202MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory203

## Page 103
![Page 103の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000103.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部された時期から国際性を涵養することを教育活（昭和31）年にタイ国バンコックに開設されたバ動の中で重視してきており、1930（昭和5）年7月ンコック日本人学校であり、その後各地に順次には中学4年生を対象に「鮮満旅行」を実施し、児設置がすすめられたが、1960年代には未だ学校玉九十・岩河信義引率の下に生徒18名が参加し数も少なく、在留邦人の多い大都市に設置されたが、この旅行の目的3項目の一つに「異民族がており、比較的辺陬の地域や一企業のためには多数、交錯して活動する実際に接して、国際心設置されていなかった。を自得せしめたい」という項目が掲げられていた。また、太平洋戦争前・戦中においてもアメカフジ明星小学校・幼稚園の創設リカ・カナダ・フィリッピン・旧：満州国（当時、そのような状況の中で、日本人学校が開設さ現：中国東北部）などから外国人・日系人の子どれていない国・地域に進出して、日本人従業員もたちを留学生として、さらに在留日本人の子の子どもの教育という課題を抱えている企業かどもを旧制明星中学校・寄宿舎に積極的に受けら、早くから国際的な視野を持って教育活動を入れてきた。さらに、1944（昭和19）年度からは展開してきた学校法人明星学苑が注目され、期旧：満州国に所在する大東亜省管下の国民学校待されることとなった。海外に企業立によって32号館（手前）、33号館（左奥）の外観を卒業する旧：満州国などに勤務する日本人官日本人小学校を創設する要請が最初に明星学苑吏などの子どもを、現地において入学選考をに寄せられたのは、原油の開発・生産を目的とるとともに、11号館・15号館などは改修し、最した。行った上で旧制明星中学校に1学級を増設し、そしてクウェート・サウジアラビア王国間の中立新の教育・研究の場としての充実を図ってきた。同時に、情報学部電子情報学科を発展的に解の35名の定員枠で受け入れることとした。なお、地帯（当時、現：サウジアラビア王国）カフジに消して情報学部情報学科とし、他の学問領域の鮮満旅行は中国大陸における戦争状態の深化のなお、新設にともなって旧本館の一部・2号館・進出したアラビア石油株式会社からの小学校・4号館・6号館や何棟かの付属実験室棟は解体撤教育・研究との連携をめざして日野校に設置し影響を受けて1930（昭和5）年1回限りとなり、旧：幼稚園の設置・運営の要請であった。これには去された。た。満州国在勤者の子どもの受け入れは敗戦にともアラビア石油株式会社の社長（当時）山下太郎と2010（平成22）年4月1日に日本文化学部言語文なう旧：満州国の崩壊によって1944（昭和19）年児玉九十との間に第二次世界大戦以前からの面青梅校の学部・学科の再編と日野校への移転化学科を発展的に解消して日本文化学科とし、人度・1945（昭和20）年度の2回限りとなった。し識関係があったこと、アラビア石油株式会社に1992（平成4）年4月1日の創設時には青梅校に文学部の1学科に位置づけて、日野校に設置した。かし、これらの活動を見ても、学校法人明星学明星学苑の卒業生が在籍して活躍していたことは情報学部（電子情報学科・経営情報学科）・日日本文化学部生活芸術学科は2000（平成12）年苑が古くから国際的な視野を持って教育活動をなどが契機となったといわれている。明星学苑本文化学部（言語文化学科・生活芸術学科）の24月1日に造形芸術学科に改組していたが、さら展開してきたことは明らかである。とアラビア石油株式会社との間での検討・交渉学部4学科が設置されたが、その後の学問研究のに2005（平成17）年4月1日、造形芸術学部を創設太平洋戦争後の日本の社会的・経済的状況をの結果、「教師派遣ならびに教育全般に関する契進展・学問研究領域の変化や社会の教育・研究して造形芸術学部造形芸術学科と改組した。さみると、太平洋戦争によって日本の産業経済活約」が結ばれたが、その主な内容は小学校・幼稚に対する要請の変化にともなって、学部・学科らに2014（平成26）年4月1日に造形芸術学部造形動は壊滅的状態に陥ったものの、短時日に産業園の設置運営とそれらに要する費用は企業が負の改組を実施するとともに、明星大学が総合大芸術学科を発展的に解消してデザイン学部デザ経済活動は回復し、1960年代には高度経済成長学である利点を生かし、学部・学科の枠を越えイン学科を創設し、日野校に設置した。といわれる産業経済活動が活発化する時期を迎た総合的な教育・研究を実践するために日野校これにより青梅校からは全ての学部学科が転えるまでになった。それにともない海外との貿への統合を図ってきた。出し、実習施設など一部の機能が残るのみと易活動や海外資源の調達などの国際的な産業経2005（平成17）年4月1日、情報学部経営情報学なった。済活動のために国外で活動する日本人も急増し科を発展的に解消して経営学科とし、日野校にていった。それらの人々は当初は単身赴任が多設置されている経済学部経済学科との連携を図ることも考えて、経済学部経営学科として日野2.海外日本人学校の創設数を占めていたが、やがて家族とともに赴任する者も増加し、子どもの教育が次の課題となっ校に設置した。その後、2012（平成24）年4月1日海外日本人学校の創設てきた。文部科学省の資料によれば、太平洋戦には、経営学部を創設し、経営学部経営学科と学校法人明星学苑は旧制明星中学として創設争後初めて公的に設置された日本人学校は1956カフジ明星小学校・幼稚園CHAPTER1第1章204MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory205

## Page 104
![Page 104の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000104.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部担し、教育実践や教師の派遣は明星学苑が責任を持ち、明星小学校・明星幼稚園と同じ内容・水準の教育を提供するというものであった。こ3.児玉三夫、理事長・園長・校長・学長に就任の契約にもとづいて初年度には明星学苑から2児玉三夫、理事長・園長・校長・学長に就任名の教員、明星小学校教諭中村雅臣・明星大学児玉九十は星野鏡三郎の要請を受けて明星実教育学助手福島茂明を派遣し、1967（昭和42）年務学校の創設時から教育理念・教育計画などの4月1日に「カフジ明星小学校・幼稚園」を創設し策定にかかわり、明星実務学校・（旧制）明星中て教育活動を開始した。派遣教員は一定の年数学校の校長、（旧）財団法人明星中学校の理事長で交代したが、特異な環境や困難な条件の下でザイール明星ムソシ小学校を務め、太平洋戦争後の教育改革に伴う新学校も、日々の授業や行事などの教育活動は明星小イラン・シラズ明星小学校・幼稚園制度の下で学校法人明星学苑理事長、明星幼稚学校・明星幼稚園に準じて順調に展開され、1971現地企業）からの要請を受け、カスレンバレサに園園長・明星小学校校長・明星中学校校長・明（昭和46）年3月にはカフジ明星小学校第1回卒業創設された「ザイール明星ムソシ小学校」であ度には明星学苑から3名の教員、明星小学校教諭星高等学校校長・明星大学学長・明星大学付属式を挙行、3名の児童が巣立ち、明星中学校（男る。この場合も、明星学苑とコンゴ鉱山開発株川上和夫・明星大学心理学助手綱田活広・明星幼稚園園長に就任、明星教育を自ら先頭に立っ子部・女子部）に進学した。式会社との間での検討・交渉の結果「教師派遣な幼稚園教諭渡辺澄江が派遣され、4月に暫定開て推進してきた。1978（昭和53）年11月15日には初めて明星学苑が設置する海外日本人学校とらびに教育全般に関する契約」を結んで実現し校、同年8月28日には副理事長児玉三夫も出席満90歳の誕生日を迎えることとなった。当時、して、地域の実態や子どもの生活・環境に配慮たが、契約内容はカフジ明星小学校と同様であして開校式を挙行し、9月にイラン・シラズ明星児玉九十はきわめて健康で積極的に職務に取りする教育実践のあり方が試行錯誤され、その実り、初年度は明星学苑から2名の教員、明星大学小学校・幼稚園を正式に開校した。しかし、1978組んでいたが、関係者から高齢であることに配績・知見が蓄積された。これが後に他の企業か職員で小学校校長の経験を持つ中西悦夫・明星（昭和53）年にイラン・イスラム革命が勃発し混慮し、さらなる長寿を願って実務負担を軽減しらも学校創設の要請を受けることに結び付き、大学教育学助手青木秀雄を派遣した。1970（昭和乱状況に陥る中で12月4日には日本人従業員のて高所大所から明星学苑の教育・研究・運営をさらに、創設された他の海外日本人学校におけ45）年4月から開校準備が始まり、6月には仮校家族とともに小学校・幼稚園もローマに避難、そ見守り、指導していただくことが望ましいといる教育実践に貢献した。その後、1990（平成2）年舎においてザイール明星ムソシ小学校を開校の後も政情が落ち着く見込みは得られず1979う意見が出され、本人も米寿を迎える頃からそには隣国イラクのクウェート侵攻にともなってし、校舎の完成を待って9月6日に副理事長児玉（昭和54）年3月をもって閉校した。のような考えを表明していたこともあり、1978小学校・幼稚園を一時休止、戦争状況が解消さ三夫も出席して開校式を挙行した。その後、1976これら3校は全日制の小学校として明星小学（昭和53）年1月11日に開催した理事会・評議員れた1992（平成4）年4月に再開したが、2005（平（昭和51）年3月に隣接諸国の政情不安定のため校と同内容の教育を提供するものであったが、会で、1978（昭和53）年度より児玉九十が理事長、成17）年3月にアラビア石油株式会社の原油採掘会社の方針として日本人従業員家族全員が帰国その他に現地のアメリカンスクールに在籍する各園長、校長、学長を退任し、学苑長・理事とに関する利権協定の期限が終了し、操業形態がすることとなり、小学校も同時に閉校すること子どもたちに日本語の補習教育を行う目的で、なることを承認するとともに、第二代学校法人大きく変化し日本人従業員家族の在住がなくになった。アラスカに「シトカ・ランゲル日本語補習校」を明星学苑理事長、明星幼稚園園長・明星小学校なったことからカフジ明星小学校・幼稚園は休アラスカパルプ株式会社の依頼を受けて1978校長・明星中学校校長・明星高等学校校長・明校・休園となった。イラン・シラズ明星小学校・幼稚園の創設（昭和53）年3月に開設し、明星小学校教諭吉田星大学学長・明星大学付属幼稚園園長に副理事次に、イラン（当時、現：イラン・イスラム共耕陽を派遣した。長・副園長・副校長・副学長を務めていた児玉ザイール明星ムソシ小学校の創設和国）・シラズにタイヤ工場の設置を計画していこれら海外小学校・幼稚園の開設は明星小学三夫（1919（大正8）年8月1日〜1996（平成8）年9カフジ明星小学校・幼稚園の実績をふまえて、たブリジストンタイヤ株式会社の要請を受け校・幼稚園と作品展などの行事を通じて交流す月23日）を選任した。他の企業からも同様の学校・幼稚園設置の要請て、明星学苑とブリジストンタイヤ株式会社とることなどから、明星小学校・幼稚園の子ども児玉九十・児玉三夫は1978（昭和53）年4月1日が寄せられるようになった。その中で次に実現の間での検討・交渉、さらには副理事長児玉三たちに海外諸国に対する興味・関心を育てるな付で就任したが、就任にあたって『体験教育』第したのは、アフリカ・コンゴ共和国（当時、その夫の現地視察などの結果、1975（昭和50）年2月どの大きな影響を及ぼした。しかし、設置国の397号、1978（昭和53）年5月、に次のような児玉後ザイール民主共和国・コンゴ民主共和国などに「イラン・シラズ市における学校運営・教師派政治状勢の変化などから、長期間にわたって教九十・児玉三夫の「ご挨拶」を掲載し、学内外に国名が変遷している）において銅の鉱山開発・採遣に関する契約」を結び、「イラン・シラズ小学育活動を継続しえなかったことは残念な点であ対して広く広報した。掘を行っていたコンゴ鉱工業開発株式会社（日校・幼稚園」を開設することとしたが、契約内容る。本鉱業株式会社（旧：久原工業）などが設立したはこれまでの2校とほぼ同じものであった。初年CHAPTER1第1章206MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory207

## Page 105
![Page 105の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000105.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部「ご挨拶」（抜粋）児玉九十ります。何とぞ今までと同様のご支援とご今年は明星学苑創立五十五周年のおめで協力を切にお願い申し上げます。たい年であります。私も今年の十一月で満九十歳となる訳で全く名前と同じ年まで生「ご挨拶」（抜粋）児玉三夫Column10児玉三夫の略歴と事跡きる事が出来ました。これもひとえに私を先日、御父兄の皆様に学苑より連絡を申支援して下さいました多くの教職員、ご父し上げました通り、このたび学苑長児玉九兄、卒業生、その他の関係各位のお陰と深く感謝申し上げます。そしてもう一つ私が此の年まで元気で第一線で活躍する事が出来ましたのは毎日毎日元気で緑の校門をく十先生のあとを受け四月一日付をもって学校法人明星学苑理事長・明星大学長・高等学校長・中学校長・小学校長・及び幼稚園長に就任いたしました。まことに微力では1915（大正4）年8月1日、小原屋隆・ミヨの4男として、鹿児島県鹿児島市で誕生。鹿児島女子師範学校附属小学校3年在学中に東京へ転居、成城玉川小学校（現：成城学園初等学校）に転入し卒業、成城中学校卒業、成城高等学校（旧制、7年制）卒業。ぐって登校（園）してくる学生、生徒、児童、園児の皆さんのお陰であると信じております。特に小学校、幼稚園の子供達の天真らんまんな、神様のような純粋な声を聞くことによって私の心は洗われ今日までの長寿ございますが私学の厳しい現況をふまえ、全力をつくして明星学苑の発展と、ご子弟の教育の責を果たしたいと念願しております。何卒格別のご支援とご協力を賜わりますよう切にお願い申し上げます。1935（昭和10）年4月、東京帝国大学文学部教育学科入学。1938（昭和13）年3月、東京帝国大学文学部教育学科卒業。4月、長崎師範学校教諭に就任。1943（昭和18）年1月、児玉九十の3女泰子と結婚、養子となり、児玉姓になる。4月、旧制明星中学校教諭に就任、後に新制明星高等学校教諭・講師を務める。を保つ事が出来たものと信じて居ります。然しながら一つの組織はある程度の年限が来たとき若返る必要がございます。そして新しい気持を奮い起して更に更に前進するのでございます。そこで私も昭和五十三学苑長先生は「ご挨拶」にもありましたように、今年秋には名実共に満九十歳のおめでたい年をお迎えになります。そして、親しい方々から今後は名前も百とか百二十とかに改めたら如何かと言われる、とおっ1943（昭和18）年・1944（昭和19）年2度にわたって応召、1944（昭和19）年7月の応召では中国大陸に出征、帰国は1946（昭和21）年になった。1949（昭和24）年9月、東京農業教育専門学校（現：筑波大学生物資源学類）助教授に就任。1951（昭和26）年3月、学校法人明星学苑理事・副理事長・評議員に就任。1951（昭和26）年4月、東京都立大学助教授に就任。1960（昭和35）年4月、早稲田大学文学部・大学院文学研究科教授に就任。年三月三十一日を以て責任を軽くしていただく事になりました。すなわち、学校法人明星学苑理事長、明星大学長、明星高等学校、中学校、小学校の各校長、明星幼稚園、大学付属幼稚園の各園長の職を辞し、昨年しゃる位にお元気であります。ただ、そのようにお元気だとは申せ、何分にもお年であることは間違いなく、ここで一層の長寿を願うには、今後多少ご負担を減じ、荷を軽くして差上げるのが必要ではないかとい1964（昭和39）年4月、明星大学副学長、明星高等学校副校長、明星中学校副校長、明星小学校副校長、明星幼稚園副園長に就任。1978（昭和53）年4月、学校法人明星学苑理事長、明星大学学長、明星高等学校校長、明星中学校校長、明星小学校校長、明星幼稚園園長、明星大学付属幼稚園園長に就任。1987（昭和62）年4月、いわき明星大学学長に就任。度までの児玉三夫副学苑長が新しくその任についたのであります。そして、私は明星学苑長として学苑全体を指導していく事にいたしました。これからは従来よりも、もっと皆様方と接する機会を多くして行きたいう話が数年前から出ていました。米寿を迎えられました頃には学苑長先生のお話の中で、ご自身そのようなことを申されたりしておりました。そうした事情から今年、初の学校法人理1992（平成4）年4月、いわき明星大学名誉学長に就任。1995（平成7）年5月、学校法人明星学苑理事長、明星大学学長、明星高等学校校長、明星中学校校長、明星小学校校長、明星幼稚園園長、明星大学付属幼稚園園長を辞任。1996（平成8）年9月23日、逝去、享年81。と念願いたしております。この事は法人理事会、評議員会においてご了承をいただき、すでに関係方面への手続きも完了しているのでございます。成蹊で十年、明星で五十五年の計六十五年の間、私は子ども好きのため、教師にな事会・評議員会で以上の人事の件が決定いたした次第でございます。それで学苑長先生には今後理事としては勿論、学苑長として従来通り毎日学苑に出勤し、各学校を訪ね、各教室を廻り、生徒・児童・園児の皆さんとも以前にも増して絶えず交歓するなリンカーン大学名誉文学博士、リンカーン・メモリアル大学名誉文学博士、ミシシッピー州立大学名誉教授、ハルピン師範大学顧問教授、黒竜江大学名誉教授の称号を受けた。1977（昭和52）年に東京都知事表彰（教育功労者）を受けた。1981（昭和56）年に藍綬褒章が授与された。1993（平成5）年に勲三等旭日中綬章が授与された。り教育を楽しませていただいて参りましたが、今後益々健康に留意し、学苑長としてど、親しく接する機会を多くしたい。また卒業生の方々、教職員の方々とも歓談する児玉三夫学苑全体の教育を見て行きたいと思って居など今迄に充分できなかったことをいたしCHAPTER1第1章208MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory209

## Page 106
![Page 106の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000106.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部したいと、申されています。文学研究科教授を務めて、教育研究活動に邁進1992（平成4）年には明星大学青梅校2学部4学科従いまして、学苑長先生には、今後ともしてきた。教育学、特に教育思想研究や教育社の創設を行うなど積極的な大学運営を推進し学苑全体のことを見守っていただき、お気会学を専攻し、ペスタロッチやデューイなどのた。それとともに、田老校地の取得と宇宙線観付のことについて全体のご指導を願うわけ教育学・教育思想の研究、地域社会における学測所などの創設（1984（昭和59）年10月）、明星大でございますので、学苑全体の教育方針が校教育などについての研究業績をあげてきた。学に東京リンカーン・センター（1982（昭和57）年変るわけではありません。しかしながら、社一方、1943（昭和18）年には児玉九十の息女泰子2月）、情報科学研究センター（1983（昭和58）年会の進歩や文化の発展に伴って、或はそれと結婚して児玉姓となり、明星中学校教諭を兼10月）、外国語センター（1988（昭和63）年12月、に適応し、或は改革すべき事柄も若干ある任、以来大学勤務と並行して明星学苑の教育・現：国際教育センター）など多くの付属教育研究とは思いますが、学苑の建学精神や教育方運営に携わってきた。1951（昭和26）年3月には、機関を創設し、教育・研究の充実・高度化を推針の根本は変わる筈がございません。学校法人明星学苑創設とともに、その評議員・進した。前述した海外日本人学校の創設にあ明星学苑の各学校は、それぞれ特色をも理事・副理事長に就任、その後、明星幼稚園副たっても実質的な業務を推進し、開校時などのち有機的な総合的な姿で互いに協力し合っ園長・明星小学校副校長・明星中学校副校長・明星学苑祝賀会で鏡割りをする児玉九十と児玉三夫機会に児玉九十に代わって現地を訪問し、教育ていますが、その教育に協力し支援してい明星高等学校副校長に就任、さらに1964（昭和活動の円滑な遂行を推進した。ただくご父兄の皆様の深い理解とご協力と39）年4月、明星大学開学とともに明星大学副学私立学校教職員共済組合理事長棚橋勝太郎、早大学における教育・研究の推進に関連して特に応えるべく、今後更に一層学苑の建学精長に就任した。稲田大学総長清水司、私立大学通信教育協会会筆すべき功績としては、明星大学図書館の図書神と教育方針の伸ばすべきは更に伸ばし、児玉三夫は就任と同時に設置園・校の教育の長有光次郎、明星大学父兄会会長富岡剛、学苑資料の収集・充実に努めたことであり、世界第2改めるべきは改めることに徹底し努力する一層の充実を図るために、それまで置かれていPTA連合会会長近藤宏英、明星同窓会会長向山位と称せられるシェイクスピア・コレクション覚悟でございます。た小学校・幼稚園・大学付属幼稚園と同様、中敏治から祝辞をいただいた。その後、東海大学を構築するとともに、シェイクスピア在生時の（『体験教育』第397号、1978年、2・3頁）学校男子部・高等学校男子部、中学校女子部・総長松前重義（旧制明星中学校時代の保護者）の劇場グローブ座を模したシェイクスピアホール高等学校女子部に主事を置いた。児玉三夫の主音頭による乾杯を受けて祝宴に移り、在学生やを創設（1994（平成6）年）、アメリカ合衆国第16児玉三夫は、1943（昭和18）年の明星学苑就任導の下、各園・校においては、次の各主事の下卒業生による祝意を表す演奏や舞踊が披露さ代大統領リンカーンに関連する資料を収集して以来多年にわたり児玉九十を補佐してきておで教育実践を展開していくことになった。れ、華やかな宴が繰り広げられた。東京リンカーン・センターを創設した。これらり、教育理念のみならず内外の実務に精通してをはじめ、さらに多領域に及ぶ稀覯書コレクおり、明星大学の創設にあたっては児玉九十を明星幼稚園波多野松男児玉三夫の多彩な活動と社会的貢献ション（『時を超えたメッセージ明星大学貴重補佐して明星大学創設を実質的に成し遂げ、そ明星小学校橋本秀一学校法人明星学苑の第2代理事長に就任した書コレクション』2014年、参照）を作り上げた。の後の運営に中心となって携わってきた実績も男子部中学校小岩一男児玉三夫は、私立学校法の制定に伴い、1951（昭その功績に対してアメリカ・サンフランシスコあり、理事長などへの就任は全ての関係者から高等学校茅根信和26）年の明星学苑の学校法人化とともに理事・支持され、歓迎された。女子部中学校小机保之副理事長に就任し、児玉九十を常に支えてきた。児玉三夫は、1915（大正4）年8月1日、鹿児島高等学校春藤桓哉しかし補佐役にとどまらず、多方面にわたる活市の小原家に生まれ、小学校3年在学中に一家は明星大学付属幼稚園柴田千代動を積極的に展開し、多くの成果をあげてきた。東京に転居、成城玉川小学校（現：成城学園初等（『体験教育』第397号、1978年、7〜12頁）その第1の活動領域は、学校法人明星学苑の発学校）・成城中学校・成城高等学校（旧制、7年展に、特に大学関係を中心として大きな貢献を制）を経て、1938（昭和13）年3月、東京帝国大学1978（昭和53）年11月15日には、明星学苑創立したことである。1964（昭和39）年の明星大学創文学部教育学科を卒業、その後、太平洋戦争期55周年・児玉九十90歳・児玉九十の学苑長就任・設にあたっては、私学教育に多くの経験と優れの2回の応召・出征をはさんで、戦前・戦後にわ児玉三夫の理事長などへの就任を祝して京王プた見識を持つものの大学の教育・研究・運営のたって長崎県師範学校教諭、東京農業教育専門ラザホテルを会場として、約1,300名の列席を得経験を持たない児玉九十に代わって、創設業務学校（当時、後に東京教育大学農学部を経て、現て「明星学苑祝賀会」を開催した。を中心となって推進した。さらに理事長在任中在：筑波大学生物資源学類）助教授、東京都立大学人文学部助教授、早稲田大学文学部・大学院明星学苑祝賀会は、学苑長児玉九十と理事長児玉三夫の挨拶に続き、文部政務次官近藤鉄雄、の、1987（昭和62）年にはいわき明星大学を創設（創設とともに学長就任、1991（平成3）年まで）、サンフランシスコ大学のグリーソン図書館協会から「サー・トマス・モア・メダル」を授与CHAPTER1第1章210MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory211

## Page 107
![Page 107の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000107.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部しては、日本私立大学通信教育協会評議員・理事（1972（昭和47）年度から）、日本私立大学協会評議員・理事（1978（昭和53）年度から）、放送大学学園運営審議会委員（1981（昭和56）年度から）、日本私立大学協会常務理事（1984（昭和59）年度から）などを務めた。これらの多年にわたる教育界に対する貢献か児玉三夫学長と黒龍江省科学技術委員会主任朱天明氏による日中学術交流締結ら1977（昭和52）年10月には「教育功労者」として都知事表彰を受けた。1981（昭和56）年4月には、シェイクスピアのファースト・フォリオ学苑の発展と私学教育の伸展につくした功績に年）、ハルビン師範大学（1984（昭和59）年）をは対して「藍綬褒章」が授与され、1993（平成5）年4『改訂版明星ものがたり』1998年、329〜332頁）。じめとして数多くの姉妹校・提携校関係を樹立月には「勲三等旭日中綬章」が授与された。その第2の活動領域は、教育・研究活動である。明星中学校・高等学校のほか、長崎師範学校（現：長崎大学）教諭、東京農業教育専門学校し、学生の留学など教育・研究の国際化に力を注いだ。また、外洋航海ヨットを購入して、ミクロネシア訪問を実施、さらに学生の教育にも（児玉三夫の略歴・業績などについては「回想教育と私」「児玉三夫先生の略歴と主な著作」（『児玉三夫先生喜寿記念教育の真理と探究』1994年、所収）13〜41頁・618〜625頁を参照した）（現:筑波大学）助教授、東京都立大学助教授、早稲田大学文学部・大学院文学研究科教授を歴任活用した。太平洋戦争以前に児玉九十が取り組んで以来の伝統をもつ、明星学苑の国際交流・4.いわき明星大学の創設シェイクスピアホールし、教育学の研究者・教育者として多くの功績国際理解教育を一層発展させた。これらの国際いわき明星大学の創設をあげてきた。教育学の研究者としてはペスタ交流を推進した功績から1985（昭和60）年にアメ1975（昭和50）年に福島県いわき市から明星大大学グリーソン図書館協会から、優れた図書収ロッチ、デューイなど西洋教育思想の研究、地リカ・イリノイ州、リンカーン大学名誉文学博学に対して大学設置の打診があった。当時は各集家に与えられる1986（昭和61）年度の「サー・ト域社会と学校の関係などを中心とする教育社会士、同年にアメリカ・テネシー州、リンカーン・道府県において高校生の大学進学希望が高まマス・モア・メダル」が日本人として初めて授与学研究に力を注いできた。J.デューイの『経験とメモリアル大学名誉文学博士、1987（昭和62）年り、それに対して道府県内で進学機会を確保すされた。また、1980（昭和55）年と1986（昭和61）教育・教育信条』などの翻訳書、『農村中学校の教にアメリカ・ミシシッピー州立大学生涯教育名ること、あわせて若年者層の道府県外・首都圏年に刊行した『シェイクスピア・コレクション文育と研究』などの著書や論文を数多く公にして誉教授、1987（昭和62）年に中国・ハルビン師範など大都市への流出を防ぐこと、地域社会の教献目録』Ⅰ・Ⅱに対しては、1989（平成元）年6月もずめたかみに物集高見博士を記念して創設された優れた図おり、コッタ版『ペスタロッチ全集』（全15巻）の復刻出版、『ペスタロッチ参考文献集』（全2巻）の大学顧問教授、1991（平成3）年に中国・黒竜江大学名誉教授の称号が授与された。育・研究水準の向上を図ることなどを目的として、地方自治体と既存の大学が提携・協力して書目録作成に与えられる賞である「物集索引賞」編集出版も行っている。教育・研究領域での活その第4の活動領域は、学外において文部省や大学を創設する動きが各道府県・市においてみが授与された。躍に対しては、ペスタロッチ精神に生きる教育大学関係の多くの委員などを務めるなどの、社られていた。府中校においては、小学校専用プールの建設、者・研究者として多大な功績をあげ、ペスタロッ会貢献活動である。文部省管轄の委員会委員と福島県の当時の状況をみると、県内に立地す中学・高等学校武道場・合宿所の建設、高等学チ運動を理論的・実践的に継承発展させたことしては、文部省社会教育審議会分科委員会委員る大学数や設置されている学部学科が限られて校校舎の増改築など教育条件の整備に力を注いが高く評価され、1994（平成6）年度に、優れた教（1955（昭和30）年）、文部省大学設置審議会専門いること、「浜通り」と称せられる太平洋沿岸地だ。また、1991（平成3）年6月7日には、明星小育を地道に実践した個人や団体に贈られる広島委員（1976（昭和51）年〜1981（昭和56）年）、文部域、その中心都市であるいわき市には4年制大学学校を会場として日本私立小学校連合会の「第28大学教育学部が創設した「ペスタロッチ教育賞」省放送教育開発センター運営審議員（1978（昭和が存在しないことからの打診であった。それに回東京地区教員研修会」（主催・東京都初等教を受賞した。53）年〜1982（昭和57）年）、文部省教育職員養成加えて、いわき市は1972（昭和47）年に国から「工育学校連合会）を開催、児玉三夫は会場校の校長・その第3の活動領域は、国際交流の推進であ審議会委員（1984（昭和59）年〜1988（昭和63）年）、業配置誘導地域」の指定を受けて、臨海部に立地理事長として明星小学校の特色を述べるとともる。明星大学とアメリカ合衆国に関してはミシ文部省大学設置審議会設置分科会委員（1985（昭する装置工業とともに内陸部に立地する製造業に、私立小学校としての独自の教育、人間の活シッピー州立大学（1983（昭和58）年）、ニュー和60）年〜1987（昭和62）年）、文部省大学設置・の増加を推進しつつあり、それを大学誘致によ力として心に刻まれる教育を施すことがいかにヨーク州立大学バッファロー校（1990（平成2）学校法人審議会委員（1987（昭和62）年〜1989（平る教育研究と技術開発の促進によって加速し、尊いかについて講演した（児玉九十・児玉三夫年）、中国に関しては黒竜江大学（1984（昭和59）成元）年）などを務めた。大学関係団体の委員と産学協同の実をあげることを課題と考えていCHAPTER1第1章212MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory213

## Page 108
![Page 108の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000108.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部た。いわき市は、市内中央台飯野に「いわき請書」設置する大学の概要、目的）と定めて、1985き市長（代理長沢助役）、衆議院文教委員長愛知き明星大学への期待に応える大きな改革であニュータウン」を建設する計画を1976（昭和51）（昭和60）年7月30日付で文部省（当時、現：文部和男、前いわき市長田畑金光、私学振興財団理る。また、大学院理工学研究科・人文学研究科年から具体化するが、その計画区域内に大学建科学省）に、文部大臣松永光宛「いわき明星大学事長清水司、私立大学協会会長橘高重義（代理）、の修士課程・博士課程を創設し、より高度の教設予定地を確保して大学を誘致する構想を持設置認可申請書」を提出した。大学設置審議会・玉川大学学長・理事長小原哲郎、三菱銀行頭取育研究の機会を提供し、高度な専門的な知見をち、最初に市議会議員が打診のために明星大学私立大学審議会の現地視察を含む審査の結果、伊夫伎一雄、駐日米国公使・代理大使アンダー持った人材の養成に努めてきたが、その中でもに来訪した。1977（昭和52）年5月にはいわき市1986（昭和61）年12月23日付で文部大臣塩川正十ソンからの祝辞を受け、その後「校歌」（明星大学人文学部心理学科を基礎として2005（平成17）年長田畑金光が明星学苑・明星大学に来訪し、い郎からいわき明星大学の設置が認可された。創名誉教授佐藤輝夫作詞・明星大学教授山田慶蔵4月には人文学研究科臨床心理学専攻修士課程わき市への大学創設を正式に要請した。1981（昭設時の学部・学科は理工学部4学科（基礎理学科・作曲）の発表が行われた。式後、講堂前庭に設置を創設し、臨床心理士の養成に取り組むことと和56）年には学校法人明星学苑理事長・明星大学物性学科・電子工学科・機械工学科）入学定員したギリシャ彫刻「エリーニ平和の像」（紀元前4した。学長児玉三夫ら明星学苑・明星大学関係者がい240人、収容定員960人、人文学部3学科（日本文世紀の像のレプリカ）が、駐日ギリシャ大使リア2011（平成23）年3月11日の東日本大震災ではわき市を訪問、市と大学双方から各5名の委員を学科・英米文学科・社会学科）入学定員180人、ニス、製作者ゲオルゴボウロスの挨拶の後に除いわき市にも地震・津波・原子力発電所事故な構成員とする「大学誘致懇談会」を設置すること収容定員720人の2学部7学科である。創設時の幕された。その後、体育館において祝宴を開催どによる被害が生じた。いわき明星大学は幸いが合意され、以来、委員会による検討が重ねら人事については、1987（昭和62）年3月5日に開催し、学長児玉三夫の挨拶の後、東北生活文化大にして深甚な被害は免れたもののライフラインれた。また、市長と学長との話し合いも重ねらした学校法人明星学苑理事会において学長児玉学理事長佐藤直助、サンフランシスコ大学図書に障害が生じた。地震直後は学生の安否確認にれ、その結果、1984（昭和59）年4月に「大学設置三夫、副学長鈴木辰三郎、教養部長楠川絢一、理館協会理事長モニハン、いわき市議会議長矢吹努め、学生を保護者のもとへ帰宅させることとに関する基本事項」について合意し、署名・文書工学部長澤田正三、人文学部長福永安祥、教務康、陶芸家藤原雄、甲南女子大学学長鰺坂二夫、したが、交通事情や帰郷地の被害状況などから交換を行った。部長田中誠之、総務部長加藤一佳を選任した。いわき市商工会議所会頭諸橋鉄二郎からお祝い帰宅することが困難な学生については明星大学いわき市からは大学建設用地46haが無償譲与1987（昭和62）年3月31日には全キャンパスのの言葉を戴いた。開学式・祝賀会によっていわと協力して、大学が借り上げたバスで東京都日されるとともに、建設資金の一部となる初年度竣工を祝って、修袚式、テープカット、陶壁（藤き明星大学の創設を広く社会に発信するととも野市の明星大学に移動し、その上で多摩市内に寄付金が提供されることとなった。その後、大原雄作「大洋に向かって」）除幕式、竣工式、祝賀に、創設を祝った。（『体験教育』第469号、1987他大学が所有する宿泊研修施設に避難・宿泊す学建設事業推進のために、いわき市は「財団法人会が挙行された。4月12日には第1回入学式を挙年10月、2頁）ることとした。大学の事務的な業務も現地ではいわき市学園都市事業団」を設立、1985（昭和60）行、希望に燃えた第1期生、理工学部353名、人実施することが困難になり、明星大学内に仮事年3月には大学用地造成工事の起工式が行われ、文学部306名、計659名が入学し、新生いわき明いわき明星大学の充実と独立務所を設けて業務を実施した。用地造成工事の完成を待って校舎12棟の建設工星大学の第一歩が踏みだされた。（『体験教育』第いわき明星大学では学問研究の進展や学問研このように地域社会の要請に応えて発展を遂事が進められた。校舎の屋根には、ザイール明465号、1987年4月、3〜4頁）究領域の変化に対応するとともに、地域社会かげ、東日本大震災も乗り越えて教育研究活動を星ムソシ小学校の設置運営を担うコンゴ鉱工業1987（昭和62）年10月14日にはいわき明星大学らの教育・研究や人材養成に対する要請の変化開発株式会社（日本鉱業株式会社）との縁によ児玉記念講堂において約1,500名の出席を得て、に応えて学部・学科の改組に努め、理工学部にり、銅板葺が採用され、特色ある建築となった。開学式・祝賀会を挙行した。開学式では、副学ついては科学技術学部に改組、人文学部につい一方、大学の教育・研究構想、学部・学科構長鈴木辰三郎による学事報告、学長児玉三夫にては教養学部に改組し、学科についても改組を成とその教育研究内容、教員の配置などの諸事よる式辞に続いて、福島県知事松平勇雄、いわ重ねてきた。これらの改革の中でも、2001（平成項について検討・準備が進められた。創設する13）年4月には人文学部心理学科（現：心理学部大学の目的は「本学は教育基本法ならびに学校臨床心理学科）を創設し心理学的素養を身につ教育法の定めるところに従い、建学の精神に則けた人材の養成を図ったこと、2007（平成19）年り、学術を中心として、広く知識を授けるとと4月には薬学部薬学科（6年制）を創設し資格の取もに深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳得とともに薬学に関する専門職として地域社会的および応用的能力の展開により全人間形成にに貢献する人材の養成を図ったこと、2017（平成つとめ、国家、社会に貢献し得る有能な人材を29）年4月には看護学部看護学科を創設し4年制育成するとともに人類文化の発展に寄与するこ大学において専門的な知見を身につけた看護人とを目的とする。」（「いわき明星大学設置認可申いわき明星大学開学式材の養成を図ったことは、地域社会からのいわいわき明星大学地域交流館CHAPTER1第1章214MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory215

## Page 109
![Page 109の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000109.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部展開してきたいわき明星大学であるが、学校法が、1989（平成元）年6月に体調を崩して入院、そ人明星学苑本部が所在する東京都とは遠隔の地の際は10日程で退院したが、9月下旬に再び体調Column11いわき明星大学設置認可申請書・認可書にあることから、2015（平成27）年9月に学校法人の運営・事務や大学の教育研究活動や運営、事を崩して入院、一時は回復し、11月15日には病院において満101歳の誕生を祝った。しかし、務遂行の一層の効率化をめざして学校法人いわ1989（平成元）年12月15日に101歳1カ月の天寿き明星大学として独立した。を全うし、偉大な生涯を閉じた。その後、2019（平成31）年4月には健康医療学児玉九十が1926（大正15）年の明星実務学校校部作業療法学科・理学療法学科を創設、教育研長就任以来、自らの「師弟同行」、「生活を共にす究内容に即して大学名を医療創生大学、学校法ることを通しての訓育」という教育理念に基づ人名を学校法人医療創生大学に変更した。現在いて63年間住み続けた府中校内の一角にある自は薬学部薬学科（6年制）、看護学部看護学科、健宅において、12月16日に通夜、17日に密葬が執康医療学部作業療法学科・理学療法学科、心理行された。学部臨床心理学科、国際看護学部看護学科（千葉県成田市）の5学部6学科からなる医療福祉系の学苑葬を挙行大学として教育研究活動を展開し、地域社会に学校法人明星学苑は児玉九十の多年にわたるいわき明星大学設置認可申請書貢献している。貢献に感謝し、関係者すべてが哀悼と感謝の念をもってお別れする機会とすべく、1990（平成2）5.学苑長児玉九十の逝去年1月21日に府中校内明星学苑講堂において学苑葬を執行した。学苑葬は13時から14時を葬儀、学苑長児玉九十の逝去14時から15時を告別式として執行した。学校法人明星学苑名誉学苑長（1978（昭和53）葬儀は明星学苑総務部長大塚可長が司会を勤年4月に学苑長に就任したが、その後寄付行為のめ、司会者による開会の辞に続いて、文部大臣改訂があり名誉学苑長となった）児玉九十は、満石橋一弥、東京都知事鈴木俊一、府中市長吉野100歳を超えても健やかな毎日を過ごしていた和男、日本私立大学協会会長・私学研修福祉会CHAPTER1第1章いわき明星大学設置認可書いわき明星大学開学式を伝える『体験教育』第469号、1987年10月いわき明星大学、校地・校舎―1987年現在―初代学長児玉九十学苑葬216MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory217

## Page 110
![Page 110の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000110.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部会長橘高重義、日本私立中学校高等学校連合会に、私学教育ひとすじに歩んできました。よく会長堀越克明、明星学苑PTA連合会会長大槻哲幼稚園児が『学苑長先生は、いつも笑っている』Column12児玉九十の逝去を知らせる『体験教育』也、明星同窓会会長向山敏治から献花とともに弔辞がささげられた。次いで、葬儀委員長いわと、ふしぎそうに言いますが、それは子どもたちの天真らんまんな、神さまのような声をきくき明星大学長鈴木辰三郎、喪主児玉三夫、親族ことによって、私の心が洗われるから、こうい児玉伸雄、親戚代表鰺坂二夫、日本私学振興財う笑顔になるのです』とおっしゃっていました団理事長清水司、東海大学総長松前重義、玉川が、まさに『和』の精神の源泉、明星教育の基本学園理事長小原哲郎、東京私立中学高等学校協を象徴的にのべられたことばとして感銘のほか会会長加納弘、日野市長森田喜美雄、いわき市はありません。」と児玉九十の人柄を偲ぶととも長中田武雄、青梅市長田辺栄吉、明星大学初代に、「以上、追憶は果てしもありませんが、この父兄会会長松平勇雄、明星児玉会会長早川陽子うえは、先生が残された訓えを一層堅持し、さからの指名献花が行われた。その後、弔電披露、らに新時代に活かしてまいることをみ霊に誓葬儀委員長鈴木辰三郎挨拶、親戚代表鰺坂二夫い、ひたすらご冥福をお祈りしたいと思いま挨拶、司会者による閉会の辞があった。告別式す。」と、その決意を記述している。では、来賓・一般参列者からの献花を受けた。会葬者は、来賓・一般約550名、PTA関係者約「子どもが好き」、個人を偲ぶ810名、同窓会関係約630名、教職員約500名な明星学苑では『体験教育』第488号、1990（平成ど、総計約2,600名、弔電は約500通と記録され2）年2月、を「故児玉九十名誉学苑長先生追悼特ている。集号」として刊行したが、そこでは学苑葬の報告また、これに先立って1月20日には府中校内とともに、児童の作文、教職員の回想・追悼文『体験教育』「故児玉九十名誉学苑長先生追悼号」第488号、1990年2月明星学苑講堂において、園児・児童・生徒による告別式を執行した。園児・児童・生徒による告別式は、凝念に始まり、開会の時、主事の話、が掲載されている。作文のうち、小学校1年生・2年生の児童は次のような作文を寄せている。代表献花を行い、閉会の辞で終えた。明星学苑第2代理事長児玉三夫は、『体験教育』「みまもってください」第488号、1990（平成2）年2月、に掲載した「児玉一ねんなかむらわかえ九十先生の終焉に想う」の中で、「先生の終焉は児玉九十先生のおそうしきが、こうどうまったく澄みきったおもむきでしたが、なんとでありました。だんの上に、きれいな白いいっても、明星学苑の父と仰いできた先生を花がいっぱいにかざられて、中に九十先生喪ったいまは、胸にぽっかりと大きな穴があいの大きなしゃしんがありました。にこっとた感じです。すばらしい実践躬行主義の教育をやさしいおかおで、わたち（ママ）たちに創造し、戦後日本の私学の復興と発展のため、寝「こころの正しい子どもになりなさい。」食を忘れて活躍され、しかも未熟児で生まれなとおっしゃっているようでした。わたしがらも百歳を越える超人的な長寿を保たれた先はじっとしゃしんを見ていて、なきそうに生を、私たちは明星教育の生きた典型と考え、大なったけれど、いつもみまもっていてくだきな誇りとしてきましただけに、悲しみと寂しさいますようにと、おいのりしました。児玉九十の逝去を知らせる『体験教育』―第486号、1989年12月―さはきわみもありません。」、「つねづね先生は、『私は子どもの成長を祈る七五三の日に生まれ「九十先生の手」二年平石友美たので、子どもがいちばん好きです。そのため日記を書く前に、九十先生の声が聞こえCHAPTER1第1章218MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory219

## Page 111
![Page 111の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000111.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅳ．拡大期1964︵昭和39︶年～1996︵平成8︶年PART1第1部たようにかんじました。わらっている声やおこっている時の声、いろいろな声がしました。その時、私は、ようちえんの時の元気な九十先生のことが思い出されてきました。年少の時、九十先生にだっこしていただきけ、ご自分の歯は本物である（入れ歯ではない）ことや、小学校のときに英語を勉強されたことや、二宮金次郎の話や、今でも毎日読書をなさっておられることなど、笑みを浮かべていろいろとお話になり、園児達の突飛な質問にもいちいち答えてくださいま私は深い感銘を受けたことを覚えています。この一見何でもないような言葉が、私には先生の教育の真髄を語る言葉として、今も、私の教師生命を支えているのかも知れません。子どもが好きであれば、教師として、どんな困難な問題でも解決出来ることました。九十先生の手は、大きくてあたたかくて、とてもやわらかかったことをおぼえています。その時のしゃしんを見ると、今にもなみだが一つぶながれそうです。九十先生は、今ごろ天国でどうしていらっしゃるかな。私はぎょうねんをしてから、日記を書きはじめました。教職員の回想・追悼文の多くも児玉九十の「子どもが好き」という考え方にふれている。「真の教育道の実践を誓う」した。童心の子ども達と始終笑顔で親しく過ごされた学苑長先生のこうしたお姿を、今、思い起こしてみますと、かつて、幼稚園の例会で「私は、子どもが好きで学校の教師になりました。お子さんを見ていると、ほんとうに愉快です。今、そこで自動車を降りると寄って来て、私と握手しようとして『握手、握手』と言う。本当に天真爛漫で可愛らしいものですね」と、お母様方にお話しになったことを思い出します。いつまでも忘れられない尊いお話やお言葉の数々に、今は亡き学苑長先生の在りしを、先生は教えて下さったのです。又、先生は、小学校の校庭から元気に流れる子ども達の遊ぶ声を「明星ホルモン」と呼ばれて、先生の健康の源として、笑顔で喜んで聞いておられました。本当に子どもがお好きだったのでしょう。ですから、真の教育が出来たのだと思います。昨夏「両親教育」「真実の教育を求めて」等、先生の著書を改めて学ぶ機会も得られたのですが、その中で教えられた教育の原点は、やはり「子どもをやさしく見つめる教師、両親の愛」ということではないでしょうか。一人一人の子どもが真に好きになってこ小学校主事波多野松男日のことを偲び、改めて先生のお教えに深そ一人一人の子を育てられるのでしょう。私がカフジから帰任後、明星幼稚園勤務のころ、担任の先生に連れられた年長組の園児達が新年の挨拶のため、学苑本部に学く感謝し、明星に奉職する一員として、真の教育道の実践をここにお誓い申し上げ、謹んでご冥福をお祈りいたします。この教育の原点を笑顔で実践され教えて下さった先生、どうぞ、いつまでも私達を見守って下さい。苑長先生を訪れたことがありました。何しろ、学苑長先生を訪問することは、園児達には初めてのことでもありそのうえ、天真爛漫、元気な園児達が大勢揃って学苑長室に押し掛けるわけですから、担任先生が前もって躾けておいたというお行儀のことも、いささか気にはなりましたが、広い学苑長室の雰囲気に見慣れない部屋の珍しさのためか、誰もがたいへん静かでお行儀もすっかりよくなり、先生の前にじょうずに並び、揃って新年の挨拶を無事に済ませることができました。学苑長先生は、この日を朝から楽しみにしておられたご様子で、優しい笑顔で迎えられ、「みんな、このソファに腰掛けないかな……」と、前に立っている園児に言葉をか（補注：波多野松男の明星幼稚園在任は（補注：中村雅臣の明星小学校在任は1962（昭和37）年4月）1971（昭和46）年〜1980（昭和55）年）（『体験教育』第488号、1990年2月、2〜3頁／4〜5頁／17頁／18頁/19頁）「子どもが大すきな先生（抜粋）」小学校中村雅臣この特集号には弔辞のほかに児童の作文、教「中村先生は子どもが好きですか。」新任間もなく、授業もクラスも思うようにいかず頭を痛めていたある日、朝礼でのお話を終えて戻られる九十先生に声を掛けられました。私は、しどろもどろに慌てて職員の回想・追悼文が掲載されているが、いずれを見ても子どもが好きであること、それが教育の原点であるということにふれられており、児玉九十の信条や人物像を偲ばせるものになっている。うなずいたことを思い出します。その時、先生は、唯にこにこ微笑まれて、「それなら大丈夫ですね。」と、やさしく力づけて下さったのです。「私は子どもが好きで先生になりました。」という先生の言葉を後になって伺った時、CHAPTER1第1章220MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory221

## Page 112
![Page 112の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000112.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部Ⅴ.転換期代理事長に選任し、同日付で理事長に就任した。新理事長荒井正大は、学苑創設期においては学「新世紀に向かって」（抜粋）1996（平成8）年〜今日まで校法人理事長が各幼稚園園長、小学校・中学校・高等学校校長・大学学長を兼任してきた慣行を1.学校法人組織の改革児玉伸雄、理事長・園長・校長・学長に就任、辞任1994（平成6）年夏頃から理事長児玉三夫は体調を崩し、病気療養を余儀なくされた。1995（平成7）年4月7日に開催した理事会において、この事態を受けて、理事会は、理事児玉伸雄（1947（昭和22）〜2016（平成28）年）を理事長に選任した。新理事長選任に関する一連の手続きに瑕疵があるとの指摘を受け、理事会は改めて同年5月9日に理事会を開き、理事児玉伸雄を第3代理事長・明星大学第3代学長に選任した。しかし、明星大学教員有志から理事長及び学長選任の過程について、改めて疑義が提起されるとともに、学校法人及び大学の管理運営体制第3代理事長・学長児玉伸雄に解決すべき多くの問題点があることや、その改革が急務であることなどについて、行政庁及び学苑内の各部署から指摘が寄せられた。経営及び教学上の管理・運営に多くの課題が生じたその主な原因は、学苑が、大学設置の1964（昭和39）年以降、急激に規模を拡大し、2つの幼稚園・小学校・中学校（男子部・女子部）・高等学校（男子部・女子部）・2つの大学を設置・運営するまでになっていた。この組織の急激な拡大に応じた管理運営体制の整備が追い付かないままとなり、これにより組織内部の不統制が徐々に拡大してきたことに起因していたと考えられる。新たに選任された理事長として児玉伸雄は、これらの課題の解決に取り組もうとしたが、自らの選出過程に対する疑義も含め、根本的課題を解決するにあたっては自ら身を引いた方がより望ましい結果が出るとの判断から、1996（平成8）年1月25日に開催した理事会において、3月31日をもって理事長・評議員・学長・校長・教授の各職を辞任したいとの申し出を行い、理事会は、この申し出を承認した。理事長の選出1996（平成8）年3月31日付の児玉伸雄の理事長辞任を受けて、理事会は、4月1日に開催した理事会において、1984（昭和59）年から理事を務めて来た明星大学教授・明星大学青梅校総務部長で旧制明星中学校卒業生である荒井正大を第4廃し、各設置校に園長・校長・学長を置き、教学の長と経営管理の長である理事長の分離化を行った。荒井正大は1922（大正11）年東京都で誕生、1941（昭和16）年3月旧制明星中学校卒業、1944（昭和19）年3月旧制東京高等学校卒業、1948（昭和23）年3月東京帝国大学法学部政治学科卒業、その後法学部法律学科に学士入学し中退、共同通信社に長く勤務し、社会部・政治部・外信部で活躍、外信部次長・韓国ソウル支局長を勤めて退社。その後、株式会社テレビ朝日ニュース・キャスター、株式会社ほるぷ出版社長などを務めた。1973（昭和48）年に学校法人明星学苑評議員、1984（昭和59）年に理事に就任した。1988（昭和63）年には明星大学教授（政治史、マス・コミュニケーション論など担当）に就任、1992（平成4）年の青梅校創設とともに明星大学青梅校専任教授・青梅校総務部長を務めていた。荒井正大は理事長就任にあたって、『体験教育』第533号、1996年7月、に「新世紀に向かって」と題して、理事長就任の決意と、今後取り組むべき課題について次のように力強く記述した。第4代理事長荒井正大理事長荒井正大明星学苑の歴史の中でも嘗て例のなかったような重大な時期に、児玉伸雄先生御辞任の後を受けて図らずも理事長の重責を継ぐことになり、眼前に立ちはだかる難局を突破すべく覚悟を新たに致しております。私自身は明星中学校卒業の十一星会員で、新大学長に就任された田中誠之先生ともども、幸いにも児玉九十先生から直接貴重な教えをいただくことができたひとりであります。皆様が愛してやまないその明星学苑が昨年、大波を被る深刻な事態におちいりました。それまで学苑は児玉九十先生の確固とした建学の精神を基盤に据えて、長きにわたり「和」を尊ぶ安定した学内秩序のうちに大きく発展して参りました。しかし近年の世界的激動と急速に変化する社会情勢とともに明星をとり巻く環境はそのまま安住することを許さぬ厳しさをもって迫ってきておりました。もはや旧態依然たる制度や組織体制ではそれに対応し切れず、累積したヒズミが学苑の各分野にあふれ出てきておりました。この難しい局面を前にして、一昨年夏、学苑の総帥である児玉三夫先生が病に倒れられたのは誠に残念なことでした。後継としての児玉伸雄先生は、まさに、その多分野にわたる重要課題の解決を当面の使命として立たれることになったわけであります。伸雄先生は就任の当初から、学苑の管理面と教学面をはっきり分離し、それぞれに責任者を立て、権限と責任の範囲を明確にしてヒズミの根本的な是正をはかり、学苑の新たな構築に臨むというお考えのようでした。しかし現実の事態は残念ながら伸雄先生の予期されるようには進みませんでしCHAPTER1第1章222MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory223

## Page 113
![Page 113の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000113.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部た。そればかりではなく、学苑の古い体質指しての普遍的教育理念であると確信して田中誠之は1926（大正15）年東京都で誕生、1944め、私学教育の理念実現にもえる諸先生方の改善を求める学内の動きは強まりこそすおります。（昭和19）年旧制明星中学校を卒業、1947（昭和の手塩にかけて育てて頂きました。丁度第れ納まる気配は見られぬまま新年を迎える（『体験教育』第533号、1996年7月、1頁）22）年旧制成蹊高等学校（理科甲類）卒業、1950二次世界大戦前夜より戦中にかけてのあわに至りました。伸雄先生はそれらの急迫す（昭和25）年東京帝国大学第二工学部応用化学科ただしい期間ではありましたが、九十先生る状況を前に学苑の将来について熟慮を重このような考え方に立って、学校法人の改革卒業、東京帝国大学第一工学部大学院を経て、東の標榜された精神教育に、私のクラス担任ねられた結果、平成八年三月末をもって、すと発展のかじ取りに邁進し、4年間の任期を終え京帝国大学工学部助手・講師・助教授・教授をの船越好文先生はじめ先生方全員で取組まべての職務を辞任する旨の決断をされまして2000（平成12）年3月17日の理事会で承認され歴任、名誉教授となったが、1958（昭和33）年にれており、生徒一人一人の手作りの教育をた。て、3月31日付で理事長を退任、その後は学校法は工学博士（東京大学）の学位を取得している。され、その長所を見出して伸ばすことに力もとより理事会、評議員会の全員が重ね人明星学苑顧問として活動を見守り、2004（平成分析化学を専攻し、1989（平成元）年度日本分析を注がれました。て翻意を求めたことは申すまでもありませ16）年3月に81歳で逝去した。化学会会長を務めた。1986（昭和61）年4月に明今回、色々な事情から、全く思いがけず、ん。しかし伸雄先生の辞意は固く、止むな星大学理工学部化学科教授に就任し、翌1987（昭明星大学に招かれましたが、学長就任後く両役員会は辞任を認めることに決した次明星大学学長の選出和62）年にはいわき明星大学理工学部教授・教務二ヶ月余の現在あらためてその責任の重大第でした。平成八年度新学年の出発を目前明星大学学長児玉伸雄の辞任表明を受けて学部長に就任、1995（平成7）年からはいわき明星大さを痛感しております。になお動揺は残りました。しかし学苑側は校法人理事会は次期学長選出方法を検討し、そ学理工学部長を務めていた。学長就任時に、教職員の方々にお話しし総力を挙げて事態の解決と平静化に努めまの結果を1996（平成8）年3月4日付学校法人明星田中誠之は明星大学学長就任にあたって、『体た今後の明星大学の進路に関する大方針した。他方、学内でも「早急に新体制が発足学苑理事会通達「学長候補選考について」として験教育』第533号、1996年7月、に「ご挨拶」と題は、次の二点であります。し、山積みする懸案の解決に力を致すべき発表した。学長の選考方法は当時施行されていして、学長就任の決意と、今後取り組むべき課まず第一点は、本学創設当時の原点をふである」という意見が徐々に大勢を占めるた規程に従って実施するが、その運用にあたっ題について次のように記述した。まえながら、遅れている大学運営の近代化状況となり、現在では順調に教育が進めらて全ての教授者（教授・助教授・専任講師）の意を早急に行うことです。従来からも、そうれるまでに至りました。思を反映させる措置をとることとし、その具体「ご挨拶」（抜粋）田中誠之あらねばならなかった体制、すなわち、諸学苑にとってこの激動の一年はかけがえ的方策として、第1に明星大学の全教授者に学長このたび私は、明星大学の大多数の先生先生方の御意見によく耳を傾けて学内の風のない貴重な教訓を残しました。どこまで候補の推薦権と被推薦権があること、第2に各学方のご推挙により、はからずも四月一日付通しをよくし、それに基づいた公正な判断も明星の教育理念の実現という大道を外す部から1名ずつ学長候補選考委員会の教授委員にて学長に選出されました。を行って、施策を教授会にはかり、万機公ことがない限り、むしろ真摯な意見の対立、を選任し、推薦業務にあたることが定められた。私は昭和十九年に明星中学校を卒業した論に決する方式を確立致します。そのため抗争はあってよいということであります。選考委員会の教授委員は学長候補推薦投票に関明星学苑同窓生（十四星会）です。私の在学の作業は、先生方の御協力により今着々と何故なら本当の進歩はその中から初めて生する申し合わせ事項を決定し、各学部教授会の当時は、まだ一学年二クラス制八十名の少進められています。まず、人心一新をはかまれるものだからであります。新世紀を目承認を得て、1996（平成8）年3月26日に第一次学数教育が徹底しており、児玉九十先生はじり、各学部長、各学部代表教授、各学科主前に内外情勢の激動は続き、教育界では超長候補推薦選挙、3月30日に第二次学長候補推薦任教授などを新しく選考して新体制ができ氷河期と呼ばれる就学人口の激減を前に大投票を実施することとした。第一次学長候補推上がりました。また、例えば、管理運営に学、高・中学校の何れを問わず存立の危機薦投票の結果、学内候補者3名・学外候補者1名関する学則等の整備を完全にするためのプに直面しております。だが明星は微動だにの4名が決定し、3月30日に4名を候補とする第ロジェクトチームが早期の決着を目指して致しません。今こそ建学の原点に立ち、真二次学長候補推薦選挙を実施、理事会通達に基短期間にすでに数回の討議を行って原案作の教育をこの学苑で花開かせるべく全教職づき1位となったいわき明星大学教授・理工学部成に努めていることをはじめ、各種の委員員は力を合わせ結集して前進を開始する好長田中誠之と2位となった候補者の2名を選考委会が作られて先生方の熱心な討議がなされ機であります。その向かうべき道程はすで員会に推薦、同日夜に選考内規に基づく学長選ています。に遠く昭和初期、この『体験教育』創刊号に考委員会が開催され、推薦投票で第1位の田中誠また、これらの改革には、学苑の新理事おいて九十先生が明示されたところであり之を学長候補者と決定、直後に開催された学校会の強力なバックアップが必要でありますます。その内容こそ時代の流れを越え、何法人評議員会を経て、理事会において田中誠之が、その御支持も頂けることになっており処にあっても通ずる、真の人間性確立を目を第4代明星大学学長に決定した。第4代学長田中誠之ますので、この方面に関する限り、本学のCHAPTER1第1章224MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory225

## Page 114
![Page 114の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000114.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部前途は誠に明るいものと確信しております。大学改革の先頭に立って尽力した。1998（平成Column1理事長・学長・各園長・各校長の選任を伝え、抱負を掲載した『体験教育』―第533号、1996（平成8）年7月―次に、いわゆる超氷河期における私立大学としての即応体制の整備が必要です。平成五年以降起こった十八歳人口の減少が、現在さらに急激になりつつあり、各私立大10）年3月31日に任期を終えて大学学長を退任、その後は2000（平成12）年3月まで学校法人明星学苑理事（学事担当）として学苑全体の教育・研究の推進に努めた。学はすでにその対策に大童でありますが、なお、学長田中誠之の下、各学部長には理工本学は全く無策といってよい程、その対応学部長日江井榮二郎、人文学部長神辺靖光、日が遅れているように見受けられます。大学本文学部長井上英明、情報学部長佐藤洋が就任、の正常化と並行して、この即応体制を早急教育研究を推進していくこととなった。また当に整える必要があり、目下、先生方に現状時の事務分業にしたがって総務部長（日野・青認識の啓蒙をしつつ、その対策を検討して梅）に橋本昌幸、教務部長（日野）森下恭光、教いるところです。二十一世紀は大学大衆化務部長（青梅）須崎祐吉、学生部長（日野・青梅）時代になるといわれていますが、本学の目山中一由が就任、大学運営を統括していくこと指すべき個性豊かな大学といかに両立させとなった。るべきかが今後の問題として残されています。園長・校長の選出本学苑の教育方針については、児玉九十学校法人明星学苑では創設期には、理事長が先生が、すでに約七十年前、体験教育第一各園長・各校長・各大学学長を兼務し、各園・号に、「体験教育の提唱」と題し、明らかにさ各校には「主事」を置き、各主事が各園・各校のれています。これを今の日本の現状に照ら教育・運営の責を担うことを原則としてきた。しても、まさに依然としてその通りであり、1995（平成7）年度までに一部に理事長とは異な人間の進歩の遅さをつくづく思い知らされる園長・校長・学長を置いていたが、1996（平成ると共に、ますます体験教育の重要性が痛8）年度からは理事長が設置校などの長を兼ねる感されるわけです。今こそ九十先生の原点ことを全面的に改め、主事制度を廃し、全てのをふまえ、しかも時代の進展との調和を加園・校・大学に園長・校長・学長を置くことと味した新たな体験教育を学苑全体で推進すした。べき時ではないでしょうか。明星幼稚園園長については1991（平成3）年4月私は、明星大学をお預かりした上は、及から当時の明星幼稚園主事白川晶山が園長に就ばずながら、誠心誠意、大学の再出発の先任、その退任後は1994（平成6）年4月からは三浦導役となり、本学苑の基本方針、本大学開幸子が園長に就任していた。いわき明星大学学学の精神に則り、しかも時代の要請に応じ長については1987（昭和62）年4月の開学時にはた改革を加えながら、個性豊かな大学を目児玉三夫が学長に就任したが、1991（平成3）年4指し、二十一世紀の明星大学の土台作りに月に鈴木辰三郎が第2代学長に、1995（平成7）年全力投球を致す所存です。4月に澤田正三が第3代学長に就任していた。ま（『体験教育』第533号、1996年7月、12頁）た、1996（平成8）年2月24日に開催した学校法人理事会において、評議員会の意見も聞いて、清田中誠之は1996（平成8）年4月1日の明星大学水正人を明星小学校校長に選任していた。さら学長就任後は、大学規程の整備、規程に基づくに、1996（平成8）年3月9日に開催した学校法人大学運営の推進、教育・研究の振興・充実など、理事会において、評議員会の意見も聞いて、明CHAPTER1第1章226MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory227

## Page 115
![Page 115の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000115.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部として「諸規程の整備に努めること」が指摘された。その第2は、1991（平成3）年12月20日の明学部、情報学部・日本文化学部の設置認可に留意事項が付され、留意事項の1項目として「管理運営体制について、諸規程の整備を含めて引き続き検討すること」が指摘された。1995（平成7）年9月12日には青梅校の完成年度の履行状況調査の結果から、同様の指摘を受けた。さらに、1996（平成8）年5月31日にも青梅校に対する大学設置・学校法人両審議会、大学設置分科会の実地調査を受け、その結果をふまえての講評で、「新体制下での改善についてなお一層整備を進めること、学則の基幹については来年3月までに完全な形に整備すること」と指摘され、7月には改善実施の途中経過の報告をすることが求められた。これらの指摘を受けて、学校法人は1986（昭和61）年以降、規程管理委員会を設置して規程の整備を図るなど改善に取り組んできたが、その進捗状況は必ずしも十分な成果を上げるまでにいたっていなかった。1996（平成8）年4月に理事長荒井正大の下に改革なった新たな学校法人は理事長・理事会を先頭に学校法人としての体制やその運営などについての改革を早急に推進することになった。学校法人の体制・運営改革の第1、その最も基本となる改革は、学校法人理事長の職と幼稚園園長・小学校校長・中学校校長・高等学校校長・大学学長・大学付属幼稚園園長の職を分離することであった。理事長が全ての設置園・校・大学の長を兼ねることは、児玉九十、児玉三夫のような傑出した人物がその任にあたる時には可能であったとしても、誰にでも可能であるとい星高等学校校長に千原良治、明星中学校校長に原悠基子を選任していた。この結果、1996（平成8）年度から理事長が設置校などの長を兼ねることは全て廃止され、次のような各園長・校長・学長の陣容で教育・研究・運営にあたることとなった。時期から大学の設置認可に関連して文部省（当時、現：文部科学省）から学校法人としての運営について、諸規程の整備を含めて改善するように重ねて指摘を受けてきた。その第1は、1986（昭和61）年12月のいわき明星大学の設置認可に留意事項が付され、留意事項4項目の中の1項目うことはできず、特に学校法人の設置校が増加し、規模が拡大した場合には無理が生ずる可能性がある。学校法人と設置校の関係については、望ましい関係を構築するために私立学校法において設置校の長を理事とすることが定められている（第38条1、いわゆる1号理事）が、学校法人ととなった。学校法人として最も基本的な規程である「学校法人明星学苑寄附行為」については、検討を加えて改訂を行い、1997（平成9）年3月27日付で認可申請書を文部省に届出、1997（平成9）年7月11日付で変更が認可された。明星幼稚園園長三浦幸子明星小学校校長清水正人明星中学校校長原悠基子明星高等学校長千原良治明星大学学長田中誠之明星大学付属幼稚園長三浦正一いわき明星大学学長澤田正三『体験教育』第533号、1996年7月、には前掲の新理事長荒井正大、新明星大学学長田中誠之の就任の辞と並んで、各園長・各校長が次のような題目で、新体制下の就任にあたっての決意を記述している。元気で遊ぶ子に育てる三浦幸子心のふれあう学校を清水正人不易と流行原悠基子今こそ体験教育を千原良治あらゆるかたち三浦正一理事長荒井正大の下、明星大学学長田中誠之を先頭にこのような陣容で新体制となった明星学苑、各々の園・校・大学の教育・研究・運営のリーダーシップをとることになった。2.学校法人運営体制の整備学校法人運営体制の改革理事長に就任した荒井正大の下、新体制となった学校法人明星学苑では新たな学校法人としての運営体制を整えることが急務となった。学校法人明星学苑では、この時期以前、早いの経営・管理運営責任者である理事長と、教学認可申請書に添付された「寄附行為変更の条の責任者である各園・校・大学の長との間では、項及び事由」は33項目に及ぶが、住所表記の修正時には利益相反の生ずる可能性もあると言わざや条項表示の不備や条項のずれの修正を除いるを得ない。そこで新生なった学校法人ではそて、主な内容的な変更としては次のような項目れまでの慣行を改め、各々の役職就任者を分離があげられる。し、理事長は学校法人全体の経営・管理運営に専念し、各園園長・各校校長・各大学学長は所2．理事7名を理事11名に改める。管の園・校・大学の教学に専念することとした。3．理事の中から4名の常任理事を選任でこれには組織管理規程をはじめ関連する規程にきる（常任理事職を新設）。おいて、理事長の職務と各園園長・各校校長・6．明星大学学長に加え、いわき明星大学大学学長の職務、さらにその関係について明確学長を理事とする。化することが必要であった。7．評議員から選出する理事を1名から3名改革の第2は、第1の点も含めて、学校法人のに改める。諸規程を検討し、改訂すること、必要な諸規程9．私立学校法に定める監事の職務に基づを制定することなど規程の整備であった。規程いて、監事の職務を整備する。の整備については1986（昭和61）年12月のいわき11．評議員定数を15名以上18名以内から23明星大学の設置認可時に留意事項として指摘さ名以上25名以内に改める。れた時点から学校法人として諸規程の整備を始19．顧問に加えて特別顧問を新設する。名めていたが、新たな学校法人の体制にふさわし誉職的な顧問を廃して、必要な場合にいものとすることを目的として、学校法人理事理事会が有識者を顧問・特別顧問に選会の下に規程整備に関する委員会を設置し、さ任委嘱し、理事長の諮問に答えるものらに加速化させ、より十分な整備に取り組むことする。学校法人明星学苑規程集表紙CHAPTER1第1章228MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory229

## Page 116
![Page 116の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000116.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部24．法人予算を会計年度開始前に、理事長組織管理規程改訂の主旨は、学校法人理事長とColumn2「学校法人明星学苑寄附行為」変更認可申請書と変更条項及び事由（抜粋）―1997（平成9）年3月―が編成し、理事会の議決を得なければならないことを規定。26．財産目録・貸借対照表・収支計算書を会計年度終了後2カ月以内に作成、監園長・校長・学長の分離を前提に、その関係について規定することにある。また、組織管理規程においては、学校法人内の全ての組織の職務、教職員の職務について規定しており、組織のあ事の意見を付して、常に事務所に備えり方や組織に所属する教職員のなすべき職務がる。明確になり、規程に基づく組織的な経営・管理・運営が可能となった。この寄附行為の変更の主要な目的の第1は、理改革の第三は、会議体を整備することであっ事・評議員を増員するとともに外部からの人材た。登用を強化すること、監事の職務を明確にする学校法人における最も基本的な会議体としてこと、顧問・特別顧問に有識者を迎えることには、意思決定機関としての理事会、理事会の諮よって、学校法人経営・運営を少数の個人に依問を受けて意見具申を行う評議員会については存することを廃し、組織体制を強化し、組織的「明星学苑寄附行為」に明確に定められている。な経営・運営を実現することである。その第2しかし、明星大学に関しては会議体のあり方には、監事の職務を強化すること、予算制度を確ついて早急に検討・改訂が必要であると指摘さ立すること、会計に関する情報公開をすることれ、大学内においても積極的に取り組まなけれによって、開かれた学校法人経営・運営に改めばならないと認識されていた。ることにあった。これらを基礎とする変更は、従明星大学においては、青梅校2学部、情報学来の少数の個人に依存する傾向の強かった学校部・日本文化学部の設置に関する文部省からの法人のあり方を改めていこうとする新理事会の1991（平成3）年12月20日の指摘、1995（平成7）年基本的な考え方に基づくものである。9月12日の指摘、1996（平成8）年5月31日の指摘学校法人としての組織・運営にかかわる基本に対応することが急務であり、1996（平成8）年6変更認可申請書的な規程である「学校法人明星学苑組織管理規程」については、「学校法人明星学苑寄附行為」を月に大学内に学長の諮問機関として各学部代表と事務部長を構成員とする「学則基幹改正プロ基礎として、その理念に基づいた学校法人の経ジェクトチーム」を設置し、諸規程の検討・改営・運営が行われるように検討・改訂を行い、改訂・整備に努めた。1996（平成8）年度から1998訂履歴を見るとこの年度には1997（平成9）年7月（平成10）年度にわたって、「明星大学学則」・「明18日、1997（平成9）年10月1日の2回にわたって星大学通信教育部学則」・「明星大学大学院学則」改訂・施行している。「寄附行為」において理事長を検討・改正するとともに、それに関連して審など法人役員の職務を明確に規定したことを受議機関としての各種会議体運営細則、役職人事けて、「組織管理規程」において、法人本部管理選考規程についても検討を進め、改訂・整備に者、設置・運営する幼稚園園長・小学校校長・努めた。その結果、会議体のうち審議機関は大中学校校長・高等学校校長・大学学長の職務を学評議会、学部教授会（代表委員会）、大学院研明確に規定し、各職の職務権限・担当すべき職究科委員会のみとし、従来その機能・位置づけ務の分担を定めた。大学学長を例として見ると、があいまいであった学部長会・学科主任会・学変更事項及び事由「学長は、理事長の命を受け、校務をつかさどり、所属教職員を統督し、大学を代表する。」（第12条科会議は連絡調整機関と定めた。その後も「明星大学教学規程整備委員会」を常設の学長の諮問（1））と規定している。この例に見られるように委員会として設置し、時々の規程に関する課題CHAPTER1第1章230MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory231

## Page 117
![Page 117の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000117.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部を検討し、規程の改訂や新設に取り組んでいる。『明星学苑報』の創刊学校法人は広報委員会を設置し、1998（平成学校法人運営体制の整備規程の整備とともに、規程に基づく学校法人としての運営を実施するための運営体制の整備10）年7月25日に『明星学苑報』を創刊した。創刊の意図については、次のように記述されている。Column3『明星学苑報』創刊号―1998（平成10）年7月―が行われた。「『明星学苑報』の発刊にあたって」（抜粋）学校法人としての意思決定は、法人評議員会明星学苑広報委員会の意見を聞いて理事会が行うが、「学校法人明星明星学苑には、幼稚園・小学校・中学校・学苑寄附行為」においては、評議員・理事・理事高等学校がある「府中キャンパス」、明星大長・副理事長の選任、予算・事業計画の承認、基学の「日野キャンパス」と「青梅キャンパ本財産の処分、中期計画（5ヵ年）の策定、義務ス」、さらに、いわき明星大学のキャンパス負担・権利放棄、解散・合併や寄附行為の変更と、四つのキャンパスがある。現在、府中については理事会の審議を必要とすると規定しキャンパスでは『体験教育』、日野キャンパている。このほかにも学則・規程などの改編・スでは『明星大学報』、青梅キャンパスでは制定、教育研究組織の新設・改編、教職員人事、『マンスリー青梅』が発行されて、それぞれ校舎などの建築・増改築なども審議されている。のキャンパス内での情報提供に役立ってい個別の案件について検討するために、1996（平る。しかしこれまで、明星学苑全体に通ず成8）年秋から理事会の下に必要な委員会を設置るPR誌がなく、それぞれのキャンパスの間し、審議内容について報告をまとめ、理事長にのコミュニケーションは必ずしも充分では答申することとした。委員会には常設の委員会ないという状態であった。と時期を限定しての委員会を設置したが、そのこのたび『明星学苑報』が発刊されること例としては、常設の委員会は将来計画委員会、人となった。その目的は、学苑全体に共通す事計画委員会（1998（平成10）年4月設置）、開発るコミュニケーションの場を設けて、それ委員会（1998（平成10）年6月設置、その下部組織ぞれのキャンパスの教職員が他のキャンパとして各キャンパス実行委員会を設置）などが、スの教職員も知っておく必要のある情報を時期を限定しての委員会としては、学部・学科提供し、また学苑本部の理事会や委員会での新設・再編に関する委員会や創立記念事業を審議・決定された重要事項を各キャンパス実施するための委員会などがある。この時期以後も、必要な課題に対応して、委員会は新設・改廃されている。業務遂行については、法人本部に事務局長をに通知し、それによって明星学苑内の意思の統一と学苑全体の教育活動の充実に役立てるためである。それと共に、明星学苑の各キャンパスの教育と研究の内容が、学生・目次“創刊”の機に明星学苑関係諸氏に訴える荒井正大創刊号表紙幼稚園保育紹介小学校授業紹介置き、その下で部課を整備し、学校法人としての経営・運営業務遂行体制の整備と効率的な職務遂行に努めてきた。近年は学校法人としての業務と、その中で大きな比重を占める大学業務との関係について検討・整理を加え、望ましい生徒や保護者などに簡潔に紹介されて明星学苑の独自性が広く理解されることに役立つことも期待している。（『明星学苑報』No.1、1998年7月、48頁）二十一世紀に臨んで日江井榮二郎不易流行澤田正三『明星』は何を守り、何を変えようとして千原良治明星学苑の来歴と建学の精神（一）中村英勝中学校・高等学校新カリキュラム紹介明星大学の教育と研究いわき明星大学の教育と研究理事会および委員会のお知らせ編集後記協力・分担関係を構築することに努めている。『明星学苑報』は年2回発行を原則とし、A5判・モノクロ印刷の冊子形式をとり、第9号、2003年「明星大学卒業生による飯椀五、〇〇〇碗展」高橋紘7月までその形式で刊行されたが、第10号、2005CHAPTER1第1章232MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory233

## Page 118
![Page 118の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000118.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部（平成17）年2月からA4判に大判化するとともに継いでいきます―明星大学」カラー化した。『明星学苑報』の創刊は、新生なった理事会が、学苑運営の透明性を高め、構成員この対談では理事長の教育に対する考え方全員の参加を求め、組織的対応を高めて行こうや、各園・各校・各大学の目指すものや各園長・とする考え方を具体化する方策の一つであった。各校長・各学長の考え方、さらにそれぞれの人各号に掲載された内容をみると、学校法人の柄を知ることができて多くの読者から好評を得時々の方針や取り組み、会議の記録のほかに、各た。この後、第23号（2008年7月）には明星中学園・校・大学の方針や取り組み、特徴的な教育校・高等学校の卒業生であり、理事長と同級生研究活動が紹介され、学校法人に属する教職員である府中市長野口忠直との対談「明星で『人のの共通認識の形成や学外への広報の役割を果たために働く』尊さを学びました。今、府中市民のしている。また、第15号、2006年6月からは巻ために働けることをうれしく思います。」が掲載第5代理事長斎藤和明第6代理事長蔵多得三郎頭特集として理事長斎藤和明による「理事長対されている。この後、卒業生との対談を展開し談」を連載、明星大学学長氏原淳一との対談を第ていこうと考えていたのではないかと推測され星学苑理事を務めていた。いうべき教育施設の整備には格別の意を用いて1回とし、以後、以下に記すように園長・各校るが、理事長斎藤和明の急逝により理事長対談斎藤和明は理事長就任にあたって、「私は、大まいりました。これからは、その新しく美しい長・各学長との対談を掲載した。はこれが最後となった。なお、第20号、2007年方のご指導を仰ぎつつ、多方面から突きつけら器の中身を、たくさんの夢や希望で満たして行10月刊、には巻頭特集として「明星学苑創立85れる諸問題に取り組んでゆくつもりであるが、く段階です。」（「明星学苑のさらなる発展をめざ第15号（2006年6月）周年特別座談会」を掲載、理事長・教諭・卒業理事会は合理性と基本常識とを重視する学苑経して」『明星学苑報』No.24、2008年9月、1頁）と明星大学学長氏原淳一生・PTA会長らが、明星教育について語り合っ営をするべきで、最も優れて堅牢な雄略妙案を呼びかけ、在任中教育の充実に取り組み、2012「建学の精神と、明星大学の教育」ている。採択していくべきだ、と考えている。先ずは、教（平成24）年11月22日に任期満了により退任し、第16号（2006年9月）刊行は42号、2013（平成25）年4月まで続いた育の内容を質の高いものにしようではないか。」退任後2023（令和5）年に84歳で逝去した。明星小学校長望月克彦が、同号掲載の「編集後記」に「小誌は1998年の（斎藤和明「真と善と美、そして愛を求めて」（『明蔵多得三郎の退任を受けて、2012（平成24）年「建学の精神を守りつつ新しい時代への創刊以来、各校の教育内容や教育成果を情報発星学苑報』No.5、2000年7月、2〜5頁）と呼びか11月20日の理事会において、理事吉田元一を理挑戦を続ける明星小学校」信してまいりましたが、より一層の『明星教育』け、在任中教育の充実とそのための条件整備に事長に選任し、11月22日に理事長に就任した。第18号（2007年4月）理解促進を目的とし、次号よりリニューアルす取り組んだ。理事長在任中の2008（平成20）年6吉田元一は明星中学校・明星高等学校卒業、一いわき明星大学学長高重正明ることとなりました。」と記載し、刊行を中断し月21日に73歳で逝去され、明星学苑は7月12日橋大学商学部卒業、三井物産株式会社に勤務し、「『薬学部』を加えた3学部体制での再出発た。しかし、この時期の前後から学苑内・各校に「斎藤和明前理事長お別れの会」を開催し、そ同社代表取締役副社長執行役員、株式会社パソ創立20周年を迎える、いわき明星大学」内の情報伝達の電子情報化が進み、中断以降この功績に応えた。ナ取締役副会長を務め、学校法人明星学苑顧問第19号（2007年7月）のような紙媒体の情報誌は刊行されていない。斎藤和明の逝去を受けて、2008（平成20）年7を経て2009（平成21）年11月から学校法人明星学明星中学高等学校校長北原都美子月11日の理事会において理事蔵多得三郎を理事苑理事を務めていた。「中高一貫教育・男女共学化など、新たな理事長の選任長に選任し、同日付をもって理事長に就任した。吉田元一は理事長就任にあたって「学校の教挑戦がスタートした明星中学高等学校」荒井正大理事長の任期満了による退任を受け蔵多得三郎は1939（昭和14）年、鳥取県生まれ、育は人が社会人として自立した時、その人の人第21号（2008年1月）て、2000（平成12）年4月1日の理事会において斎明星中学校卒業、東京大学法学部卒業、日本放生の基盤をつくる大切なものだとつくづく実感明星幼稚園長井上明美藤和明理事を理事長に選任し、同日付をもって送協会、通信・放送衛星機構に勤務し、2005（平しています。縁があって、3年前に本学苑の理事「一人ひとりへの深い愛情が、子どもたち理事長に就任した。斎藤和明は1935（昭和10）年、成17）年4月から学校法人明星学苑理事・常任理となり、11月より理事長に就任しました。このの未来を育てる―明星幼稚園」東京都生まれ、明星中学校・明星高等学校卒業、事を務めていた。重責を担いました上は、学苑の発展のために精第22号（2008年4月）国際基督教大学教養学部卒業・同大学院修了、英蔵多得三郎は理事長就任にあたって「60周年を励いたす所存でございます。現在日本の国・社明星大学学長小川哲生国ベルファースト・クウィーズ大学・オックス寿いだ1983（昭和58）年以降の25年間、明星学苑会は大きく揺れ動いています。この様な変化の「明星学苑の一員として、もう一度“原点”フォード大学留学。国際基督教大学教授、副学は時代の趨勢に対応し、さまざまな変革を行っ時代に明星学苑は、『変わらざるもの』と『変えてに戻り、85年間の明星教育の本質を受け長を務め、1999（平成11）年4月から学校法人明てまいりました。特に私学にとって生命線ともいくもの』をしっかり認識対応し、人材育成、あCHAPTER1第1章234MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory235

## Page 119
![Page 119の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000119.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部るいは社会に貢献する学問研究の場として社会長田畑金光・陶芸家藤原和・明星学苑卒業生代生の教育者としての姿勢は、直接にご指導なりましたが、児玉記念図書館は稀覯本のの要請に応えていかねばなりません。皆様と力表岸本正一・明星大学卒業生代表飯田和道・いをいただいた者のひとりとしてその印象を豊富な所蔵により国内・国外でも広くそのを合わせて、明星学苑の発展を支えて行きたいわき明星大学卒業生代表大久保明朗から追悼の一言で申しますと、「自主性、自発性の尊重」存在を知られています。と思います。」（『明星学苑報』No.41、2013年2月、辞が寄せられ、児玉伸雄による遺族代表挨拶、いということにあったと思います。そのこと1頁）と呼びかけた。わき明星大学学長澤田正三の閉会の辞で追悼のの現れでもあろうかと思いますが、先生は、児玉三夫は1938（昭和13）年から明星中学校教会は閉じられた。参会者は卒業生・父母はもと穏やかな雰囲気の中で、我々の自由な発言諭として勤務してきたが、その初期、1947（昭和3.元理事長児玉三夫の逝去より関係する各界の方々、約1,000余名と記録されている。や行動を寛大に許されました。研究者としての先生は、東京帝国大学文22）年に新制明星中学校の第一期生として入学して、指導を受けた卒業生岸本正一、明星大学元理事長児玉三夫の逝去学部教育学科をご卒業の折りに、ペスタの卒業生飯田和道は、児玉三夫の思い出につい1978（昭和53）年4月から1995（平成7）年5月ま「教育に、研究に、明星学苑の経営に」、故人を偲ぶロッチの思想と実践をその研究テーマとして、次のように語っている。で第2代の学校法人明星学苑理事長・明星幼稚園追悼の会において森下恭光は、児玉三夫の業て選ばれたことでも明らかなように、終生、園長・明星小学校校長・明星中学校校長・明星績を①教育者としての業績、②研究者としてのペスタロッチ教育学の学徒として、ペスタ「追悼の辞」（抜粋）岸本正一高等学校校長・明星大学学長・明星大学付属幼業績、③明星学苑の経営者としての業績の3領域ロッチの教育理想とその実践を追求されま私共は故児玉三夫先生から中学校の木造稚園園長、そして1987（昭和62）年から1991（平に分けて次のように紹介した。した。さらに、教育社会学、デューイの教校舎の教室で社会科の授業を受けておりま成3）年まで初代いわき明星大学学長を務めた児育学、教育行財政と、その範囲を広げられ、した。今でも強く印象に残っておりますの玉三夫は、1996（平成8）年9月23日に逝去した。「故児玉三夫先生のご業績ご紹介」（抜粋）それぞれの対象に関する多くの著書や論文は、明星の先生方の制服であるガウンを几児玉三夫は理事長在任中の1994（平成6）年ごろ森下恭光を公にされております。先生の研究者とし帳面にはおられて、ゆっくりと話をされるから体調を損ね、晩年は入院し療養に努めてい教育者としての先生は、昭和十三年（一九てのご業績は、理論的研究においても、常厳しい感じの授業だったことです。社会科たが、81歳で明星大学の創設をはじめ明星学苑三八年）より、平成五年（一九九三年）まで、に現実を念頭に置かれていたことに特色がという科目も戦後の教育改革の中で考えらの発展に大きな功績をあげた偉大な生涯を閉じ実に五十五年の長きにわたって教壇に立たあると思います。れた新しい内容のもので、たしか新憲法にた。れました。勤務校は、長崎師範学校（現：長明星学苑の経営者としてのご業績ですついて、慎重に語られておられたのを思い崎大学）、明星中学校、明星高等学校、東京が、まず、明星学苑の発展の基を築かれた出します。当時三夫先生のお住まいも学校追悼の会を挙行農業教育専門学校（現：筑波大学）、東京都児玉九十先生の補佐という立場から出発さの敷地内にあり、幼稚園に行かれる前のお学校法人明星学苑は、児玉三夫の多年にわた立大学、早稲田大学、明星大学の七校に及れて、明星学苑を現在の幼稚園から大学、大子さん方の手を引いて散歩されているのをる多方面に及ぶ貢献に感謝し、関係者すべてがび、中等教育から高等教育まで、又、国・学院までを擁する総合学園として発展するお見掛けしたのも覚えております。哀悼と感謝の念をもって惜別すべく1996（平成公・私立の各種の学校で数多くの生徒・学までに育て上げられたということがございこの頃、児玉九十校長先生は還暦をむか8）年11月10日午後2時から明星大学日野校内大生がその薫陶を受けたことになります。先ます。なかでも、昭和四十二年より設置さえられました。お元気で、社会的な公務も学会館において児玉三夫先生追悼の会を挙行しれております通信教育部は、在籍者数一万大変にお忙しく、大切にしておられた全校た。人を越え、わが国の大学が設置する通信教生徒への「凝念」も時々三夫先生が代行され追悼の会は旧制明星中学校卒業生であり児玉育部のなかでも、その規模において特筆さることがありました。その時の心力歌の調三夫の指導を受けた明星大学学長田中誠之を司れる存在になっております。又、いわき市子が三夫先生流であったのを覚えておりま会とし、同じく旧制明星中学校卒業生であり児の招致により実現しました、いわき明星大す。玉三夫の指導を受けた学校法人明星学苑理事長学の昭和六十二年の開学も、先生の顕著な九十先生は、当時「内閣教育刷新委員会」荒井正大の開会の辞によって始められた。出席ご業績のひとつであることは周知のことでの委員に就任しておられ、GHQとの間の交者全員で黙祷をささげた後、早稲田大学・大学ございます。さらに、平成四年には、先生渉で私学の存続と振興のために努力され、院で児玉三夫の指導を受けた明星大学教授・教の精魂を傾けるご努力により、青梅キャン「私立学校法」の成立に尽力されておられま務部長森下恭光による「故児玉三夫先生のご業パスに情報学部、日本文化学部が増設され、した。三夫先生は、その社会的にもお忙し績ご紹介」があり、続いて日本私立大学協会会長明星大学は、文字どおり総合大学の体裁をく活躍されていた九十先生を、内側から静橘高重義（事務局長原野幸康代読）・元いわき市第2代学長児玉三夫整えることになりました。そして、最後にかに、しっかりと支えておられるご様子でCHAPTER1第1章236MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory237

## Page 120
![Page 120の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000120.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部ありました。4.学校法人の活動の展開Column4故児玉三夫追悼の会を特集した『体験教育』―1996（平成8）年12月16日―「追悼の辞」（抜粋）飯田和道先生と私の思い出は明星大学に在学していた四年間において、とくに四年生の時で各園・各校・各大学校舎の新築学校法人明星学苑は設置・運営する各園・各校・各大学の教育・研究活動を支え、その充実す。当時は学生運動が最も厳しい時期で東を図るために教育環境の改善・整備に積極的に大の安田講堂占拠に象徴されるように、大取り組むこととし、理事会の下に開発委員会を学が荒れた時代でした。都心から離れてい設置し、さらにその下に日野キャンパス開発実たため、当初はあまり影響がありませんで行委員会と府中キャンパス開発実行委員会を設したが、徐々にその波が押し寄せてきたた置して、各園・各校・大学の校舎の新築を含むめ、大学を学問の府としていかに守るかに開発計画の検討を進めた。委員会の検討結果をついて何度か先生と話し合う機会を得まし受けて理事会においてさらに検討を進め、2001た。その時の先生のお話の中に大学の創設（平成13）年1月の理事会において小学校校舎のには非常なご苦労があり、一度は資金面な設計発注を決定、同年9月の理事会において工事どで断念の渕にあったものを、懸命な努力発注を決定したことをはじめとして、順次そのの結果、ようやく開校にたどりつけたこと実現に取り組んだ。など、先生の教育実践や教育の未来にかけ府中校においては、1998（平成10）年4月にはる哲学をご熱心にお説きくださったことが幼稚園園舎、鉄筋コンクリート2階建1,863㎡が今更のように心に浮かんできます。残念な竣工、新園舎には保育室のほか、ホールを設けがら六号館が一時占拠されましたが、すぐ行事などのほか、発表会や運動遊びなどの保育に解放され、また、当時の多くの大学が卒活動で活用できるように整備した。2007（平成業式を中止せざるを得ない中で、本学にお19）年6月には、幼稚園児の安全を図るとともに、いては卒業式のみならず謝恩会まで無事開自由な利用を確保するために幼稚園専用プール催されたことなど、高く評価されました。を新築した。先日、先生の墓前に立ちました時、卒業2002（平成14）年9月には小学校校舎、鉄筋コしてからすでに十数年たってお会いしたおンクリート3階建7,246.3㎡が竣工、新校舎には普り、はっきりと私のことを覚えていてくだ通教室のほか、造形室・音楽室・理科室・コンさいまして感激し、その後もお会いするたピュータ室・図書室・英語室・家庭科室などのびに優しい言葉をかけていただいたことが特別教室のほか、2階には体育館を備え、さらに昨日のように思い出されました。吹き抜けプラザ「くぬぎホール」・談話コーナー・（『体験教育』第535号、故児玉三夫先生追悼の会特集、1916年12月、1頁／2頁／5〜6頁／7〜8頁／9頁）150人が同時に利用できるランチルーム・多目的に使える東西ラウンジなどコミュニティゾーンの充実を図った。また、校舎外にビオトープ「オここに語られているように教育・研究・学苑アシス」を設け自然の変化を観察するなどの活経営など多岐にわたる活躍をされ、それぞれの動の場とした。これらの環境整備によって、明領域で大きな成果を上げてきた児玉三夫は、接星小学校の伝統である「正直なよい子」をめざしした一人ひとりに強い印象を残して逝ったのでた教育実践の一層の充実を図っている。ある。2004（平成16）年8月には中学・高等学校校舎、鉄筋コンクリート5階建17,000㎡が竣工、新校舎CHAPTER1第1章238MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory239

## Page 121
![Page 121の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000121.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部児玉九十記念講堂の竣工式には普通教室のほか、美術室・音楽室・調理室・被服室・理科実験室・書道室・コンピュータ教（マルチ・メディア・ラボラトリー）教室・図書館・天体観測ドーム「スタードーム」・視聴覚ホールなどの特別教室のほか、エントランス・アトリュウム・カフェテリア・屋上デッキ・和室などコミュニティゾーンの充実を図った。新校舎は2003（平成15）年度に中学1年から開始した中学校・高等学校男女共学化に対応したものである。新しい教育環境の下で、伝統を重んじるとともに、新しい教育環境を考慮した教育計画の具体化を進めている。このほかに共用施設として、2008（平成20）年2月には児玉九十記念講堂、鉄筋コンクリート2階建が竣工、収容人数1階934席・2階234席・計1,168席の講堂のほか、2階には児玉九十記念資料コーナーを設けた。2月20日に挙行した竣工式では、完成記念披露公演を行うとともに、児玉九十記念資料コーナーも初めて公開した（『明星学苑報』第22号、2008年4月、9〜10頁）。2008（平成20）年6月には総合体育館、鉄筋コンクリート地上3階・地下1階建延床面積6,135㎡が竣工、綜合体育館には地下1階に25m×6コースのプール、1階に天井高7mのサブアリーナ、2階に多目的ルーム・トレーニングルーム・部室、3階に天井高12mのメインアリーナを設けた。6月7日には、竣工式・内覧会・竣工祝賀会・テープカットが行われた。その後完成披露として、新設なった総合体育館を活動の拠点とするバスケットボール部・バトミントン部・バレーボール部・ダンス部・水泳部などの運動部の迫力あるデモンストレーションが実施され、式を盛り上げた（『明星学苑報』第23号、2008年7月、5〜6頁）。明星大学日野校では、2004（平成16）年9月竣工の新本館（管理棟、地上7階・地下1階）をはじめとして全面リニューアルを実施、23号館（2002（平成14）年8月竣工、地上6階・地下2階、講義室・国際教育センターなど）、24号館（2004（平成16）年3月竣工、地上4階、通信教育部事務室・心理相談センターなど）、25号館（2004（平成16）年8月竣工、地上2階・地下1階、体育館・フィットネスルームなど）、26号館（2005（平成17）年4月竣工、地上5階、講義室・情報科学研究センターなど）、27号館（2007（平成19）年3月竣工、地上19階、研究室・演習室など）、28号館（2007（平成19）年3月竣工、地上10階・地下1階、講義室・図書館・食堂など）、29号館（2007（平成19）年3月竣工、地上17階、理工学部研究室・実験室など）、30号館（2007（平成19）年3月竣工、地上5階、理工学部実験室など）、31号館（2010（平成22）年12月竣工、地上3階、部室）、さらにその後も資料図書館の改築、32号館（2015（平成27）年2月竣工、地上6階、デザイン学部研究室・演習室・工房・展示スペースなど）、33号館（2015（平成27）年2月竣工、地上5階、教育学部研究明星大学日野校キャンパスを大規模リニューアル（2007年）Column5明星小学校2002（平成14）年9月、竣工各園・各校校舎の新築明星幼稚園1998（平成10）年4月、竣工明星中学高等学校2004（平成16）年8月、竣工『明星学苑報』No.7、2001年9月、No.9、2003年7月、No.10、2005年2月から抜粋。CHAPTER1第1章240MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory241

## Page 122
![Page 122の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000122.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部大学の教育・研究活動の支援に対しても力を注「いわき明星大学ハイテクリサーチセンター」のすることが考えられているといって良い。各大いだ。申請を承認し認可後はその活動に対して、支援学・学校の主な取り組みには、いずれの地方自府中校では各園・各校に共通する課題としてした。治体との協定においても地域社会の抱える問題環境教育に取り組み、明星学苑環境教育委員会また、明星大学においては1967（昭和42）年に解決に向けた協働、大学・学校の持つ人材・知を組織し、2000（平成12）年4月に『環境情報み創設した伝統ある通信教育部のさらなる発展と財を提供することがうたわれているが、必ずしどりの学苑』を創刊し啓発に取り組んでいる。各して、1999（平成11）年4月に通信制大学院（人文も明示されていないとしても学生・生徒の実社園・各校では独自の環境教育活動を展開してい学研究科教育学専攻、修士課程）の開設を承認、会に即した学びに資することが考えられているが、一例として明星小学校では「くぬぎの時推進した。通信制大学院は1998（平成10）年に大る。この協定・活動の主な例としては、次のよ明星大学青梅校、ラウンジ・アゴラを竣工（2003年）間」に稲作・野菜栽培・水辺の生き物とのふれあ学院設置基準の改正によって通信制大学院修士うな取り組みをあげることができる。い、また校内に設置したビオトープの活用など課程の開設が認められたことに基づくもので、室・実験室・演習室など）を順次新築してきた。を通して、自然とのふれあい、自然環境の重要1999（平成11）年4月に創設された日本初の通信明星大学これにより日野校の施設・設備は一新し、教育・性について学習している（望月克彦「めざす姿は制大学院4大学院のうちの1校という画期的な存2005（平成17）年研究活動環境は飛躍的に充実した。『正直な良い子』明星小学校ならではの“教育”」在となった。後に通信制大学院博士課程の開設青梅市と連携協力に関する協定を締結明星大学青梅校では、芸術実習2号館（2000（平『明星学苑報』No.13、2006年1月、3〜4頁）。を認めるという大学院設置基準のさらなる改正2009（平成21）年成12）年4月竣工、地上2階、研究室・工房など）、また、旧制明星中学校以来の国際理解教育・を受けて、2006（平成18）年4月には博士課程を大学コンソーシアム八王子に加盟芸術実習3号館（2005（平成17）年8月竣工、地上語学教育を重視する伝統を一層充実すべく中学創設し、それに合わせて課程名称を博士前期課2011（平成23）年1階、研究室・工房など）、芸術実習4号館（2005校のイングリッシュ・サマーキャンプ、中学・程・博士後期課程と改めた。TAMANEXTリーダープログラムを開始（平成17）年8月竣工、地上1階、研究室・大型作高等学校の海外語学研修・ホームステイ、高等2016（平成28）年品制作を可能とする工房など）、ラウンジ・アゴ学校の海外修学旅行などの実施を支援してい地域社会に開かれた学苑をめざして八王子市と包括協定を締結ラ（2003（平成15）年10月竣工、地上1階、談話る。海外修学旅行については、1930（昭和5）年にかつて「象牙の塔」という言葉もあったよう2017（平成29）年室・視聴覚室など）を新築した。これらの新築に校長児玉九十が引率し、第1回鮮満研修・視察旅に、大学・学校は現実社会とは一線を画して学日野市と包括協定を締結より、より一層の創作活動を充実するための場行を実施した際の国際理解を深めるための教育内・校内における教育研究に専念する傾向が2018（平成30）年を整えた。という考え方が受け継がれている。また、1951あったことは否めない。しかし、現代においてあきる野市と相互協力・連携に関するいわき明星大学では、心理学科・薬学部の創（昭和26）年にスタートしたレシテーションコンは大学・学校が現実社会と密接な関係を保ち、一包括協定を締結設に対応して、心理学・環境理学実験棟（2005（平テストの伝統も受け継がれて、毎年開催、小学方において現実社会の様々な課題の解決を支援2021（令和3）年成17）年竣工、地上3階、講義室・実験室など）、校・中学校・高等学校の多くの児童・生徒が参する社会貢献を行い、他方において現実社会の多摩市と連携に関する基本協定書を締結地域交流館（2005（平成17）年3月竣工、地上3階、加して英語の暗誦と表現力を競っている。実態や課題に即した教育研究活動を行うことにいわき明星大学心理相談センター・産学連携研究センターな大学では、大学独自の教育・研究の充実・振よって実践的な教育研究活動の充実を図るべき2005（平成17）年ど）、薬学部棟（2007（平成19）年3月竣工、地上興に努めることはもとより、文部省（当時、現：であるとの考え方が広く受け入れられるように地域交流館を開設4階・地下1階、講義室・研究室・実験室など）、文部科学省）支援の教育・研究振興策に対応するなってきた。2007（平成19）年学習センター（2007（平成19）年3月竣工、地上3ことを学校法人として支援してきた。教育活動学校法人明星学苑は2000年代以降、このよういわき市と連携協力に関する協定を締結階、ホール・学習スペースなど）を新築した。この充実支援の例としては、明星大学・いわき明な考え方に立って、大学を中心として立地する2010（平成22）年れらの新築により、新学科・学部の創設に対応星大学が「私立大学等教育・学習方法高度情報化地方自治体や隣接の地方自治体との協定を締結IMUビジネスカレッジを開始し、さらに地域連携や産学協同などの新しい教推進事業（マルチメディア事業）」に申請するこするなど提携を深め、地域社会と密接な関係を2011（平成23）年育・研究活動に必要な施設・設備を整えた。とを承認、対象となってからはその実施に対し持つ多様な活動を展開してきた。地方自治体と復興事業センターを開設て支援をした。研究活動の充実・支援の例としの協定においては、地域社会の抱える問題解決明星中学校・高等学校教育・研究活動の支援ては、文部省ハイテクリサーチセンター整備事に向けた協働を行うこと、大学などの持つ人材・2022（令和4）年学校法人明星学苑は、校舎の新築など教育環業に明星大学における「日野キャンパス物性研知財を提供することがうたわれているが、それ府中市と地域活性化に関する協働協定境の整備・充実にとどまらず、各園・各校・各究センター」の申請、いわき明星大学におけるとともに学生・生徒の実社会に即した学びに資を締結CHAPTER1第1章242MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory243

## Page 123
![Page 123の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000123.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部2023（令和5）年これらの例に見られるように、学校法人明星も社会に受け入れられるものであって、創設以現在の男子部・女子部にはそれぞれ明星多摩共創プロジェクトの一環として高学苑は設置運営する各園・各校・各大学の教育・来男子部・女子部ともに志願者・入学者を集めらしい良き歴史的伝統があります、それを校生アントレプレナーズキャンプTAMA研究活動の振興・充実を支援することに積極的てきた。大切に生かしつつ慎重に段階を追って共学を開催に取り組んできた。しかし、時代の推移とともに社会のあり方やへの移行を進めねばならないことは申すまなお、この間、いわき明星大学が1997（平成9）人々の意識も変化し、男女共学化が考えられるでもありません。大学における地域連携活動は他大学において年に創立10周年・2007（平成19）年に創立20周ようになってきた。理事長荒井正大は1998（平成（『明星学苑報』No.1、1998（平成10）年7月、4頁）も数多く見られるが、中学校・高等学校が地方年、明星幼稚園が1999（平成11）年に創立50周10）年7月に『明星学苑報』創刊号に掲載した「“創自治体と協定を結ぶことは数多くはない。明星年・2009（平成21）年に創立60周年、明星小学校刊”の機に明星学苑関係諸氏に訴える」の中で、この時期から理事長の考えの中では「教育の中学校・高等学校と府中市との相互協力・連携が2000（平成12）年に創立50周年・2010（平成22）中学校・高等学校の共学化について、次のよう飛躍的充実に向って」の施策の一環として中学に関する包括協定は、「まちづくりや自然・環境年に創立60周年、明星大学が2004（平成16）年にに記述している。校・高等学校の共学化の構想が存在しており、共の保全、さらに教育・文化・スポーツの振興な創立40周年・2014（平成26）年に創立50周年を迎学化の基礎となる理念についても考えられていどさまざまな分野で連携協力することで、地域え、各園・各校・各大学において記念式典・祝「“創刊”の機に明星学苑関係諸氏に訴える」たことが明示されている。社会の活性化と教育活動の充実」を図ることを賀会・記念行事などを実施した。（抜粋）荒井正大この理事長の構想を受けて、2000（平成12）年目的とするものである。府中市のホームページ高校・中学校では長い間の懸案であった7月には、明星中学校・高等学校校長伊藤義雄がによれば、連携の目的は「この協定は、若い世代中学校・高等学校の男女共学化と一貫教育の実施男女共学体制の実現に向かいます。この両「中・校一貫教育の完成へ」とともに「男女共学のの発想力や行動力を活かし、活力あふれる地域1923（大正12）年創設の明星実務学校は男子生校では近年、少子化傾向の影響もあって入推進」について次のように記述している。社会の形成および発展に努めるとともに、未来徒のみを受け入れる学校であり、これを基礎と学志願者減が続き、クラスの編成にまで問を担う人材を地域で育てることを目的としたもして1927（昭和2）年に創設した旧制明星中学校題が及んでいることは紛れもない事実であ「明星中学校・高等学校の教育方針今『明のです。」とされ、連携事項としては、①まちづは、中学校は男子の学校とする当時の学校制度り、深刻な内容を含んでおります。しかし星』のめざすもの」（抜粋）伊藤義雄くり及び地域活性化に関すること、②自然・環に基づき男子校であった。1947（昭和22）年の学それだからといって、その対応のための男前荒井理事長は、平成十年に明星の将来境の保全に関すること、③社会福祉及び地域の制改革にもとづき、旧制明星中学校は1947（昭和女共学実現と考えたら大きな誤りでありまあるべき姿として、男女共学を打ち出され安心・安全に関すること、④教育・文化・スポー22）年4月に新制明星中学校、1948（昭和23）年4す。人間存在は根本に於て、男女両性が互ており、今や学苑の未来は共学を避けて通ツの振興及び生涯学習に関すること、⑤産業・月に新制明星高等学校と組織替えされたが、中いに相手を絶対の他者として認識し合い、れないことは自明であります。同一キャン観光の振興に関すること、⑥人材の育成に関す学校、高等学校とも旧制明星中学校の伝統を受切磋琢磨することによって、男性は男性とパスで男子部、女子部がそれぞれ別々のカること、⑦特色ある学校教育に関すること、がけ継いで男子校として創設された。1949（昭和しての自己を、女性は女性としての自己をリキュラムで授業を行い、学校行事を実施あげられている。協定締結時にあげられた実施24）年4月に創設した明星幼稚園は男女共学であ真に自覚することが出来るものでありましていたのでは、時代に乗り遅れるでしょを予定している取り組みについては「令和4年度り、1950（昭和25）年4月に創設した明星小学校す。この自然の理に基づく体制が実現されう。小学校から先は別学という不自然な状に市が実施する約20の事業について、明星中学も男女共学であった。男女共学の明星小学校をるべき時に至ったということであります。態を速やかに解消すべきです。可能な範囲校・高等学校の年間授業カリキュラムに組み込卒業する女子児童が継続して明星教育を受けらで、できるところから徐々に共学を進めたんでいただき、中高一貫1年生から高校3年生まれるようにという保護者の声を大きな要因としいと思います。一貫教育と連携して、校舎での全ての学年の生徒の皆さんと市の各課が連て、女子のための中学校・高等学校の創設が計の改築、新設を含め、教職員の積極的な支携して実施します。具体的には、4月開催の府中画された。その際、理事長児玉九十の、小学校援と協力をお願いするところです。市民桜まつりを始めとした市のイベントの運営段階とは異なり、中学校・高等学校段階では男（『明星学苑報』No.5、2000（平成12）年7月、15頁）補助や、環境・SDGsに関するワークショップの女別学とし、男子・女子それぞれの特性に応じ開催などを予定しています。」と示されている。た教育指導を行い、各々の特性の伸張を図るとこのように2000（平成12）年には共学化の方針この協定に基づいて、すでに2022（令和4）年かいう考え方を基本として、1954（昭和29）年4月が公にされており、共学化に向けての具体的ならSDGsに関するワークショップの開催などのに明星中学校女子部・明星高等学校女子部が創取り組みも進められていた。1998（平成10）年7実践活動が開始されている。設された。創設時には、このような考え方は社月の『明星学苑報』No.1に掲載された明星中学会に広く存在し、男女別学という学校のあり方凝念指導校・高等学校男子部・女子部協力推進委員会「男・CHAPTER1第1章244MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory245

## Page 124
![Page 124の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000124.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部ママして以来、中高職員の間に賛否両論が巻き高等学校6学年を3ステージに分け、ステージⅠ星大学学長小川哲生の「法人あるいは理事会と起こった経緯があり、同理事としても今後（中学1・2学年）では「基本的生活習慣と基礎学大学スタッフが深く連携するのも初めてではなの明星中高の生き残りのためには、本件導力の定着」、ステージⅡ（中学3学年・高校1学年）いでしょうか。これは本当に画期的なことで入は不可避と考えること、また、校長就任では「自己探求」、ステージⅢ（高校2・3学年）です。」との発言を受けて、学校法人と各園・各校・以来積極的に中高教員に働きかけてきたこは「自己実現」をテーマに、体系的な中高一貫教各大学間の連携が必要な状況にあるとの認識をと、その結果、最近の危機意識の高まりも育体制の確立をめざすこととした。なお、校名示した上で、「とくに私は、法人本部と大学とのあり、大方の教員の支持を得られるに至っは変更せず、「明星中学高等学校」とすることと連携を強化する必要性を感じています。そのたたこと。」等の説明があり、基本方針としてした（『学天の明星をめざして―明星学苑創立め今夏には、法人の本部機構を現在の府中からの男女共学並びに中高一貫教育を正式に理85周年―』2008年、32頁）。大学の方に移転させることを決断しました。明授業風景事会決定願いたいとの提案がなされ、全員星学苑創立の地『府中』にこだわる意見もありま異議なく承認した。併せて同理事より、本学校法人本部・事務局の移転したが、法人本部と大学が一緒にいる意味は大女協力推進の背景」によれば、明星中学校・高等件は平成15年度導入を目標とし、直ちに校学校法人明星学苑は、2009（平成21）年9月1日きいはずです。」（「理事長座談会法人本部と明学校男子部・女子部協力推進委員会を設置し、男舎設備問題の検討に着手、懸案の中高赤字に法人本部・事務局を明星学苑発祥の地である星大学が一体となって取り組む経営改革」（『明子部・女子部の協力を推進する意図について「社対策を含む具体的実施計画案を策定、改め東京都府中市栄町の府中校地内から、東京都日星学苑報』No.27、2009年7月、2頁）と、法人本会の動きを背景にしたものであり、男女の区別て理事会に付議したい旨の説明があり全員野市程久保の明星大学日野校地内に移転した。部・事務局移転の積極的意義を語っている。なく均等に機会を保障しよう、また男女が一緒了承した。これは学校法人の業務の中で明星大学にかか2008（平成20）年12月19日に開催した学校法人に協力して、同じ目的に向かって努力し合う経わる業務が質量ともに大きな比重を占めるよう明星学苑2008（平成20）年度第9回理事会におい験を積ませよう、とする意図から出ているのでこの理事会決定を受けて、2003（平成15）年年になってきたことに対応して事務組織・業務のて、「学苑の経営基盤・運営体制の充実に向けたあります。」と説明している。また、そのために度入学の中学1年生から男女共学を開始し、年効率化をめざす意図によるものであり、それに取り組み『法人本部・明星大学事務組織再編プロ必要な改善点として「イ、諸活動の面で、男子度・学年を追って共学化を進め、2006（平成18）より経営基盤の強化・運営体制の充実を図ろうジェクト』」として取り上げた議題の中で、学校部・女子部が協力し、男女が同じ時間帯に同じ年度には高等学校も1年生から共学化を開始し、とするものであった。理事長蔵多得三郎は『明星法人本部・事務局の移転が取り上げられ、次の場所で一緒に活動する場を、できるものから2008（平成20）年度に中学校・高等学校全学年の学苑報』No.27、2009（平成21）年7月、に掲載さ議事録に記録されているように議決された。徐々に増やしていくという、九年四月からの方共学化が完成した。共学化が進行していた2007れた「理事長座談会法人本部と明星大学が一針変更、ロ、特に女子部における次のような改（平成19）年1月には、『明星学苑報』において明星体となって取り組む経営改革」の中で明星大学議案第1号学苑の経営基盤・運営体制の善点、・五十分授業の実現・下校時刻の繰り下中学高等学校校長城戸一夫が、「中学校におけるが明星学苑法人本部と一体になって大学の経営充実に向けた取り組み「法人本部・明星大学げ・新カリキュラムの導入」という具体的な課男女共学化推進の経験とノウハウを高校にも生改革に取り組む「MI21」プロジェクトに関する明事務組織再編プロジェクト」題をあげている（明星中学校・高等学校男子部・かし、男女共同参画社会の時代に相応しい共学女子部協力推進委員会「男・女協力推進の背景」化体制の確立を目ざす。そのために今後は、特（『明星学苑報』No.1、1998年7月、33〜35頁）。に高等学校における情操面教育（生徒指導）の強このような検討・準備過程を経て、2000（平成化充実に留意して推進するとともに、男女共学12）年10月20日に開催した平成12年度第7回理化に伴う生徒指導上のスキルと課題解決に努力事会において、「明星中学・高等学校の男女共学する」（「明星ルネッサンスのための中期計画」と一貫教育」が議題として取り上げられ、議事録（『明星学苑報』No.17、2007年1月）5頁）と、中学によれば次のように審議された。高等学校中期改革の一環としての共学化にともなう教育実践上の課題と、それに対する取り組議案第2号議案明星中学・高等学校の男みについて明らかにしている。女共学と一貫教育中学校・高等学校の一貫教育については、2008伊藤理事より、「本件は明星学苑報第一号（平成20）年度から中学校を1クラス増設し、中において荒井前理事長が初めて問題提起を学校・高等学校全6クラス体制を実現、中学校・法人本部・事務局を明星大学日野校に移転CHAPTER1第1章246MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory247

## Page 125
![Page 125の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000125.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部み中期事業計画に基づき学苑の経営基盤強し、以来運営にあたってきたいわき明星大学で年3月31日付にて、いわき明星大学設置中央台飯野5丁目5番地1に置く。務プロセスにおける責任と権限の明確化な校法人・大学両者の運営に、遠隔地にあることい、明星学苑の寄附行為を以下のとおり法に従い、学校教育を行い、地域社会に化、運営体制の充実に向けては、質量ともに大きなウエイトを占める明星大学と法人あったが、いわき明星大学は福島県いわき市飯野中央台に所在し、学校法人本部事務所は東京者変更認可申請を行う。2．いわき明星大学の設置者変更に伴う寄附第2章（目的）目的及び設置する学校本部の有機的結合が不可欠であり、法人本部・大学双方に跨る事務組織の効率化、業都府中市、後に日野市に所在することから、いかに交通・通信手段が発達したといえども、学行為変更について「いわき明星大学」の設置者変更に伴第3条この法人は、教育基本法及び学校教育ど、土台の整備が急務であることから、法人本部と明星大学事務部門の見直しを行いたい旨、多司馬理事より提案があった。主な視点として、①法人機能として存続すべき部門、②法人と大学を一体化して、効の影響があることは否定できなかった。そこで、運営の効率化、迅速化を図り、設置主体である学校法人と大学の間のよりきめ細やかな対応を図ることをめざして、いわき明星大学の設置運営主体を別法人とすることが検討・計画された。変更する。＝略＝3．学校法人いわき明星大学への財産の寄附について文部科学大臣による「学校法人いわき貢献する人を育成することを目的とする。（設置する学校）第4条この法人が、前条に規定する目的を達成するため、次に掲げる学校を設置する。率を高めるべき部門、③教学事務部門として、教学改革を効率的にサポートすべき部門といった機能面からの再編を進めることとし、併せて法人本部機能を明星大学日野2015（平成27）年3月20日に開催した学校法人明星学苑2014（平成26）年度第11回理事会において、いわき明星大学の設置者を変更することが、次の議事録に記録されているように審議された。明星大学」の設立認可に際し、平成26年12月19日に開催された第8回理事会の決議に基づき、明星学苑の財産を以下の通り「学校法人いわき明星大学」に寄附すいわき明星大学大学院薬学部教養学部理工学研究科人文学研究科薬学科地域教養学科キャンパスに移転することにより、統合のる。看護学部看護学科実効性を高めるという内容で、慎重に審議議案第4号いわき明星大学設置者変更＝略＝科学技術学部科学技術学科ののち、議決した。及び設置者変更に係る寄附行為変更並びに人文学部現代社会学科議事の中で関連する期日についても審議されたが、本部機能の日野キャンパスへの移転完了学校法人いわき明星大学への財産寄附（案）及び本案を評議員会に意見聴取することについてこの審議結果に基づき、同日開催の2014（平成26）年度第4回評議員会において意見の聴き取りを行い、了承を得たことから再び開催した理事心理学科表現文化学科は2009（平成21）年8月とした。2009（平成21）年5月25日に開催した2009（平成21）年度第2回理事会では、法人本部移転に伴う改修工事について施設・設備委員会が策定した計画に基づいて発注することを議決し、移転準備を進めることとした。2009（平成21）年9月1日より、法人本部を明星大学日野校地内、24号館4階に移転し、『明星学苑報』No.28、2009（平成21）年10月、誌上におい理事長より、学校法人明星学苑（以下「明星学苑」という）が設置する「いわき明星大学」を明星学苑の管理下から分離し、新たに「いわき明星大学」を設置する「学校法人いわき明星大学」を新設するにあたり、「いわき明星大学」の設置者変更及びそれに伴う寄附行為の変更並びに「学校法人いわき明星大学」への財産の寄附について、資料に基づき提案説明があり、審議の結果、本案を会で第16号議案として審議、議決した。この理事会決定に基づいて学校法人明星学苑の寄附行為を変更し、文部科学省に届け出を行うとともに、学校法人いわき明星大学の創設については、次のような寄附行為を定めて届出を行い、2015（平成27）年8月31日付で文部科学大臣の認可を得た。学校法人いわき明星大学寄附行為（抜粋）この寄附行為の制定・認可をはじめ所定の手続きを経て、2015（平成27）年9月1日をもって学校法人いわき明星大学が創設され、いわき明星大学の運営にあたることとなった。学校法人いわき明星大学の最初の理事長には、学校法人明星学苑副理事長小川哲生が就任（兼務）した。本部事務所が福島県いわき市のいわき明星大学内におかれたことにより、大学の実情や要望に対して今まで以上に充分に対応した、きめ細かなて「法人本部事務所移転のご案内学校法人明評議員会に意見聴取することを議決した。平成27年8月31日制定学校法人運営を行うことが可能になった。星学苑では、2009年9月1日（火）より法人本部を下記に移転し、新所在地において気持ちも新た1．いわき明星大学の設置者変更について平成27年度における文部科学大臣によ第1章（名称）総則その後、社会的需要の動向に対応した学部学科の再編を積極的に進め、現在は、薬学部（薬学に業務を開始しております。今後とも変わらぬご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。」と告知した。いわき明星大学を別法人に1987（昭和62）年に学校法人明星学苑が創設る「学校法人いわき明星大学」の設立認可の上は、明星学苑が設置する「いわき明星大学」を、平成28年4月1日をもって、学校法人いわき明星大学に移管し、設置者の変更を行う。なお、文部科学省に対しては、平成27第1条この法人は、学校法人いわき明星大学と称する。（所在地）第2条この法人は、事務所を福島県いわき市科）・看護学部（看護学科）・健康医療科学部（作業療法学科・理学療法学科）・心理学部（臨床心理学科）・国際看護学部（看護学科、千葉県成田市）、大学院人文学研究科（臨床心理学専攻）・生命理工学研究科（生命理工学専攻）を開設し、医療系を中心とする教育・研究領域において地域CHAPTER1第1章248MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory249

## Page 126
![Page 126の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000126.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日までPART1第1部社会の需要にも対応して活発な活動を展開して全体として策定したビジョンの具現化に取り速やかに立案するための協議機関として「学苑点をしっかり踏まえ、この創立100周年を機いる。そのような教育研究活動のあり方を反映組みました。具体的には、明星大学における経営計画推進会議」を設置し、その下に「改革作に次の100年を見据え、これからの社会の変して2019（平成31）年4月には学校法人名を「学校全学的教学マネジメントシステムの整備、府業組織」を設置した。このような組織を設置する化の中で明星教育が目指す姿を示す法人医療創生大学」、大学名を「医療創生大学」に中校一貫教育体制の確立、人事制度の改正、人ことによって、学校法人としての経営・運営の「Next100ビジョン」と教育目標を定めました。変更したが、新しい学校法人・大学の名称はそ的経費を含む支出構造の見直し、事務組織改あり方を検討し、その効率化を図るように努力の教育・研究活動領域をより明確に示すものと編及び業務プロセスの見直しなどの実施でを続けている。このような基本的な考え方に基いて学校法人なっている。す。明星学苑のビジョンは次のように定められた。新たな100年に向けて―Next100ビジョン―より充実した学校法人運営をめざしてこのような基本的な考え方に立って、「Ⅱ．事学校法人の最も重要な任務の他の一つは、設Next100ビジョン―明星学苑ビジョン―学校法人の最も重要な任務の一つは、学校な業の概要2020年度事業基本方針と進捗状況」置する学校などの教育研究活動の充実を図るこ自ら変革し続け、新たな時代、新たな世どの設置・運営であり、その適切で、効率的なでは、法人として「建学の精神とその実現」につと、その積極的支援を行うことである。この課界を謳歌する人間性あふれる卒業生を輩出運営が求められることはいうまでもない。そのいて明らかにしたうえで、「2．中期経営計画の概題について、前項でふれた「中期経営計画」にもする学苑点に関して、学校法人としての運営体制を整備要」について次のように示している。取り上げられているように、学校法人明星学苑し、運営の効率化を目指して学校法人明星学苑は、創立100周年を機として教育研究活動の充実この学校法人明星学苑全体のビジョンのもとは積極的に多様な取り組みを行っている。毎年（1）明星学苑のビジョン―5年後のあるべについて、長期的視野に立った取り組みを行うで、「新たなビジョンと教育目標のもと、2023年度刊行する『明星学苑事業報告書』2020年度版のき姿―べきであると考えた。の100周年とその先の未来に向けて学苑が一体冒頭において理事長吉田元一は次のように記述『学生、生徒、児童、園児の可能性を限学校法人明星学苑は創立100周年を迎えるにとなり、これからの時代に活躍する人を育成すしている。りなく広げ、どのような時代においてもあたって、これまでの100年間の歴史を振り返るるための様々な取り組みを展開していきます。」自己実現を目指し、生き抜くための豊かとともに、それのみにとどまらず、これから先との考え方に基づいて各設置校・園は次のよう理事長挨拶な教養と人間力を涵養する「教育の明星」の100年間の学校法人明星学苑と各設置校のあにそのビジョン、教育目標を定めた。2020年度事業報告にあたってを具現化し、学苑の社会的評価を向上さり方を考えることがさらに重要な課題であると―2023年の創立100周年に向けた5ヶ年計画せる。』定めたが、学校法人理事長吉田元一は、この点明星大学を推進します―（抜粋）（2）中期経営計画の4つの改革の柱について次のように示している。ビジョン理事長吉田元一①「教育の明星」の具現化•新たな時代を世界の人々と共創する本学苑は、2017年度末に「第3期中期経営計②業務改革と働き方改革の推進この100年の歴史は明星学苑にとって大大学画（2018〜2022年度）」を策定しました。③財政基盤の強化切であることは言うまでもありません。そ•多摩に根差し、地域に貢献する大学中期経営計画では、「MeiseiNext100」をかか④経営計画の実行体制の整備してそれ以上に、これから先も100年続く学教育目標げ、創立100周年を迎える2023年、さらにそ（3）中期経営計画における重点事業校になるために何を為すべきか、考え、実生涯にわたり自律的に学び続け、みなの後の100年に亘って学苑が存続し、社会に貢①教育改革行していくことがより重要なことだと思っと協働して幸福を生み出していく人の献できる人材を育てる学校であり続けること②業務・働き方改革ております。育成を見据えています。その新たな歩みを踏み出③財政基盤の強化現代の社会は変化の激しい時代にありま明星中学校・高等学校すため、2018年度からの5年間を「改革の5年④経営計画の実行体制の整備す。しかし、どのような時代が来ようとそビジョン間」として重要な期間と位置付け、時代に応じの中で自立し社会で活躍し、社会に貢献で•世界のトレンドに適応し続けるイノた改革を進めて参ります。このような経営計画とそれに基づく事業を実きる力を持った人を養成するのが明星教育ベーティブな学校このようなコロナ禍の中でも、本学苑は、中行するために、2000（平成12）年度から理事長のの使命です。そのためには時代の養成に応•人と自然を愛し、自他の価値を大切期経営計画に掲げる4つの柱に基づく4つの重諮問協議機関としての「学苑行政会議」を設置しえ、常に教育内容を刷新していく不断の教にする学校点事業（教育改革、業務・働き方改革、財政基て、学校法人の経営・運営についての検討・計育改革と教育投資が必要です。「世界に貢献•生徒と教師がともに成長し誇りを持盤の強化、経営計画の実行体制の整備）を継続画作成にあたってきたが、さらに、2018（平成30）する人の育成」「体験教育」「手塩にかける教てる学校的に遂行するため、各設置校において、学苑年度からは理事長が課題の解決策を効果的かつ育」「健康・真面目・努力」など明星教育の原教育目標CHAPTER1第1章250MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory251

## Page 127
![Page 127の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000127.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史Ⅴ．転換期1996︵平成8︶年～今日まで／付．周年記念事業PART1第1部自分の未来をデザインし共創していける人の育成明星小学校め、『2023年度事業報告書』において公表した。第1期中期事業計画中においては、新ビ付.周年記念事業ビジョンジョン・教育目標を達成するために、幼小•自ら問いかけ、考え、行動し、自己中高15カ年を俯瞰した学苑の一貫教育にお表現できる人を育む学校ける各設置校が担う役割と連携教育を明確•知的好奇心と探究心、論理的思考力化し、これからの時代に生きる「世界に貢献をもった人を育む学校する人」の育成に組織的に取り組むことと•共生・共創できる、心豊かな人を育しました。む学校具体的には、設置校における15カ年を俯教育目標瞰した教育モデル作りを目標として、時代「賢さ」と「豊かさ」を兼ね備えた、輝きが求める多様な教育テーマへの取組み、まをもった人の育成た、新たな教育手段・教育理論の導入、そ周年記念事業の実施なった。明星幼稚園して明星学苑ならではの多摩地域に根ざし以上のように100年の歴史を刻んできた学校記録や刊行物から明らかにできる各周年記念ビジョンた特色ある教育活動を分かりやすく体系化法人明星学苑であるが、今回の100周年記念事業事業や記念刊行物、さらに該当年の明星学苑が•すべての園児が自信をもって生活でします。その実現に向けては、各設置校がと同様に、これまでも記念すべき年に周年記念設置する各園・各校・各大学の概況－学年・学きる幼稚園担う役割を明確化し、各設置校が連携した事業を実施してきた。学校法人明星学苑には級数・生徒数・教員数－は次の通りである。•自分だけでなく、友だちを大切にで教育体制作りを目指した施策を打ち出しま1923（大正12）年の明星実務学校創設と、1927（昭きる幼稚園した。さらに、明星教育により育まれる資和2）年の財団法人明星中学校・旧制明星中学校明星中学校創立10周年•好奇心を育み、自分の「好き」をたく質・能力の達成目標を「明星コンビテン創設という二つの重要な出発点があり、周年記1937（昭和12）年5月23日に、明星中学校創立さんみつけられる幼稚園シー」として定め、それを段階的に育む教育念事業について創設当初から創立25周年（195210周年記念式を挙行、他に、祝賀会、制作作品教育目標プログラムを推進することとしております。（昭和27）年）までは1927（昭和2）年から数えて節展覧会、学芸会、寮飾り付け公開などを実施。創多様性を認め、未来を切りひらく子の目となる年に明星中学校創設周年記念事業とし立者星野鏡三郎の胸像を作成し、除幕を実施し育成創立100周年という記念すべき年に、これからて実施してきたが、途中、変更の理由は詳らかた。の100年を視野に、そのあるべき姿を検討し、明ではないが、旧制明星中学校を直接継承する中設置校は中学校1校、5学年10学級、生徒数360なお、学長・校長・園長は、これらのビジョらかにし、ビジョンや教育目標を定めたこと、さ学校・高等学校（男子部）以外の園・校を創設し名、教員は校長児玉九十はじめ22名。ン・教育目標の制定の経緯やそこに込めた願い、らにその実現に取り組んでいくために「『特色あたためか、創立35周年（1958（昭和33）年）頃からその実現方策についてHPなどを通じて公にしる明星教育』検討ワーキンググループ」を組成は1923（大正12）年から数えて節目となる年に明明星中学校創立20周年ている。し、「府中校教育イノベーション環境整備費」を星学苑創設周年記念事業として実施するように『学天の明星をめざして―明星学苑創立85学校法人明星学苑理事会は、所定の手続きを設定するなど、具体的な活動を開始した。これ周年―』の「年表」には1947（昭和22）年5月25日経て2022（令和4）年11月に府中校を対象としたをさらに推進し、ビジョンや教育目標を確実にに、明星中学校創立20周年記念式を挙行と記載「府中校第1期中期事業計画（2023〜2027年度）」達成していくことが学校法人明星学苑、各設置があるが、『児玉九十自伝』（357頁）によれば、創を決定したが、その中で新ビジョン・教育目標校のこれからの最も重要な課題であると考えら立20周年・30周年は「内祝い程度」と記載されてを達成するための方策については次のように定れる。おり、詳細な記録資料を見出すことができない。CHAPTER1第1章明星中学校創立25周年（本書Ⅲ－1.に詳報）1952（昭和27）年5月18日に、三笠宮殿下の臨席を得て、明星中学校創立25周年記念式を挙行、明星中学校創立10周年記念式他に作品展などを実施した。記念誌として加賀252MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory253

## Page 128
![Page 128の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000128.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史付．周年記念事業PART1第1部谷篤一郎編『明星学苑創立25周年記念』（1952でに明星実務学校創設を出発点とする周年の数校・高等学校共通）、高等学校（男子部・普通科）子部教員は主事安部豊明はじめ65名（中学校・高（昭和27）年5月18日刊）を刊行した。え方が実施されていた。なお、この年は『体験教3学年14学級（1・2学年5学級、3学年4学級）、生等学校共通）、高等学校（男子部普通科）3学年19設置校は、1園3校。幼稚園3学級、園児88名、育』復刊の年であり、これ以前にさかのぼる資料徒数776名、高等学校工業科3学年12学級、生徒学級（1・2学年6学級、3学年7学級）、生徒数876教員は主事清水綾夫はじめ4名、小学校4学年（1を見出すことができない。数557名、教員は18名、中学校（女子部）3学年名、高等学校工業科3学年6学級、生徒数279名、〜4年まで、完成途中）4学級、生徒数171名、教（学級数不記載）、生徒数406名、女子部教員は主教員は25名、中学校（女子部）3学年9学級、生徒員は主事鈴木秀男はじめ6名、中学校（男子部）3明星学苑創立35周年事鈴木秀男はじめ26名（中学校・高等学校共通）、数369名、女子部教員は主事鈴木秀男はじめ64名学年9学級、生徒数473名、教員は主事船越好文1958（昭和33）年11月15日に、明星学苑創立35高等学校（女子部）3学年（学級数不記載）、生徒（中学校・高等学校共通）、高等学校（女子部）3学はじめ16名、高等学校（男子部）3学年9学級、生周年記念式を挙行、他に、慰霊祭、祝賀会、全数652名、（教員数は校長または園長・職員・非年18学級、生徒数882名、大学2学部9学科、学徒数457名、教員は主事加賀谷篤一郎はじめ14生徒・児童・園児参加による祝賀式・児玉九十常勤講師・助手を除く―）。生数4,709名・通信教育課程1学部1学科、学生名、（教員数は校長または園長・職員・非常勤講古稀祝賀式、展覧会、芸能祭などを実施した。数1,699名、教員は学長児玉九十はじめ222名、師・助手を除く―）。記念誌は刊行されておらず、詳細・現況は不明星学苑創立45周年（教員数は校長または園長・職員・非常勤講師・明であるが、『体験教育』（第208号、1958年12月、1968（昭和43）年11月15日、明星学苑創立45周助手を除く―）。明星学苑創立34周年5頁）によれば、生徒・児童・園児計2,150名余、年記念式典、在校生を中心とする祝賀式、PTA・『児玉九十自伝』には「内祝い程度」と記述され教職員約100名と記述されている。同窓会祝賀式を挙行した。記念誌として『学天の明星学苑創立50周年ている明星中学校創立30周年に相当する1957明星明星学苑創立45周年記念』（1968（昭和43）1973（昭和48）年11月10日、秩父宮妃殿下の臨（昭和32）年には、「明星学苑創立34周年」として明星学苑創立40周年年11月15日刊）を刊行した。記念事業として、小席を得て、明星学苑創立50周年記念式を挙行、周年記念行事が実施された記述がある。5月20日1963（昭和38）年11月15日に、明星学苑創立40学校校舎（鉄筋コンクリート3階建、プラネタ祝賀会、星野鏡三郎墓前祭、物故者慰霊祭、学に刊行した『体験教育』第190号には「明星学苑創周年記念式を挙行、他に、慰霊祭、祝賀パーティ、リュウム付設）の新築、学苑大講堂（鉄筋コンク生・生徒・児童・園児祝賀式、PTA・同窓会祝立記念行事催される」と題して「若葉薫る五月十全生徒・児童・園児参加による祝賀式、展覧会、リート3階建、1,200名収容）の新築を行った。ま賀会、展示会、ステージ発表、PTAバザーなど八日（土）創立三十四周年の記念式典にひき続き演劇発表会、音楽と舞踏の会などを実施した。記た、大講堂内には物故者尊名録奉納庫を設け、11を実施した。記念誌として『創立五十周年記念学苑内の各校ではそれぞれ恒例の記念行事が盛念誌として『明星学苑40年』（1963（昭和38）年11月14日に学苑関係者物故者尊名録の安置式を挙明星学苑』（1973（昭和48）年11月10日刊）、『体験大に行われた。」と記述した上で、「男子部はマラ月10日刊）を刊行した。行した。教育』創立50周年記念特集（1973（昭和48）年11月ソン大会」「女子部は球技大会」「小学校では風景設置校は1園5校。幼稚園3学年8学級（年少1設置校は1園5学校1大学。幼稚園3学年9学級10日刊）を刊行した。記念事業として、屋内プー画のコンクール」「幼稚園では幻灯大会」の記事学級、年中3学級、年長4学級）、園児数266名、（年少1学級、年中4学級、年長4学級）、園児数ル・新学苑本部棟を新築、同窓会から「学苑賛歌」が掲載されている（8頁）。「三十四周年」としたこ教員は主事清水綾夫はじめ9名、小学校6学年12316名、教員は主事清水綾夫はじめ15名、小学校石碑が贈呈され、これらの竣工式や除幕式などとについての説明は記述されておらず、その理学級、児童数518名、教員は主事鈴木秀男はじめ6学年17学級（1〜5学年3学級、6学年2学級）、を実施した。記念式典に秩父宮妃殿下の臨席を由は不詳であるが、この年は旧制明星中学校創13名、中学校（男子部）3学年9学級、生徒数506児童数695名、教員は主事橋本秀一はじめ29名、得たが、児玉九十が1925（大正14）年〜1926（大設30周年にあたるが、それを掲げずに、明星実名、男子部教員は主事安部豊明はじめ31名（中学中学校（男子部）3学年9学級、生徒数405名、男正15）年の第1回欧米教育視察の際、日本〜フラ務学校創設からの34年を取り上げており、この頃からこれを明星学苑全体の出発点として周年を数えるようになったのではないかと推測される。なお、この1年前にあたる1956（昭和31）年5月に刊行した『体験教育』第178号には「創立記念マラソン実施」と題して「創立記念日の五月二十日が日曜日なので一日繰り上げて十九日土曜日初夏の櫟葉もゆる北側グランドに於て、生憎の小雨をついて、八時三十分より第三十三回創立記CHAPTER1第1章念式を行い…」と記述されており、この年にはす記念誌『明星学苑40年』記念誌『学天の明星明星学苑45周年記念』記念誌『創立五十周年記念明星学苑』254MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory255

## Page 129
![Page 129の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000129.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史付．周年記念事業PART1第1部ンス・マルセーユ間乗船した日本郵船筥崎丸に学生数7,023名、大学院4研究科12専攻、学生数おいて秩父宮殿下と同船、親しく旅をともにし153名、通信制大学院1研究科1専攻、学生数85たこと、成蹊学園で妃殿下の兄を教え両親とも名、教員は学長小川哲生はじめ242名、いわき明面識があったことなどから、秩父宮妃殿下の出星大学4学部11学科、学生数2,056名、大学院2席は児玉九十にとっては特別の感慨をもたらす研究科7専攻、学生数63名、教員は学長高重正ものであったと後年記述している。明はじめ89名、（教員数には職員・非常勤講師・設置校は1園5学校1大学。幼稚園3学年9学助手を除く―）。級、園児数293名、教員は主事波多野松男はじめ12名、小学校3学年18学級、児童数769名、教員明星学苑創立90周年は主事橋本秀一はじめ26名、中学校（男子部）3記念誌『創立六十周年記念誌明星学苑』記念誌『学天の明星をめざして―明星学苑創立85周年―』2013（平成25）年10月5日、明星学苑創立90周学年9学級、生徒数430名、男子部教員は主事茅年記念式を児玉九十記念講堂で挙行した。従来根信はじめ49名（中学校・高等学校共通）、高等を記念として実施した。記念誌として『創立六十生徒・学生代表参加）、記念式（法人役員・関係の周年記念式典とは異なり、園児・児童・生徒・学校（男子部普通科）3学年21学級（1学年9学級、周年記念誌明星学苑』（1983（昭和58）年11月10団体役員・各キャンパス教職員など学苑関係者学生を中心とする内容で実施、司会も高等学校2・3学年6学級）、生徒数1,041名、高等学校工業日刊）を刊行した。記念事業として、府中校に高参加）を実施した。10月3日に京王プラザホテル生徒会長寺尾優一・副会長野呂あかりが担当し科2学年（募集停止中）4学級、生徒数170名、教架式渡り廊下を新築した。明星同窓会からは児を会場として記念祝賀会を実施した。他に明星た。内容は次の通りであった。員は主事田辺享輔はじめ10名、中学校（女子部）玉九十が揮毫した「和顔愛語」の石碑が贈呈され祭、各園・校の運動会、マラソン大会などを記3学年9学級、生徒数435名、女子部教員は主事た。念として実施した。開式鈴木秀男はじめ47名（中学校・高等学校共通）、設置校は2園5校1大学。幼稚園3学年8学級設置校は2園5校2大学。記念誌が刊行されて明星学苑90周年の歴史高等学校（女子部）3学年19学級（1・2学年6学級、（年少2学級、年中3学級、年長3学級）、園児数おらず、詳細・現況は不詳である。活躍する在学生3学年7学級）、生徒数930名、大学2学部9学科、200名、教員は園長白川晶山はじめ10名、大学付園歌斉唱＝幼稚園年長組園児学生数5,310名・通信教育課程1学部1学科、学属幼稚園2学年6学級、園児数191名、教員は主明星学苑創立85周年マーチングバンド演奏＝小学校マーチング生数6,299名、教員は学長児玉九十はじめ131名、事波多野松男はじめ8名、小学校6学年18学級、2008（平成20）年11月15日、明星学苑創立85周バンド（教員数は校長または園長・職員・非常勤講師・児童数712名、教員は主事森本弘はじめ26名、中年記念式を挙行した。記念事業として児玉九十英語レシテーション…小学校代表徳久聖助手を除く―、大学院不記載）。学校（男子部）3学年9学級、生徒数430名、教員記念講堂新築（府中校地、児玉九十記念資料コー奈・中学校生徒代表山本千尋・高等学校代は主事小岩一男はじめ18名、高等学校（男子部）ナーを設置）、府中校綜合体育館（屋内プール・表岡田さくら明星学苑創立55周年3学年26学級（1・3学年9学級、2学年8学級）、生アリーナ・サブアリーナ・トレーニングルーム）活動の成果＝高等学校男子ハンドボール1978（昭和53）年4月1日付で児玉九十理事長が徒数1,296名、教員は主事田辺享輔はじめ46名、を新築、府中校緑地化等再開発事業を実施した。部・高等学校体操部村上茉愛・いわき明星学苑長に就任、児玉三夫が理事長に就任したこ中学校（女子部）3学年12学級、生徒数579名、教記念誌として『学天の明星をめざして―明星大学薬学部平塚玲那とを祝い、創立55周年記念、児玉九十90歳の賀員は主事小机保之はじめ23名、高等学校（女子学苑創立85周年―』（2008（平成20）年11月15日吹奏楽ジョイント演奏と合わせて、1978（昭和53）年11月15日に明星学部）3学年18学級、生徒数854名、教員は31名、刊）を刊行した。中学高等学校吹奏楽部・大学吹奏楽団苑祝賀会を実施した。大学2学部9学科、学生数6,110名、通信教育課設置校は1園3校2大学。幼稚園3学年（学級数卒業生からの言葉ビデオレター・応援記念誌は刊行されておらず、詳細・現況は不程1学部1学科、学生数9,079名、大学院2研究科、不記載）、園児数255名。教員は園長井上明美はメッセージ八王子市長藤森孝志詳である。学生数52名、教員は学長児玉三夫はじめ270名、じめ12名、小学校6学年18学級、児童数703名、90周年にあたって（教員数は校長または園長・職員・非常勤講師・教員は校長菅野秀二はじめ27名、中学校3学年〜武蔵野の森再生プロジェクト〜理事明星学苑創立60周年助手を除く―）。（学級数不記載）、生徒数606名、教員は校長北原長吉田元一1983（昭和58）年11月15日、明星学苑創立60周都美子はじめ90名（中学校・高等学校共通）、高星魂の歌（明星応援歌）披露年記念式を挙行、祝賀会、物故者慰霊祭、学生・明星学苑創立70周年等学校3学年（学級数不記載）、生徒数877名、明学苑賛歌斉唱生徒・児童・園児記念式、PTA・同窓会祝賀会1993（平成5）年10月2日、明星学苑創立70周星大学6学部22学科（新学科へ移行中の学科を含閉式などを実施、他に体育祭・運動会、明星祭など年記念式、物故者慰霊祭、記念式（園児・児童・む）、学生数7,495名、通信教育部1学部1学科、CHAPTER1第1章256MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory257

## Page 130
![Page 130の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000130.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み学校法人明星学苑の歴史付．周年記念事業PART1第1部記念誌は刊行されておらず、詳細・現況は不詳である。明星学苑創立100周年2023（令和5）年9月30日、明星学苑創立100周年記念式典を挙行、祝賀会を実施した。同年11月26日には、京王プラザホテルを会場として、明星学苑創立100周年記念募金感謝の会を実施した。各々の詳細については本書巻頭に記載した。記念誌として『明星学苑創立100周年記念誌』（本書）を刊行した。各園・校・大学の周年記念事業学校法人明星学苑が設置する各園・校・大学では次のように、独自に創立記念行事を実施している。明星幼稚園1959（昭和34）年11月創立10周年1969（昭和44）年11月創立20周年1979（昭和54）年12月創立30周年1990（平成2）年2月創立40周年1999（平成11）年11月創立50周年2009（平成21）年11月創立60周年2019（令和元）年9月創立70周年明星小学校1960（昭和35）年11月創立10周年1970（昭和45）年11月創立20周年1980（昭和55）年11月創立30周年1990（平成2）年11月創立40周年2000（平成12）年11月創立50周年2010（平成22）年11月創立60周年2020（令和2）年11月・12月創立70周年（第1部・第2部に分けて実施）明星中学校1937（昭和12）年5月創立10周年1947（昭和22）年5月創立20周年1952（昭和27）年5月創立25周年＊中学校・高等学校（男子部）については、この後独自の創立記念行事を実施せず、明星学苑創立記念行事として該当年に実施。明星中学校（女子部）・高等学校（女子部）1964（昭和39）年11月女子部創立10周年1969（昭和44）年11月女子部創立15周年1974（昭和49）年11月女子部創立20周年1984（昭和59）年11月女子部創立30周年明星大学1974（昭和49）年10月創立10周年1984（昭和59）年10月創立20周年2004（平成16）年10月創立40周年2014（昭和26）年10月創立50周年いわき明星大学1997（平成9）年10月創立10周年2007（昭和19）年10月創立20周年参考文献加賀谷篤一郎編『明星学苑創立25周年記念』1952年、明星学苑明星学苑編『明星学苑40年』1963年、明星学苑明星学苑編『学天の明星明星学苑創立45周年記念』1968年、明星学苑明星学苑創立50周年記念編集委員会編『創立50周年記念』1973年、明星学苑明星学苑創立60周年記念誌編集委員会編『創立60周年記念誌』1983年、明星学苑明星学苑創立85周年記念誌編纂委員会編『学天の明星をめざして明星学苑創立85周年』2008年、明星学苑明星中学校『体験教育』第1期、第1号・1929年1月〜第177号・1943年10月、明星中学校明星学苑『体験教育』第2期、178号・1956年5月〜明星学苑明星学苑『明星学苑報』第1号・1998年7月〜第42号・2013年4月、明星学苑明星大学明星教育センター編『明星―明星大学明星教育センター研究紀要』第1号、2011年3月〜年刊として継続刊行中（学校法人明星学苑・明星大学の歴史に関する資料・論考を随時掲載）児玉九十『喜寿記念この道五十年』1965年、明星学苑児玉九十伝編纂委員会編『児玉九十自伝』1990年、明星大学出版部児玉九十・児玉三夫『改訂版明星ものがたり』1998年、明星大学出版部児玉三夫先生喜寿記念論文集刊行委員会編『教育の真理と探究』1994年、明星大学出版部“児玉九十先生を仰ぐ”明星同窓会編集委員会編『児玉九十先生を仰ぐ』1990年、明星大学出版部記念文集編集委員会編『明星中学校入学五十年記念文集想星』1997年、明星学苑男子部二十二星会成蹊学園百年史編委員会・百年史出版プロジェクト編『成蹊学園百年史』2015年、学校法人成蹊学園小野一成・伊東孝・倉方俊輔監修、鹿島建設株式会社総務管理本部総務部本社資料センター小田晶子編『鹿島の軌跡』2021年、鹿島建設株式会社石川力山『美濃国祥雲山龍泰寺史』1980年成田龍一『大正デモクラシー』（シリーズ日本近現代史④）2007年、岩波書店加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』（シリーズ日本近現代史⑤）2007年、岩波書店吉田裕『アジア・太平洋戦争』（シリーズ日本近現代史⑥）2007年、岩波書店雨宮昭一『占領と改革』（シリーズ日本近現代史⑦）2008年、岩波書店武田晴人『高度成長』（シリーズ日本近現代史⑧）2008年、岩波書店山住正巳『日本教育小史―近・現代―』1987年、岩波書店木村元『学校の戦後史』2015年、岩波書店酒井三郎『昭和研究会』（中公文庫版）1992年、中央公論社（原本は1979年、TBSブリタニカ）松本清張『昭和史発掘』8（文春文庫版）2005年、文芸春秋社山本又（保坂正康・解説）『二・二六事件蹶起将校最後の手記』（文春文庫版）2015年、文芸春秋社（原本は2013年、文芸春秋社）CHAPTER1第1章258MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory259

## Page 131
![Page 131の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000131.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

CHAPTER2｜第2章明星学苑の建学の精神とその変遷―創立時の理念と建学の精神の確立まで―

## Page 132
![Page 132の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000132.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅰ建学の精神と私学教育PART1第1部Ⅰ.建学の精神と私学教育2）初等教育は義務制とし、全国民の子どもを対象として、読み、書き算術などを中心と同様に、全国各地域の有力者達の助力を期待し、いわゆる民間の力に依拠して、学校の設置を図っていった。『学制』発布2年後の1874（明治7）する基礎的普通教育を行う。そのために全年に、文部省は学校設置者を官立（現在の国立）、国各地に小学校を設ける。公立、私立の三者とすることを決定し、全国に私立学校（以下、私学）は、各々独自の「建学の精神」を持っている。国公立学校が、国家や地方公共団体が定める人格形成や人材養成計画に沿って、全体的・画一的に教育の均質性を保持しながら教育を行うとすることに対し、私学は、各々独自の人格形成や人材養成についての理念とそれに基づく教育方針があることに由来している。それが、各私学が固有している「建学の精神」である。私学である明星学苑は、当然、明星学苑独自の「建学の精神」を有している。各私学は、それが設立された時代的背景の内で、その時代が要求している人格や人材をどのように育成するかを設立時の理念として持っている。また、その私学が時代的変遷の中で、どのように独自の教育方針を展開してきたかによって、各私学の「建学の精神」の具現化が深化されていく。明星学苑の「建学の精神」も、学苑創設時の理念と、創設後100年の内で、時代的変遷の影響を受けながら教育活動を展開していき、次第に深化してきた。ここでは、日本における近代的学校教育の進展の内で私学の果たしてきた役割と、国公立による学校教育の拡大の内での私学の存在意義を見出し、その上で、学苑の100年の歩みを概観しながら、今日「和の精神のもと、世界に貢献する人を育成することを目的とする」と表された学苑の「建学の精神」の形成過程を見ていく。1.近代的学校の設置と私学の役割日本における近代的学校の全国的な設置は、明治期以降である。「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」の語に象徴される明治維新は、日本というこの国を根底から変革し、新たな国家体制を生み出そうとするものであった。学校についていえば、これ以前に存在していたものは、幕藩体制の中で各藩が独自に設置していた藩校や郷校、都市部を中心としてあった民間教育機関の寺子屋、更に、閉塞的な国家や社会を改革しようとする思想家達が独自の教育理念を基に設けていた私塾などがあった。地方分権的であった当時には、今日のような中央集権的な国家計画により設けられている国公立学校はなく、学校として呼ばれるものは全て私学であったと言ってよい。これらの日本独自の「学校」とは根本的に異なる西洋型の近代学校制度を、中央集権的な方法によって導入したのが明治期以降の学校制度であった。当時の明治政府が導入しようとした学校制度は、国家や地方公共団体が中心となって行う「公教育」制度を基本とするものであった。この学校制度の特色は、1）子どもの発達段階に応じて、学校を初等教育、中等教育、高等教育を行うものとに分け、各教育段階に応じて教育内容を整理し、系統的に行う。3）高等教育は、国や社会、企業などの指導者（いわゆるエリート）を養成し、高い専門性を養うための教育と研究を行う大学を中心とする。4）中等教育は、高等教育へ接続する中程度の普通教育を行うものと、中程度の職業的専門教育を行うものの2つの目的を持つようにする。以上に要約される西洋型の近代的学校制度の導入は明治初期に構想され、構想を実現するために、明治政府は国全体の教育政策を行う行政機関となる文部省を設けた。その後すぐに、国全体の学校設置計画を定めた『学制』を1872（明治5）年に発布し、この実現の第一歩とした。『学制』発布に際し、学校設置の趣旨を国民に理解してもらうため、『学制』の前文として、『学事奨励おおせいだされしょに関する被仰出書』を併せて出した。その趣旨は、これからの日本人は、代々の身分や財産などによって生きるのではなく、各々が自立して生きていくことが大事であり、そのためには何よりも教育を受けることが必須であること（『学もとで問は身を立てるの財本』）であり、そのためには「邑に不学の戸なく家に不学の人」がないことを期するものであった。『学制』発布以降、学校教育の全国的な普及に向けての具体的構想が計画されるようになる。日本国全体に学校を設置し、適齢期の全ての子どもが学校教育を受けるように企てた『学制』の発布は、その実現性にはあまりにも課題が多かった。学校設置に必要な公的資金の確保、教員の養成と配置、教材の開発など、学校設置と運営に必要なものの全てにおいて不足していた。そこで、明治政府は他の社会基盤の整備と通知した。今日に至る日本の学校教育の拡大と普及には、官公立と同様に私学の役割なしには実現不可能であった。明治政府は、『学制』で構想された学校教育の普及を実現化させるため、1879（明治12）年以降に『教育令』を公布し、以降『改正教育令』等を次々に布告し、学校教育の普及を計っていった。これらの施策と、学校教育の必要に対する国民側の理解の双方の進捗によって、『学制』発布当割程度しかなかった義務教育就学率が、凡そ30年後には9割を超えるようになった。社会の変革に伴い、学校教育を受けることが、子どもの将来に大きな利得をもたらすという認識が国民全体に共有されるようになっていったのは、特に明治20年代以降に入ってからである。大日本帝国憲法が発布され、それに併せるように内閣制度が作られ、官吏任用が学歴と試験とによって行われるようになったことやいわゆる財閥企業も政府のこの方針に沿って人材登用したことなどが大きな理由の一つになったからである。それまでの門閥や閨閥等によって社会の指導者となる道から、個人の学力と学歴によって開かれる道、いわゆる「学歴社会」が形成されるようになっていった。より上位の学歴を得るため、初等教育学校から中等教育学校へ、中等教育学校から高等教育学校への進学を目ざす者が明治期末には急増していった。初等教育学校の整備も充分ではなかった当時、中学校や高等女学校等の中等教育学校の全国的な整備状況は遅く、地方の県によっては、これらの学校は数校程度であった。他方、日清、日露戦争を経て近代資本主義が勃興してきた明治期の後半には、西洋型資本主義の移入により近代的な産業化や商業化が進み、産業界などにおいてもよりCHAPTER2第2章262MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory263

## Page 133
![Page 133の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000133.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅰ建学の精神と私学教育PART1第1部高度な知識や技術を持った人材需要が旺盛と給は十分ではなかった。これに対し、一部の私があった。これらの多くは、独自の存在理由をとして知られていた。澤柳は、私学の多くは教なっていた。これに対応していく学校の設置要学には、教育水準が官公立学校に伍するものも持っているが、共有していることは、官公立の育内容において二流なものであるとの認識が求が特に都市部にあった。少数の官公立学校だあったが、官公立学校より低いものも数多く学校教育ではできない独自の教育を行うことをあった。しかし、澤柳は、官立学校における教けでは、人材需要に応えていくことは困難であった。それ故、政府による官公立学校の全国目ざすことであった。なお、日本の学校制度の育で事足りると考えていたわけではなかった。あったこともあり、民間の資金を基にして設立的整備が進むにつれ、「官尊民卑」の風潮もあり、内で特記すべきことの一つは、私学教育を伝統官公立学校では実行不可能な子どもの個性にしていく中等教育学校の私学が数多く生まれ、多くの私学は官公立学校の補完的役割を担う存的に認めてきたことであり、また、私学教育に沿った自発性を尊重する学校の設置の必要性がこの要求に応えていった。これらの私学の多く在と見なされる側面もあった。特に、地方にお大きく依存してきたことである。より自由で多あると考えていた。それを実現するため、「実験は、各々独自の人間性を育む教育を志向していいては、私学は、官公立に比べ、「二流」の地位を様な社会を形成していく上で、独自教育を行う学校」として私立の成城小学校を設立した。そこたとしても、結果的に上級学校である旧制の高占める存在と見なされていた。私学教育を受けて活躍する人材が社会全体に浸には、学歴主義の弊害として起る知識の詰込み等学校や専門職業学校への進学をめざす上でのしかし、一群の私学の中には、官公立学校と透していくことは、社会の進歩や改革にとって型教育が、子どもの自然な発達に大きな弊害を準備教育を主に担う予備校的教育を行うものが異なる独自の教育方針を持ち、官公立学校では極めて必要なことである。私学教育の本来の役もたらすとの認識があり、その結果、社会改革多かった。成し得ない人格形成や人材養成を行っているも割はここにあるともいえるであろう。を為す主体となる若者の活力を減じる要因とな高等教育を行う学校についていえば、その設のがあった。るとの思いがあった。置は、1877（明治10）年に布告された「帝国大学令」を出発点としていたが、この頃には、慶應義塾に代表されるように、既にいくつかの高等教2.私学教育の源流となった私塾3.新たな私学の勃興と明星学苑の誕生明治中期から大正初期まで官公立学校の整備大正中期頃には、澤柳が成城小学校を設立した時代的背景もあった。日清、日露、第一次世界大戦を戦い抜き、アジアに位置する日本が西育機関としての私学があった。「帝国大学令」以今日、伝統校といわれる私学の幾つかは、そに多大なる貢献をしてきた文部官僚であった澤洋列強に伍するまでの強国となると同時に、国降、官立の大学は順次設置されていくが、ほぼの源流を私塾に辿ることができるものが多い。柳政太郎（1865（慶応元）〜1927（昭和2）年：以民側に自由や民主主義に対する渇望が起こって並行して、東京、京都、大阪などの都市部を中江戸後期から明治初期にかけ、数多くの私塾が下、澤柳）は、官職を辞した後の1917（大正6）年いた時代でもあった。心に私学の高等教育学校が設立されていった。あった。代表的な私塾は、松下村塾や咸宜園なに、私立成城小学校を設立した。一方、19世紀末には西洋諸国の内でも、学校当時の文部法令では、これらの私学は、正規のどであったが、これらの私塾の設置目的は、平澤柳は、文部官僚として京都帝国大学、東北教育の画一的詰め込み教育による子どもに対す「学士」の学位を取得出来ない「専門学校」であっ和で安定的であるが社会改革に対しては後ろ向帝国大学の総長を歴任し、文部次官となった者る圧力についての批判があり、その反映としてたが、国全体の高等教育学校数の中では大多数きであり、改革を先導する者に対しては抑圧的であり、また、現代仮名遣いを志向した国語教「児童中心主義」といわれる教育改革運動が起っを占めていた。なお、「専門学校」であった私学であり、人材登用については閉鎖的であった末育改革の中心人物でもあった。澤柳は、その経た。その影響が日本にも及んでいた。澤柳は、が、正規の学士の学位を授与できるようになる期の幕藩体制の打破にあった。封建的身分制度歴通り、官公立学校の整備に尽力してきたので、J・デューイ（1859（安政6）〜1952（昭和27）年）が、のは、1918（大正7）年の「大学令」の公布まで待を基盤とする社会においては、資質優秀で社会官職に就いていた時は、官公立学校至上主義者20世紀初頭にシカゴ大学内で行っていた実験校たなければならなかった。改革に有為な人材を得ることは困難であった。このように、『学制』布告以降の日本におけるこれに対し、彼らに教育を与え、社会変革のた学校設置は、国民の間にある教育要求に対し、官めの指導者を養成する目的を持った教育機関で公立学校では充分に賄いきれないこともあり、あった私塾が多く現れ、その内、明治期以降、財私学がその要求に応えてきたという側面もあっ政的、人的条件などが整っていた幾つかの私塾た。は、後に、私学へとなっていった。学校を設置するためには、学校としてふさわ私学には、私塾を源流とするもの以外に、宗しい教育内容を持つ水準が必要であるので、資教団体が特定の教義に基づく人格形成を目的と金的に見て施設・設備面や教員配置面でその実するもの、特定の職業的専門職を養成するため現は容易ではなかった。とりわけ、政府が責任のもの、学校教育の一般民衆への拡大を目ざしを持って設置していく官公立の学校は、教育水たもの、資産家が理想とする人格形成を目ざし準を維持していく上で模範となるような学校で社会奉仕のため学校を設置したもの、一部ではあることが要求されていたから、需要に対し供あるが営利目的を持ったものなどの多様な存在澤柳政太郎（1865～1927）ジョン・デューイ（1859～1952）CHAPTER2第2章264MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory265

## Page 134
![Page 134の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000134.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅰ建学の精神と私学教育PART1第1部の成果をまとめた『学校と社会』（1899年）をいち基づく教育理念を基に新たな教育運動を展開ししているのは、学歴主義に伴う知識偏重教育へへの進学の容易化などの施策が行われるように早く日本に紹介した人物であった。経験主義・ていった。その根底にあるものは、各自の能力の警鐘であった。成蹊学園を創立した中村春二なった。新たな法令により、私学は国公立学校進歩主義教育の提唱者として知られるJ・デューを伸長させる側面を持つ学校教育の拡大に対すや中村の理念に強く影響された児玉九十達は、と法的には同等な教育機関となった。イは、子どもが本来持っている能動的活動に注る肯定的側面を評価するとしても、否定的側面日本の伝統的思想の内から、子どもの個性や自戦後の経済成長に伴う急激な進学率の上昇目し、子どもの興味や関心を基本とする教育法として「学歴主義」による「立身出世型教育」が、主性を尊重し、その結果として彼らが成人とは、それに対応するため数多くの私学を生み出について、自らが設立した学校を実験学校と称時として極端な個人主義者や利己主義者を生みなった時に社会に貢献していく人材となる教育した。1950年代初めには高等学校進学率が3割程し実践した。澤柳は、デューイの影響を受けた出す弊害面に対する危惧であった。教育の目的方法を、「大正自由主義教育運動」とは別の方法度であったが、約20年後は9割以上となり、大H・パーカースト（1887〜1973年）の『ダルトン・は、本来子どもの人格を形成することにあり、少で追及していった。学進学率もそれに呼応するように急増した。国プラン』を参考にして独自開発した「成城ダルト年期・青年期は人格形成上最も大事な時期にあ大正期に起った新たな「教育運動」は、多くの公立学校だけではこの急増に対応できなかったン・プラン」による教育を成城小学校で行った。たるが、この時期の偏った進学競争に打ち勝つ特色ある私学を生んだが、この内で、澤柳や中ので、私学がその役割を担ってきた。大学に関このプランは、授業計画を子ども一人ひとりのための受験用の暗記型詰め込み教育はかえって村の教育方針は、各々の理念と方法により、教していえば、1960年代以降急増する大学進学者興味・関心と学習習熟度に合わせ子ども自らが子どもの個性と人格を阻害すること、更に、こ育界に新風を注ぐことになった。1912（大正元）の期待に応えるため、その役割の多くを私学が中心となって組み立てるものであり、当時の学の競争に打ち勝ったものが得る財力、地位、権年に中村の成蹊学園が生まれ、そこから派生時担った。中等教育学校から出発した明星学苑も、校で行われていた一斉授業による画一的授業計力による社会的支配がもたらす利己主義者の支に生まれた明星学苑が1923（大正12）年に創設さ1964（昭和39）年に大学を設置し、その役割を果画によるものとは全く異なる革新的なもので配による社会の出現に危機感を持ったものでれたのは、ともに立身出世型知識偏重教育へのたしていくことになった。私学のこの役割は大あった。あった。その代表的な教育者は、中村春二（1877批判からであった。ともあれ、澤柳や中村の私きく、現在でも大学生の約8割近くは、私大生で大正デモクラシー時代といわれているこの時（明治10）〜1924（大正13）年）であった。日本に学に対する考えは、私学は官公立学校の後を追ある。代に、澤柳が行った教育改革運動は、「大正自由おける資本主義が隆盛となっていくこの時代にう二流の教育を行うものではなく、官公立学校戦後の若者人口の増加と進学率の上昇が更に主義教育運動」といわれ、澤柳の影響を受け、他は貧富の格差が顕著となり、利己主義的な資本では不可能な独自の教育上の特色を持つもので多くの私学を生み出したが、1990（平成2）年以降に羽仁もと子の「自由学園」、小原國芳の「玉川学家が生まれる一方、それに反発する過激な労働なければならないということであった。成城小から若者人口は減少し、量的拡大に呼応するだ園」などの子どもの個性と自発性を基に教育を運動もあり、社会全体の秩序に対する不安を感学校の『設立趣意』書には、澤柳の言葉として「理けの私学は、その存立に大きな危機が訪れるよ行う私立学校が数多く設立された。大正中期のじる者も多かった。想の私立学校は、教育上の理想より生まれなけうになった。大学についていえば、この30年の「自由」な雰囲気が学校教育改革にも影響を与え新たな時代の到来に対する捉え方の内には、ればならない」「私立学校は特色を以って生命と間、18歳人口は1993（平成5）年に比して約半分ていた。明治期以降に起った過度な「西洋化」に対する批しなければならぬ」と記されている。となり、その結果、私学の選別化が進むように「大正自由主義教育運動」とは別に、立身出世判と自国の「歴史と伝統の価値観」への回帰があ私学が官公立学校とは別に存立する所以は、なった。この状況の内で、国公立学校も同様に、主義型学歴主義の風潮に批判的な教育者が、西り、それによる教育改革への志向は大正自由主独自の特色ある教育を有し、これが私学の「建学各々独自の教育を行うよう努力を積み重ねてき洋型教育思想と異なる日本の伝統的教育思想に義教育とは異なっていた。しかし、両者に共通の精神」となるものであった。ており、私学の置かれた立場は増々厳しいものとなってきている。4.現在の私学に必要な建学の精神私学が存立し、その役割を果たしていくためには、その私学が設立された当時の設置理念と第二次大戦後、現行の教育基本法や学校教育建学の精神を再確認し、それにより独自の教育法等の制定により、日本の教育制度は大きく変を行い、独自の人格形成・人材養成を行って社わってきた。学校教育への機会の均等をもたら会的評価を得られるように尚一層の努力が求めす男女平等、学校系統の単線化による高等教育られており、学苑教育もその渦中にある。CHAPTER2第2章成蹊実務学校（1912（大正元）年、『成蹊学園六十年史』より）266MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory267

## Page 135
![Page 135の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000135.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅱ明星学苑の建学の精神の成立過程PART1第1部Ⅱ.明星学苑の建学の精神の成立過程の手法として、「凝念」を行い、「心力歌」を唱える。⑥「立身出世」のみを求め、そのために知識を2.児玉九十の明星実務学校長就任後の明星学苑の教育方針詰込み、知識偏重の上で獲得していた学歴1923（大正12）年に、1クラス30名の3年制商業を基に社会で優位な立場を持つ者を中心とに関する実務教育を行う明星実務学校は、初代する国家・社会となってはならない。それ校長であった宮本覚純の駒澤大学教授への転進故、「自奮自発」「実践躬行」の教育は、国家に伴い、1926（大正15）年に、学苑設立時の所定や社会へ貢献する人材養成とならなければの方針であった児玉を第2代校長として迎えた。ならない。児玉の校長就任に関わり、学苑は、更なる発展に向けて大きな組織的変更を行った。第1は、個以上の教育方針に基づく教育を行っていた成人立の学校から財団法人立の学校へと転換した蹊学園の教育は、そのまま明星実務学校に引きことであった。私立学校設立上の根拠法である1.明星学苑創設時の教育方針如き事情を以って設立したるもの故、設備は勿論教育の方針其他一切中村春二先生の指揮監督継がれていくことになる。明星実務学校は、府中の地で開校を迎え、初「私立学校令」に則り、財団法人立の学校へと学苑が変換され、学苑をより公的性格を有するも明星学苑の創設は、既述のように、中村春二の下に置き自分は全く老後の奉仕として単に其代の校長は成蹊実務学校長であった宮本覚純のとしたことであった。第2に、商業実務を中心（以下、中村）が中心となって設立した成蹊学園出資のみを負担したるものなり」であった。それ（1886（明治19）〜1957（昭和32）年）が勤めることとする教育内容を持つ学校を廃し、中等普通教が設置していた中学校、女学校、小学校等の再故、明星学苑の開学当時の教育方針は、中村のになった。設立者の星野としては、永年親交が育を行う5年制中学校を新たに設けることに編にあたり、成蹊実務学校を閉鎖することに係教育方針そのものであった。中村の教育方針は、あり、中村から絶対的信頼を得ていた児玉九十なった。以上により、学苑設立の基盤は大きくわり誕生した経緯を持つ。成蹊実務学校におけ概ね以下の通りであった。（以下、児玉）の校長就任を願っていた。一方、児変わることになった。この転換は、後に今日のる教育方針に深い感銘を受けていた実業家星玉は、病床に伏すことが多くなった中村の右腕学苑の発展の基盤となっていく。この転換は、学野鏡三郎（1859（安政6）〜1932（昭和7）年：以下、①日本の社会で最も必要とされる人材は、物として、成蹊学園で多忙を極めていたこと、及苑教育による人材養成目的が、特定業種への人星野）は、実務学校廃止決定の際その存続を強く事に直面し、そこでの課題に対して実効性び成蹊学園における教育経験で得た知見をさら材養成から、幅広い教養を持つ人材養成へと大希望し、中村の全面的賛同と学校新設後の教育を持って、自ら解決出来る人でなければなに確固とするため、かねてより深い関心を寄せきく変わったことを意味するからであった。児方針について中村の指導援助を受けることの約らない。ていた寄宿舎教育を行っている英国の私立中等玉は、成蹊学園在職中に、同学園が設置する実束を得て、星野の個人立の学校として設立され②その為には、まず生徒が自発的に考え、自教育学校であるパブリック・スクールでの実際務学校校長、中学校校長、小学校校長及び学園た。星野の言葉を借りるならば、「本校は、斯のら実践出来るような者となければならなを見てみたいとの希望があった。そこで星野は、を管理運営していく中核的組織の実質的責任者い。これが「自奮自発」「実践躬行」と称する児玉から渡欧帰国後の校長就任の約束を得るこ教育である。とになった。明星実務学校は、中村春二の指導・③生徒は本来各々独自の個性を有しているの助力を得て、校主として星野が、校長として宮で、各々の個性を尊重し、各々の個性の発本が、教員として成蹊学園から派遣された者が、展伸長が出来る教育が必要となる。開学後の学校運営と教育に当たることになっ④生徒は、生来「真我」すなわち「心の奥底にた。ある尊い心」を各自生得的に有しているのこのように、明星学苑創設時の教育方針は、成で、「真我」を覚醒し、伸長させることが教育蹊学園における教育方針と共通する傾向が強いの中心となる。「真我」の覚醒は、学校教育のものであった。場面では教師と生徒の心と心が直接触れ合うことによる「人格接触」により顕現する。⑤学習効果を増すためには、学習を行う前に星野鏡三郎（1859～1932）精神を統一・集中することが必要である。そ児玉九十（1888～1989）CHAPTER2第2章268MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory269

## Page 136
![Page 136の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000136.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅱ明星学苑の建学の精神の成立過程PART1第1部である学園主事の重責を担い、学校教育の教育ければならないのは、児玉にとっての「誠の心」者として、学校管理の責任者として、更に、学の概念は、児玉の教育思想形成上大きな影響を校経営者としての経験を重ねてきた。その経験与えた『報徳思想』からその多くが由来するものから、学苑の教育内容と管理体制を抜本から変であった。『報徳思想』については、後述の「実践えるよう提案し、星野の快諾を得たのであった。躬行の体験教育」の項でその概要について述べただし、この転換は学苑をほとんどの他の中学ていくが、児玉の言う「真心」とは、人が我欲か校のように、上級学校への進学を目的とする知ら解放され、他者への思いやり、敬意、いつく識注入の勉学中心の学校へとすることではなしみ、なさけ、共感、共生などの感情を持つ心かった。むしろ、学苑創設時の理念である個性の状態を意味していた。教育に携わる者がこの豊かな人格形成を行うという教育方針を強化すような「真心」を持って教育に当たれば、子どもることを目的とするものであった。教育改革を咸宜園は本来持っているが未だ顕現しない「真心」が必目ざす学苑の独自教育は、児玉の校長就任によジャン・ジャック・ルソー（1712～1778）ず覚醒され、「真心」が伸長されることによって、り次第に中村の教育方針を基本としながら、児こでの教育を参考にしていた。児玉にとっての他者との共生社会が実現していくとの理念によ玉を中心に独自に形づくられていった。以下、児寮生活は、単に遠隔地にいる生徒に学習上の便る「善性」により、彼らが成長し成人となり、社るものであった。玉を中心に形づくられていった学苑の建学の精宜を与える役割だけではなく、日々の生活を通会改革の主なる担い手となって、課題ある社会教師と生徒との「真心」を介在する人格接触に神となる教育方針について主要項目別に述べてして、校長や教師の人格に直接触れることによを改革していくことを子どもに期待することはよる教育を表す語として、児玉は、一時「ヒューいく。る人格陶治に資する教育効果を考えてのことで同じではあるが、前者が子どもの成長に対し、大マン・タッチの教育」と述べていたが、英語解釈あった。人の果たす役割を可能な限り「消極的」であるべ上の誤解を生じる恐れがあることから、後にそ人格接触の教育生徒一人ひとりの個性や特質を尊重し、彼らきとする考えに対し、後者は、大人が表出するれを「人格接触による教育」「手塩にかける教育」児玉は、校長就任に際し、新たに行う中学教の持てる能力を伸長させようとするならば、彼「誠の心」により、子どもが生得的に有する「誠のと言い換え、この語を後には使用することに育の根本に、寄宿舎教育を据えたい旨を星野にらの個性などを教室にいるときのみならず、心」を引き出し育むとする考えであり、教育的場なった。提案し、この了承を得た。生徒全員が学苑の寮日々の生活をも通して把握することが教育に面において大人が「積極的」に子どもにかかわろに入り、校長も校内に居をかまえ、そこでの生とって重要であるとの認識もそこにはあった。うとするものであった。実践躬行の体験教育活を通じて、生徒の人格陶冶を高めていくこと校長及び教師と生徒が、教室におけるのみな児玉の考える教師と生徒との直接的な人格接明星中学校は、創設後間もない1929（昭和4）年を主なる目的としていた。校長と起居を共にし、らず、共に生活をすることによって得られると触による教育は、教育する側が持っている「誠の1月に生徒の父兄向けに校報誌として『体験教その人格に直接触れることによって、生徒の人する人格陶冶方法の根底には、全ての人は生れ心」言い換えれば「真心」が充分発揮された教育育』の第1号を刊行した。本誌発刊の目的は、児格陶冶がより高められるとの児玉の教育上の方つき善性を持っているので、日々の生活を通しが行われれば、必然的に、生徒が持っている「真玉校長による「発刊の辞」にあるように、「本校の針がそこにあった。青年期より、児玉に教育思て精神修養を行えば、各自が優れた品性、即ち、心」が、より覚醒し、それが人格形成上の芽生え教育方針および日々の学校生活について家庭の想形成上大きな感銘を与えたのは、広瀬淡窓徳を持つことができるとの人格陶冶観が横たとなって、より良き人格を持つ大人へと成長し方々に十分理解していただいて、教育を一層徹（1782（天明2）〜1856（安政3）年）の私塾であるかんぎえん「咸宜園」における教育であった。咸宜園は、身わっている。伝統的に日本の殆どの教育思想家の人間観は、生得的「性善」説を堅持しているとていくとの理念であった。児玉は、入学前における家庭教育の重要性についても述べている底させたい…」ということであった。発刊第1号の『体験教育』の内で、児玉は「從來分や貧富の差に拘わらず、学習意欲の高い若者いって良いであろう。更に、明治期以降、J・J・が、たとえより良き家庭教育を受けたとしても、の敎育が多くの場合に於て頭だけに止り、自然、を入塾させ、学寮で師と起居を共にすることにルソーに代表される「性善説」に基づく教育論が学力上の競争を強いられる学校教育の中で他者出來た人物には、口舌、筆尖に巧にして、實行よって単に知識だけでなく、より重要な人格の紹介され、多くの日本の教育者に影響を与えてより高い点数を取りたい我欲が時として伸長さ力に缺けたる者が多い。之に反し、吾人の主張涵養を目的としていた。これに加えるに、児玉いった。中村や児玉もJ・J・ルソーの「性善説」れ、その結果、「真心」が次第に薄れていくことをする體驗敎育は、頭腦の研磨に力を盡すと同時は、成蹊学園における全職を辞した後に、かねによる教育を熟知していたと思われるが、J・J・危惧することから、人格接触により「真心」が少に頭腦の動そのものを吾々の全身に表現し實行てより理想的学校として考えていたイートンやルソーに代表される「性善説」を基に形成されるしでも失うことにならないようにとの考えがそする樣に導く敎育である。頭だけ出來ても實行ハーローなどに代表される英国のパブリック・教育論と中村や児玉が考える教育論とは、根底こにあった。に現れなければ目的の半分しか達せぬものと見スクールにおける寄宿舎教育の視察を行い、そから異なる点があった。子どもの生得的に有すここで児玉のいう「誠の心」について留意しなるのである。」と述べている。教育の目的の一つCHAPTER2第2章270MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory271

## Page 137
![Page 137の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000137.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅱ明星学苑の建学の精神の成立過程PART1第1部は、与えられた諸課題を実践を通して解決する人々の間に広がっていた。二宮尊徳は、幕末当中期以降朱子学がいわば「官学」となっており、まれたものである。しかし、後に児玉は、米国能力を養うことにあるので、実践を伴わない教時、疲弊していた農村と藩の財政を後に「報復仕長期にわたる朱子学を中心とする思想が社会的のJ・デューイなどの教育論にも触発され、それ育は、教育目的の半分にも満たないとの考え方法」と名付けられた実践的方法により立て直し閉塞感を引起す要因の一つでもあった。これにまでの体験教育論をより豊かなものにしていっがそこにあった。児玉によれば、実践に到る教を行い、その成果により多くの人々の注目を浴対する学派として、中江藤樹、熊沢蕃山、大塩た。育手法は、それ故、教師はただ教室におけるだびていた。平八郎等が信奉したのが陽明学の思想であっJ・デューイ達が提唱した経験主義・進歩主義けでなく、「教場、運動場、寄宿舎、通学途上、旅二宮の「報徳思想」は、自助や公助と共に「共た。江戸末期から明治期にかけて、中国思想の教育論による体験教育は、子どもが日々の日常行など、いつ、どんな場所でも生徒の中に立ち助」による社会形成を目ざすものであった。この古典を基に思索を重ねる日本の当時の知識人の生活を通して、自ら五感を通して経験したこといって、徳育、知育、体育などの方面にも自己理念は、生活と生産の場面において徹底した合多くは、社会改革を目ざす理論の拠りどころとを学習上の基礎とするものである。J・デューイの頭脳と身体の全力を傾注して教え子を指導理主義と実践主義の精神に基づくものであり、して陽明学の研究を盛んに行っていた。児玉は、などは、刺激・反応説（S‐R説）についての研究し、生徒が自由自在に活動できる頭脳と体力の同時に、経世済民を旨とする現実化の方策で中国思想史を特に研究していたので、王陽明のから、外界の刺激に対し、生命が自ら反応し、刺持ち主に育て上げるようにつとめるべきでああった。また日本における資本主義社会の形成称える「心即理」「知行合一」「致良知」の理念に深激をより生命の存続に有利になるように働かしる」と述べている。このように、体験教育は、教に大きな役割を果たし、後に渋沢栄一などに思く共鳴したのであった。前述の「人格接触」によていくこの相互的作用に着目し学習理論を形成師と生徒との人格接触による教育の延長線上に想上大きな影響を与えたものであった。る教育は、報徳思想から由来する『至誠』『勤労』していった。学習する主体が、学習させようとあるものであった。「報徳仕法」は、1）真心を尽くし他者への感謝を更に論拠立てる「致良知」の理念に基づくものする教育者側の働きかけに対し、自ら反応しな児玉のこの思索と行動の一致についての教育の心を持つ『至誠』、2）一生懸命に学び、考え、であった。「実践躬行」とは、自ら考え自ら行動すければ成立しないとの学習理論である。明治末理念は、少年期から青年期までに作られた思想働く『勤労』、3）各自が身の丈に合った生活を送る意であるが、その行動は「致良知」即ち、生徒期に、J・デューイの『学校と社会』（1899年）が澤を根本とするものであった。既述のように、児る『分度』、4）譲り合い、助け合いの心より起る一人ひとりが「良心の命」により行動するもので柳政太郎たちによって日本に紹介され、後に起玉が少年・青年期に過ごした現在の静岡県掛川他者へのめぐみ、寄付等を行う『推譲』からなる、なくてはならないとの願いが、教育理念の基本る大正自由主義教育思想の形成に大きな影響を市における中学生時代に「報徳社」の定例会に出人の生き方についての行動規範である。この仕にあった。与えたこの教育論に、児玉も大きな関心をよせ席し、そこで得た思想上の影響が教育理念形式法に従って生きれば人は我欲から解放され、心体験教育という言葉は、現在では幅広く使わることになった。児玉の体験教育についての理上の原体験となっていた。の満足を得られるとする考えである。報徳思想れ、極く一般的な教育用語となっている。この論形成の過程において、J・デューイなどの学識「報徳社」は、二宮尊徳の「実践躬行」の精神をの概念を理解するだけでは、児玉のいうように、用語は、これを唱える教育者によって概念が多が加味され、その内容が豊かになっていった。普及するため、二宮門下の人達が作った結社で頭の働きだけでは、生きていく上で必要なこと様である。今日多用されている「体験教育」の概中村と児玉は、共に曹洞宗ゆかりの家系である。「報徳」とは、『論語』の「憲門第14」で「徳をの半分にも満たない…ということになる。それ念の多くは、20世紀初頭に、主に米国から起っ育っており、また東京帝国大学文学部で漢学と以って徳に報いゆ」から由来した言葉であるが、故、報徳思想とは「見えぬ教を読む」実践躬行そた教育理論を源としているが、児玉の「体験教和学を学び、これらの思想上の影響が両者の思二宮尊徳の思想と業績を表す語として当時ののものであるといえる。これが、実践躬行の体育」理論は、中国思想や日本思想の流れの内で生想的根幹を作っていったので、教育思想とそれ験教育についての理念であった。に基づく実践は、後述の「凝念」による教育に見児玉は、中学生の時に感銘をうけた「報徳思られるように、いわば禅宗的・僧堂的な色彩の想」を第四高等学校（現：金沢大学）及び東京帝濃いものであったが、児玉は、大正時代という国大学における考究を通して、自らの思想とし時代的影響もあり、J・デューイに代表される経て更に進化させていった。その内で特に影響を験主義教育論も取り入れ、教育理念の体系化を受けたものは、陽明学の思想であった。中国の独自に図っていった。明代で活躍した王陽明が著した『伝習録』の中における中心的主題は、「心即理」「知行合一」「致良凝念を通じて心の力を鍛える教育知」の理念であり、これらの意味するものは、中こ凝念とは、文字通り「念を凝らす」ことである国の「官学」として、当時の学問上の中心を占めが、中村が成蹊学園で教育を行う上で、最も効ていた朱子学があまりにも言説だけに形骸化さ果的な教育法として位置付けられたものの一つれていったことに対する批判として提起されたである。二宮尊徳（1787～1856）ものであった。日本においても、江戸期の特に王陽明（1472～1529）児玉は、明星学苑の教育を引受けた際に、中CHAPTER2第2章272MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory273

## Page 138
![Page 138の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000138.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅱ明星学苑の建学の精神の成立過程PART1第1部村発案の凝念による教育法を、学苑にとってもら悟らせる効果的な学習指導ともいえる。関係しているので、それらを発達させるには、心て、成城小学校における革新的な自由主義的教重要な教育法の一つと位置付け移入した。日々児玉は、成蹊学園在職中にこの手法を経験し、の状態と活動の状態が共に作用するように行う育を行う上での核心的理念の一つは、J・H・ペの生活の中から生じる雑念を払い、静座して目その学習上の効果を認識していたので、学苑教実践躬行の体験教育によって知・情・意の調和スタロッチ（1746〜1827年）の教育思想についてを閉じ、手を下して軽く組み、下腹に力を込め、育にも導入し、学苑教育の主要な特色の一つと的発達が可能となることを目的とする「全人格の研究からである。日本におけるペスタロッチ無念無想のうちに精神の集中、統一を計るこのしていた。教育」が教育目的となると主張している。研究は、明治中期頃から始まり、主に京都帝国ような精神統一法は、日本の伝統的な人間修養学苑における凝念の仕方は、成蹊学園とほぼ児玉が自己の教育上の信条として記したこの大学や広島高等師学校において盛んに行われるに係わる身体技法であり、これを学校教育の一同様で、毎朝講堂に集まり、校長である児玉の小論は、児玉が学校長として赴任して以来約10ようになっていた。連の活動に取り入れたものが「凝念」を通しての指示により、端座、瞑想し、臍下丹田に力を集年経てから発表されている。学苑の教育方針は、J・H・ペスタロッチは、心と体と頭の教育を、教育である。中し、精神統一を行ったのであった。中村春二の成蹊学園における教育方針をそのま調和性を持って発達させる教育法の研究に傾注中村は、児玉もそうであったが、生まれ育っま創設時以来踏襲していたが、次第に児玉の教していた。西洋における伝統的な人間観には、心た家庭環境により、禅宗の影響を色濃く受けて全人教育育理念に応じた学苑教育の独自色が打ち出されと身体、知力・体力・道徳力、真を認識する力・おり、そこで日常的に行われている座禅を参考児玉は、1937（昭和12）年2月に、「我が教育上るようになってきた時である。人格形成に関わ善をなす力・美を感得し表現する力など、二元にし、学校教育の場で実行可能な形態を模索しの信念」と題する小論（児玉九十著、喜寿記念『こる教育法を「全人格的陶冶」と称することによっ的、多元的に捉える思想があり、それらを統一た結果、独自の教育法として取り入れたのが凝の道50年』、1965年所収）を発表した。この小論て新たな学苑教育の目的を他者に分かりやすく的に調和させようとする伝統的な考え方があっ念法である。凝念は、座禅の目的とする、精神の中で、児玉は教育の目的を以下のように述べ表現するようにしたものであった。この背景にた。小原は、1929（昭和4）年に成城学園での職をを統一し、無念無想の境地に入って悟りをひらている。は、大正自由主義教育がもたらした新たな人格辞し、成城学園から独立した型で、自ら計画しくことだけでなく、意志と気力を鍛えることを教育からの影響があったのではないかと思われた玉川学園を創設した。同学園が掲げた建学のも目的としていた。中村の考える自発的・主体知識の詰め込みを以って教育の能事了れる。日本の教育史上、全人格陶冶（全人教育）を精神は、「全人教育」であった。小原が提唱する全的に行動する精神、即ち「自奮自発の精神」の涵りとする従来の主知主義的教育思想を打破教育目的とすると提唱した代表的人物の一人人教育は、人間を人間たらしめるために、人間養は、生徒自身が自己の修養、向上を主体的にした全人格陶冶を目的とする……教育を旺は、玉川学園創立者の小原國芳（1887（明治20）〜が固有に持っている「真・善・美・聖・健・富」行えるようにしなければならないと捉え、それ盛に致す事であると信じます。1977（昭和52）年：以下、小原）である。小原は、を、調和をもって発達させることであり、このを学校教育の場で実現しようとした試みの一つこの全人格陶冶の教育とは従来の知育偏京都帝国大学文学部を卒業した後、広島高等師「全人教育」を教育目的とした。である。それ故、中村によれば、凝念は偏に座傾の教育を改めて、知育と共に情意の陶冶範学校附属小学校の主事（教頭相当職）にあった児玉は、小原と永い親交があり、児玉三夫は禅だけを意味するのではなく、「深呼吸でも静座をなし、知情意の統一的発達を期する人物時、澤柳政太郎が創設した成城小学校の主事と小原と親戚にあったので、教育に関する両者のでも座禅でも祈祷でも題目でも念仏でも朝夕15教育を主眼とするものであります。……教して招聘され、澤柳の下で、既述の「大正自由主意見交換は相当あったと思われるが、全人教育こらせ分位の間専一に念を凝ば」良いと考えた。成蹊学育の徹底を教壇教授のみで出来るとは信じ義教育」を推進した人物であった。小原にとっを教育目的とすることは、両者とも同様であっ園は、特定宗教組織により成立した学校ではなませんで、あらゆる場合に行う情意の陶冶、いので「凝念」を宗教的行為として捉えるのでは普通に言う所の訓育と連関して完成を期すなく、生徒の成長に係わる学習上の効果から捉るのであります。ここに実践躬行を重んずえていた。る体験主義の教育となって来る事は、理の凝念による教育の場と時間は、授業などの諸当然であります。……私の主張する体験主活動が始まる前に、学習活動に集中できるよう義の教育は、斯様に、人間の心の働き全部毎朝生徒全員を講堂に集め、そこで15分程度瞑の発達、即ち知、情、意の統一的発達を求想し、雑念をはらい精神統一を促すようにさせめ、更に心と肉体との調和的進歩を目的とた。凝念は、校長により行われるだけでなく、各する全人格教育であります。教員が必要に応じて授業の前、時として授業中あるいは授業後に行うこともある。多感で多動児玉は、人が生得的に持ち、人の人格を構成的傾向があり、学習に集中できない少年期、青する諸力である「知・情・意」は本来別々に孤立年期の者に、何を専一に行うべきかについて自的に内在しているのではなく、それらは相互にヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ（1746～1827）小原國芳（1887～1977）CHAPTER2第2章274MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory275

## Page 139
![Page 139の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000139.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅱ明星学苑の建学の精神の成立過程PART1第1部た。ただし、その背景となる教育原理も理論的政治体制を表明する代表的なものとして「五箇演録を載せた。教育を益々振興する」ための教育教育を通して、平和で民主的な国家作りを考え展開も全く異なるものであった。児玉が考える条の御誓文」を出し、その第1条に「広く会議を方法としての討議法（ディスカッション・メソッていたのであろう。「全人教育」は、報徳思想の根幹をなす「一円融合興し、萬機公論に決すべし」とその政治的方針をド）について、「討議の目的、方法及び注意すべきの和」の理念に基づくものであり、この理念に、述べたが、その意は、政治的決定を行うに際し、二三の事柄」について述べているが、討議法の目校訓「健康・真面目・努力」西洋的人間観の知・情・意、知・徳・体等に係広く関係者の意見を聞いた上で行うという方針的として、学苑は、学苑経営の戦後の混乱期から脱し、わる概念を取り入れ、独自の人間観を模索したを示したことであった。一部識者は、この方針徐々に着実な発展を遂げていき、新制中学校、高上で、児玉独自の「全人格教育」論を提唱したもの原典は、604（推古12）年の「17条の憲法」の第一、自発的探求心を涵養する事等学校、幼稚園、小学校を設け、学苑教育拡張のであった。これを、学苑教育の目的としたのであった。「一円融合の和」とは、存在するもの全やわらぎ一の「和を以って貴しとなし」第17条の「夫れ事もろもろあげつら独り断むべからず、心衆とともに宜しく論ふべ二、自己の意思を明確に発表する能力を養う事の最終段階となる大学創設計画が目前となって（昭和38）年に創立40周年を迎えるこては各々単独に存在するものではなく、各々がし」であると主張していることと深く関係して三、他の意見を聴取する習慣を養う事とになった。この頃より、学苑の教育方針が平調和の内で存在しているという意である。それいると主張している。日本人は、本来、他者へ四、各意見の比較により批判力と反省力とを明な言葉で対外的に発信するようになっていっ故、調和なき存在は無いので、自己と他者、人の配慮を重んじ、極端な対立を好まずそれを回養う事た。創立40周年にあたり、学苑は『創立40周年と自然、自己と社会、ある社会と他の社会、経避し、共存的社会を創ることを伝統としている五、全体の協力切磋、即ち共同学習より把握記念誌』を刊行し、その内で学苑の教育方針を以営者と労働者など、分割されている全ての存在との主張がそこにある。そうであれば、日本人する結論の価値を認識する事下のように簡易な言葉でまとめて表わすようには個々に分断されず、本来調和をもって存在すにとって「和」は、私達日本人のことであり、日なった。るべきであるとの理念である。本的なことであり、人間関係において他者に敬を挙げ、各々の内容ごとに詳細に触れている。討ここに、学苑は創立14年を経て、校長児玉に意を払い、とげとげしさを避け、人の意見をよ議法による学習方法は、終戦後の米国型民主教1）「世界に信頼される日本人の育成」より「学苑の独自の建学の精神」が創られることく聞いて話し合いをよく行い意思決定をするこ育推進の政治的側面があったとしても、「和」の2）ヒューマンタッチの教育になったといえるであろう。とであり、そのためには、人はその人格を形成精神を表す「万機公論ニ決スベシ」の方法を学校3）健康・真面目・努力していく上で知・情・意などが均衡を持って発教育で展開していくべきであったとの思いが4）凝念教育民主的で平和的国家建設のための教育達した調和のある人となるべきであり、これにあった。もちろん、「五箇条の御誓文」や17条憲知・情・意の統一的発達を求め、更に心と肉よって調和ある社会を形成していくなどの意味法の「和」は、君主と下臣の関係の中での意思決この周年誌の内で上記に掲げる学苑の建学の体との調和的発達を目的とする「全人格教育」をを内包しているといえる。定の方法であり、民主主義が本来持っている対精神とこれを実現するための教育方針の内で特行うため、その教授法として、実践躬行の体験児玉は、本来「和」を行動の規範として持って等の人々による自由な討論を通しての意思決定記すべきことは、児玉自身が1937（昭和12）年に主義教育があるというその児玉の教育論には、いたはずの日本が、昭和初期から終戦に到るま方法ではないが、討議を通して意見の集約を計掲げた学苑の教育目的としての「全人教育」が消「一円融合の和」に基づく「和」についての確たるで、平和の対極にある戦争状態を引起し、結果る考え方は、民主的手法の一つであると言える。え、その代わりに「世界に信頼される日本人の育理念があった。常々、児玉は各種の講話の内で、として国内外の多くの人々に大きな災禍をもた児玉は、この小論の末尾に、討議法の「精神と成」が掲げられたことである。また、校訓として「森羅万象、万物生成の原理は「和」であり、それらす事態となってしまったことに対する原因と方法とを自由自在に活用して、民主主義教育の「健康・真面目・努力」が新たに加えられた。こらを教材として教育を行うべし」と述べている。して「和」の精神が欠けていたと考えていた。基礎たる自学自研の教育精神と積極敢為なる公こでは、新たに加わった「健康・真面目・努力」この「和」は、調和、均衡、融合などの意味を有「和」の対極にある軍国主義や超国家主義による民常識修養の面を盛んにし、平和国家建設の土の校訓について述べていく。しているが、他方、「和」の意味は、やわらぎ、穏戦争を引起したことに対し、戦後の日本人は大台となる教育を益々振興せられん事を切望す学苑の教育方針の一環として、「健康・真面目・やかさ、なごやか等の極端に対立的でない様相きな反省を求められるようになった。教育者もる」と述べている。努力」を3綱領と命名し、他の教育方針と共に学を表す言葉でもある。また、古代の中国人が日同様であった。そこで、教育について大きな方日本が再び戦争を引起すことのないように、苑教育の特色として表わされるようになった。本人の住むところを倭と称し、転じて「和」とな向転換があり、各種の議論を経て、戦前の教育民主的で平和な国家を構築していくために、主この3綱領は、言い方も簡潔であり、憶えるのもり、日本、日本的などの意味を持っている。体制を象徴的に表わしていた「教育勅語体制」か要な教育方法の一つとして討議法を掲げ、その容易であったため、学苑の児童、生徒、学生、教このように、多義の意味を有する「和」についら、戦後教育の特色を表す「教育基本法」体制へ目的を述べているが、恐らく児玉の心中には、伝職員、保護者等に瞬く内に広がっていった。こて、特に明治期以降の指導者の多くは、話し合の大転換が行われた。統的にあった「和」の精神が欠けた日本であったれ以来、学苑の建学の精神あるいは教育方針は、いによる合意の方法としての「和」を使用してい児玉は、第二次大戦後の1946（昭和21）年、『文ことに対する反省と批判があり、「和の精神」に「健康・真面目・努力」と見なされるようになっる。明治期に入ると同時に、明治政府は新たな部時報』に「新教育に必要なる討議法」という講基づく具体的教育法の一つである討議法によるた。CHAPTER2第2章276MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory277

## Page 140
![Page 140の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000140.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅱ明星学苑の建学の精神の成立過程PART1第1部この3綱領は、いうまでもなく児玉自身の人生ら「あなたは、兵役とは関係ありませんが、専門「誠の心」があれば、当然そこには「努力」が必要ここでは「学苑の建学の精神」は『和の精神に基訓であるが、これが校訓にまでなっていったのの職務で今後ともお国のために尽して下さい」である。づく』ものと記されている。府中校における学苑は、他の教育方針と深く関わっていた。と言われたとのことであった。以降、児玉は教このように、児玉が唱える健康・真面目・努教育の教育方針と日野校、大学おける教育方針児玉は、還暦を過ぎた頃から、学苑の入学式、育にかかわることが天職と考え、これに専念し、力の3綱領は、単に児玉個人の生き方を規律するの根幹を為す建学の精神は、別々の表現となっ卒業式、凝念後の講話等の際、必ずと言って良教育に直接関係のない仕事は極力避け、教育一人生訓にとどまらず、学苑の建学の精神の支柱ており、これを学苑全体の表現へと統一させていほど、次の話をしていた。筋の生涯を送り「お国のために尽す」決意をしをなすものの一つであった。いく努力が後に行われていくことになる。た。健康であり続けることの目的は、何らかのなお、『創立40周年記念誌』で表わされた「世界以上のように、中村春二の教育方針にもって早生児で生まれたが故に、幼少の頃は身仕事を続けることよって、社会に貢献出来る人に信頼される日本人の育成」は、大戦に対する反学苑の建学の精神として出発した学苑は、児玉体的に恵まれていなかったので、このこととなるといえるであろう。省の意味が深く込められている側面もあったとを校長に迎えた後、児玉自身の人格形成思想にが多少なりとも劣等感を抱くことになって児玉の「健康」に関するこの信念は、学苑入学思われる。基づく教育理念が次第に学苑教育に反映され、いった。特に、旧制中学に入り、当時必修選考にも現れていた。学苑は、当時の学校とし学苑は、1983（昭和58）年に創立60周年を迎え、成蹊学園とは異なる独自の教育方針に基づき形であった（軍事）教練の時、他の生徒と別のては珍しく身体に障がいがある生徒を入学させその際にも『創立60周年記念誌』を刊行した。当成された「学苑の建学の精神」が現われるように取扱いを受け、それが時として屈辱感もたていた。公立学校では、教練があるが故に入学時の理事長・学長等は児玉三夫であったが、学なっていった。上述のように、児玉の教育理念らすこととなっていった。そこで一念発起できなかった身体に障がいがある生徒を受入苑の建学の精神を表す教育方針は、一部表現上形成上の根幹には「報徳思想」があったが、これし、体力を作るため柔道を始め、後に壮健れ、彼らに心身共に積極的に援助を行った。この違いはあるが、創立40周年時と基本的には同を学苑の建学の精神そのものにしたのではなな身体を作っていった。の入学選考と学習援助は、上述の児玉の考えに様であった。しかし、学苑の教育方針とは別に、く、星野が創設した学苑における教育方針に、創よるものと思われる。障がいを持った生徒の内、大学の教育方針については、明星学苑建学の精設時の理念に沿って独自色を加味したものであこの背景となった（軍事）教練は、当時の「富判明している者だけでも、3名が東京大学の教授神は、「和の精神によって貫かれている。本学にり、また、戦争による大きな影響を受けて再構国強兵」の国策の下で国家の教育方針として定となり、学問と教育の世界の発展に大いに貢献おける教育と経営、学問と応用、教養と専門、教築したものであった。しかし、学苑全体としてめられたものであり、また徴兵制度があった当したのである。また、彼ら全員が東京大学退職授と学生の関係は、いずれもこの根本精神に基は「創立60周年誌」に見られるように、表現に不時では多くの国民の間で中学校での教練は当然後、母校が設置した明星大学の教授となり、教づき、教育を深化徹底させ…」と表されており、統一の側面もあった。の如くと見なされていた時代であった。男子の育研究に貢献し、自らの後輩を育てることにも子どもは、軍人となり、「お国のために尽す」こと貢献したのであった。は、国民一人ひとりの義務と見なされた時代で「真面目」の意は、これも学苑の建学の精神をもあった。児玉は、在学していた旧制掛川中学示す「人格接触による教育」から由来している。校の近くに「報徳社」があったこともあり、中学この教育目的は、人格接触などによる教育によ校在学中より報徳社の学習定例会に出席するより、自ら進むべき道を探る礎を築き、それにようになった。ここでの学習は、「思想的に未熟なり、何らかの形によって、社会への貢献をなす年代に、このような身近に報徳社という偉大な「誠の心」によって、自分自身の尊厳が我欲によ思想の殿堂が存在したことは、私にとってなんり毀損されることが無いようにする教育であという幸せであったことでしょう」と児玉自身る。人は何かにつれ、生きていく内で狡猾さをが後に述べているように、ここでの学びは体力身につけていく恐れを持っているが、自己利益的に恵まれなかった児玉少年には、大きな新たのため他者を欺くこの行為は、「誠の心」に反すな希望に見えていたのであろう。軍人としてでるものであるので、心から「誠の心」の状態になはなく、農村及び地域社会の改革者として「お国ろうとすれば、「真面目」「正直」になって欲しいのために尽す」二宮尊徳の思想に勇気づけられとの意味がここにある。たものであった。児玉は長じて徴兵検査を受け、「努力」も、また、「健康」や「真面目」と同様に、検査官である軍医より兵隊としては身長の関係学苑の建学の精神に由来している。我欲にとらで不適格と判定されたが、検査を司る司令官かわれず、社会に奉仕しようとするならば、即ちCHAPTER2第2章278MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory279

## Page 141
![Page 141の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000141.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅲ児玉三夫理事長による学苑の建学の精神に対する考えPART1第1部Ⅲ.児玉三夫理事長による学苑の建学の精神に対する考えびに禅宗の教義を通して形成された日本の伝統的思想に基づくものが中心にあることに対し、児玉の思想の根源には、I・カントに代表されるドイツ観念論に基づく教育思想の影響があり、人の「個」や「主体」「理性」「自由」などについての者が跋扈し支配する国となり、その結果、多くの国民が個人としての尊厳や幸福を失いせしめられた国家や社会から解放され、新たな国家や社会へと大転換していく趣旨を持った「教育基本法」の制定は、当時きわめて感動的なもので深い共感があった。児玉は、他方、兵役に就いあった。児玉は、大学で教育学を講じる際、「教ていた時には『論語』を常に携帯し、時間があれ育基本法」全条を諳んじ、特に同法制定時の感動ば読み耽っていたとのことであったと語っていと、同法に基づくこれからの教育について常にた。それ故、児玉九十の思想にも共鳴するとこ熱く語っていた。ろが大いにあった。教育基本法の精神は、それまでの日本の教育児玉が中国戦線から幸運にも復員できた1946界を大きく縛ってきたとも言える1890（明治23）（昭和21）年5月頃は、戦後の新たな国家体制や年発布の『教育勅語』体制からの大転換を表すも1978（昭和53）年4月より、児玉三夫（以下、児及び大学院文学研究科の教授として教育学を講それに則した新たな教育体制のあるべき姿につのであった。天皇の御言葉とされる教育勅語は、玉）は、児玉九十が担っていた学苑の理事長職とじ、主に、J・H・ペスタロッチ、I・カント、J・いて、議論が沸騰していた時期であった。同年日本人のあるべき道徳性について主に述べてい学苑が設置する大学、高等学校、中学校、小学ヘルバルトなどの教育学研究を行い、同時に教11月に「新憲法（日本国憲法）」が布告された。新るものであるが、『常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一校、幼稚園の全ての長の職を引き継いだ。員養成に係る教育原理などの科目を教えた。憲法は、それまでも「大日本帝国憲法」と比べ、旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運児玉は、1915（大正4）年に、小原三夫として鹿児玉が青年期に受けてきた教育と、長じての恒久平和主義、主権在民、基本的人権の確立にヲ扶翼スヘシ』との語に表わされているように、児島県で生を受け、叔父に玉川学園創立者の小教育学研究の内容を見れば、大正デモクラシーついてより明確になり、これらの理念を色濃く日本が置かれていた国内外の情勢をも反映して原國芳がいた。小学校3年生の時に父の仕事の都の影響を色濃く受けた「大正自由主義教育」での反映した「教育基本法」と「学校教育法」が翌年のいたことから、どうしても国家の一員としての合により上京し、澤柳政太郎が創設した成城学経験が基盤となっており、その上に西洋哲学を3月末に公布・施行された。当時の「教育刷新会あるべき日本人の育成に重点が置かれており、園の小学校に編入した。後に、同校の旧制高等基礎理念とする教育学研究に深い関心をよせて議」での議論を得て制定された「教育基本法」の今日の視点から見れば、そこには個人の尊厳や学校を経て、東京帝国大学文学部に入学し、教いたことが分かる。前文には、「われらは、さきに、日本国憲法を確個人の成長という視点が希薄であったことは否育学を専攻した。児玉は、旧制成城高等学校生児玉は、児玉九十の唱える人格接触・凝念に定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界めない。特に、個人が国家に縛られていた戦時の頃より哲学と教育学に関心を寄せ、将来は教よる教育、全人格陶冶の教育などに理解を持っの平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を中を過ごした者にとっては、「個人の尊厳を重ん育者となることを希望していたので、文学部へていたが、児玉九十の思想の根源には青年期に示した。この理想の実現は、根本において教育じる」教育の新たな体制の実現は多くの教育者の進学を選択した。大学卒業後すぐに長崎師範大きな影響を受けた「報徳思想」や漢学・和学並の力にまつべきものである。われらは、個人ののみならず大多数の国民がこれに賛意を持って学校（現：長崎大学）教諭となり、戦時下の1943尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育受け入れていた時代であった。（昭和18）年に、児玉家の娘婿に迎え入れられ、成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性児玉は、学苑においては児玉九十の右腕で児玉三夫となった。この時より、児玉九十の下ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しあったので、児玉九十が理事長であった時は、児で、明星学苑で教育を行うと同時に、児玉九十なければならない。」と述べられている。同法の玉九十が表明する明星学苑の建学の精神に基づの右腕として学苑経営に携わるようになった。第1条（教育の目的）では、「教育は、人格の完成く教育方針を変えることは無かったが、自身が児玉は、徴兵による約3年の中国戦線での兵役を目ざし、平和的な国家及び社会の形成者とし理事長となって以降、少しずつその表現を変えを経て、1946（昭和21）年5月に復員し、再び学て、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、ていった。特に、児玉にとって変える必要があ苑での教育及び経営の仕事に携わることになっ勤労と責任を重んじ、自発的精神に充ちた心身ると思ったのは、学苑教育の目的を表す「世界にた。それと同時期に、東京農業教育専門学校（現：ともに健康な国民の育成を期して行わなければ信頼される日本人の育成」であった。筑波大学）より招致があり、助教授職を務め、1ならない」としていた。明治以降のほとんどの教育者の関心は、文明年半後に、東京都立大学助教授となり、後に教大正リベラリズムの内で青年期を送り、成城開化の方針のもと新たな時代を迎えた日本人が授となった。学園という代表的な「新教育」による教育を受け「どのような人になり」、そのためには「どのよう1960（昭和35）年に早稲田大学に転じ、文学部イマヌエル・カント（1724～1804）てきた児玉にとって、超国家主義者や軍国主義に育てる」かであった。その国の国民としてのあCHAPTER2第2章280MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory281

## Page 142
![Page 142の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000142.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷Ⅲ．児玉三夫理事長による学苑の建学の精神に対する考え／Ⅳ．荒井正大理事長時代における学苑の建学の精神と教育方針の再構築PART1第1部るべき理想像を示し、そのための教育をその国固有の文化や伝統に沿って行うことは、教育のあるべき姿としては当然であるが、それが故に、この国に生まれた子どもたちを鋳型にはめるような教育があったとすれば、本来、教育のある育成」を学苑の建学の精神に基づく教育目的とすることは適切ではないとの認識がそこにはあった。こうして、児玉時代の学苑の建学の精神は、Ⅳ.荒井正大理事長時代における学苑の建学の精神と教育方針の再構築べき姿から見れば大きな問題であることはいう1）人格接触による「手塩にかける」教育までもなかった。国民教育としての教育を中心2）実践躬行の体験教育に考えていた明治期以降の教育者の多くは、一3）凝念による心を強くする教育個人としての人間教育より、「日本人としての教4）校訓としての健康・真面目・努力による教育」の方がどうしても関心の中心となる傾向が育あった。児玉は、「教育基本法」でいう、「個人の尊5）上記の教育を通しての世界に信頼される人厳」に重きを置き、日本人のみならず、全ての国の育成の人々が教育によって各々の「人格を完成」して学苑が私立学校法に基づき学校法人化されてを目ざす教育改革の必要性を強く訴えていっいくことを教育目的とすることに賛意であったしかし、自らが中心となって創立した明星大からの第4代となる理事長として、荒井正大た。荒井は、各設置校における教育改革に際し、444ので、「世界に信頼される日本人の育成」を「世界学の教育方針の根幹をなす建学の精神について（1922（大正11）〜2004（平成16）年：以下、荒井）必ず学苑教育の原点に立ち戻り、学苑教育に相4に信頼される人の育成」へと文言を換えることは、「明星学苑の建学の精神は、『和』の精神にが1996（平成8）年に選任された。荒井は、戦時応した教育改革の道を探って欲しい旨、学苑広にした。よって貫かれている」と表していた。下に学苑の旧制中学校を卒業し、後に東京帝国報誌などを活用し述べるようになった。そこで、児玉は、超国家主義が国全体を支配し、国粋なお、1987（昭和62）年に学苑理事長として自大学法学部を卒業し、卒業後は共同通信社で外荒井は、学苑の建学の精神と教育方針について、主義が外国の文化などに対して排他的となってらが中心となって設立した「いわき明星大学」信部長などを務め、退社後、明星大学で教授職児玉九十の教育理念をもとに体系的に論じる必いった戦前の一時期に対し、国際主義の必要性は、その教育目的として掲げたものは「全人教として政治学を講じ、学生指導に当ると同時に要性があることの認識から、児玉九十の教育論を痛感していたので、戦後になって、国際教育育」であった。ペスタロッチ研究者であった児玉学苑常務理事も兼ね学苑経営にも当たっていとそれに基づく学苑の建学の精神をまとめるにに取組むことに熱心であった。明星大学は、児は、ペスタロッチの教育思想を何よりも信奉した。荒井は、学校法人化以降の学苑にとって、児際し、荒井と共に学苑生活を送っていた中村正玉学長時代に、米国・英国・中国などの多くのており、人の発達は、道徳性を中心として知的・玉家以外に理事長となった最初の人物であり、勝（以下、中村）に、その協力を依頼した。中村大学と学術交流協定を結び、学生が国際性を身身体的・技能的・美的諸能力が調和を持って開かつ理事長職にのみ専務した最初の人物でもも学苑卒業後、東京帝国大学文学部に入学し、西につけ、多角的に物事を見ることができる眼を花されていくのが理想の教育であるとする「全あった。荒井は、学苑理事長として、学苑存立洋思想史を専攻し、卒業後は主にお茶の水女子養うことの必要性を強調していた。また、現実人教育」を同大学の建学の精神となる教育目的の基盤となる学苑の建学の精神について、児玉大学で教授を務めていた。中村は、明星同窓会的問題として、決して少なくはない留学生を抱としていた。九十の教育理念を基に再整理しようと試みた。える大学にとって、「世界に信頼される日本人の荒井は、旧制中学校時代に寄宿舎生活を送っており、そこで児玉九十から直接受けた体験から得られた教育的価値についてまとめ、それを基に学苑教育の独自性とその継続性を図ろうとした。他方、荒井が学苑理事長となった1996（平成8）年当時には、少子化の影響は既に顕著に現れてきており、学苑各設置校の学生・生徒等の確保力は明らかに低下していた。この事態に対し、荒井は各設置校における教育力の向上をもって対応していこうとし、各設置校の学校長や教職員に向けて、教育力の向上荒井正大（1922～2004）CHAPTER2第2章282MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory283

## Page 143
![Page 143の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000143.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷Ⅳ．荒井正大理事長時代における学苑の建学の精神と教育方針の再構築／Ⅴ．斎藤和明理事長時代における学苑の建学の精神PART1第1部長であったこともあり、非常勤の学苑理事となっていた。中村は、荒井の協力要請を受け、児玉九十から直接薫陶を受けた者の使命として、「児玉九十の教育論」を中心に『明星学苑の来歴と建学の精榜されるようになった「世界に信頼される日本人の育成」について、「信頼」を「貢献」に変えた方が良いのではないかという提案であった。その趣旨は、明治期以降の日本人は、西洋列強に伍する文明国家となるべく努力をしてきたが、昭Ⅴ.斎藤和明理事長時代における学苑の建学の精神神』と題する小冊子を刊行した。中村がまとめた和に入り、超国家主義者と軍国主義者によって同書は、学苑の広報誌『明星学苑報』に8回に分世界の多くの国を敵にまわし、その結果としてけて掲載され、最後に一冊本として2002（平成敗戦をまねき、日本人は世界からの信頼を失っ14）年に刊行された。冊子の内容は、主に『児玉たとの認識があり、戦後の復興に当たっては、民九十自伝』に則り、児玉九十の少年期、青年期に主的で平和な国家の国民として「世界に信頼さおける思想形成過程を追い、学苑創立の経緯とれる日本人の育成」の教育を通して、信頼回復を学苑での寄宿舎教育の内容と児玉九十の教育方したいとの児玉九十の考えは理解できるが、戦針等に触れ、児玉九十の教育思想の根幹をなす後復興をなし、国際的経済協力などを経て平和2000（平成12）年に荒井正大の後を継ぎ、斎藤苑の「建学の精神」や「教育方針」が浸透するよう二宮尊徳、王陽明、鈴木大拙などの思想についで民主的国家となった現在では、教育基本法前和明（1935（昭和10）〜2008（平成20）年：以下、に努力を重ねた。最初に行ったことは、中村春て言及し、これらを基に学苑の建学の精神につ文で述べるような「世界に貢献する日本人の育斎藤）が学苑の理事長となった。斎藤は、新制明二、児玉九十、児玉三夫などが重ねてきた学苑いてまとめた。中村は、丹念に児玉九十の教育成」の方が適切ではないかということであった。星中学校・高等学校の卒業生であり、国際基督教育の基本理念と教育方針を基に、より分かり思想や実践について述べ、それを学苑の建学の中村がまとめた『明星学苑の来歴と建学の精教大学で英文学を専攻し、同大学の教授、副学やすい言葉にまとめ、それを学苑教育に携わる精神としていたが、冊子の最後に自身の感想を神』は、学苑各設置校の全教職員に配布され、同長を勤めた者である。斎藤は、同大学在職中よ全教職員に伝えようとしたことであった。も述べている。それによれば、学苑の建学の精時に中村自身が講師となり教員研修の一環としり明星大学の運営について助力し、学苑卒業後およそ、教育に係る理念の多くは、各々の教神として、とりわけ児玉九十によって、戦後標て披露された。も学苑と深い係りを持ち、児玉九十、児玉三夫育思想家の深い学識を基に形成されている。学と長きに亘る交流を持っていた。斎藤は、学苑苑の教育理念も、児玉九十は中国思想、日本思在学中には、児玉九十校長の下で学苑教育の薫想、仏教思想などについての深い学識を基に形陶を受け、学苑の教育方針については自ら体験成されており、児玉三夫は西洋哲学に基づく近し、熟知していた。代教育思想についての深い学識を基に形成され学苑理事長となってからは、斎藤は、学苑各ている。更に、各々の思想家は、各々の過ごし設置校が持っている教育方針について、より学た時代背景や独自の経験がこれらの教育理念を形成する背景を担っているので、これをも理解する必要がある。こうしたことから、学苑の教育理念を完全に理解し、それを全教職員に認識してもらうことは並大抵ではない。そこで、より平明にして簡潔な言葉をもって学苑教育の理念を提示することが必要と考えた斎藤は、学苑教育の建学の精神を簡明に表す言葉を要約し、それを学苑全教職員に周知しようとした。そこで明星学苑の建学の精神を簡潔に要約するに際し、斎藤は、「和の精神に基づく教育」を学苑教育の基本として捉えようとした。斎藤は、学苑が児玉九十により学苑独自の教育目的として掲げ中村英勝『明星学苑の来歴と建学の精神』斎藤和明（1935～2008）た『全人教育』の中で述べる知・情・意の調和をCHAPTER2第2章284MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory285

## Page 144
![Page 144の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000144.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷．Ⅴ斎藤和明理事長時代における学苑の建学の精神PART1第1部以って構成される人格のあり方としての「和」ていくための教育の必要性を何よりも認識して以上の斎藤による学苑の「建学の精神」についとめることにした。委員会はこの後、複数回のと、戦後に児玉三夫が感銘をうけた平和の「和」いた。ての要約は、「児玉九十の教育理念を基に、児玉議論を経て成案を得て、7月末にその役割を終えを結ぶものとしての「和」に焦点をあてたので斎藤は、当時の明星大学学長であった氏原淳三夫の戦後教育的理念を加味させ、教育基本法た。学苑理事会は、委員会の答申を受け、答申あった。これは、また、学苑創立60周年記念誌一の求めにより、明星大学生が学苑の建学の精が掲げる理念に沿って学苑の「建学の精神」を再に沿った議決を行い、「寄付行為」の改訂に着手において学苑と大学が別々に掲げた「建学の精神に基づく教育を受け、それにより学生一人ひ構築することであった。斎藤がまとめた学苑のし、法令の定めに従い、文部科学大臣へ届出を神」を統一する必要があることによるものでもとりが将来「どのように生きるか」を模索する上建学の精神とそれに基づく教育方針を、学苑と行い、翌年4月より施行されることになった。こあった。斎藤が学苑の「建学の精神」の中心にでの参考となるものとして、明星大学出版部よして正式なものとするため、斎藤は、学苑関係うして学苑寄付行為に、初めて学苑の「建学の精「和」を置く主な理由は、「和」には多様な概念がり2007（平成19）年『学天の明星をめざしてあな者による多方面からの意見を聴取し、学苑理事神」が記載されることになった。あるが、その内で、暴力に到るまでの「力によるたはどのように生きるか』を刊行した。会による正式な手続きを経て行うようにしよう学苑の建学の精神を要約した確定版は、以上争いをせず」「話し合いをよく行い」「各々の集団この著の中で斎藤は、明星教育として把えてとした。2008（平成20）年4月に、理事会の議をの手続きを経たものであったが、建学の精神は間の分断を避け」「平和な社会を作る」即ち、「平いる「建学の精神」を以下の通り要約した。経て、「学苑の理念検討委員会」を設け、そこで意斎藤の方針に沿って、「和の精神のもと、世界に和で民主的な社会」を形成していく上で最も必見の集約を図ることになった。検討委員会の構貢献する人の育成を目的とする」となった。「信要なものとする考えであった。斎藤は幼少期を1）「和の精神」を基にした教育成員は、理事長が委員長となり、各設置校の学頼」から「貢献」となったのは、児玉三夫や斎藤戦時下で過ごし、戦争体験から来る平和への願2）「真心と真心の人格接触による」「手塩にか長・校長・園長、各同窓会長、同窓生から選出が心より賛意を示した教育基本法の理念であるいを何よりも深く所持していた。この信念は、児ける」教育された評議員、常任理事などであった。斎藤を「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献するこ玉三夫が体験した軍国主義者と排他的な超国家3）こころの力を育てる「凝念」教育委員長とする同委員会は4月から開催され、活発とを願い」から由来していたことは確かであっ主義者の支配する社会への批判と同一なもので4）校訓「健康、真面目、努力」の教育な意見交換を経て成文を得ようとする直前の6た。あった。それ故、「平和で民主的な国家を形成」し5）「世界に貢献する人の育成」への教育月に不幸にも斎藤は急逝してしまった。学苑教育による人格形成の目的を「和の精神斎藤の後任理事長に、常任理事であり、学苑のもと、世界に貢献する人を育成する」とし、こ卒業生でもあった蔵多得三郎（1939（昭和14）年れを学苑の建学の精神として確定した後、この〜2023（令和5）年：以下、蔵多）が就任すること目的を達成していくための教育方針は、中村春になった。蔵多は、学苑中学校を卒業後、東京二や児玉九十の教育方針を中心に以下のよう大学法学部に入学し、卒業後は日本放送協会に、まとめられた。（NHK）で活躍し、局長などの重職を勤めた者であった。日本放送協会退職後、請われて学苑常1）人格接触による手塩にかける教育任理事となり、斎藤の補佐として、主に財務、労2）凝念を通じて心の力を鍛える教育務面を担当していた。蔵多理事長は、斎藤の仕3）実践躬行の体験教育事を引継ぎ、「検討委員会の委員長」として、学苑の「建学の精神」と教育方針などについての文言以上の教育方針は、学苑創立以来普遍的なもの確定を行った。理念検討委員会は、学苑全体のとして捉えられた。の建学の精神と教育方針などの文言をまとめた上記の建学の精神、教育方針以外に、児玉九後、引き続き各設置校の教育目的を、新たに確十の人生訓を基に、学苑教育の特色を表すもの定した学苑の建学の精神に基づき再度定めることして校訓を掲げ、それを「健康・真面目・努力」ととし、各設置校校長の意見を中心に文言をまとした。CHAPTER2第2章『学天の明星をめざしてあなたはどのように生きるか』286MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory287

## Page 145
![Page 145の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000145.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の建学の精神とその変遷Ⅵ．学苑創立85周年時に公示された学苑の建学の精神︑教育方針︑校訓及び各設置校の教育目標PART1第1部Ⅵ.学苑創立85周年時に公示された学苑の建学の精神、教育方針、校訓及び各設置校の教育目標を策定し、それらが実行可能な計画となるよう中期計画を立てて今日に到っている。創立100年目となる学苑教育のビジョンは、「自ら変革し続け、新たな時代、新たな世界を謳歌する、人間性あふれる卒業生を輩出する学苑」とし、この学苑ビジョンに基づき、各設置校ごとのビジョンを策定している。このビジョンの『学天の明星をめざして―明星学苑創立85周年―』根底には、急激な技術革新と一人ひとりの幸福追求の多様化が避けられない今日、学苑教育をと、これらに則った各設置校の教育目標は、学うけた卒業生は皆、変化への適応力を高め、し苑が存続していく限り不易的なものであるが、かも「自己」を見失わず日々の生活を充実させ、学校教育の現実は、時代や社会的状勢の影響を各自が自己実現を果たすことが出来るような人斎藤和明理事長の急逝を受け、新たな理事長で表す各校教育目的を、確定された建学の精神大きく受けるが故に、それに対応していく教育になって欲しいとの希望が込められている。ことなった蔵多得三郎が就任した時は、学苑創立の表現に基づき、新たに表記することになった。内容の変革は絶えず必要となる。それ故、普遍のビジョンの根底にあるものは、自己と環境を85周年に当たる年であった。学苑は、創立85周この内容についても、各設置校の学長、校長、園的な建学の精神や教育目標等に基づき、時限的取り巻く社会との調和をもって、社会に貢献し年に当たり、学苑記念誌として『学天の明星をめ長が関係者の意見を聞き、まとめたものを検討なビジョンなどの策定が必要となる。これらは、ていく人を育てようとする「学苑の建学の精神」ざして―明星学苑創立85周年―』を刊行した。委員会で協議し、理事会で承認するという手続理事会と各設置校長などとの協議を経て、学苑から由来したものである。同誌の内で、先述した学苑理念検討委員会にきに沿って行われた。その結果、各設置校の教全体の教育ビジョンと各設置校単位のビジョンおける議論を経て理事会で決議し確定した学苑育目標は、以下の通りとなった。の「建学の精神、教育方針、校訓」は、全教職員、保護者等学苑関係者などに対し公付された。学各設置校の教育目標参考文献苑の「建学の精神」などは、学苑にとって不易なものとして、創立100周年を迎える今日まで継続されることになった。学苑全体の建学の精神、教育方針、校訓の確1）明星大学「自己実現をめざし、社会貢献が出来る人の育成」2）いわき明星大学文部省『学制100年史』、1972年明星学苑編『明星学苑40年』、明星学苑、1963年児玉九十『喜寿記念この道五十年』、明星学苑、1965年明星学苑創立50周年記念編集委員会編『創立50周年記念』、明星学苑、1973年定を受け、学苑各設置校は、学則・校則・幼則「全人教育に基づいた、地域社会に貢献できる人の育成」3）明星中学校・高等学校「自律心を持った自立した人の育成」4）明星小学校「正直なよい子の育成」5）明星幼稚園明星学苑創立60周年記念誌編集委員会編『明星学苑60周年記念誌』、明星学苑、1983年児玉九十伝編纂委員会『児玉九十自伝』、明星大学出版部、1990年児玉九十・児玉三夫『明星ものがたり』、明星出版社、1992年児玉三夫先生喜寿記念論文集刊行委員会編『教育の真理と探究』、明星大学出版部、1993年編集委員会編『学天の明星をめざしてあなたはどのように生きるか』、明星大学出版部、2007年成蹊学園百周年史編纂委員会・百年史出版プロジェクト編『成蹊学園百年史』、学校法人成蹊学園、2005年奈良本辰也『二宮尊徳』、岩波書店、1959年ペスタロッチー著『ペスタロッチー全集』、平凡社、1960年「よい子の育成」島田虔次『朱子学と陽明学』、岩波書店、1967年中野光『大正自由教育の研究』、黎明書房、1968年蔵多得三郎（1939～2023）以上のように、学苑の建学の精神を平明で簡潔な表現をもって表すこの確定に併せて、各設置校は、児童、生徒、学生等の発達段階に合わせた教育目標を改めて定めた。学苑教育全体の建学の精神、教育方針、校訓J・J・ルソー『ルソー全集』、白水社、1982年天野郁夫『学歴の社会史―教育と日本の近代』、新潮社、1992年カント『カント全集』、岩波書店、2000年J・デューイ・宮原誠一訳『学校と社会』、岩波書店、1957年J・デューイ『デューイ全集』、サザン・イリノイ大学出版部、1972〜1985年溝口雄三訳『伝習録』、中央公論社、2005年CHAPTER2第2章288MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory289

## Page 146
![Page 146の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000146.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

CHAPTER3｜第3章明星学苑の経営方針と経営体制の変遷

## Page 147
![Page 147の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000147.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷はじめに／Ⅰ．学苑創設時の経営体制PART1第1部はじめにⅠ.学苑創設時の経営体制CHAPTER3第3章学校法人明星学苑の教育（以下、学苑教育）は、代があった。このような社会情勢の内で、学苑既述のように、学苑教育の出発点となる明星当時、私立学校の設置・運営を定めた法令であ星野鏡三郎（1859（安政6）〜1932（昭和7）年：以経営を取り巻く現実的な課題に対応していくた実務学校設立の経緯は、成蹊実務学校の閉鎖にる「私立学校令」1899（明治32）年に依るもので下、星野）の私財による個人立の実務学校としてめ、学苑はどのような経営方針と経営体制をもっ関連し、実業家星野がその存続を願い、成蹊学あった。実務学校は、今日の視点で見れば各種出発した。学苑は、後に児玉九十（1888（明治21）てその取り組みをしてきたかを概観していく。園創立者の中村春二（1877（明治10）〜1924（大正専門学校に相当し、正規の学歴とならない準学〜1989（平成元）年：以下、児玉）を校長に迎え、概観するに際し、時系列に沿って、学苑が直13）年）の教育方針を継続するために現在の府中校であったので、理事は法令上必要なく、法的学苑設置母体を法人化し、児玉を中心とした教面してきた主なできごとを下記の年代区分ごとの地に開校したものである。には私塾的色彩の濃い「個人立」でよかったが、育活動により確たる社会的信用を得た。更に児に焦点をあて、実務学校設立時における経営組織は、開学前正規の学歴（上級学校進学資格）となる他の中等玉の後を継いだ児玉三夫により、学苑教育の拡の1922（大正11）年に実務学校開学の際の生徒募教育学校と質的に劣らない教育内容を持ち、そ大は飛躍的に発展してきた。創立100年を経た今①学苑創立時（1922（大正11）年）集広告として発行した「文部省認可明星実務学れを支える経営体制を持つ学校であるとの広報日、3年制入学定90名の小さな実務学校から出発②財団法人化時（1926（大正15）年）校設立趣旨書」によれば、経営組織である理事にであったと思われる。した学苑は、幼稚園から大学・大学院までを擁③学校法人化時（1951（昭和26）年）は、学校設立者として星野と、教育者として成「設立趣旨書」にある通り、実務学校の教育責する一大総合学園となり、児童・生徒・学生総④創立40年時（1963（昭和38）年）蹊学園長でもあった中村春二が中心となり、経任は中村春二が担い、星野が学校設置に係わる数は、約14,500名、教職員は約1,300名の大きな⑤大学設置以降（1964（昭和39）年）営を支える他の理事には、星野の実兄で実業家資金を私財をもって提供し、星野家縁故の者が学校法人となった。学苑教育を受けた卒業生数⑥創立50年時（1973（昭和48）年）であった星野錫、星野の実弟で海軍軍人であっ学校経営を資金的に支える体制を取っていたのは、大学卒業生に限っても約8万人を超え、多士⑦創立60年時（1983（昭和58）年）た村上鋠吉（村上家の養子となっていた）及び星が学苑創立当初の経営体制であった。済々の卒業生は政・官・実業・教育などの各界⑧創立70年時（1993（平成5）年）野の妻である星野花子の5名がこれにあたると学校設立に要する校地の取得、学校運営に要でめざましい活躍をしている。⑨創立80年時（2003（平成15）年）なっていた。この「設立趣旨書」とは別に、翌年する施設・設備などの資金の全てを、また、教一見順調に発展してきたように見える学苑教⑩創立90年時（2013（平成25）年）1923（大正12）年に生徒募集広告として発行され職員の人件費を含む学校運営経費の7割以上を、育は、しかし、ここに到るまでの学苑の歴史をた「文部省認可明星実務学校設立趣旨書」では、星野の私財によって賄っていた。振り返ると、発展の経緯は決して平易なもので上記と現在とに分け、各々の時代に生じた学理事として、上記理事に新たに児玉が加わり、星このような計画をもって出発しようとした実はなかった。この100年の間には、経営困難な大苑経営上の課題に焦点を当て、課題解決に向け野錫が退いていた。児玉が理事に加わった背景務学校の教育上の責任を担う予定であった中村戦前後があり、戦後の経済の飛躍とこの30年のての経営方針と経営体制について述べていく。には、児玉が成蹊学園在職中に懇意にしていた春二は、この頃より健康状態が悪く、実際は中停滞があり、若者人口の急増と急減が起った時星野より明星実務学校設立の際には、中村春二村の代わりに、当時成蹊実務学校長であった宮の教育精神を最も引き継いでいると思われる児本覚純が明星実務学校長となり、教育上の責任玉に、教育の責任者として参画して欲しいといを担うことになった。う願いがあったと思われる。以上により、学苑の経営方針や経営体制は、設なお、明星実務学校の設立に関する根拠法は、立者星野と宮本覚純との協議で行われていたと292MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory293

## Page 148
![Page 148の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000148.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷Ⅰ．学苑創設時の経営体制／Ⅱ．財団法人化以降の経営方針と経営体制PART1第1部思われる。実務学校開学当初の経営課題は、学生募集と星野の経費負担の継続性であったと思われるが、前者については開学当初より生徒は集まり、後者については、問題なく履行されていた。Ⅱ.財団法人化以降の経営方針と経営体制CHAPTER3第3章文部省認可明星実務学校設立趣旨明星実務学校設立3年後の1926（大正15）年に、西欧の学校視察から帰国した児玉が、星野のかねてからの要請を受け第2代明星実務学校長に就任した。児玉の発案もあり、明星実務学校を1886（明治19）年）に基づき設置される中学校（旧制）へと改組することを星野は決定した。この改組は、教育内容が商業の実務教育的なものから中等普通教育を構成するものへとなり、3年制の学校から5年制の学校へとなる大きな転換であった。これにより学苑中学校卒業生は、正規の中等教育学校修了者として高等学校（旧制）などへの進学が可能となった。私立学校が学校令による中学校を設置するためには、「私立学校令」により、設置母体を財団法人化しなければならなかった。学校教育という公益目的を達成するため、1890（明治23）年に制定された民法第33・34条に基づき組織される財団法人に関する規定を私立学校に適用した「私立学校令」によって、学苑は「財団法人明星学苑」となった。財団を組織するため、学苑は「寄付行為」を定め、事業の目的等及び管理者を正規に決めていった。1926（大正15）年11月17日付申請した「財団法人設立認可申請書」によれば、財団の役員は、「法人設立者」として星野、理事として児玉及び仁居津恵吉（実業家）が、監事として星野錫があたった。財団法人設立認可申請当時の議事録や財務諸表等が残されていないため、学苑経営に星野及びその他の理事・監事がどのように関わっていたのかは不明であるが、基本的方針は、実務学校時代と同様に、児玉が中心となって教育を行っていたと思われる。また、必要とされる運営経費は星野が中心となって提供し、相互の信頼関係を基に学校経営が行われていたと思われる。なお、明星中学校を設置すると同時に明星実務学校を廃止することになったが、廃止に関する認可書1926（大正15）年によれば、学校運営に294MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory295

## Page 149
![Page 149の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000149.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷Ⅱ．財団法人化以降の経営方針と経営体制／Ⅲ．学校法人化時以降の学苑の経営課題と経営体制PART1第1部要する資金のうち、3年制の実務学校から5年制の中学校となることによって、学費収入の増加が見込まれるとの記述があり、星野の多額な経費負担から、経営の安定のため学納金の増加による学苑独自の収入の道を目ざしたことが伺わ苑存続の危機への対応は、生徒数増による学苑収入増の施策を講じることによって、危機からの脱出を図っていった。中学校生徒数は1932（昭和7）年頃には、中学校開設時に比べ約2倍となっていた。星野の他界により、学苑経営は教育者Ⅲ.学校法人化時以降の学苑の経営課題と経営体制れる。である児玉がその任に当たることになった。明星中学校は、特色ある教育方針を有し、まこうして、学苑経営は、主に星野の私財によた、寄宿舎教育を通して独自の人格形成を行うる経営から、学納金収入を中心とする学苑の自学校として学苑教育への社会的評価が高まり、立的経営へと転換していった。確固とした地位を教育界に築き上げていった。児玉は優れた教育者であったが、他方、学校しかし、学苑経営者であった星野が1932（昭和7）経営にも優れた知見をもつ者であった。堅実な年に逝去し、更に星野が経営していた星野組が経営手法をもって学苑経営を行い、私学教育界1934（昭和9）年に倒産し、学苑経営に暗い影を落での世評も高く、太平洋戦争後の経済的困窮時太平洋戦争における敗戦をうけ、戦後の日本その自主性を重んじ、公共性を高めることにとすことになった。当時の財務諸表が残されて代に存続が困難となった多くの私学に経営上のは、国家の根幹から大きな変革が行われた。そよって、私立学校の健全な発達を図ること」を目いないため、具体的に学苑経営にどれぐらいの相談や助言を行い、場合により、一時的に他のの内の一つは教育改革であった。戦前のいわゆ的として制定されたものであった。悪影響を与えたのかは分からないが、その影響学校法人の理事長も兼ね、再興に当たっていたる「教育勅語体制」から戦後の「教育基本法体制」同法に則り、1951（昭和26）年2月に「学校法人はある程度予測される。また、当時は世界恐慌人物でもあった。へと大改革が行われた。学苑に直接大きく関明星学苑認可申請」を行い、3月1日に認可されの渦中にあり、日本経済も大変な不況下であっなお、児玉の私学経営について特記すべきこわった点は、学校系統が6・3・3制に変わり、従た。学苑は、学校法人化以前の1949（昭和24）年たので、学苑経営は相当な困難に直面したのでとの一つは、私学教育に携わる教職員の福利厚来の5年制の中学校が新たに3年生の中学校と3に幼稚園を設置し、翌年の1950（昭和25）年に小はないかと推測され、学苑存続の危機にあった生に熱心であり、戦後のいわゆる「私学三法」年制の高等学校に分かれたこと、及び、学校設学校を設置した。これらの設置校をもって、学と思われる。一方、学苑教育に対する社会的評（「私立学校法」、「私立学校教職員共済組合法」、置法人が、財団法人から私立学校法人となるこ苑は幼児教育から初等教育及び中等教育までを価は高く、特に教育者児玉の放送、出版、講演「私立学校振興会法」）の成立に奔走し、その実現とであった。前者についていえば、前期中等教包含する学校法人となり、学苑教育の一貫性のなどの学苑外での活躍もあり、生徒確保においにこぎつけた中心人物の一人でもあったことで育としての中学校教育と後期中等教育としての基礎が整えられた。ては盤石であったので、学苑の収入増を図るたある。高等学校教育が、一貫性を持って教育できる体学校法人となった学苑は、私立学校法第25条めクラス増を行い、これに対応していった。学制を学苑が持つことができるようになる大きなにより、学苑が独自に定める「学苑寄付行為」で利点があった。これが学苑教育における一貫教法人役員を理事5人及び監事2人以上を置くこと育の始まりとなった。後者についていえば、私になった。学校法人明星学苑発足時の理事は5立学校の学校教育体制の内での位置付けがより名、監事は2名であった。法人発足時の役員は、明確となり、国公立学校とより同等の地位を占学苑が財団法人化して以来の校長であり、星野めるようになった。1947（昭和22）年3月に「教育の他界後は学苑経営の中核を担っていた児玉基本法」が制定され、学校教育についての定めでと、児玉の娘婿であり、戦中より学苑の教諭である第6条では「法律に定める学校は、公の性質あった児玉三夫（1915（大正4）〜1996（平成8）年）、を有するものであって、国、地方公共団体及び星野の子息で戦前の財団法人時の理事であった法律に定める法人のみが、これを設置すること星野正一、星野の実弟の子息であり財団法人時ができる」とされた。これを受けて、1949（昭和の理事であった村上藤太、及び明星中学校・高24）年に「私立学校法」が制定された。同法によ等学校の主事（現在の教頭職相当）であった加賀り、私立学校は「私立学校法人」が設置する学校谷篤一郎の計5名により構成され、理事長は児玉となった。私立学校法制定の趣旨は、同法第1条九十がこれにあたった。私立学校の公共性を担で規定するように「私立学校の特性にかんがみ、保するため、役員構成は私立学校法第38条第7CHAPTER3第3章296MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory297

## Page 150
![Page 150の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000150.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷Ⅲ．学校法人化時以降の学苑の経営課題と経営体制／Ⅳ．創立40周年以降の経営方針と経営体制PART1第1部項により「各役員について、その配偶者又は三親人を越えて含まれることになってはならない」となっていたので、児玉家側名と星野家側の2名及び学校教職員を代表と名の計5名によって組織された。監事学苑は、学苑教育の拡張のため、従来は中等教育において男子のみに行われていた中学校・高等学校に、新たに女子教育も行うため明星中学校・高等学校に、男女別学の女子部を1954（昭和29）年に開設した。これらの施策により、学苑Ⅳ.創立40周年以降の経営方針と経営体制は、「独立美術協会」創立者の一人で、著名な画家生徒数は飛躍的に増加し、1960年代初めの頃に小島善太郎及び学苑関係者の2名によって組織は、約3,000名以上の在籍者を抱え、それによるされた。学納金収入の増加とともに戦後の困難期から学学校法人化された当時の明星学苑経営の特質苑経営は脱し経営が安定してきた。は、教育者児玉九十を理事長として行われてい学苑は、1961（昭和36）年に高等学校に普通科たことである。教学の責任者が学校管理のみなとは別の「工業科」の設置を行った。設置決定のらず法人経営の責任者でもあることであった。背景として、1957（昭和32）年に児玉と児玉三夫学校法人の管理の主な仕事は、私立学校法第24は欧州視察を行い、戦後めざましい経済復興を1963（昭和38）年に、学苑は創立40年を迎える通し、学生確保の見通し、卒業生の進路（就職）条に定めている通り「運営基盤の強化を図る」こ遂げていた西ドイツ（当時）の工業教育による人ことになった。当時の「寄附行為」による理事定の開拓と見通しなどである。特に必要なのが開とであり、「教育の質の向上」であり、そのため、材育成に感銘をうけた。中等普通教育だけで員は8名となり、増員された理事のほとんどは学設資金の確保であった。そのため、大学開設に学校教育を行う上で必要な「施設及び設備又はあった学苑教育に新たに中等工業系専門教育を苑主事であった。児玉は、学苑理事長であると賛同する学苑卒業生、在校生の保護者、学苑関これらに要する資金」と「学校の経営に必要な財加える発想を得、この実現への計画を策定する同時に、学苑が設置する幼稚園・小学校・中学係者などに開設資金の募金活動を行い、不足分産を有しなければならない」ので、理事長兼校長ことになった。この計画は、産業立国をもって校・高等学校の全ての長を兼ねており、それ故、は銀行から借り入れた。大学設置計画と実現化の仕事は、経営と教育の両方に責任を有する役戦後経済復興に力を入れていた日本政府の動向児玉を教育管理上補佐する教頭担当職を主事とに向けての具体的な作業は、当時早稲田大学教割を担うことになる。この教学と経営の一体管をも視野に入れたものであった。多数の工業系命名し、各設置校・園に置いた（明星学苑組織機授で、かねてより高等教育の管理運営に識見の理体制は、その後の学苑創立70周年頃まで続く人材養成が急務とされていた当時、学苑は社会構図図1創立40年時の組織機構図参照）。あった児玉三夫が中心となって当たり、大学設ことになる。的要請に応えるため、1961（昭和36）年「工業科」これらの主事を理事として兼務させ、経営と置の実現に多大な貢献をした。1963（昭和38）年学苑の理事の任期は、「学苑寄付行為」により3の設置に踏み切った。教育の一体管理体制を確立させ、この体制を通に文部省により設置認可が下り、1964（昭和39）年と定め、監事を含めた役員は3年毎に改選され1950年代後半から日本が高度経済成長期に入して、経営と教育運営上生じる各課題への対応年に大学は開設された。大学学長は、府中各設ることになった。1951（昭和26）年に選任されたり、これを支える工業の発展と高度化に要するを行った。置校長等と同様に、理事長児玉が兼務すること学苑役員は、1954（昭和29）年に第1回目の改選人材は益々必要となっていった。工業従事者の当時の学苑経営の重要課題は、念願となってになった。学苑は、学苑教育を中等教育から幼となったが、この改選時以降、学苑役員から星高度専門化の必要という社会及び産業界の要請いた大学の設置であった。大学設置構想の具体児教育・初等教育へと広げ、ついに高等教育に野家側の関係者は選任されることはなく、役員は、中等教育段階の「工業科」からより高度な高化は「工業科」設置以降急速に高まり、大学設置到るまで拡張することになった。学校法人化以は学苑教職員と学校経営に識見をする第三者だ等教育段階における教育を行うことを必要としのための準備委員会が設けられた。大学設置の降、大学設置をもって、幼児教育から高等教育けとなった。たため、この認識のもと大学設置の機運が学苑実現は、学苑創立40周年の最大事業となった。までを行う総合学園となる学苑の永年の課題一内で高まっていった。また、大学進学者急増の大学設置は、規模・内容・予算などに係わる設つは達成された。大学設置以降の新たな課題は、高等学校工業科電気通信科・電気科・電子科の授業背景もあり、大学設置の増加が国家的にも求められていた時代でもあった。他方、高等学校に置条件が、中等教育以下の学校とは抜本的に異なるものである。具体的には、当時の「大学設置新設された大学が順調に学生確保をできるかと言うことと、大学の管理運営が適切に行われて「工業科」を設置したことは、生徒数の増加を基準」による校地の制約のため、別地に大学用地いくかということになった。特に、大学を別地もって学苑経営の安定化を図ろうとする側面もを取得し、その上で、施設・設備の整備計画、開に作ったことによる学苑全体の管理体制の整備あった。設学部に関する教育研究の構想、教員の確保、設であった。以上のように、星野の逝去後より、学苑教育立資金の確保、大学運営資金の確保と収支の見存続のための財務上の課題は、生徒数の増員に機械鍛造工場よる学納金の増収で対応してきた。CHAPTER3第3章298MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory299

## Page 151
![Page 151の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000151.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷Ⅴ．大学設置以降の学苑の経営方針と経営体制／Ⅵ．創立50周年時の学苑経営の方針と経営体制PART1第1部Ⅴ.大学設置以降の学苑の経営方針と経営体制Ⅵ.創立50周年時の学苑経営の方針と経営体制CHAPTER3第3章日野校地に理工系1学部の単科大学として開学苑は、大学設置10年後ぐらいから、長期に学苑は、1973（昭和48）年に創立50周年を迎え任直前に青梅市に広大な土地を取得することを設された明星大学は、1年後に人文学部を増設わたる学苑経営の課題での一つであった教職員た。当時の学苑組織と役員構成は（明星学苑組織決定し、学苑の将来の発展計画に着手することし、総合大学としての第一歩を踏み出した。大の給与水準の上昇を図り、他の同様な私立学校機構図図2創立50年時の組織機構図参照）の通になった。学開設後の学生確保の見通しは、当時は第一次と比べて遜色ないものへと改善を図った。学苑りとなった。なお、理事長、学長などのこの交替は、学苑ベビーブーム時代であったこと、また、高度経経営の抜本的な課題は学苑教育の継続と質的向学苑組織を管理する常勤的理事は、新たに設経営の主要な関心が、府中校地における中等教済成長の成果もあって空前の進学ブームであっ上であるが、この根本においては学苑教育に携置された明星大学の総務部と教務部に各々部長育以下の教育から日野校地における高等教育へたこともあり順調であった。産業界には、成長わる教職員の身分の安定と待遇の適正化であるとして配置され、明星大学教員が充てられた。大と大きく変わっていくこととなる。児玉九十は、する産業にあわせて大量の人材需要があり、卒ことはいうまでもないことであった。児玉を中学設置以前まで府中各設置校において校長を補少年期から青年期にかけて形成される人格のあ業後の就職状況は良好であった。このような背心とする学苑教育の方針に心より共鳴し学苑教佐する主事は、全員理事職から外れるようにるべき姿に多大な関心を示し、自身の理想とす景もあり、大学経営は順調に進展していった。一員となったとしても、その待遇が適切でなけれなった。学苑経営の中核は、児玉九十と児玉三る人格教育を求めて初等・中等教育を行う私学般的に、大学は学生規模が高校以下の学校と異ば、学苑教育は永続しない。学苑経営の長年の夫が占めていたので、学苑経営体制の根幹は変教育に携わるようになったが、後任の児玉三夫なり大きいので、学苑収入は、大学設置後急速悩みの一つは、教職員の待遇の低さであった。児わらなかったが、学苑経営上、理事長を補佐すは戦後一貫して大学教員の道を歩み、その主たに好転し、大学設立10年後頃には、比較的余裕玉は、いつもこの問題に心を痛めていたが、大る常勤的理事は全員大学教員となった。る関心は青年期から成人期までの教育と社会ののある財務内容を持つようになっていった。学設置10年後この課題は解決に向かっていった。学苑の経営体制が上記のように代わったこと求める人材養成にあった。それ故、大学設置後もあり、学苑経営の方向性は、府中校の規模のの学苑経営の中心的課題は、大学教育の拡充で拡大と教育の質の維持から、大学規模の拡大へあったといってもよいであろう。理事の構成もと向かっていった。この方向に沿ったものであった。ただし、府中1978（昭和53）年に、長らく学苑教育と経営の校地と日野校地に2つのキャンパスを有する学中核を担っていた児玉九十が理事長・学長・校校法人となっても、法人全体を管理する理事長長などの全ての管理の職から退き、名誉職的地業務を補佐する仕組みとして設けられる法人事位である「学苑長」となり、児玉が占めていた全務局は設置されないままであったので、人事労職は、新たに長期にわたり児玉を補佐していた務などの管理体制は、実質的に2つの校地におい児玉三夫が引き継ぐことになった。児玉三夫は、て各々完結する型であった。学苑経営の更なる安定化を図るため、理事長就大学設置予定地の視察300MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory301

## Page 152
![Page 152の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000152.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷年以降の学苑経営と管理体制PART1第1部Ⅶ.創立60周年以降の学苑経営と管理体制②大学の意思決定に必要な教授会の役割の明確化及び理事会決定に到るまでの手続きの明確化③人事・財務等を含む理事会における最終決定に到るまでの意思決定手続きの透明化及よる規制に関する政策が次々に制定され、更に首都圏にある大学の開設学部に関する文部省（当時、現：文部科学省）からの設置制限があった。これにより、土地の開発と開設学部の構想は順調に進展しなかった。整地については、1980び手続の根拠となる規程の整備等であっ年代に入り規制に沿って少しずつ工事が進み、た。開設学部の構想については、国家的に養成が急務であった国際的な人材の養成と情報処理技術こうした指摘は、「自主性」とともに「公共性」者の養成は設置制限外だったので、これに基づの重要性が求められている学苑にとって大きなき2学部構想が順次策定されることになった。課題を残すものであった。こうして青梅校地に2学部を開設する構想が学校教育を行う上での一般的な管理の内容まとまり、1990（平成2）年に文部省へ開設申請を学苑は1983（昭和58）年に創立60周年を迎えた。木辰三郎を充て、管理組織として明星大学に倣は、教育の質的管理、教職員の人的管理、固定行い、申請は承認され、1992（平成4）年に開学とこの頃には、若者人口のピークは過ぎていたが、い、総務部と教務部を置き、各々に大学教員兼資産を含む施設・設備の管理、財務の管理などなった。情報処理技術者を主に養成する情報学進学熱は上昇する一方であり、経済成長は続い務の部長を充てた（明星学苑組織機構図図3いによって構成されるが、これらの管理を運営し部と国際性を身につけ国際的に活躍する人材をていたので、学苑経営は安定的であった。わき明星大学設立後の組織機構図参照）。ていく運営管理の仕方とその透明性が何よりも養成する日本文化学部の2学部で計500名の入学学苑の経営方針と同様に、当時の多くの私学いわき明星大学は、いわゆる「公私協力」大学重要なものとなるので、この整備が学苑に求め定員を有する青梅キャンパスが開学した。このは規模の拡大を図っていた。その主なる理由は、であり、設置に要する経費の内、校地はいわきられていた。学苑は、大学規模の拡大にあわせ開設より、明星大学は、2つの校地を持ち、4学私立大学に対する政府の補助金は少しずつ増加市が無償で供与し、施設・設備に要する設置経た学苑全体の管理体制の整備という新たな課題部13学科入学定員2,000名（臨時定員増を含む）をしてきたが、それでも大学経営に要する収入の7費の約3割をいわき市が負担した。いわき明星大をもつことになった。超える中規模大学へと発展していった。割以上が学納金によるものであったため、大学学は、開学当初は充分な入学者数を確保し、完学苑は管理運営体制の整備を図るため、理事青梅校の管理組織は、日野校と同様に総務部経営安定化のためには、学生数を増加させる必成年次には2,000名を超える学生を確保すること長を中心に「規程管理委員会」を設け、規程の整と教務部・学生部をもって編成し、各々の部長要があったことに起因していた。ができ、学費収入は順調であった。卒業生の多備を行い、次の認可事案である青梅校地の学部は教員兼務であった。学苑は、青梅校地の開設学苑同様に多くの有力私学が規模の拡大を進くはいわき市を中心に就職し、開学後30年の間設置認可に向けて対応していった。により、府中校地、日野校地、いわき校地の4校めていた当時、政府は地方振興に積極的であり、に、いわき市の職員の内100名近くがいわき明星学苑が1978（昭和53）年に青梅に校地を取得し地をもつ大規模総合学園となった（明星学苑組大学教育の都市集中化を防ぐためにも、その政大学の卒業生が占めるようになるなど、地域貢た目的は、10年後の1992（平成4）年に第二次ベ織機構図図4青梅校設置後の組織機構図参策の一環として都市型大学の地方誘致を促して献は大きかった。ビーブーマーである18歳人口のピークがあり、照）。大学規模の拡大による経営の安定策は、こいた。この政策に乗り、幾つかの私学は地方にいわき明星大学を設置したことによって、学それまでに新たな学部を設け、大学規模を拡大うして達成されるようになったが、他方、4校地キャンパスを構えることになった。学苑も地方苑は、府中校地、日野校地及びいわき校地の3かし、以降に起こる少子化に対応していくことにを擁する学校法人の管理運営体制の整備は途上キャンパスの設置に関心を示し、その内で福島所を持つことになったが、学苑の管理体制は、図あった。しかし、青梅校地開発は、環境保護にのままであった。県いわき市から大学開設招致要請があり、両者3のように従来の骨格を残すままであった。の協議を経て、1987（昭和62）年に「いわき明星大いわき明星大学の設置に際し、認可者である学」を開設した。同大学の開設学部は、明星大学文部省（大学設置審議会）より、学苑の管理運営と同様に、理工学部と人文学部であり、入学定体制についてその問題点を指摘されるように員は、計420名であった。完成年次には1,700名なった。その内容は概ね以下の通りであった。程度の学生規模の大学となることを予定していた。①3つの校地を擁することになった学苑の管初代の学長は児玉三夫が勤め、副学長に明星理運営体制とそれを支える事務局の体制整大学教授で日野校の総務部長を兼務していた鈴備青梅校開学式CHAPTER3第3章．Ⅶ創立60周302MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory303

## Page 153
![Page 153の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000153.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷年以降の管理体制の大きな変化と経営課題PART1第1部Ⅷ.創立70周年以降の管理体制の大きな変化と経営課題に基づく使命感によるものであった。しかし、学苑は、児玉三夫理事長の強い指導力の下で、学苑の存続と発展に向けての安定的経営に必要な財務力を得た一方、急激な拡大経営策に対応する健全な教育運営の体制作りには出が必要とされるが、これらは、全て児玉三夫理事長名でなされているものであった。それにもかかわらず、学苑側の後の陳述書によれば、児玉三夫理事長は前年の夏頃から体調を崩し職務執行が不可能となっているとのことであった。課題が残されたままでもあった。だとすれば、児玉三夫理事長不在のままの決議であり、その決議そのものの正当性は失われ、ま1.新理事長・学長選任に対する「異議申し立て」への対応た仮にその決議が有効であるとしても、児玉理事長は再任されて間もない現任の理事長であるので、児玉三夫理事長辞任の意思表明がないま学苑は、児玉三夫の健康状態に問題があるとまの決定である決議には問題があった。の理由で、1995（平成7）年3月開催の理事会で、学苑は、「仮処分の申し立て」に対し、4月に緊1993（平成5）年に学苑は創立70周年を迎えた。及び各大学の教授会における審議の結果に関わ児玉の後任として児玉三夫の長男である児玉伸急の理事会を開き、児玉三夫理事長の辞任意志前年に青梅校の2学部開設があり、明星大学は4る透明性を持った意思決定上の手続きが不明確雄を学苑理事長、明星大学学長に選任した。この表明の確認ができないとの理由で児玉三夫理学部計2,000を超える入学定員を持つ大学へと拡であった。大学や学部新設の際に文部省から管の決定が発表された直後の4月に、明星大学日野事長を解任し、改めて、児玉伸雄を新理事長・大していった。青梅校開設当時は、第二次ベビー理運営体制の整備を再三求められてきたが、青校人文学部教員を中心とする「教員有志」20名学長に選任した。学苑理事会のこうした一連のブームによる18歳人口の頂点にあり、経済の低梅校開設に要する時間的制約もあり、充分対応が、『理事長・学長選任無効』の仮処分申請を東京動きは、多くの学苑教職員に不信感を生じさせ、迷が始まりつつはあったが、私学を取巻く環境できなかったことによる危惧がこの後、現実的地裁八王子支部（当時）に提出した。仮処分申請これまでの学苑運営に対する批判も相俟って、は全体的には良好で、学苑設置大学の入学生確なものとなっていった。の趣旨は、その後、学苑内の混乱は続いた。この一連の騒保は順調であった。学苑の経済的安定を求めるための規模の拡大動は、畢竟、危機管理とガバナンス及びコンプ学苑は、設置校の拡張・拡大があっても、そ政策は、与えられた時間や認可上の制約条件も①選任に係わる手続きが学苑規程に則して正ライアンスの両面から見て学苑の運営体制の不の管理者には教員を充てるという方針を継続しあり、その実現に向けてかなり性急に進められ当に行われていない。備に起因するものでもあった。た。学苑の従来の管理運営体制の継続は、そのてきた側面もあり、得られた成果は大きかった②公共性を要求されている学校法人であるにこうした事態に対し、混乱事態収拾のため、児帰結として、学苑全体の管理責任が理事長1人にが、それと併せて早急に解決しなければならなも拘わらず、関係官庁向けの私文書作成に玉伸雄理事長・学長は自らの意思で1996（平成8）集約され、理事長の管理上の負担は多くなる一い課題も多数あった。関し、法令に反する行為を行った。年3月末をもって辞任することを、1996（平成8）方となっていった。他方、理事長である児玉のともあれ、学苑の財務状況は格段に良くなり、③法令及び学苑規程に則った選任手続きを経年1月の理事会・評議会の場で表明し、学苑の今多忙とあわせて健康状態が次第に悪化するにつ児玉三夫が1943（昭和18）年に学苑に赴任して以ないで選任された新理事長及び理事は、今後の運営を荒井正大理事等に託すことになっれ、各設置校が抱える教育運営上生じる諸問題来の永年の財務上の課題は大きく解消され、経後の学苑経営について法令及び学内規定をた。解決への方針の決定が遅れることが多くなり、営の安定化が強固に図れるようになったのも事無視する同様なことを行う恐れがあり、学荒井理事等は、新年度からの理事会の編成は、次第に教育運営に大きな支障が生じてきた。実であった。苑の正常な発展と学苑の公共性を著しく毀明星大学学長の選任を待って組織することを決拡大した学苑業務について、理事長の執行を児玉三夫が、かねがね私学経営者として主張損する恐れがある。め、明星大学学長の選任に際しては、大学教員支える機能を持つ総合的な法人事務局はなく、2していたことは、私学が自ら打ち建てた建学のの意見を開くため、教員の投票による学長候補つのキャンパスを持ち、多数の学部と1万人近く精神を実現していくためには、外部勢力からのなどといった内容であった。の選出を行うことを決定した。の学生を抱える明星大学学長の執行を支える統介入を防ぎ私学独自の教育を行う必要があり、新理事長・学長の選任を行った当時の学苑役選挙による学長候補の選出に際しては、各学合的な大学事務局もないなどの組織編成上の問また、直接に教育に携わる教職員の身分と給与員は、前年の11月末に任期満了につき再任され部の代表者による選挙管理委員会を組織し、大題があり、かつ理事長・学長が所掌する業務のを適切に保証していくことが要求され、そのたたものであった。その再任決議は、児玉三夫理学教員全員に投票権を与え、その投票結果を最分担に関する分掌規程も明確にないなど、管理めには何よりも私学の経営基盤が強固でなけれ事長の招集と立会いの下で行われたとみなされ大限理事会が尊重する選任方法を採ることとし組織の編成と業務分掌に係わる規定類が未整備ばならないということであった。児玉三夫の学たものであった。再任された理事長については、た。選挙の結果、田中誠之（1926（大正15）年〜）のままであった。何よりも、理事会、評議員会、苑経営に基づく一貫した姿勢は、こうした理念法令上、法務省への役員登記及び文部省への届が学長候補となり、3月末の理事会・評議員の議CHAPTER3第3章．Ⅷ創立70周304MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory305

## Page 154
![Page 154の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000154.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩明星学苑の経営方針と経営体制の変遷年以降の管理体制の大きな変化と経営課題PART1第1部を経て明星大学学長に選任され、同時に学苑理事となり、翌日の新年度より、新たな理事会は組織された。新理事会は、荒井正大（1922（大正11）〜2004（平成16）年）を新理事長に選任した。新学長となった田中誠二は、学苑旧制中学校卒業生であり、後に東京大学工学部教授を経て、理運営をするとなれば、それに対応した管理体制の整備がなければならないことは自明であった。こうした課題を持ったまま、荒井は、経営と教学の責任者が分離し、両者の協調をもって学苑経営を行う体制となる初代の理事長となった。⑥以上のこれらの方針に基づき、管理運営にかかわる規程を整備し、運営の透明化を図ること。この方針に基づき、理事長の下に学苑管理規程整備のため「規程整備委員会」を設け、大学関連規定の整備は「大学規程改訂委員会」を学長の下に設け、必要に応じて創立80年時の組織機構図参照）のようになった。学苑は、管理組織の整備以外に、次の主だった施策を講じた。①従来、学苑に在籍する生徒・学生などは、比較的富裕層の子弟であったが、経済的影響いわき明星大学理工学部教授兼教務部長を歴任学苑の管理運営に係わる課題解決に向けての両委員会を共同で開催させ、両者の協力にを受け、近年は学費納入が困難な生徒・学したものであったので、明星大学の学長として方針は次の通りであった。よって学苑規程と大学規程を整備されるこ生などが現れるようになったので、学苑各及び学苑経営にあたる理事として適任者であっと。設置校に奨学金制度を導入し、予算設置をた。①学苑経営上の最高意思決定機関である理事講じた。こうした経緯を経て、学内の混乱は次第に収会の権能を明確にすること。そのために、拡この方針に基づき、凡そ1年をかけて整備され②新設のいわき明星大学と明星大学青梅校に束へと向かっていった。大した組織に合わせ人事・財務・総務等にた30以上の規程の主なものは、学苑寄付行為、比して、明星大学日野校の施設整備は狭隘係わる識見を有する専従の理事を置き、理各校学則、学苑組織管理規程、学長・学部長等且つ劣悪なものであり、日野校人文学部教2.新理事会の直面する課題事会が決定する予算・決算等の財務管理、人事管理、資産管理等を理事長の責任下で行選考規程、教員選任規程、理事会及び教授会等の運営関連規定であった。これらの規程は、翌員を中心とする既述の『異議申し立て』の背景には、このような事情もあったので、日新理事長となった荒井正大（以下、荒井）は、わせること。併せて、学外理事に適任者を年の1997（平成9）年度より全面的に施行された。野校再整備のための基金を用意すること学苑旧制中学校の卒業生であり、株式会社共同複数名置き学苑経営に対し多様な意見を受この内、学苑組織管理規程は、学苑の各設置校を、理事会で決定した。通信社外信部長などを歴任し、後に明星大学教け入れること。監事機能を強化すること。学における業務を遂行する上での学校長などの分授（政治学担当）及び青梅校総務部長を兼務し、苑管理業務を適切に遂行するため、法人事掌と職務権限を明確にし、同様に、法人事務局以上のように、荒井理事長時代は、学苑の運学苑理事でもあった。荒井は、教員歴はあった務局を設けること。及び大学事務局の管理者の分掌と職務権限を明営組織の管理に係わる体制を抜本的に改革し、が学長等の教学の長を兼務しない初めての理事②学校長で理事となるものは、大学学長及び確に定めたものであり、管理運営体制の根幹を意思決定に関する運営規定の制定・改訂を通し長であり、それ故、教学と経営の協調体制が求中学・高等学校長とし、学長・学校長等以占めるものであった。て、学苑運営の透明化を図ることに傾注した。こめられる理事長でもあった。荒井は、理事とし外の教員兼務の理事は当面置かないこと。こうして、長く続いた教育と経営の一体管理の対応後、学部や研究科の設置の際に、認可者ての経験から、学苑の管理運営体制の抱える問学校長の学内管理運営上の権限を強化し、体制は、教育と経営の協調による体制へと転換である文部科学省からは、学苑の管理運営体制題を熟知しており、早急にこの課題解決に取り学校長の責任において学校の運営にあたらし、学苑の管理運営上の課題は解消していった。についての指摘は一切なくなった。組んでいた。せること。大学においては、学長の下に大学苑の管理機構図は図5（明星学苑組織機構図学苑は、創立者で資金提供者であった星野鏡学事務局を設け、学長の責任で管理業務を三郎の他界以降、学苑自らの経営努力によって行うこと。学苑教育の継続を行ってきた経緯があったこと③大学学長の選任は理事会が行うとしてもそがあり、児玉九十校長兼理事長以来、教育目的の候補者の選任は、大学教職員の意見を反達成のために経営が存するとの学校経営の基本映させるため、選挙により行うこと。方針があり、教学と経営の一体管理体制を行っ④大学の自律性を担保するため、教員の任用、てきた。学苑経営の困難な時代に児玉九十の補昇任などに係わる人事は各教授会の議を経佐役であった児玉三夫もこの方針を継承してきて行い、最終決定は学長が行うこと。大学た。しかし、そのためには管理組織が適切に編の予算編成は、学長の意見を聞き、理事会成・体系化され、各部署の長の権限が適切に分で大枠を決定し、一定額以下の執行は学長掌化され、それらの長を支援する体制が整ってが責任を持って行うこと。いなければ、適正を欠いた運営となる恐れが⑤府中校の園長、各校長は、現場教員の意見あった。特に組織が拡大し4つの校地における管を聞いて理事会が選任すること。CHAPTER3第3章．Ⅷ創立70周306MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory307

## Page 155
![Page 155の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000155.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩明星学苑の経営方針と経営体制の変遷年以降の経営課題と経営体制PART1第1部部の移転計画を包含するものとなっていった。Ⅸ.創立80周年以降の経営課題と経営大学のこの計画に対し、学苑理事会は、日野校再開発に際し、当事者である教職員の意見を聞探っていった。体制くために「日野校キャンパス開発委員会」を設け、委員長に学長を充て、委員に各学部長を充て、各学部の教育研究上の意見が集約できる態多）を選任した。斎藤は、2008（平成20）年6月に学苑再建の志半ばの内、急逝した。斎藤の逝去を受け、学苑は2008（平成20）年6月の理事会で後任に蔵多得三郎（1939（昭和14）〜2023（令和5）年：以下、蔵勢を整えた。日野校再開発計画はこうして進み、蔵多は、学苑卒業生であり、日本放送協会全ての計画が完了するまでには約10年の年月を（NHK）で局長等の要職を勤め、NHK退職後、学要したが、再開発後の日野校キャンパスは以前苑の人事・総務等を担当する常任理事となった。に比して面目を一新するとなるものとなった。児玉九十以来、学苑の理事長は教育職を勤めた建物面積は開発前の約4倍を超え、教育研究用の者が理事長になっていたが、蔵多は教育職歴の施設のみならず、充実した学生生活を送る上でない最初の理事長であった。組織管理について学苑は、1998（平成10）年に、荒井理事長の後②明星中学校・高等学校は、女子部の設置以必要な部室棟なども再建築され、多くの学生や識見を有していた蔵多は、少子化と経済的低迷任に斎藤和明（1935（昭和10）〜2008（平成20）年：来男女別学であったが、これを男女共学と教職員から見て全く別キャンパスと思われるほの内での学校経営について、教育内容の質的向以下、斎藤）を選任した。斎藤は、学苑新制中学する。どになった。上を基本的方針としながらも、より効率的な学校・高等学校の卒業生で、国際基督教大学の英③学苑設置校の内、特に府中校と日野校の施府中校の施設・設備ついては、耐震基準の問苑経営をめざし、財務面から効果的・効率的経文学教授、副学長を歴任した者であった。また、設は老朽化が甚だしかったので、これを全題で荒井理事長時代に再建築した幼稚園舎を除費支出を求める執行体制上の統制を計っていっ非常勤の学苑理事を勤めていた。面的に改修ないし新築する具体的計画を作き、長い間抜本的な更新がないままであったのた。業務の効率化を図るため、法人事務局を府斎藤は、学苑の役員組織の編成方針についてる。で再開発が求められていた。また、理事会は中中校から日野校へ移転させた。法人事務局の業は、荒井の方針を引継ぎ、学長・学校長理事と④いわき明星大学は、高重正明学長の就任以学校・高等学校の男女共学化の実施を2003（平成務量の約半分は明星大学に関するものであり、事務的管理にあたる常任理事を置き、他の理事来、学内で構想してきた薬学部設置を実現15）年開始と決定していたので、それに対応する事務的打合せに要する時間や労力を考慮すれに学外の有識者を充てた。させ、地域における新たな人材養成と学生新校舎も必要であった。そこで理事長を中心にば、法人事務局の日野校移転が望ましいとの考1990年代中頃から長期にわたる経済の低迷の確保の策を講じる。「府中校キャンパス再開発委員会」を設け、現場えであった。一方、私立学校の管理に当る文部始まりと第二次ベビーブーム期が去り、規模の⑤明星大学は、2002（平成14）年に氏原淳一が教職員の意見を聞きながらその計画を進めて科学省は、2004（平成16）年頃から、学校法人内拡大を進めてきた学苑経営の追い風は、正反対学長に就任して以来、学内で構想していたいった。部のガバナンス体制強化を主旨とする私立学校に逆風となっていた。学苑各設置校の入学生確学部の大規模改組計画があり、この実現化まず、小学校校舎を再建築し、次に中学校・法の改訂を順次行っていた。これは、一部の私保上の競争力は明らかに低下していた。学苑のを支援する。高等学校校舎を再建築していった。建築された学の金銭等に係わる不祥事への対応であり、自新たな課題は、各設置校の教育力を高めること新たな校舎は、以前のイメージを一新するもの主性と同時に公共性を求められる私学運営に対による生徒・学生等の確保力の強化であった。この内、特に強力に進めていったのは日野校となった。これらの校舎とは別に、老朽化し耐する警鐘であった。蔵多は私学行政のこの方向斎藤は、まず、学苑各設置校の教育的条件のの施設・整備の更新と新設であった。これは、荒震基準に満たない体育館、講堂の再建築も行っ性に沿って、学苑経営における内部統制の強化向上を図ろうとした。その主なものは次の通り井前理事長時代からの学苑の基本方針でもあった。を図った。学苑組織に新たに内部監査室を設け、であった。た。学校教育を行う上での基盤となる条件である業務がより適正に行われる体制作りを行った。一方、明星大学においては、新設の青梅校に施設・設備の更新に併せて、学苑教育の根幹とまた、学苑経営の今後の方針について、従来の①学苑の建学の精神に基づく教育方針についおける学生確保が困難となる状況が顕著に現れなる学苑建学の精神を普及させるため、斎藤は、短期的事業計画の策定以外に中期経営計画を立て、その認識を学苑教育に携わる教職員にていた。この状況への対応として、都心から遠学苑の建学の精神を、より平明で、より簡潔なて、これに基づく学苑経営の中期的方針を作っ広く浸透させるため、府中校では凝念の復隔地にある青梅校の学部を、より都心に近い日表現である『和の精神のものと、世界に貢献するていった。活と講話を再開し、他の設置校には『学天の野校へ移転させる計画が明星大学内に起ってい人の育成』としてまとめ、これを学苑全教職員に各設置校の経営については、明星をめざして』（2007（平成19）年）を刊行た。学長氏原淳一を中心に構想された移転計画伝えた。斎藤は、学苑教育の競争力回復というし、その普及を図り教育力の向上を目ざす。をふまえて、日野校の再開発計画は、青梅校2学課題に、上述の方針をもって順次解決の道を①府中校では、少子化により生徒確保が困難CHAPTER3第3章．Ⅸ創立80周308MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory309

## Page 156
![Page 156の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000156.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷Ⅸ．創立80周年以降の経営課題と経営体制／Ⅹ．学苑創立90周年頃の経営課題と経営の方向性PART1第1部になっていた中学校・高等学校のクラス数減少に応じた教職員の削減のための「早期退職制度」を導入し、経営の改善を図った。幼稚園では、幼児教育に加えて保育機能を持たせ、延長保育体制を作った。明星大学は、日野校の全面的リニューアルによる外的条件が劇的に好転し、あわせて、既存学部の改組と青梅校から日野校への学部移転策が入学生確保に好影響を与え、志願者数は改善され、長らく続いていた入学定員割れ状態がⅩ.学苑創立90周年頃の経営課題と経営の方向性②いわき明星大学では、2011（平成23）年の東2010（平成22）年度から解消されていった。明星日本大震災による影響に対し、迅速な対応大学の再建計画は、時代が要求する人材養成にをすることによって、同大学関係者に安心大学が応えることを視野に入れた学部改組等の感を与え、影響からの回復のために尽力し施策をもって、氏原淳一学長時代に始まり、小た。川哲生学長時代に拍車が掛かり、大橋有弘学長③明星大学では、青梅校からの学部移転計画時代にも継続され、現在の落合一泰学長もこのと大学が自ら立案した学部の改組計画を全方針を引継ぎ、計20年以上をかけ実現化して面的に支援した。いった。学苑は2013（平成25）年に創立90周年を迎える学者定員割れが深刻であったいわき明星大前年2012（平成24）年11月、理事会は任期満了を学の再建迎えた蔵多理事長の後任に吉田元一（1948（昭和②府中校における幼児教育・初等教育・中等23）年〜：以下、吉田）を選任した。教育間の連携のための一貫教育体制の更な吉田は、明星中学・高等学校の卒業生であり、る推進のための体制整備一橋大学卒業後、株式会社三井物産アメリカ社③高等学校の難関校への進学実績が長期に亘長を経て本社の副社長を歴任した者であり、組り不振であったので、校長主導による教育織経営上の識見が高かった。理事長就任3年前よ改革と校長を支援する体制整備を行い、強り学苑の非常勤理事を勤め、学苑経営に係わりい指導力を持った校長の選任と進学実践的を持つようになっていた。吉田は、また蔵多と向上を目ざす新たなコースの設置同様に学苑卒業後、社会的に活躍をしていた者④教育と経営の協調体制の強化と同様に、教であるが、教育職を歴任していない理事長で員と事務職との協調を通した「教職協同」にあった。吉田は、理事長就任後直ぐに新たに副よる教育改革の推進体制の構築理事長職を設け理事会の運営体制強化を図るよ⑤将来に備えるための財務基盤の強化うにした。副理事長には明星大学学長経験者を充て、経営と教学の協調体制がより強固になる以上の学苑の主な課題解決のため、以下のよようにした。理事会及び理事長を除く常任理事うな施策を講じた。の分掌は、従来の人事・財務・総務などに加え、府中校における各設置校間の一貫教育体制を更に進めるため、府中校一貫教育担当を新たに置いた。新たな評議員会の組織に際しては、20名を越える評議員の内、卒業生評議員が大多数を1.いわき明星大学を学苑傘下から切り離し、大学単体で運営できる独立した別法人化策を講じることによる再建占めるようになった。いわき明星大学開学当初の設置学部は、明星創立90周年頃の学苑が抱える経営課題の内、大学と同様に理工学部と人文学部であり、これ主なものは、以下の通りであった。によって人材養成を行っていた。しかし、地域経済力の低下と少子化によって入学生確保が次キャンパスリニューアルが整ってきた日野校①東日本大震災による影響を大きく受け、入第に困難となり、これに対し、人材需要が見込CHAPTER3第3章310MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory311

## Page 157
![Page 157の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000157.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷．Ⅹ学苑創立90周年頃の経営課題と経営の方向性PART1第1部まれた薬剤師養成のための薬学部を新たに設け、対応をしていった。要求されている地域に再建の道を探り、その結果、独立した法人による大学の再建が行われ、同大学の自力による大3.高等学校進学実績の向上職員・経営陣の協議を経て教育・研究等の改革に向けての体制が作られた。必要な人材は、高齢化に対応していく医療系人学経営が可能な態勢を執った。明星高等学校は、以前はいわゆる難関大学へ材であるが、これは学苑の従来からの人材養成の方向性と大きく異なるものであった。このよ学苑理事会のこの判断は、明星大学青梅校における教育を日野校に集約したことと併せ、近の進学実績が高い高等学校として評価を受けていた。ところが、60年程前の大学設置以来、学5.将来に備えるための財務基盤の強化うな背景の内で、2011（平成23）年3月に起った年における大学規模拡大策を転換させるもので苑の経営資源が大学拡張に集中する傾向が続い少子化が確実に進む将来を予見すれば、現在東日本大震災による原子力発電所の事故は、いあった。学苑は、一時期には4つの校地をもってたこともあり、次第に進学実績に陰りが生じ、効の内に学苑経営の財務基盤をより強固なものとわき明星大学の存立そのものに大きなダメージ学苑教育を行っていたが、上記施策により、府果的な対策のない状況が続いていた。この課題しなければならないことは明白である。学苑はを与えていった。この状況下における大学の再中校地と日野校地の2か所を中心とするものとに対し、①指導力のある校長の招致を行い、②これを見据え、教育の質を向上させる施策を講建方法は、大学が地域からより要求されているなり、学苑の管理体制はより平易なものへと校長の指導力が発揮出来るように支援体制を強じるとともに、業務管理の効率化を行い、経費人材養成機関として機能することであり、そのなった。化するため、一貫教育担当理事が中心となり校の効率化を講じてきた。業務効率化の一環としためには地域の人材需要を鋭敏に捉え、これに長支援に当る体制を作り、③教育力のある教員て、学苑法人事務局を府中校から日野校へ移転即座に対応できる組織的判断可能な経営組織を現地で設けた方が適切であるとの判断であった。2.府中校一貫教育の整備の積極的任用を行い、④進学実績を上げるための新なコース（明星グローバルコース等）の設置させたが、いわき明星大学の管理組織の別法人化は、更に法人業務の効率化を促す契機となっこれを受けて、学苑は2014（平成26）年12月の学苑は、戦後間もなく幼稚園及び小学校を設などの施策を講じてきた。これらの施策によりた。財務・人事・総務などに係る法人業務量が、理事会・評議員でいわき明星大学の設置法人を置し、既存の中学校及び高等学校への接続に向その成果が徐々に現れ、かつての輝きを取り戻いわき明星大学に係わる分減少し、その結果、府別法人とする決定を行い、別法人化への準備にけての体制ができた。これにより府中校内の一しつつある。中校に係わる分量がおよそ3割以下で、明星大学入った。別法人設立のための準備委員会の委員貫教育へ向けての体制ができ、建学の精神に基に係わる分量がおよそ7割以上となった。そこに医療法人関係者を参加させ、別法人が目指す人材養成の方向性を視野に入れた設立計画を策づく教育方針による教育の体系化が図れるようになったはずであった。しかし、その実体化に4.「教職協同」による教育指導の推進で、業務効率を更に高めるため、理事会は2018（平成30）年に法人事務局と大学事務局の合併策定し、文部科学省に、翌年の3月に設立申請し必要な制度面の構築が未整備のままであり、一大学は、1990年代頃より教育・研究の質的改を決めた。合併策に併せて、従来の縦割型事務た。設立申請は、2015（平成27）年8月31日に受貫教育に相応しい接続へ向けての各校教育課程善のため、大学の教育研究等の活動について、局部課制を改め、業務を大綱化するユニット制理され、9月より「学校法人いわき明星大学」としの調整と教員の相互交流等が不充分であった。「自己点検・評価」が求められるようになった。点を導入した。この施策により、法人業務と大学て出発した。新法人の役員には、学苑経営とのそこで学苑は、一貫教育担当理事を新たに置き、検・評価項目は入試、教育課程、進級、卒業時業務の重複を避け、業務効率を上げると同時に継続性を保つため、学苑副理事長である小川哲担当理事による調整により、理事会と、各校長・の学習到達度、就職、学生生活、学生のメンタ事務的業務に携わる職員の削減が図られるよう生が理事長に就任し、他の常任理事2名に学苑経園長及び各校教員が中心となっての相互理解をルケアー、部活、財務、管理運営等多岐にわたになった（図6現在（2023年5月）の組織機構図）。営の経験者を充てた。新法人は、2017（平成29）深め、接続に要する体制を整備していった。そるものであった。更に、大学の自己点検評価活学苑は、児玉三夫理事長時代の功績もあり、財年に看護学部を設置し、既存の薬学部と並び医の結果、接続に必要な教育課程の摺り合わせを動は、2004（平成16）年の学校教育法の改正によ務基盤は比較的健全であり、大学設置前後の一療系人材養成機関としてその特色を明確にした。行い、各校教員間の協調による一貫教育体制がり、第三者による『認証評価』を義務付けられる時期を除き、借入金の無い、いわゆる「無借金経学校法人いわき明星大学の設立及び同法人が順次できてきた。また課外活動においても、各ようになった。点検・評価活動を適切に行うた営」をしてきた。しかし、進学者増に対応してき目ざす地域に必要とされる医療系人材養成に係校の児童・生徒たちが共同で行う教育活動が順めには、教員にあわせて事務職員の助力がなけた学苑の大学拡大策は、少子化が進んできた約わる学部の設置を完了し、学苑から派遣されて次増え、幼稚園から小学校へ、小学校から中学れば不可能となった。そのためには、事務職員30年前からその限界が現われ、それへの対策がいた同法人の役員は、いわき明星大学創立30周校へ、中学校から高等学校への内部進学者も増の意識の改革と専門的知識の向上や教育改革へ必須となってきた。この近年の学苑経営の方向年式典が無事挙行されたことを機に、全員退任加した。一貫教育をさらに広げるため、大学との企画力が必要であり、これらをもって教員と性は、各設置校の教育の質的向上を第一義としした。同法人は、2019（平成31）年に法人名及びの交流も精力的にし、大学教員による授業も盛の協同作業による教育・研究活動の改革を図るながら、管理業務の効率化と簡素化を目ざすこ大学名を「医療創生大学」へと変更し、地域の医んに行われるようになり、高大接続のための活体制の整備が必要となった。大学改革の内からとになり、これに沿ったものである。療系人材養成の中核を担う大学として地域に貢動も活発になってきた。高等学校から大学への必然的に起ってきた「教職協同体制」の推進は、献し、発展している。内部進学者も増加し、一貫教育体制の整備は実学苑経営にも直結するものであることから、理学苑は上記の施策をもっていわき明星大学の効性を挙げつつある。事長等の常任理事もこれに係わり、教員・事務CHAPTER3第3章312MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory313

## Page 158
![Page 158の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000158.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

学校法人明星学苑の歩み明星学苑の経営方針と経営体制の変遷まとめPART1第1部まとめ学苑経営の100年の歴史を上述のように概括してみると、学苑教育の存続と発展のため、各々の転換期において経営陣が課題解決のため講じた施策の方向性を見て取ることができる。星野鏡三郎の私財による経営であった開学当初を除き、学苑が自力で経営できるようにしていくためには、まず、学苑教育の質を高め、その評価により生徒・学生などを集め、学納金の増加をもって学苑経営の主な原資とする以外に方途がなかったことでもあった。学苑経営のこの方針は、戦前の財団法人時から始まり、戦禍時にあっても、終戦後の経済的困窮時にあっても同様であった。学苑経営上最も危機的であったと思われるこの時代においても、学苑教育を信頼し、学苑教育に期待する生徒・保護者の存在が、学苑教育の継続をもたらしてきた最大の理由であった。児玉九十を中心とする学苑教育が、いかに優れていたかの証左であったともいえる。また、学苑教育の規模の拡大は、学校教育を受けて社会で活躍する人材を多数輩出する学苑教育の役割があり、これもまた、学苑教育の使命の一つでもあった。学納金に大きく依存する私学経営を助成するため、私立学校の公益性に鑑み、国及び地方公共団体からの助成金が少しずつ増加し、1960年代より私学助成額が増大していきた。現在では、東京都が管理・助成する私立高等学校以下の学校については、東京都の豊かな財政と高校無償化などの政策によって、運営経費の半分近くの助成を得られるようになったが、他方、文部科学省が管理・助成する私立大学については、運割以下のままである。大学生の7割以上を抱え、我が国の発展と国民の成長に多大な教育上の貢献をしてきた私立大学に対する国の支援状況は、OECD（経済協力開発機構）加盟国の内で最下位近くのままである。こうした状況下では、学苑が模索してきた経営の方向性は、他のほとんどの私学と同様に規模の拡張・拡大以外にはなかったと思われる。学苑が大学を設置年代は、大学経営にとっては強い追い風があり、追い風が少なくても30年は続くと見込み、向い風を迎える前までに経営規模の拡大を行い、もって経営基盤を強固にした上で向い風に立ち向かうというような当時の私学経営者が考えたのは、至極当然のことではあった。学苑は、より広範囲に志願者を確保できる大学設置とその拡大の施策を経営の指針として講じてきた。その方針については、現在の視点で見ても大きな成功を収めたと言える。現在の学苑の財務状況は健全であり、大学拡張施策によって得られた約1,000億の現在の学苑資産は、大学拡張前に比して圧倒的に大きくなったからである。しかし、学苑の急激な大学拡張策は、他方、少なからず副作用があり、後の学苑経営に影を落とすことにもなった。端的にいえば、量的拡大を急ぐあまり、教育の質的向上が伴わなかったこと、及び、拡大する規模に応じた管理体制が整わなかったことである。これに対し、学苑経営は、上記の課題解決のため、管理運営体制を整備し、教育の質的向上を目ざす経営方針へと転換してきた。この経営方針の転換は、少子化が始まった1990年代の中頃から始まり、現在まで続いている。少子化は更に進む一方であるので、これを見据えれば、学納金依存度の高い学苑経営の方向性は明らかであり、現在の経営方針はこれに沿っている。創立100年を迎えた学苑が次の100年のため、ますます教育の質を向上させる必要があり、それには児童・生徒・学生などの成長への利益となる「ヒト・モノ・コト」に対する投資が一層必要となる。そのための財源と適切な投資のための学苑経営は引き続き求められていくであろう。CHAPTER3第3章314MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory315

## Page 159
![Page 159の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000159.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

明星学苑組織機構図図1創立40年時の組織機構図理事会■理事長★学苑事務室主事●府中校各設置校校長・園長各設置校主事●●●●注1）★印児玉九十理事長・各校等校長等（兼務）注2）■印児玉三夫注3）●印常任的理事（教員兼務）316PART1第1部学校法人明星学苑の歩み図2創立50年時の組織機構図理事会■理事長★学苑事務所日野校府中校大学各設置校等注1）★印児玉九十理事長・各校等校長等（兼務）注2）■印児玉三夫注3）●印常任的理事（教員兼務）学長★総務部●教務部●学部等各設置校長・園長★317MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistoryCHAPTER3第3章明星学苑の経営方針と経営体制の変遷まとめ

## Page 160
![Page 160の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000160.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

図3いわき明星大学設置後の組織機構図理事会理事長★学苑事務所▲いわき校日野校府中校いわき明星大学明星大学各設置校学長★学長★各設置校長・園長★副学長●総務部教務部各学部等総務部教務部●学生部●各学部等各設置校等注1）★印児玉三夫理事長・学長・校長・園長（兼務）注2）▲印学苑事務所担当理事は府中校教員が兼務注3）●印常勤的理事（教員兼務）318PART1第1部学校法人明星学苑の歩み図4青梅校設置後の組織機構図理事会■理事長★学苑事務所●いわき校明星大学いわき明星大学学長★青梅校日野校府中校学長●教務部●総務部●各学部等総務部教務部学生部各学部等各設置校長・園長★教務部総務部各学部等各設置校注1）★印児玉三夫理事長、明星大学長、府中各設置校長・園長（兼務）注2）■印児玉伸雄注3）●印常任的理事（教員兼務）319MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistoryCHAPTER3第3章明星学苑の経営方針と経営体制の変遷まとめ

## Page 161
![Page 161の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000161.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

図5創立80年時の組織機構図理事会理事長●法人事務局●●●いわき明星大学明星大学府中校学長●学長●各設置校等事務局各学部等大学事務局各設置校長・園長●青梅校日野校各学部等各学部等注1）●印常任的理事注2）●印府中校各設置校・園の内、理事となる者は中学校・高等学校長のみ320PART1第1部学校法人明星学苑の歩み図6現在（2023年5月）の組織機構図理事会理事長●法人・大学事務局●●●日野校府中校大学各設置校等学長●学苑・大学企画局各設置校長・園長学部等注1）●印常勤的理事321MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistoryCHAPTER3第3章明星学苑の経営方針と経営体制の変遷まとめ

## Page 162
![Page 162の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000162.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

第2部｜設置校の現況

## Page 163
![Page 163の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000163.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

KDG明星幼稚園

## Page 164
![Page 164の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000164.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況326明星幼稚園KDG園長の辞園長の辞これからの学苑の100年に向けて明星幼稚園園長渡邊智恵子WATANABEChieko明星幼稚園は2019（令和元）年に開園70周年を迎えました。それから4年が経ち、明星学苑が100周年を迎えられたことは大変喜ばしく、誇らしい気持ちでおります。1949（昭和24）年9月に開園以来、長い歴史を紡いでこられたのも、ひとえに明星学苑をこの地に創設された名誉学苑長・児玉九十先生をはじめ、歴代の理事長、園長、教職員の方々の弛まぬ努力あってのことと心より感謝申し上げます。長きに渡り皆様に支持され、毎年多くのお子様にご入園いただいておりますのは、時代と共に求められる幼児教育の姿を追い求め実現してくださった諸先輩、そして現在の教職員の努力の成果と大切なお子様の教育を当園に託された保護者の皆様のご支援の賜物です。私自身は明星幼稚園で人生の半分を超える年月を教員として過ごしてまいりました。この年月の中では、伝統を重んじ現在に繋いできたこと、時代のニーズに合わせ変化させてきたことがあり、そしてその両者がその時代時代に最良の形で存在していたと実感しております。私はこの10数年で日本の幼児教育に対する考え方が大きく変わりつつある、変革期を迎えたと認識しています。子どもの教育や医療への公的補助は以前に比べれば随分と手厚くなってきています。しかし子どもたちを取り巻く様々な社会問題を考えたとき、日本の幼児教育では、そのさらに根幹にある、多くの国民の認識を変えるには至っていないのではないかと感じております。古くから「子は宝」とし、子どもの健やかな成長を願い、わが子のみならず、社会全体で子どもたちを育て上げてきた日本です。子どもたちを大切に育み、未来の日本を担う大人へと成長させることこそが社会の責任であり、その重要な一部が私たち幼児教育に携わる者に託された大きな責任と考えております。新しい「幼稚園教育要領」においては、「学びに向かう力」と「人間性」という文言により幼稚園で育みたい資質や能力が具体的に示されました。そして、文部科学省では幼小接続の重要性が取り上げられ、円滑な接続のあり方が議論されています。こうした中、私たちは小学校就学前の大切な3年間、幼児期に学ぶべき「生きる力」すなわち「非認知能力」を開園以来一貫して追及してきたことは、今改めて考えるに、今後も未来永劫、幼児教育のあるべき姿だと確信するに至りました。幼小接続に関しては、明星小学校と連携し「なだらかな接続」のために、幼稚園では「明星アプローチカリキュラム」、小学校では「明星スタートカリキュラム」を策定し、運用が始まっています。これは当学苑が幼稚園から高等学校、そして教員を養成する大学を有する一貫校ならではの特別なことだと言えます。この子どもたちと教職員にとって特別な教育環境の中、私たち教職員は子どもたちの幸せのために、子どもたちとそのご家族に寄り添い、頼られる存在であり続けたいと願っております。引き続きご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。園児と一緒にMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory327

## Page 165
![Page 165の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000165.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況328明星幼稚園KDG教育活動教育活動教育方針明星幼稚園の保育の原点は、自分で考え行動する力や、他者との関わりを通して身につける協調性を育てることを目ざした「遊び」にある。創立以来、明星学苑の教育の柱として掲げられている体験教育も「遊び」と同じく、机上の学習のみでは得にくい五感から感じとる教育の大切さをうたっているものである。子どもが本来持っている知的好奇心は、遊びの工夫、発想、また、友だちとの関わりを通して育まれていく。幼児期に体験した遊びの質が、それ以降の学び方に大きく影響すると言っても過言ではない。2023（令和5）年の学苑創立100周年を契機とする新たな幼稚園の教育ビジョンを策定した。①すべての園児が自信を持って生活できる幼稚園、②自分だけでなく、友だちを大切にできる幼稚園、③好奇心を育み、自分の「好き」をたくさん見つけられる幼稚園、の3つである。幼稚園の新しいビジョンは、10年後20年後の自己実現に向けての第一歩を大切に育むため、自分が受け入れられているという、自己肯定感を持ちながら（＝「自信をもって生活できる」）、自分や相手の感情など様々な要因を考慮できること（＝「自分だけでなく、友だちを大切に」）を重要視している。また、明星幼稚園での活動には全て子どもたちが「自ら選択した」という意識づけが存在し、その感情に教員が寄り添うことで「やっぱりこKDGうしたい」という思いが実現できることを増やし、「自分の『好き』をたくさんみつけられる」に繋げている。「好き」がみつかることで更なる自己肯定感に繋がっていくことを目指している。このビジョンの実現を図るために、これまでの教育目標である「よい子の育成」を再編成した。これまでの「よい子の育成」という教育目標を踏まえつつ、これからの時代の変化を見据えた新たな教育目標「多様性を認め、未来を切りひらく子の育成」を策定した。保育の根幹として位置づけていく。新たな教育目標策定に際しては、変化していく時代を生きる上で、自分の思いや発想を自由に表現できる環境の中、他者との違いを認めながら、未来の夢を描くことができる子どもの育成を目指すこととする。非認知能力を育む保育人間の能力には「認知能力」と「非認知能力」があると言われる。「認知能力」は一般的に知能検査で測定できる能力のことを言い、「非認知能力」とは主に意欲、自信、忍耐、自立、自制、協調、共感などの数値で表すことが難しい能力のことを言う。この非認知能力は、乳幼児期の親や教員との関わりの中で、自己の存在や言動を認められた経験から自信を得て、他者に対する基本的な信頼感となって徐々に個々の性質として積みあがっていく。親は、ともすると目先の認知能力（IQ）を高めることに関心が向きがちなケースも少なくない。幼稚園で多くの子どもたちと接している教員は、その特性や成長が一人ひとり全く異なることをよく理解している。物事への取り組み方や集中力を持続する時間が違って当然だと考え、子どもたちと向き合って成長を促したり、そうした違いの中でお互いが刺激し合ったり、協調しながら成長する重要性を認識している。明星幼稚園の保育方針では、非認知能力を育むことの重要性が深く浸透しており、同様に保護者にも園の保育方針を意識してもらい、お互いに両輪となり子育てをしていくこととしている。ルーブリック評価非認知能力の成長の度合いは、一般的に漠然としており、捉えにくいという側面を持っている。そのため、学年や担任が代わることで、その見え方にも相違が生じてくることも少なくない。そこで明星幼稚園では、この非認知能力の成長の様子を視覚的に捉えやすくし、職員全員で一人ひとりの子どもの健やかな成長を育んでいけるようにと、2019（平成31/令和元）年度より独自のルーブリック評価を作成し、導入している。ルーブリック評価は、決して子どもたちの非認知能力に順位をつけて、優劣を評価するためのものではない。個々の伸びを見定めながら、個別に最適な教育をするところにあり、むしろ教員側の保育の目当てにするものである。このような視点で日々の保育にあたることで、個人としての非認知能力の向上だけでなく、クラスや園全体といった集団としての高まりを望むことができる。また、2021（令和3）年度はルーブリック評価導年目を迎えた。年長児は、ちょうど年少年間、ルーブリック評価の中で育まれ、ルーブリック非認知能力の育成という目的が保育の中により溶け込んだ中で育ってきた子どもたちである。卒園のタイミングでは、保護者にも3年間の非認知能力の伸びを紙面で伝えることができ、就学への自信につなげることができた。カリキュラムの特色探究活動を体系的に保育の中に散りばめ、3つの柱を据えることとした。（1）伝える力を養う劇遊び・英語遊び・読み聞かせ等）、（2）科学の心を養う「なぜだろう」体験（数量・図形・文字体験宇宙をテーマにした活動、野菜の栽培等）、（3）豊かな感性を養う「創造力」体験（陶芸工作・絵画アート・デザイン鑑賞・体験等）である。この3つの柱に基づく保育活動を新たに「めば探究活動「めばえの時間」MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory329

## Page 166
![Page 166の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000166.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況330明星幼稚園KDG教育活動かさ袋ロケットづくり（宇宙教育）えの時間」と名付け、子どもたちの知的好奇心を刺激し、新たな気づきや発見を大いに促していきたいと考えている。幼稚園と小学校のなだらかな接続（アプローチカリキュラムとスタートカリキュラム）幼稚園から小学校へあがると椅子に座り、学習目標の到達に向かいカリキュラムにしたがって順を追って学習を進めていくことが当たり前のように感じられるが、子どもたちは幼稚園と小学校との大きな段差に時に躓き、戸惑い、乗り越えることに困難を抱える。幼児教育には幼児期の終わりまでに育ってほしい姿を念頭に置いて、一人ひとりの発達に必要な体験が得られるように環境を構成したり、援助を行ったりすることが求められる。また、小学校教育には「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」を踏まえて指導を工夫することにより、小学校教育が0（ゼロ）からのスタートではないようにすることに加え、主体的に学べるように工夫することが求められる。明星幼稚園では、就学に向けた「アプローチカリキュラム」を整え、小学校での学びに結びつく保育を段階的に設定している。「めばえの時間」による探究活動も、小学校の探究学習への前段階として、知的好奇心を刺激することで学びへ向かう素地を養うこととしている。また、幼小のなだらかな接続を実現するために、小学校の教員による保育への参加（就学体験）なども、小学校への学びや生活をイメージしやすい内容で、就学への期待感、安心感を高めることに重点を置いている。特色ある保育（プログラム）明星幼稚園では保育の原点である「遊び」を7つの項目に分け保育活動を実践している。表現遊び年少組では、日頃から慣れ親しんだ物語で遊んでみることから始める。物語の登場人物になりきり、初めて「人前で表現」する体験をする。年中組では、同じ目的で力を合わせることで、友だちと一緒に活動する楽しさや充実感が芽生え、自己発揮や協働性が自己肯定感へとつながる。年長組では、物語を深く解釈し、子ども自身が役割を選択して演じる。全員が主役として自己表現できる体験は、自己肯定感を高め、就学劇遊び英語遊びへの大きな自信へとつながる。運動遊び思いっきり屋外で体を動かすことは、幼児期の心身の発達にとって、大変重要である。広い園庭で一人ひとりが好きな遊びを見つける環境が明星幼稚園にはある。英語遊び最初の一歩は異文化に触れて興味を持つことから始まる。ネイティブスピーカーの先生と楽しく遊んで、歌って英語に耳を慣らし、抵抗感をなくすように導く。卒園の頃には、簡単な単語や会話を理解できるようになる。制作活動陶芸、工作、絵画、アート、デザイン鑑賞・体験を通じて、子どもたちの自由な発想を伸ばし、個性を育む。絵本の読み聞かせ毎日、担任による絵本の読み聞かせを実践している。保育室ごとに多くの絵本を用意し、いつでも子どもたち自身が、絵本を自由に手に取って読むことができる環境を整えている。年長組では、絵本の貸し出しも行っている。家庭でも同様に物語の楽しさを味わい、感受性、豊かな感性を育んでいける環境づくりを行っている。異年齢児との交流食育「おいもほり」異年齢児との交流幼稚園での異年齢児との触れ合いはもちろん、総合学園ならではの異年齢の児童、生徒との交流の機会を設けている。明星小学校の子どもたちとの交流活動「にこにこの日」は、年間を通じて行われている。小学生とゲームをしたり、焼き芋を食べたりなど、サポートを受けながら年長者への憧れの気持ちを育む機会となっている。また、高校生による絵本の読み聞かせや、大学生の教育実習など、学苑が掲げる「教育の明星」としての互いの飛躍の場が設定されている。食育活動幼児期は生涯にわたる食習慣や食に対する考え方の基礎が身に付く大切な時期であると捉えている。食べることに留まらず、作物を育てることも含め、あらゆる角度から「食」を体験する。四季折々の自然に親しみ、感動を味わうことを大切にしている。展望食育「年長クッキング」総合学園としての明星学苑のメリットは、建学の精神「和の精神のもと、世界に貢献する人を育成する」を根幹としている。発達段階の違いはあるものの、各園校がこれからの未来を見据えた新しい学苑ビジョン「自ら変革し続け、新たな時代、新たな世界を謳歌する人間性溢れる卒業生を輩出する学苑」の下、同じ方向性で教育を進めていけるところにある。正に「教育の明星」の真骨頂である。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory331

## Page 167
![Page 167の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000167.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況332明星幼稚園KDG教育活動／PTA星座会明星幼稚園の保育も、総合学園の結びつきをより明確にしながら、子どもたちの成長を促していく必要がある。明星小学校との学びの連続性を築いていくことは、今後の大きな目標となってくるところである。その学びの連続性の中で「探究」がこれからの大きなテーマとなってくる。明星幼稚園での探究活動は、先にも記した「めばえの時間」の三つの柱を軸としている。それぞれが互いに刺激し合いながら、劇発表を行ったり、英語に触れたり、また、自然科学を感じられる五感を通して感動を味わう体験だったり、年間の四季折々の行事にまつわる創作体験だったりなど、幼児期の主体的な体験活動を通じ、思考力、判断力、表現力の素地を培うこととしている。また、100周年を機に遊具や園庭の整備計画も進んでおり、「遊びながら探究心を育むアクティブ遊具と学びの園庭」を導入していくこととしている。この幼稚園での探究活動を小学校でさらに学びの探究へとつなげるために、明星小学校でも、運動会おゆうぎ運動会リレー学びの園庭「日時計」（構想図）探究学習の研究を進めている。これは、小学校学習指導要領に示される「総合的な学習の時間」の目標を念頭に置きながら、「主体的に学び、他者と協働しながら、自己発信できる子」の育成をねらいとしている。幼小の学びの連続性を実現させるために、互いに「互恵性」のある活動を行っていく必要がある。互恵性とは、子ども同士、大人同士が互いの主体性を理解し、受け入れ合える関係ということであり、そのためには、教師間の理解を深める研究や研修の場、積極的な意見交換の場の確保が必要である。また、幼稚園から上の就学期では、これまでの教育のスタイルは「教師が知識をどう教えるか」ということを中心に捉えてきたが、今後の社会の潮流はそうではなく、「子どもたちの学びをどう育てるか」というスタイルに移行していくことになる。つまり子どもたちがどのように学んでいくかという「学び方」を教師は教えていくことになるのである。今の子どもたちが社会を担う未来は「予測困難で不確実、複雑で曖昧」な世の中になるであろうと言われている。また、「多様であることを認める」だけでなく、「多様であることこそが豊かである」というダイバーシティの考え方となっていく。就学前の幼児期にあっても、当然このような時代を生き抜くために身に付けるべき力を意識しながら、カリキュラム、プログラムなど、日々の保育にあたっていくことが重点となる。このように、明星幼稚園が掲げる新しいビジョンや教育目標は、今後、社会全体の基本的な姿勢や考え方となっていくことは間違いない。総合学園という特色を活かしながら、明星幼稚園の担う役割は、子どもたちの将来のあるべき姿を見据えながら、「将来の自己実現につながる保育」を子どもたち、保護者とともに次の百年へ歩みを力強く進めることである。PTA星座会PTA星座会明星幼稚園では、1951（昭和26）年5月に母の会『PTA』が発足した。「健康、真面目、努力」の校訓に基づき、園とともに時代を歩んできた。1955（昭和30）年3月21日に第1号が発刊された卒業記念誌『星座』は、今でも受け継がれている大切な伝統の一つである。2003（平成15）年度よりPTA活動をより身近に感じてもらえるように、卒業記念誌にちなんで「星座会」と名称を変えた。子どもたちや保護者を星にたとえ、星々の連なりである星座を園として、年少組から年長組までのすべての保護者と先生方を会員として親睦を深め、子どもたちの笑顔と充実した園生活にさらなる輝きを与えるために活動している。これからも、良い環境を整えてくださる先生方や職員の皆様を支える父母会として活動していきたいと思う。星座会の主な活動としては、会員相互の親睦を図り、教養を高める催しとして、サークル活動・講演会・講習会などを行っている。明星祭では、さかな釣り・くじ引き・ホッシーランド（アスレチック）など園児が楽しめる企画を運営KDGし、制服のリサイクル販売等を行い、収益金は観劇会や園設備の一部に充てている。またユニセフ募金では、世界中の恵まれない子どもたちのために微力ながらお手伝いをさせていただいている。2006（平成18）年度より、ベルマーク委員会と卒園対策委員会を星座会活動として位置づけて活動している。ベルマーク委員会では年3回ベルマークを回収・集計し、園児が使用する遊具等を購入している。卒園対策委員会は、3年間お世話になった先生方への感謝の気持ちをお伝えする謝恩会を開催している。年長組の保護者全員が参加して盛り上げている。2020（令和2）年から世界中を震撼させた新型コロナウイルス感染症により、分散登園や夏休み延長などで一部活動の見直しを余儀なくされた。星座会では新たな形でこれまで以上に園を盛り上げていく活動に取り組んでいく所存である。最後に、子どもたちだけではなく私たち親にも笑顔で親身に対応してくださる園長先生をはじめとする先生方、職員の皆様の日々熱意ある御指導に改めて感謝を申し上げる。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory333

## Page 168
![Page 168の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000168.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況334明星幼稚園KDG明星幼稚園の歩み／年間の保育活動・行事／幼稚園の一日の生活明星幼稚園の歩み年月出来事1949（昭和24）9明星幼稚園開園児玉九十園長（在籍19名2学級〈年長組1、年少組1〉）1951（昭和26）7第1回星まつり開催10幼小連合運動会開催12第1回歳まつり（発表会）開催1959（昭和34）11開園10周年記念式挙行11園舎竣工1960（昭和35）43年保育が始まる1962（昭和37）9学苑プール設置（プール保育始まる）1967（昭和42）4カフジ明星幼稚園（サウジアラビア王国）開園9園舎増築（2階会議室・教養室・応接室）1969（昭和44）4開園20周年記念「プレイスクルプチュア」完成11開園20周年記念式挙行1971（昭和46）7第1回八ヶ岳山荘合宿保育実施1973（昭和48）2第11回よい歯の幼稚園優秀賞受賞7ブロンズ製の園章園舎に取り付け1974（昭和49）10開園25周年記念式挙行12園舎増築（3歳児保育室拡張・準備室増設・火災報知器取り付け）1975（昭和50）4年長組・英語あそび開始9シラズ幼稚園（イラン・イスラム共和国）開園1976（昭和51）3記念碑「よい子」設置4明星大学付属幼稚園開園1978（昭和53）12シラズ幼稚園（イラン・イスラム共和国）閉園1979（昭和54）12開園30周年記念式挙行1982（昭和57）7府中市私立幼稚園協会教員研修会公開保育1990（平成2）2開園40周年記念式挙行1998（平成10）4新園舎（現園舎）竣工4課外活動「サッカー教室」「バレエ教室」開始4「ひよこクラス」始まる1999（平成11）6給食開始（週1回）11開園50周年記念式挙行2000（平成12）3明星大学付属幼稚園閉園4週休2日制に移行2005（平成17）2課外活動「バレエ教室」終了3カフジ明星幼稚園閉園4課外活動「新体操教室」開始2007（平成19）6幼稚園専用プール新設11園バス運行開始（2ルート）（現在は4ルート）2009（平成21）4課外活動「英語レッスン」開始10開園60周年記念式挙行2013（平成25）4新年少組より制服・制帽・通園かばんを変更4給食週2回開始4預かり保育「どんぐりクラブ」開始2014（平成26）4新施設（預かり保育施設リープひろば）竣工4年中組英語あそび開始6未就園児クラス「ぴよぴよクラス」始まる2017（平成29）5プレスクールぴよぴよクラスファースト（1歳児）始まる5プレスクールぴよぴよクラスセカンド（2歳児）始まる9新大型遊具設置「ホッシーランド」設置2018（平成30）4課外活動「わくわくアート・ラボ」始まる10年少組英語あそび（4回/年）20194ルーブリック評価導入（平成31/令和元）7年少組トイレ改装9開園70周年「お祝いの会」挙行2021（令和3）12「なだらかな接続」に向けた幼稚園および小学校における施策に関する研究発表2022（令和4）2教育の質の向上を目指す実践研究「ルーブリック評価を通じた3年間の成長を可視化する」研究発表年間の保育活動・行事4月●入園式●始業式●はじめましての会●定期健康診断5月●子どもの日を祝う会●春の遠足（年長組）●親子遠足（年中組）●親子親睦会（年少組）●かくれんぼ参観（年少組）●臨床美術ワークショップ（年長組）●ファミリープレゼント作り（母の日、父の日のプレゼント）6月●保育参観（年中長組）●親子ふれあいデー（年少組）●プール保育7月●プール保育●星まつり●終業式●お泊り保育（年長組）8月●夏休み●夏期保育9月●始業式●敬老の日のはがき描き、はがき投函（敬老の日）●お月見●明星祭10月●運動会●秋の遠足●おいもほり●JAXA連携活動（年長組）11月●臨床美術ワークショップ（年少組）●やきいも大会●お弁当かくれんぼ参観（年少組）●勤労感謝めぐり●発表会（年中組）12月●発表会（年長組）●保育参観（年少組）●終業式1月●始業式●おもちつき●臨床美術ワークショップ（年中組）●観劇会2月●節分豆まきの会●発表会（年少組）●英語遊び参観（年中長組）●卒園遠足（年長組）3月●ひなまつりの会●親子お楽しみ会（年長組）●年長組を送る会●修了式●卒園式※毎月お誕生会を行っています。※災害避難訓練、交通安全指導、防犯訓練を定期的に行っています。※明星小学校とのふれあい活動「にこにこの日」を定期的に行っています。※明星小学校教員による連携活動「のびのびタイム」を定期的に行っています。※学年ごとに野菜の栽培、クッキング、絵画制作等。※週一回ネイティブの講師による英語遊びを行っています。幼稚園の一日の生活9：50〜10：10●園児登園（園バス・自家用車登園の園児は若干時間差があり）●自由遊び10：20●チャイム●体操・散歩、マラソン等（園庭・学苑内）●朝の集まり（朝の歌・あいさつ・みなしずか・出席調べ等）10：30●いろいろな活動や遊び●よみきかせ（紙芝居・絵本等）12：00●昼食（みなしずか・おべんとうの歌・あいさつ・食事）※月・金：お弁当、火・木：給食●午後の活動14：00〜14：30●降園準備（学年別時差降園）※水曜日は午前中保育（11：30〜12：00）※園バス降園の園児は若干時間差ありお月見マラソンMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory335

## Page 169
![Page 169の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000169.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

ES明星小学校

## Page 170
![Page 170の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000170.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況338明星小学校ES校長の辞校長の辞明星学苑創立100周年を祝して「スカッとさわやか！」な小学校を創る明星小学校校長細水保宏HOSOMIZUYasuhiro明星小学校は、1950（昭和25）年に開校し、2023（令和5）年に創立73年を迎えた。学苑の建学の精神「和の精神のもと、世界に貢献する人を育成する」と、「正直なよい子」を教育目標に「手塩にかける教育」、心を鍛える「凝念」、体験教育の意味を込めた「実践躬行」という三つの柱で教育実践を行ってきた。「時間は刻々と過ぎ去って、決してもとに戻ることはありません。しかし、川の流れのように、ただ流れきってしまうものでもありません。人間は自分の生きた時間を積み重ね、少しずつ進歩して次の時代へのバトンを渡していく動物です。それを『歴史』と呼ぶのです」。これは、ある小学校の資料室の片隅にあった古い黒板に残されていた言葉で、歴史や伝統について考えるときいつも頭をよぎる。明星小学校創立70周年の挨拶でも引用させていただいたが、明星小学校の歴史は、歴代の理事長、校長、教職員、そして、保護者と子どもたちがバトンを受け継ぎながら創りあげてきたものである。そのバトンを受け継ぎ、さらに新たなよき歴史を創ってバトンを渡していく、それが今を生きる私たちの役目だと考えている。教育は、3年後、6年後、9年後の姿を想像しながら、そのために今何を行っていったらよいのかを考えて実践していくことが大切である。明星学苑は、創立100周年を迎えるにあたり、Next100として、これからの将来の姿を創造し、幼稚園・小学校・中学校・高等学校、そして大学での教育理念の共有を図り、各校・園で新たな教育ビジョンと教育目標を設定した。明星小学校では、教育目標「正直なよい子」のもと、積み上げられてきた明星の力を受け継ぎつつ、新しい時代に活躍する人材を育成するといった観点から、新たに教育ビジョンと教育目標を設定した。【教育ビジョン】自ら問いかけ、考え、行動し、自己表現できる人を育む学校知的好奇心と探究心、論理的思考力をもった人を育む学校共生・共創できる、心豊かな人を育む学校【教育目標】「賢さ」と「豊かさ」を兼ね備えた、輝きをもった人の育成「賢さ」は、生きて働く知識・技能、未知の状況にも対応できる思考力、判断力、表現力、学びを人生や社会に生かそうとする力で、五感を通した体験や知的好奇心、探究心を大切にした「深い学び」によって得られる夢を叶える力である。「豊かさ」は、人を思いやる心、世界に広がる視野、また、語られる言葉や眼に見える事象の深層を推測し理解する心で、身につけた学びを人生や社会に生かす人間性に大きく関わってくるもので、「豊かな心」は子ども時代に多くの感動を経験するなかで育まれると捉えている。創立以来行われている、心の働きを一点に集め精神を集中させる「凝念」は、心が無になるわずかな時間が集中力を育て、冷静に行動する精神力の糧となる。そこで、この教育目標の具現化を図るために、「深い学び」「豊かな心」「凝念」の3つの柱で新たな一歩を踏み出している。特に、これからの社会に必要不可欠な「英語力と理数力の強化」、「先進的プログラミング教育」、そして、「SDGs」「STEAM教育」も取り入れながら、これからの社会により必要となるグローバル力を育む「探究」に力を入れている。また、保護者は学校を選択できるが担任は選択できないことを考えると、保護者の次に子どもたちに影響がある担任を含めた教師の質が学校教育では何より大切になってくる。そこで、教師の授授業観②教材研究力③学習指導力④人間性の4つから捉え、研修・研究を通し、切磋琢磨しながらその向上を図っている。明星学苑は「教育の明星」として歴史を積み上げてきた。同一敷地内に幼稚園から高等学校まである利点を生かした、15カ年を見通して連携を図る「一貫教育」の新たな構築にも動き出している。体験を大切にし、五感を通して学び、生きる力を育むという、受け継がれてきたバトンをしっかりと次の時代に受け継いでいくことができるよう、子どもたち一人ひとりの個性が輝き、笑顔あふれる教育の場をチーム明星で一体となって創っていきたい。どんな子も心開いて、学び、成長していく、さわやかな風が流れる学校を教職員一同、チームを組んで子どもたちと一緒に創っていく、それが学校づくりの強い想いである。さあ、次の100年に向けての一歩を踏み出していこう。合言葉は、「スカッとさわやかに！」。「スカッとさわやかに」ポスターMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory339

## Page 171
![Page 171の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000171.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況340明星小学校ES教育活動教育活動教育方針・カリキュラム明星学苑の校訓である「健康・真面目・努力」の三綱領に基づく「世界に信頼される日本人」の育成を目指し、小学校では道徳・しつけの教育を核として「正直なよい子」を教育目標とした人間教育を実施してきた。「正直なよい子」になるため具体的には、•凝念教育•五正道（正しく視る、正しく聴く、正しく考える、正しく言う、正しく行う）の実践•豊かな心を育てる教育（心の教育、道徳・躾、体験学習、きめ細かな生活指導）•確かな学力をつける教育（授業の充実、きめ細かな学習指導）•総合学園の特色を生かした教育項目をあげ、学校全生活を通し、また各教科の指導、日常の生活指導、特別活動、年間の各種行事等により、知・徳・体三位一体の調和の取れた人間形成を図ってきた。本学苑が100周年を迎えるにあたって、現在の社会のニーズにこたえるべく、また、これからの社会に必要な人を育てるべく、現在の建学の精神「和の精神のもと世界に貢献する人を育成する」を受け、2022（令和4）年度より小学校の教育ビジョンを、•自ら問いかけ、考え、行動し、自己表現できる人を育む学校•知的好奇心と探究心、論理的思考力をもった人を育む学校児玉九十の授業（1955年）ES•共生・共創できる、心豊かな人を育む学校とした。『「賢さ」と「豊かさ」を兼ね備えた、輝きをもった人の育成』を教育目標として、伝統を大切にしつつも、新たな伝統をつくっていくことを目指している。学苑の教育方針に「凝念を通じて心の力を鍛える教育」とあるよう、凝念教育は明星教育の根幹である。端座・瞑目・臍下丹田に力を集中して精神統一し、あらゆる活動の根源としている。凝念を実施することにより、姿勢がよくなり、健康な身体を作り、起居動作・礼儀作法・言葉遣いの基本もでき、態度に落ち着きができるようになる。幼稚園から引き続き、小学校では教育目標具現のため重要な柱として、現在も大切に実践している。特色ある授業（プログラム）体験教育（1）くぬぎの時間（低学年）「くぬぎの時間」は生活科とは違い、学苑創設くぬぎの畑当初からの体験教育を基本にした小学校独自のカリキュラムで組まれている。拙くても他に依存せず、自分たちの力で活動していくことで、真の生きる力を育んでいくことを目的としている。机上の学習だけではなく、総てが五感を通した体験学習を大切にしている。体験を積み重ねていく中に様々な学びがあり、子どもたちの心も豊かになってくる。また、子どもたちの新たな興味や関心を引き出したり、高めたりすることで、他教科での学力向上も期待できる。体験から得た小さな感動が子どもたちを大きく成長させる。そして、くぬぎの時間を利用し、理科的内容の充実を図り、興味関心が深められるようカリキュラムを設定している。柔軟な思考で吸収力の大きい低学年のうちから、理科教材や身近な理科的事象に直接触れ、五感を働かせて楽しく活動することをねらいとしている。それが低学年の「くぬぎの時間」（低学年理科）の大きな特徴である。（2）くぬぎの時間（中・高学年）低学年で経験したことや他教科で学んだことを生かして児童自らが計画し活動する「体験」を主体とした時間である。「自ら考え、実践し、伝え合える子」という目標に向かい、クラスごとに活動内容を決定する。2022（令和4）年度の5、6年生は学年の枠を超え、「ゼミ探究」として、興味のある事象が同じもしくは、似ている児童で集団を作り、深めていく活動を行う。くぬぎの時間は、体験教育を重視する明星小学校の要の教科である。英語教育建学の精神を受け、1953（昭和28）年に4年生以上で英語教育が始まる。1975（昭和50）年には外国人講師による授業が開始。以来、インターナショナルスクールからの視察をはじめ、アメリカ・イギリスなどからも視察や大学生の交流活動が行われている。子ども同士の交流も、台湾や中国の子どもたちと行うなど、生きた英語に触れてきている。また、校外に出て英語に触れる体験活動も多く取り入れている。（校外学習については別途記載）授業時数も1年生から5年生は週2時間、6年生は週3時間とし、Reading・Writing・Listening・Speakingの4技能をバランスよく学習している。また、英語を第二言語として捉えた学習だけではなく、「When・Where・Who・How」をどう使うのか意識した学習を取り入れることで、日常生活におけるできごとや、身の回りの事象に置き換えて想像し、当事者意識をもって活動することができるよう取り組んでいる。さらに、全学年に英語を母国語とする外国人講師の授業を行っている。『学ぶプログラムと使うプログラム』•使うプログラムは、様々な体験を通して、触れることを目的としている。（使うプログラムについては、別途記載）•学ぶプログラムでは、小学校卒業時の英検取得を目指し、5、6年生は週の授業時間中に英語検定への参加をしている。朝の時間を使い、「英検対策プログラム」を行い、卒業時全員合格を目指している。算数教育（1）A.A.授業（ArithmeticActivity）授業の最初の5分を使い、数的な感覚（ジャマなど）や図形の感覚（タングラム・MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory341

## Page 172
![Page 172の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000172.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況342明星小学校ES教育活動／学校生活算数発表パターンブロックなど）を豊かにし、論理的に考える力（アルゴゲーム）を養う活動を行っている。これらの活動は、算数が苦手と思っている子でも、積極的に取り組んでいる。できた経験は自信につながり、自信は算数の問題に挑む原動力となり、それが算数好きな子を育てる一つとなる。（2）プログラミング教材の活用株式会社ベネッセコーポレーションと本校教員の共同開発で、1年生から6年生までの全学年分のプログラミング教材を開発。すべてカリキュラムの中に取り入れ、子どもたちの活動に生かしている。（3）研究発表会（明星算数講座）本校での算数教育の研究を、「明星算数講座」として外に向けて発信している。第9回をむかえ、参加される先生方も東京都に限らず他府県からの参加もあり、200名前後の先生方の参加が毎回ある。授業を公開しその授業について話し合うことで、教員の資質向上につながる。現在は、算数のみならず、体育も公開し、他教科の研究発表も広がりを見せつつある。理科教育低学年理科のカリキュラム1989（平成元）年の学習指導要領の改訂で、低学年の社会科と理科が合科となり、「生活科」とする内容がまとめられ、1992（平成4）年より全面理科教育実施となった。本校において、1984（昭和59）年に「低学年の総合的・合科的学習」を体験学習として位置づけ、カリキュラムを組んでいる。小学校低学年で、ゴムや磁石、豆電球などを使った実験や、昆虫や植物の飼育・栽培・観察など、理科的内容の充実を図ることで、その後の学年の興味・関心につながる。柔軟な思考で吸収力の大きい低学年のうちから、理科教材や身近な理科的事象に直接触れ、五感をはたらかせて楽しく活動することで、子どもたちの理科に対する関心や探究心を芽生えさせ、「理科ぎらい」、「理科ばなれ」を防ぎ、「理科好き」な子を育てることができると考えている。展望（「賢さ」と「豊かさ」を追い求めて）ますます進むグローバル化の社会に向けて、アクティブラーニングを重視した多彩な英語プログラムや、知的好奇心や論理的思考力を育てる理数プログラム、先進的プログラミング学習、さらに今後より一層必要となるグローバル力を育む「探究学習」、「SDGs教育」、「STEAM教育」にも新たに目を向け、子どもたち一人ひとりの個性を磨きながら取り組んでいく。学校生活一貫教育の充実一貫教育は、総合学園の特色、魅力（強み）の一つにあげられる。日常生活の中で、一貫教育をさらに深めていくことが、特色をさらに確固たるものとすることになる。幼稚園と小学校の連携•にこにこの日：2013（平成25）年より、幼小の交流活動を開始。ゲームをしたり、歌を歌ったりお話をするなど、一緒に仲良く過ごす。年下の子への気遣いや思いやりを学び、他者のために活動することの大切さに気付く機会となっている。•幼小合同研修会：幼稚園の教員と小学校の教員が同じ話題で話し合ったり、意見交換をしたりする場。授業の様子、保育の様子をお互い参観し合い、教員の資質の向上に役立てるとともに、内部進学者数の増加を目指し、情報交換の場ともなっている。幼小合同研修会ES中学校・高等学校と小学校の連携•HeartGlobal（YoungAmericans）：小学校5年生と中学校2年生が参加。座学ではなく、身体を動かしながら英語に触れる機会をつくっている。•教員派遣：中学校の英語、数学、理科の教員が、小学校5、6年生の授業を担当することで、児童が中学校の先生と直接触れる機会をつくっている。そうすることで、中1ギャップを減らすこともでき、児童が明星中学校への進学を決める契機ともなっている。また、小学校の教員が中学の数学の授業も担当している。大学と小学校の連携•元気玉プロジェクト：大学で行っていたイベント。台湾の小学生が来日し、日本に触れるプログラム。その一つで、小学校へ来校し、本校の小学生と触れ合う活動であった。•国内留学：小学生が大学を訪問し、施設の見学、大学の先生の授業を受けるというイベント。明星大学への憧れを持つこともねらいの一つとなっていた。•プログラミング教室：大学の教授とゼミの学生が来校し、小学生がプログラミングの授業を受けるイベント。本格的なコーディングにも触れさせてもらっている。•明星算数講座・学びの祭り：大学の教授と学生が来校し、算数のブースを出店して、算数・数学のおもしろさを伝えている。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory343

## Page 173
![Page 173の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000173.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況344明星小学校ES学校生活課外活動（宿泊学習）現在は、「緑の教室」として7月に、八ヶ岳清泉寮自然学校にて1泊2日で、主に美しの森周辺の1年生の宿泊訓練から始まり、各学年に適したねらいを持ち、6年生ではグループで計画を立ハイキング・清里周辺での体験活動を行っている。て、班行動で京都市内を回っている。6年間で計3年生千葉方面「海辺の教室」11泊の宿泊学習を行っている。1982（昭和57）年に「山の学校」として八ヶ岳山1年生八ヶ岳方面「夏の教室」荘にて始まる。1994（平成6）年に「緑の教室」に2010（平成22）年に八ヶ岳山荘にて始まる。生活訓練が主であるが、八ヶ岳山荘近辺のハイキングも行っている。現在は、「夏の教室」として7月に、八ヶ岳清泉泊2日で、主に清泉寮周辺のハイキング・宿泊訓練を行っている。変更。2017（平成29）年に、宿泊地を千葉鴨川に変更して実施している。現在は、「海辺の教室」として6月に、鴨川・勝浦方面にて、2泊3日で磯観察を中心に、鴨川シーワールドでのグループ活動・勝浦海中公園での活動を行っている。2年生八ヶ岳方面「緑の教室」4年生河口湖・富士山「秋の学校」2001（平成13）年に八ヶ岳山荘にて始まる。美しの森近辺のハイキング、自然とのふれあいを中心に活動を行っている。1982（昭和57）年に「山の学校」として八ヶ岳山荘にて始まる。2012（平成24）年には、「秋の学校」として宿泊地を河口湖に変更し実施している。1年生夏の教室3年生海辺の教室2年生緑の教室4年生秋の学校現在は、「秋の学校」として9月に、河口湖湖畔に宿泊し、富士山5合目付近のハイキングを中心とし、コウモリ穴の見学や、紅陽台のハイキングなど活動している。5年生白樺湖方面「山の学校」1971（昭和46）年に「スキー学校」として、黒姫山荘にて始まる。宿泊地を八ヶ岳山荘、菅平高原と変更しながら、冬のスポーツを経験し続けてきたが、2020（令和2）年に宿泊地を白樺湖に変更、季節も秋に変え、自然体験を主な活動として行っている。現在は、「山の学校」として6月に、白樺湖蓼科に宿泊し、長野県の農業体験や飯盒炊飯など、自然を体験する活動を行っている。5年生高尾の森わくわくビレッジ「スマイルキャンプ」2017（平成29）年より、クラス替え後の学級づ泊2日で実施。新たなクラスメイトと協力して様々なに取り組んでいた。6年生妙高高原「夏の学校」1958（昭和33）年に「海の学校」として始まる。場所を弓ヶ浜から黒姫山壮に変更し「夏の学校」泊4日で行う。弓ヶ浜では「水泳学習」が主であったが、黒姫に場所を移してからは、戸隠・黒姫山のハイキングと、日本海谷浜海岸で水泳学習を実施。その後、妙高高原に宿泊先を移してからも、ハイキングと水泳を行い、夏にしかできない体験活動を行っていた（現在は行っていない）。6年生京都・奈良方面「修学旅行」1972（昭和47）年に日光・片品方面に宿泊地を変更し、2泊3日で実施する。その後、東日本大（平成23）年に宿泊地を飛騨高山に変更。高山市内での民俗体験や、白川郷での世界遺産見学等、活動していた。その後浅間山の噴火の影響により、宿泊地を日光に戻す。5年生冬の学校6年生夏の学校2019（令和元）年に京都・奈良方面に変更し、3泊4日小学校の宿泊行事の締めくくりとして「修学旅行」を実施している。校外学習各学年の実態・学習内容・教科（特にくぬぎ、社会科、理科、英語）の特色に合わせ、直接的体験を第一のねらいとし、以下の内容で校外学習（体験活動）を行っている。1年生：お鷹の道探検2年生：府中の森公園（自然と触れ合う）3年生：①工場見学（サントリービール工場）②府中郷土の森（地域の様子を知ろう）③大國魂神社④商店街とスーパーマーケット見学⑤TGG（TOKYOGLOBALGATE-WAY）での英語体験MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory345

## Page 174
![Page 174の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000174.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況346明星小学校ES学校生活／PTA4年生：浅草（外国の方への街頭インタビューと東京都の伝統や文化に触れる）・ごみ処理施設見学・水再生センター（浄水場）見学・羽村取水堰5年生：①TGG（TOKYOGLOBALGATEWAY）での英語体験②工場見学（日野自動車・トッパン・読売新聞社など）6年生：①都内見学（国会議事堂）②劇団四季観劇③江戸東京博物館④鎌倉でのグループ活動（京都でのグループ活動を見すえて）英語体験学習（使うプロブラム）TGG（TOKYOGLOBALGATEWAY）3年生全員で実施。日常の場面での英語活用の体験の場。浅草校外学習4年生全員で実施。浅草に来る外国人の方々に街頭インタビューをし、外国語に触れる活動。現地に行く前に、教員を外国人の方々に見立て練習をし、実際の活動につなげている。HeartGlobal（YoungAmericans）5年生全員で実施。中学校2年生との合同活動。生きた英語に触れる場。座学ではなく、体を動かし、触れ合う場となっている。レシテーションコンテスト英語の暗唱大会。現在は予選を行うほど多くの参加者がある。イングリッシュキャンプ4年生から6年生の希望者。2泊3日英語漬けの宿泊学習。座学からアクティビティでの活動、ワークショップなど、様々な場面での英語に触れる。台湾留学台湾の國立臺中教育大學附設實驗國民小學との交流。お互い訪問し合い、それぞれ学年に入TGGHeartGlobal（YoungAmericans）り授業を受けたり、一つの活動を通じて触れ合ったりしている。教員もそれぞれの訪問先で授業をし合っている。現在、姉妹校提携に向けて動いている。算数体験学習マスキャンプ4年生〜6年生の希望者。北海道の函館にある日間、学校では体験できないようなプログラムに取り組み、算数の世界を楽しむイベント。現地の子どもたちとの交流もあり、キャンプ中、子どもたちは目を輝かせながら「？」をもち、その「？」を協力して解決していた。マスキャンプPTA活動内容創設者児玉九十は、小学校創設当初より、「学校と家庭は精神的な親戚である」との教えを提唱されている。1950（昭和25）年の小学校創設の年にPTAも組織されていた。また学苑と家庭は親密であるべきこと、教育には、「学校での教育」「家庭での教育」「社会での教育」が大切さであることも提唱され、PTA活動の大切さも述べられている。現在のPTA活動は、学校と家庭との結びつきを大切にし、各種行事における家庭での協力や参加も積極的に行われている。中でも主な歴史ある活動としては、①1954（昭和29）年に、会員相互の親睦・教養通信「わかば」の発刊。②1965（昭和40）年の明星祭より行っている「PTAバザー」③45年間もの長期に渡り続けてている「ベルマーク運動」などがあげられる。PTA運営委員会が組織され、会長、副会長、会計、監事のもと、PTA委員は各クラス2名、ベル名、その他運動会、明星祭の運営に各クラス数名ずつの参加となっている。コロナ禍の下では、活動に制限があったが、年間の主な活動は以下のとおりである。ES4月：PTA総会新年度役員紹介前年度の事業報告・収支決算報告当年度の事業計画・収支決算報告の審議・提案5月：運動会PTA競技への参加係としての運動会の運営6月：PTA親睦会保護者と教員の親睦をはかるための会2022（令和4）年度は、会場を児玉九十記念講堂にて実施9月：明星祭（PTAバザー、子どもバザー、ゲーム）制服リサイクル・提供品バザー・子どもバザー。保護者の方々によるゲームなど1月：PTA教養講座の開催救命講習会で心肺蘇生の実技や、校長講演など年間：ベルマーク活動PTA総会MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory347

## Page 175
![Page 175の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000175.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

JHS/SHS明星中学校・高等学校

## Page 176
![Page 176の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000176.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況350明星中学校・高等学校JHS／SHS校長の辞校長の辞明星100周年記念の辞「変わる明星・変わらない明星」明星中学校・高等学校校長福本眞也FUKUMOTOSinya明星中学校・高等学校は1923（大正12）年に明星実務学校として産声をあげ、2023（令和5）年に創立100周年を迎えた。明星の創立は、東京帝国大学文科大学哲学科卒業後成蹊学園で若くして活躍されていた児玉九十先生が実業家星野鏡三郎翁と出会い、星野翁から教育事業に貢献したいと、多額の寄付を頂いたことに端を発する。1926（大正15）年に児玉九十先生が校長に就任、1978（昭和53）年まで実に52年間校長として、明星の教育に情熱を注がれた。明星は児玉九十先生の卓越した教育観と教育実践により大きく羽ばたき、長い歴史と伝統が培われ、多くの有為な人材を輩出し、多摩川の流れとともに歩み続けてきた。凝念と心力歌に代表される「心の教育」と実践躬行の「体験教育」、そして校訓「健康・真面目・努力」は変わらない明星を代表するものである。日々の授業や学校行事の始まりと終わりの凝念。毎月児玉記念講堂で厳粛に行われる「凝念の時間」。凝念から心力歌の唱和、そして校長講話と校歌斉唱は大切に受け継がれ、生徒達の成長と同窓生の絆として大きな役割を果たしている。実践躬行の「体験教育」は21世紀になり、ますます重要な教育方略となり、文部科学省が「学力の三要素」を具現化するために推奨している探究学習と全く一致しており、児玉九十先生の教育年経てますます輝いていると言える。校門を入った右側に二宮尊徳の銅像がある。二宮尊徳は「我が道は至誠と実行のみ。故に才智、弁舌を尊ばず。至誠と実行を尊ぶなり。凡そ世の中は智あるも、学あるも、至誠と実行とにあらざれば、事は成らぬものと知るべし。」と言っている。この言葉は明星の体験教育そのものであると言える。また、校訓「健康・真面目・努力」は生徒達が日々実践し成長するためだけでなく、未来においても常に助けてくれる「守り札」となる。21世紀社会で必要な活躍力の中でも、「健康・真面目・努力」を実践する力が一番大切だと生徒に教えるのは、科学技術で世の中がどれだけ変わっても、人間の本質は変わらないからである。これまでの100年で培われ、守られてきたこれら三つの大切なものを、次の100年においても守り続けることが明星のさらなる発展に繋がることになる。しかし、100年の歴史の上に、変わりゆく時代に合った明星に変化を遂げていかねばならない。人生100年時代といわれる21世紀において、気（グリーントランスフォーメーション）、society5.0超スマー（デジタルトランスフォーメーション）、持続可能な開発目標のSDGs、少子高齢化等の問題が山積みしている。これからの若者は、それらの課題解決能力だけでなく、イノベーションや創造性といったAIに置き換えることができない能力、あるいは社会で生きていく上でも必要な能力を身につけることが必須である。そのために、明星は新しい時代を見据え、教育の変革に真剣に取り組み、「目に見える学力」と「目に見えない学力」をクロスさせながら、新しいことへの挑戦を続けてきた。特に校外学習を充実させ、社会との接点を作ることで、生徒が社会への目を開くことを期待した。修学旅行も研修旅行と呼び名を変え、どのような研修にするかは、旅行代理店の提案を生徒達が検討するだけでなく、自分たちで組み立ててプレゼンテーションし、皆で検討して作り上げる方式に大きく変わった。SDGsに関連した探究・体験活動も多く、事前学習、実際の活動、事後学習にもかなりの時間を割いている。プラスチックごみ削減、ジェンダー平等、衣服のリサイクル、地域活性化などに取り組んできた。特筆すべきは、2022（令和4）年4月、これまで明星を育んでいただいた府中市と多摩地区に、SDGs活動で地域活性化に貢献することを宣言し、その第一歩として、府中市と地域活性化に関する協働協定を締結し、学校全体で取り組んでいる。そして、明星学苑は次の100年、新たな発展をするために、明星学苑の建学の精神、校訓、教育目標はこれまでの通りであるが、明星学苑ビジョン、各設置校のビジョンと教育目標は新たなものとなった。明星中学校・高等学校の新しい教育ビジョンは次の通りである。「世界のトレンドに適応し続けるイノベーティブな学校」「人と自然を愛し、自他の価値を大切にする学校」「生徒と教師がともに成長し誇りを持てる学校」の三点。新教育ビジョンは「変わる明星」と「変わらない明星」を背景に明星のあるべき姿を目指すものになっている。さらに、教育目標は「自分の未来をデザインし共創していける人の育成」。明星に入学してくる生徒が3年あるいは6年で、社会の変化を敏感に感じ、未来への道筋を描いて歩んでいける人間に育つ教育、そして予測困難な世界でも自他を認め多様性の中で共に新しいものを作りだせる人間に育つ教育を明星の新たな教育目標とした。これまでの100年を振り返ると、多くの先達と卒業生のおかげで今日の明星中学校・高等学校がある。これからの100年でも「選ばれる明星中学校・高等学校」であり続けるためには、「変わらない明星」と「変わる明星」の不易流行を大切にし、新教育ビジョンと新教育目標の実現を周年を機に宣言する。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory351

## Page 177
![Page 177の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000177.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況352明星中学校・高等学校JHS／SHS教育活動教育活動JHS／SHS教育方針・カリキュラム塩にかける」教育を教育目標に掲げ、文化などの違いを体験し、国際理解を深める教育、地域社男女別学時代（男子部：1923（大正12）年～、女子会との連携による教育（ボランティア活動など部：1954（昭和29）年～）の体験教育）、学苑設置校（幼・小・大）との連携男子部では、望ましい教育的環境（物的・精神教育を実践する。2016（平成28）年から各学的）を構成しその中でヒューマンタッチによる年に高い志と高い学力を身につけグローバル化教育を理想として努力すること、また、相手の時代に活躍するリーダー的人材を育成すること立場を理解しお互いの人格を認め尊重し合うとクラスの設置を開始し、広いころに生まれる「和」と教師生徒相互の信頼と愛世紀を支える有用な人材を育成することを基調にして教育を進めていくことを教育方とを目標とする本科クラスとの並列構成にな針に掲げていた。女子部では、人格完成をめざる。2008（平成20）年の中学校・高等学校6学年す人間性の開発伸展、女子特有の天賦の使命感男女共学化の完成を機に、3ステージ制によるの徹底、互尊互敬による「和」の教育、科学およ6ヵ年一貫教育をさらに推進した。び知性の重視と新倫理観の教育、真実の健康教育を掲げていた。これらは、女性特有の使命をSDGsの推進と一貫教育の充実（2020（令和2）根底から自覚し、新時代にふさわしい近代女性年～）として男性と共に平和な家庭・社会・国家を形持続可能な開発目標を推進した学びを提供す成することのできる女性の育成の必要性に基づ推進校として、数々の体験教育を通していている。実社会で活躍するための問題解決力を養うことを教育方針に加える。中学校は特選クラスと総男女共学化の完成と一貫教育体制の確立（2003合クラスから構成され、高等学校MGSコースに（平成15）年～）接続する一貫教育コースを年次進行で開始し男女別学の伝統を刻んだ歴史を収め、これかた。未来志向の教育を実践するとともに、なりらの男女共同参画社会時代にふさわしい男女共年間・なりたい自分を実現学体制となる。人格接触による手塩にかける教年間の6ヵ年一貫教育により21世紀社会で育、凝念を通じて心の力を鍛える教育、実践躬活躍するための「活躍力」を伸ばすを教育方針に行の体験教育を教育方針に掲げ、自律心を持っ掲げる。また、MGSコースに最難関国公立大学た自立した人の育成、和の精神を礎にした「指導を目指すために独自のハイレベル授業や完全個者が誠の心をもって生徒・学生の自然の心を誠別の進路指導など高度な学力を養う環境を整備の心に育て上げる」教育、「人格接触」の教育、「手コースを設置した。特色ある授業（プログラム）SDGs教育15ヵ月間にわたるアジア新興国の社会問題についての探求学習への取り組みや、SDGsに取り組む企業の研究と研修・ワークショップへの参加を通して、世界共通の諸問題を自分事化させていく。修学旅行の代わりに研修旅行を実施した。「見に行く」ではなく「話しに行く」をテーマにリアルな現場を体験する。探求学習生徒自らが問いを設定し、その解決に向けて情報収集や整理、分析をしたり、周囲の人と意見交換・協働したりしながら進めていく。生徒の思考力や判断力、表現力などの育成が目的である。中学校1・2年では自然科学をフィールドとし、問いとは何かを理解すること、問いを作り顕彰する方法を学ぶ。中学校3・高等学校1年では人文科学・社会科学をフィールドとし、身近なことから問いをたてて探究活動を実践し、社会と結びつける。高等学校2・3年ではゼミ活動を通して作った問い研究し卒業論文を執筆、その内容を後輩に向けて発表する。また、探求することによって得た学びを自分の進路選択やキャリアデザインに活かしていく。国際教育中学校では、たくさんの英語に触れることからはじめる。「多読多聴」を通して英語を音声のように聞き流すことからスタートし、だんだんとスカイプなどを通じたオンラインで外国の講師と話す練習に移行していく。また、英語で行われるイベントなどを通して、英語を使う環境に慣れ、総まとめとして1ヶ月間の全員語学研修で実力を試す。高等学校では、中学に引き続き、習得単語数に応じて「多読多聴」を継続する。希望者は海外の大学生と交流するプログラムや、短期留学にもチャレンジできる。高等学校3年生では受験に向けて各種対策講座が開かれ、志望校にあった英語対策講座も受講できる。（1）ヤングアメリカンズ40人以上のアメリカ人ダンサーやシンガーとともに、音楽やダンスを通じてミュージカルを3日間で作り上げ、発表するプログラムを実施する。ひとつのものをゼロから作る体験と全身を使いながら表現する生きた英語力を磨く。（2）グローバルディwithポートフォリオ生徒が少人数グループになり外国人留学生と共に自分たちで考えた観光ルートに沿った散策へと出かける。外国人留学生に対しては観光ルートに則したガイドを英語で行う。この活動をそのままポートフォリオに記録して可視化し、多面的かつ総合的な自分自身の評価に役立てる。（3）万全な受験対策高等学校3年生では、志望校に応じた英語の試験対策講座も行うなど、これまでに身に付けた英語を確かにする模試の機会も多く設けている。また、英語検定取得も積極的にバックアップしている。英語の多読多聴『OxfordReadingTree』など英語の本を読む時間を積極的に設け、楽しみながら年間100万語以上の英単語に触れる。また、CD多読多聴多読多聴英会話ヤングアメリカンズ（現：ハートグローバル）MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory353

## Page 178
![Page 178の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000178.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況354明星中学校・高等学校JHS／SHS教育活動プレーヤーを使って音声を聞きながら英文を理解することでリスニング力の養成を行う。アメリカの児童書・教材出版社が発行するデジタル教材BookFLIXとTrueFLIXをインターネットを使って積極的に活用することで、家庭でも多読多聴の学習ができる。理数教育理科では、身の回りの科学から大学の教育に触れる実験まで充実した教育環境で科学する力を育てる。数学では「好きになること」「分かること」を大切に、各学年標準時間以上の授業が確保されている。（1）MEISEIアカデミックラボ理科の授業とは別に設けられ「もっと理科の実験を楽しみたい」という希望者が集まって土曜日に実験を行う。身近にある科学から最先端の科学まで実験を題材として探求心を養う。また、多摩地域の大学と連携し、生徒達がSTEAMへの興味関心を醸成する機会となっている。プログラミング理科実験理系研修旅行（2）大学との連携でSTEMへの興味関心を醸成STEMとはScience（科学）、Technology（技術）、Engineering（工学）、Mathematics（数学）の総称。この専門知識に早くから触れられるよう、多摩地域の多くの大学と連携し、生徒たちがSTEMへの興味関心を醸成する機会を設けている。（3）サイエンスセミナーつくば周辺にあるサイバーダインスタジオ、JAXA、理化学研究所、筑波大学プラズマ研究所、国際統合睡眠医科学研究機構などの諸施設を訪れ、研究者の生の声を聞きながら科学の最先端の研究に触れ体験的に学ぶ。ICT教育どの分野にも浸透しているICTを便利な環境と位置づけ、ツールを使いこなす技術と、それによって生み出される付加価値を大切にしている。便利な道具でより良いコミュニケーションの構築や、全員がタブレットでつながりあうアクティブラーニングなど、活用の機会は様々である。（1）生徒一人ひとりに一台ずつタブレット端末を貸与端末を先生と生徒、または生徒同士のタイムリーなコミュニケーションなどに活用している。授業はもちろん学校行事に関する発信や部活動での利用も盛んである。情報収集や情報発信など、情報を取捨選択するリテラシースキルの習得にも役立っている。また、学習記録機能を利用し、生徒は日々の学習の時間や内容を記録し、それに対してクラス担任が中心となってコメントを生徒へフィードバックするなど、自己管理能力の向上にも役立てている。生徒の端末には使用状況を管理するソフトや、有害なサイトへのアクセスを制限するフィルタリング機能などを備えて、安全安心な環境で利用できるようになっている。（2）大学の情報学部の先生を招く講義総合学習の時間を利用して高大連携プログラiPadを使っての探究学習ムの一環として開かれた授業を実施する。明星大学デザイン学部西山剛己教授、明星大学情報学部長慎也教授・丸山一貴准教授、CompTIA（コンプティア）コンサルタントが特別出張講義を行った。この授業に興味をもった高校1年生が明星大学での集中講義に参加し「CompTIAITFundamentals」にチャレンジ、東京都初の高校生での合格を達成した。キャリア教育社会性や職業観を育むさまざまな体験教育プキッザニア海外研修探究学習発表外部講師による研修ログラムを通して、自分の興味や関心を考えるきっかけづくりをしている。自分の好きなこと、探求したいことを探して、進路につなげ、自分の生き方を発見していく。（1）キッザニアキッザニアが主催する中学生限定プログラムに参加した。ICT、日本文化、食育、地球、起業、ソーシャル・アート＆デザインの中から、興味のあるプログラムにより、仕事の持つ役割や楽しさに気づき、色々な職業の疑似体験を行うことにで、やりたい仕事や夢について考える機探究学習発表プログラミングプログラミング海外研修旅行仕事の力仕事の力SDGs探究学習外部講師による研修MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory355

## Page 179
![Page 179の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000179.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況356明星中学校・高等学校JHS／SHS教育活動会になっている。（2）東京農工大学との連携授業東京農工大学で教職課程を履修している学生の卒論研究のプレゼンテーションを受講する。そして、自分が興味を持ったテーマを選んで、グループにわかれて研究内容の続きを聞き、質疑応答を行う。早い時期から、大学での研究内容を知識として知ることにより、自分の進路に真剣に向き合うきっかけとなっている。（3）ボストンリーダーシッププログラム高等学校1年生のMGSクラスの希望者を対象とした海外研修プログラムを実施した。アメリカのボストンとニューヨークを訪問し、現地の大学訪問や学生との交流を行う。同時にホームスティも実施し、本物の体験を通して、視野を広げ、向上心を高める。（4）世界のトビラ海外からの留学生や海外滞在経験者、海外を舞台に活躍している方々を講師に招き、生徒に異文化を体験させる講座を開講した。自分の知らない世界を見て、聴いて、体験して、自分の視野を広げる。この講座の受講がきっかけで海外に興味を持ち進路を決める生徒もいる。（5）シゴトノチカラ本気で働く大人たちの「仕事観」に触れ、生の声を聞き、働くことの素晴らしさを理解し、前向きな気持ちを持って自分の進路について考えることを目的としたプログラムである。毎年、複数の企業の協力を得て、そこで働く方々を交えてグループワークやフリーセッション、プレゼンテーションを行っている。展望現在中学校または高等学校に在学している世代、これから中学校・高等学校時代を迎える世代は、デジタルネイティブ・スマホネイティブであり、SNSの利用頻度が高く、オープンなコミュニケーションを日常としている。また、社会運動に積極的であり、安定志向でプライベート重視であることなどを特徴として持っている。これからの時代は、彼らが有権者となって社会に参画し、それぞれに仕事に就き活躍する世の中となる。彼らの存在感は高まっていくに違いない。彼らが活躍する未来は「デジタルトランスフォーメーションの時代」「グリーントランスフォーメーションの時代」である。このような変革に対応し活躍できる人材を育てるため、日本の教育の主眼は知識・技術の重視から、主体性・多様性・協働性の育成の重視に移行している。この時代背景を受け、明星中学校・高等学校は次の教育ビジョン・教育目標・重点事業を掲げる。学苑教育ビジョン•自ら変革し続け、新たな時代、新たな世界を謳歌する人間性あふれる卒業生を輩出する学苑中高ビジョン•世界のトレンドに適応し続けるイノベーティブな学校•人と自然を愛し、自他の価値を大切にする学校•生徒と教師がともに成長し誇りを持てる学校教育目標•自分の未来をデザインし共創していける人の育成重点事業➀高校教育イノベーション共通項目•心の教育・体験教育（探究活動）の充実を図る•学校行事等を通して生徒の学校へのロイヤリティを高める•ICT機器・アクティブラーニング等を積極的に利活用し、新教育観・新教育課程へ対応する•入試問題・学習教材・探究学習等の研修を積極的に行う重点事業➁中高一貫・中学教育イノベーション中高一貫•特選クラスと総合クラスそれぞれの達成目標に応じた指導方針・内容を設定する•積極的に外部資源を利活用し、体系的な学習をする•基礎学力の養成に努め、面談・補講等の対策を密にする中学•基礎学力養成を図り段階別に早期指導を実施する•生徒の人間的成長のための体験学習を充実させ、指導内容を体系化する重点事業➂SDGs活動の地域貢献•府中・多摩地区の地域創成・活性化に貢献活動を企画・実行する•府中市と地域活性化に関する協働協定を締結し、連携事業を推進すると共に他の多摩地区への貢献拡大も模索する重点事業➃高大連携・高大接続の深化•明星大学との新たな高大連携を目指し、グランドデザインの策定と具体的プログラムの企画・実行を推進する•他の大学との高大連携に向けて調査・研究を進める•探究学習等の成果を活かした大学進学を模索する明星中学校・高等学校は、今日から始まる次年を視野に入れ、不易流行を重視し、新たな時代及び少子化時代に対応する新しい教育への転換と学校運営を図りつつ、生徒・保護者・地域に信頼される学校作りのため、上掲の新教育ビジョン、新教育目標、重点事業の達成を目指す。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory357

## Page 180
![Page 180の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000180.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況358明星中学校・高等学校JHS／SHS教育活動年中行事■修学旅行（研修旅行）共学■中学～2008（平成20）年広島・奈良・京都2013（平成25）年～2017（平成29）年カナダ研修旅行2020（令和2）年～コロナ感染症蔓延のため中止■高等学校～2009（平成21）年オーストラリア2010（平成22）年オーストラリア／沖縄2011（平成23）年沖縄2012（平成24）年～2017（平成29）年アメリカ／シンガポール／沖縄2018（平成30）年～2019（令和元）年台湾／ベトナム／ニュージーランド2020（令和2）年コロナ感染症蔓延のため中止2021（令和3）年国内（四国、九州、東北、北陸）2009（平成21）年～2011（平成23）年神戸・奈良・京都2018（平成30）年～2019（令和元）年セブ島語学研修■その他行事共学一期生中学入学式2003（平成15）年4月8日コロナ禍での中学卒業式2020（令和2）年3月体育祭中学卒業証書授与式＠視聴覚ホール2011（平成23）年3月19日（東日本大震災後）共学一期生高校入学式2005（平成17）年4月8日海の学校（中学）緑陰学校（中学）明星祭マラソン大会総合体育館竣工式合唱コンクール（中学）児玉九十記念講堂竣工式ヤングアメリカンズMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory359

## Page 181
![Page 181の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000181.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況360明星中学校・高等学校JHS／SHS教育活動部活動中学校・高等学校では多様な部活動があり、課外活動の教育の場として、生徒たちが日々活動している。以下の部活動を例として紹介する。スキー部中学校スキー部は、2023（令和5）年度で創部47年を迎え数多くの部員を輩出してきた。東京都中学校スキー大会では開催された全36回のうち、学校対抗男子の部で7回優勝、全61回と歴史ある全国中学校スキー大会へは男女合わせて18名を送り出し、全国に名が知られるスキー強豪校となった。部活目標は創部から変わらず「1.健全な心と体をつくる」、「2.集団生活を学びコミュニケーション能力を養う」、「3.スキー技術向上」とし、勉強だけではなく信頼される人間教育を部活動で実践している。高等学校スキー部はまもなく創部50年を迎え、創部以来、全国大会へ述べ114名の選手を輩出している。2019（平成31/令和元）年の関東大会回転競技では市川岳海が優勝という輝かしい成績を残した。現在は部員10名弱で活動している。明星スキー部は持久力・瞬発力を強みとしており、高尾山や校内ではこれらの強化を意識してトレーニングしている。バスケットボール部明星中学校バスケットボール部が全国大会に年、関東大会に出場して30年が経つ。高校バスケットボール部は関東大会8回、イン回、ウインターカップ2回出場している。中学と共に練習を行い、レベルの高い先輩たちのプレーから多くのことを日々学んでいる。明星中学校を卒業後、明星高校でも継続して活動する生徒が多く、レギュラーで活躍している生徒も多い。ハンドボール部（昭和23）年に創部。インターハイ優勝3回、準優勝2回、3位3回、国民体育大会優勝3回、全国選抜大会は優勝1回、準優勝2回3位1回、関東大会57回出場（優勝10回）を誇り、オリンピック選手や各世代別代表に選出される選手を多く輩出した。そして、昭和、平成、令和と東京、全国のハンドボール界を席巻してきた。女子は1999（平成11）年に創部。女子は2018（平成30）年に初めて全国大会に出場し、全国選抜大位1回、関東大会にも12年連続で17回出場し、関東、全国でもその名を馳せるようになった。歴代ハンドボール部の監督の多くは、卒業生が務めており、現在も、小川総監督、男子田口監督、女子、佐藤監督と卒業生が務めている。水泳部1951（昭和26）年に創部した。創部当初はプールの設備がなかったが、1962（昭和37）年に幼稚園プールと併用する屋外プールが完成した。1973（昭和48）年に屋外プールが屋内プールに改築された。屋内プールではあるが、冬の間（11月～3月）は使用できなかったが、2008（平成20）年に、念願の総合体育館に可動床式の屋内プールが完成し、1年間泳げるプールが完成した。昭和・平成・令和にわたって全国・関東大会に参加しており、1962（昭和37）年～2007（平成19）年までには全国大会10回出場、関東大会11回出場、2008（平成20）年～2023（令和5）年までには全国大会11回出場、関東大会10回出場を果たしている。剣道部創部の歴史は古く、その伝統の剣風は学苑創設以来脈々と受け継がれている。長い歴史の中で、千原教諭、三浦教諭、西川教諭へと顧問のバトンが渡され、共学化とともに部の体制も大きく変わり、現在は八木橋教諭と八幡教諭が監督を務めている。男子は1979（昭和54）年に第26回関東高等学校剣道大会初出場を果たし、その後2017（平成29）年、2019（平成31/令和元）年に関東大会へ出場した。卒業生は社会人になっても活躍しており、警察関係、各市区町村の剣道連盟等で会長、役員を務めるなど、剣道界の一翼を担っている。また、最近では中学校、高等学校、大学の剣道部交流も活発になってきており、連携を深めるとともに、一層剣風に磨きをかけている。現在の部員数は、中学校13名（男子9名、女子4名）、高等学校35名（男子28名、女子7名）である。野球部1950（昭和25）年に軟式野球部として創設され、のちに硬式野球部に移行。1961（昭和36）年、1969（昭和44）年には東京都でベスト16に進出。その後、東京都は東西に分かれて予選が行われるようになり、1981（昭和56）年に西東京大会でベスト8まで勝ち上がる。1991（平成3）年の秋季回コールドで撃破。のちに春の選抜甲子園で優勝する帝京高校には延長戦で破れたもののベスト8に進出。そして、1995（平成7）年の秋季東京都大会でベスト8の壁を破り初のベスト4となり、春の選抜甲子園の補欠校となる。近年では、2017（平成29）年に秋季東京都大会ベスト8、2016（平成28）年、2019（平成31/令和元）年、2021（令和3）年では夏に進出している。演劇部中学校・高等学校が一緒に活動している。女子部時代は、学校一部員数が多い部でありほぼ毎日活動していた。明星祭公演、2月公演、新入生歓迎会などの公演を中心に行っていた。男子部にも演劇部があり、明星祭では公演を行っていた記録がある。共学になってからは、男子部演劇部と女子部演劇部は統合され、中高演劇部となり現在に至る。部員は全盛期に比べると多くはないが和気あいあいとした雰囲気の中、意欲的な活動を行っている。現在は週に4日、講堂、視聴覚ホール等で基礎練習から公演の稽古まで行っている。また、演出はもちろんのこと脚本も部員が担うこともあり、生徒の自主性を重んじている部とも言える。大会への出場記録として、1981（昭和56）年公演の『赤毛のアン』が高等学校演劇連盟演劇コンクールに出場し、奨励賞を受賞している。軽音楽部軽音楽部は男女別学時代（1993年頃）、女子部で部員3名からスタートした。文化祭の中庭スの楽曲を披露したのが最初であり、その時出演したドラマーは現在プロとして活動している。その後、楽器メーカーが主催するコンテストなどに挑戦、2006（平成18）年には全国大会（会場：渋谷公会堂）に出場し奨励賞を受賞した。2008（平成20）年に東京都軽音楽連盟が発足してからは毎年、決勝大会に数多くの軽音楽部のバンドが出場をしている。2022（令和4）年には明星学苑児玉九十記念講堂で行われた全国高等学校軽音楽連盟主催の全国高等学校軽音楽コンテストに出場を果たしている。美術部美術部では、水彩画・油彩画などの絵画をはじめ、彫刻などの立体・陶芸・デザインなど、部員の興味を尊重した幅広い表現活動を行っている。その始まりは定かでないが、1950（昭和25）年には絵画部の名前があり、明星中学校・高等学校における部活動第二期（昭和30年代）には美術部としての活動を行っている。男子部・女子部それぞれに歴史があり、2003（平成15）年中学共学化開始以降は男女合同で活動をし、現在に至っている。近年の受賞歴として、2019（平成31/令和元）年に第47回東京私立中学高等学校生徒写真・美術展美術の部（中学）朝日新聞社賞、2020（令和2）年に第48回東京私立中学高等学校生徒写真・美術展美術の部（中学）会長賞・朝日新聞社賞をダブル受賞、2021（令和3）年には第22回高校生国際美術展美術の部東京都知事賞があり、高い評価を受けている。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory361

## Page 182
![Page 182の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000182.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況362明星中学校・高等学校JHS／SHSPTA連合会PTA連合会JHS／SHSPTA連合会宮本忠夫、齋藤旦伸、小峰博昭、菅谷秀文、PTA連合会は1965（昭和40）年に創設、活動を村上隆秀、原富夫、開始し明星学苑創立100周年を迎える2023（令和成木正浩、關口晃成、5）年に58年を迎える。栁澤英敏、今池俊彦（敬称略）基本理念は府中キャンパスの幼稚園、小学校、中学校・高等学校の各PTAが連携、一丸となり中学校・高等学校PTA円滑な活動を図るとともに各校PTAに共通する課題について協議・検討を進め、成果を上げる（昭和ようつとめている。23）年7月5日にPTAが発足し、1954（昭和29）年発足以来、主となる活動は府中キャンパス全に女子部が開設されるとともに、女子部PTA（同体で実施する「明星祭」での活動であり、各校の年4月29日）が発足し、男子部PTAと女子部PTA会員相互の協力により運営がなされてきた。しの名称となった。2003（平成15）年度からの共学（令和2）年から続く新型コロナ化移行に伴い、同年度よりPTAは統合された。ウイルス感染症の拡大の影響により、各校とも活動を踏襲することを基本に従来の活動の見直しを迫られる状況となっとして協議・検討を進め、新たなPTAの組織基た。盤を作り、2002（平成14）年11月30日の臨時総会PTA連合会としても活動や取り組みを検討しにおいて「中学校・高等学校PTA」が承認された。新たな形で動き出している。主な活動は、会員相互の親睦を深める機会と名を超える園児、児童、生徒はして「親睦会」を開催している。芸術に触れあうもちろん保護者・教職員ならびに学苑関係者の機会として「芸術鑑賞会」の場も設けている。ま皆様よりご理解・ご協力を得ながら活動を推進た府中キャンパス全体の一大イベントであるしている。「明星祭」では「どら焼き販売」「制服リサイクルなお、創立60周年（1983（昭和58）年）以降の歴販売」などを開催しご好評を頂いている。他にも代連合会会長は次の方々である。その分野でご活躍されている方々をお招きしての「研修会」の開催、生徒の生徒会・部活動への宮嵜豊司、村野猛、助成やSDGsの取組への支援なども行っている。田中信治、大槻哲也、なお、2020（令和2）年からの新型コロナウイル鈴木正章、松崎敏雄、ス感染症拡大の影響もあり一部活動の見直しを鎌谷弘三、清水安紀、余儀なくされるものの、新たな形での催事の企画や運営に向け取り組んでいる。学校との連携・協力という伝統を生かし、さらなる生徒の生活環境の充実や生徒会活動への支援、部活動における活動費の負担軽減のための助成をはじめ、学校と保護者が連携しPTA活動を進めている。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory363

## Page 183
![Page 183の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000183.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

UNIV.明星大学

## Page 184
![Page 184の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000184.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況366明星大学UNIV.学長の辞学長の辞「教育の明星大学」―「時代」を創る特色ある教育を目指して明星大学学長落合一泰OCHIAIKazuyasu明星大学は、母体である明星学苑の創立100周年を機に「ビジョン」を定め、「教育目標」を改めました。「ビジョン」は、次のふたつの在り方を明星大学の未来としています。・新たな時代を世界の人々と共創する大学・多摩に根差し、地域に貢献する大学新たな時代を世界の人々と「共創する」には、本学と世界の間でいままで以上に双方向性を高めることが必要です。また、多摩に生まれ、多摩に育てられた、多摩に役立つ大学をアイデンティティとする明星大学にとり、「多摩に根差し、地域に貢献する」ことは、みずからの存在証明にほかなりません。このように上記の「ビジョン」は、グローバルとローカルというふたつの観点から明星大学の将来像を描いているのです。明星大学の新たな「教育目標」は、次のとおりです。・生涯にわたり自律的に学び続け、みなと協働して幸福を生み出していく人の育成この「教育目標」が示すように、本学は新たな時代が求める【学び続ける力】と【協働する知性】を兼備した卒業生を社会に送り出していきます。人生百年時代においては、学びは学校卒業で終わるものではありません。「生涯にわたり自律的に学び続け」る持続性が大切です。それが、他者との積極的な関わりの中で考え判断する能力を養い、「みなと協働して」価値創造に向かい、ともに「幸福を生み出していく」ことにつながるからです。本学の「ビジョン」の策定「教育目標」の一新が示、すように、大学教育は時代の流れや求めを吸収して成り立ちます。それは、大学が、時代のなかに生まれ、時代とともに生き、時代に貢献し、時代を創る存在であるからです。では、私たちはどのような時代にいるのでしょうか？2023年上半期の出生数は37万人でした。年間の出生数は74万人程度と見込まれます。1949年生ま万人、1992年生まれが209万人だった時代と比較すれば、いかに現在の少子化が激しいかが分かります。このような少子化の時代を明星大学はいかに生き抜くのでしょうか？その方法は、他大学にない特色と独自性と質を兼備した優れた教育課程を編成し、それを常に見直し、人材養成の狙いと成果を世に広報して本学のファンを増やしていく努力の積み重ね以外にありません。多くの私立総合大学がいくつかのキャンパスに学部学科を分散させているのに対し、本学は、ワンキャンパスに理工系・人社系・融合系の多様な9学部12学科1学環を揃えています。2023年に始まった明星大学第二期中期事業計画（～2027年度）は、この特色を活かした教育事業の実現を目指しています。具体的には、学部学科間の分野交差型の「クロッシング型教育」の実現を図ります。学生は自分の専門分野を深めると同時に、分野の垣根を超えて学びあい協力しあうクロッシングを進め、広い視野で自分の専門性を活かせる人材に育っていきます。この教育手法を採るのは、専門性と分野横断性の両方の視点をもつ人間を、時代が求めているからです。卒業後、自分の専攻分野だけで生きていく人はほとんどいません。他分野を学んだ人と協力し、一緒に企画を立てて成果を出していくのが社会人です。したがって、学生のうちにクロッシングを十分に経験しておくことが大切なのです。クロッシングは学生にも好評です。それぞれの学部の特色を身につけながら、他学部の学生と学びあうことで興味が広がりコミュニケーション力が磨かれることを実感するからです。クロッシングを可視化・経験できる場として「MEISEIHUB」という多彩な学びの空間を図書館内に作りました。仕切りのない広々としたオープンスペースのあちこちに学生・教職員らが集い、所属や立場を超えたクロッシングを自ら仕掛け、体感していきます。クロッシング型教育とともに新時代対応として明星大学が推進しているのがデータサイエンス（以下DS）教育です。2023年4月、明星大学はDS学環を設置しました。ビッグデータの分析と活用、データに基づく状況解析と理解、それに基づく政策判断やアクション決定が、社会のあらゆるセクターで重要性を持つ時代になったからです。「学環」は学科と同じ機能を持ちますが、大学全体をDSという「環」で結び付けていこうという方針を示すために「学環」という名称を採用しました、。明星大学のDS教育は、社会が求める専門家を養成するだけではありません。どの学科の学生にも、DS学環の科目は開かれています。また、2023年度入学生から「、DSリテラシー」科目を全学必修科目のひとつとしました。本学の学生は全員がデータの取り扱いに関する基礎的な知識や経験を持って卒業することになります。このように明星大学のDS教育は、専門家の育成、どの学生も自分の専門領域に役立つDSを学べる体制、そして全学生が基礎を必修科目として身に付け層構造です。これも時代の動きへの画期的な対応であり、本学が学生を社会に送り出す教育的責任を全うするためなのです。2024年、明星大学は創立60年を迎えます。これまでの多くの教職員の努力と献身、卒業生のご支援、関係する皆様のご理解と応援が60年を支えてきました。その積み重ねがあっての現在です。明星大学は今後も不断の教育改革を続け「教育の明星大学」の、令名をいっそう高めていく所存です。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory367

## Page 185
![Page 185の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000185.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況368明星大学UNIV.理工学部理工学部理工学部総合理工学科物理学系沿革本学系の前身である「物理学科」は明星大学の創設と同時に発足し、2010（平成22）年4月には理工学部の改組に伴い「総合理工学科物理学系」となった。「物理学科」発足当時は、理数系の素養を身につけた理工学部出身者の不足、および大学以下の学校教育を支える理数系教員の増強の必要性が、その設立の背景にあったことが窺える。2015（平成27）年3月までに物理学科は卒業生3,205名を輩出した。2014（平成26）年3月には、物理学系として最初の卒業生を送り出し、2022（令和4）年3月現在、物理学系の卒業生は累計547名を数える。また、大学院理工学研究科物理学専攻の2022（令和4）年3月までの博士前期（修士）課程修了者145名、博士後期（博士）課程の学位取得者3名である。なお、これまでの博士後期課程単位名である。上記のように、理工学部中の工学系学科が中堅技術者養成を目指したのに対して、理学系学科（物理学科と化学科）では教員の養成を重視していた。これに対応して、物理学科のカリキュラムには基礎的な科目が多かった。1995（平成7）年にカリキュラムを改訂して、セメスター方式が採用されるとともに、実験・演習科目を強化する一方、コンピュータ関連の科目を加えた。UNIV.教育活動2010（平成22）年度の理工学部の改組により、物理学科は「物理学系」となり、アドミッションポリシーとして以下のような教育目的を掲げた。「自然科学の一分野である物理学は、自然現象の士台となる物質の構造と働きについて研究します。その空間的な領域は、大きなものは宇宙から、小さなものは分子、原子核、クォークと非常に広い範囲を対象としています。このような広い範囲に潜む規則性、法則性について、実験や観測、および数学を道具として理解を深めるとともに、探る力を養います。これらは科学、生物、工学の分野のみならず、人文、社会、経済等の広い分野で役に立ちます。学生の興味、好奇心を伸ばし、自然界の原理、法則を多様な実験および数学を駆使して碁礎から理解できるようにします。そして、社会へ出たときに役立つ基礎的な知識の習得、課題発見・問題解決能力の育成を目的としたカリキュラムを構築しています。また、より深く学ぶ意欲を育てる教育を行います。」改組以降の教育課程では、プロジェクトI～VI（2019（平成31/令和元）年度よりプロジェクト1～4）と理工実験実習I～II（2019（平成31/令和元）年度より理工学実験実習1～2）などの体験学習を通じて理工学基礎教育を提供するための学科共通科目が設置されている。また、専門分野の教育課程として学科科目があるが、その中には物理学の基礎科目である基礎力学や解析力学、電磁気学、量子力学、応用解析、統計熱力学などが設置されており、さらに、素粒子物理学、相対性理論、原子物理学、物性物理学のほかにも、天文·宇宙関係の特色ある科目が含まれる、大変魅力的なカリキュラムとしている。研究活動学系全体としては、理論系から実験系の天文学、素粒子物理学、生物物理学、物性物理学までの幅広い分野の研究が以下に示す研究室単位で実施されている。以下に2022（令和4）年度の研究室名、専門分野・取り組みなどを紹介する。天文学研究室銀河天文学、電波天文学、星形成論、天文学、天体物理学素粒子論研究室素粒子論、素粒子現象論、一般相対論生物物理研究室化学物理、生物物理、場の理論、統計力学半導体物理研究室ワイドギャップ半導体の結晶成長と物性研究天文学研究室のメンバー物質構造科学研究室形状記憶合金等の金属の物性研究ソフトマター物理研究室ソフトマターと呼ばれる柔らかい材料の研究教育・研究のための施設・設備物理学系では以下の施設・設備を、教育・研究に活用している。（1）天体観測ドーム、望遠鏡リッチクレチアン型反射望遠鏡（40cm）やシュミットカセグレイン型反射望遠鏡（30cm）にCCDカメラやグレーティング型スペクトルカメラを接続でき、30号館屋上の天体観測ドームに収められている。（2）走査プローブ顕微鏡本装置は、原子間力顕微鏡（AFM）と走査トンネル顕微鏡（STM）を搭載しており、絶縁体から金属まで、様々な試料の原子・分子レベルから20µmサイズまでの表面形態観測ができる。（3）極低温冷凍機本装置は、ヘリウムガスを冷媒に用いたGM冷凍機で、試料を4K程度まで冷却することができる。この装置には電気抵抗測定のパーツが組MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory369

## Page 186
![Page 186の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000186.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況370明星大学UNIV.理工学部み込まれており、4Kから室温までの電気抵抗が自動測定できる。その他に連携研究センターに設置されている電子顕微鏡、核磁気共鳴装置（NMR）、X線回折装置、クリーンルーム等が卒業研究や大学院生の研究に活用されている。教育・研究成果の発表教員ばかりでなく、大学院生や学部学生も連名での学会発表を数多く行っている。発表する主な学会として、国内では日本物理学会、応用物理学会、天文学会などがあり、国外では宇宙線国際会議、国際天文学会、MRS（MaterialsResearchSociety）の他、理論物理や半導体物理関係の幾つかの国際会議がある。特色物理学科（物理学系）の設置の目的は、その時々の社会の動きに対応して変化してきた。すなわち、当初は教員養成を主たる目的としていたが、現在では、物理学の基礎知識とその応用能力を持つ人材を実社会に送り出すことへ力点を移している。さらに、学生が希望する場合、大学院で専門性をさらに高め、より深い専門知識と高い応用能力を身につけて実社会に出ることも可能な体制を整えている。他大学の物理学科と比較しての特色は、物理学の基礎分野から幅広い専門分野までのカリキュラムをカバーする中で、天文・宇宙関係科目を設置していることである。天文・宇宙関係の科目としては天文学1・2および天体観測（2年次）、天体物理（3年次）、宇宙論（4年次）が置かれている。その他、素粒子物理学、プラズマ物理、宇宙線、相対性理論（いずれも3年次）などの科目は、宇宙の構造や進化という問題に大きく関連している。展望物理学は、理工学分野において数学とともに最も基本となる学問である。そのため、就職においては教員だけにとどまらず、物理に関する知識が求められる専門性の高い分野の民間企業等の就職活動においても決して不利になることはない。物理学系では、教員希望者と天文学への期待をもって入ってくる学生が多いが、その夢を実現させる指導とともに、一方では、物理の基礎を理解して幅広い専門知識をもった人材を育てる教育を目指していきたい。理工学部総合理工学科生命科学・化学系沿革生命科学・化学系は、2010（平成22）年の理工学部改組改編において設置された。その前身は、本学が創設された1964（昭和39）年に開設された理工学部化学科であり、化学科の第1期生が卒業（昭和43）年3月から、生命科学・化学系の第12期生が卒業した2022（令和4）年3月まで名を越え、卒業生は各界、そして国内外で活躍している。2010（平成22）年の改組改編により、生命科学分野の教育と研究の充実が図られた。前身の化学科は無機化学、有機化学、分析化学、物理化分野を中心とした教育と研究を行っていたのに対し、生命科学・化学系ではこの4分野に加え、分子生物学、細胞生物学、生命工学、微生物学などの生命科学分野を学ぶことができるようになった。また、2010（平成22）年から2015（平成27）年の間に、4名の新任教員が着任し、化学と生命科学の複数の分野にまたがる学際的な研究を展開する教員が増えた。2019（平成31/令和元）年には、化学および生命科学分野の教育の改善を目的としたカリキュラムの改編が行われた。その一つに、1年次の必修科目として「基礎化学1」「基礎化学2」「基礎生物科学1」「基礎生物科学2」が設置され、化学および生命科学の分野をバランス良く学べる機会が設けられている。教育方針・カリキュラム本学系では、化学と生命科学に関する基礎知識を学び、原子や分子の視点で身の回りの現象を捉える力を身につけることを目指している。1・2年次では、化学と生命科学の基礎分野の講義と実験・実習を通じて、化学や生命科学を理解するために必要な論理的思考力や発想力を修得する。3年次からは、各々の興味に合わせて選択科目を履修し、化学または生命科学分野のより専門的な内容を学ぶ。また3年次の後期には、希望する研究室に仮配属し、より実践的な理論と技術の修得を目指す。そして4年次では、学部教育の学びの集大成である卒業研究に取り組み、研究者と同様に未知の研究課題の解決を試みる。これらの過程を経て、社会に出たときに必要とされる課題解決力、コミュニケーション力、柔軟に思考する力を養っている。特色ある研究生命科学・化学系に所属する教員の多くは、複数の専門分野にまたがった研究を推進しており、学生は化学や生命科学の専門知識を応用する機会がふんだんに与えられている。研究室には大学院生も所属しており、大学院生から学ぶ機会も多い。以下に、当該学系で実施されている研究テーマを示す。•遺伝子の修復とその安定維持に関わるタンパク質の機能の解明（構造生物学・物理化学）•出芽酵母をモデル生物とした真核生物ゲノムにおける遺伝子発現制御機能の解明（生化学・分子生物学）•真核生物のゲノムについての分子生物学および細胞生物学的手法を用いた研究（分子生物学・細胞生物学）•タンパク質と低分子有機化合物との相互作用の解析（分析化学・構造生物学）•環境にやさしい物質合成をめざした酵素を用いた生化学的合成など各種有機化学反応の研究（有機化学・酵素化学）•新たな磁性体の開発および磁性測定と結晶構造から磁性を決める相互作用の解明（無機化学・物理化学）•水溶性不斉有機触媒の設計と合成（有機合成化学・生物有機化学）教育・研究のための施設・設備タンパク質自動精製装置教育と研究を推進するための大型機器を多数保有している。NMR（核磁気共鳴装置）、TOF-MS（飛行時間型質量分析計）、元素分析装置、顕微鏡付ラマン分光システム、分子振動構造解析システム、FT-IR（赤外分光光度計）、キャピラリー電気泳動装置、高速冷却遠心機、恒温振とう培養機、ルミノイメージアナライザー、スキャナータイプ画像解析装置、タンパク質自動精製装置、蛍光分光光度計、等温滴定カロリメトリーなどが実験科目、プロジェクト科目、および卒業研究で使用されている。また、低温実験室MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory371

## Page 187
![Page 187の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000187.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況372明星大学UNIV.理工学部（4˚C）、組換えDNA実験室（P2）、細胞培養室（P1）も整備されている。教育・研究成果の発表年次共通科目「プロジェクト1」「プロジェクト2」では少人数でグループワークを行い、学習成果を頻繁にクラスの中で発表している。さらに、「プロジェクト2」では化学または生命科学に関連したテーマが教員から提示され、グループごとにそのテーマについて調査を行い、授業の最終回に学年全員が集合してポスター発表を行っている。4年次に取り組む卒業研究では、研究室ごとに定期的な進捗状況の発表を行い、毎年2月上旬に全4年生と教員が集合して卒業論文発表会を行っている。また、専門分野が近い複数の研究室が合同で中間発表会を行うケースも見られる。例えば生命科学分野の研究室は、毎年合同の中間発表会を明星学苑八ヶ岳山荘（山梨県）にて行ってきた。学外における研究成果の発表は主に教員と生命科学・化学系より進学した大学院生が行っているが、研究成果の創出に顕著な貢献をした学部学生が連名で学会発表を行うことも珍しくない。発表した主な学会として、日本化学会年会、日本分析化学会年会、日本分子生物学会年会、日本生化学会大会、日本蛋白質科学会年会などがある。上述の通り、生命科学・化学系には化学と生命科学分野にまたがる異分野融合型の研究を行っている教員が多く、学部教育において化学と生命科学の幅広い専門知識を提供している。当該学系は、本学の学科・学系の中でも、最も多くの大学院進学者を輩出している。学部教育を経て、化学や生命科学の専門的な知識と技術を身につけ、それを仕事に活かしたいと考える卒業論文発表会生命科学分野の卒業研究中間発表会（明星学苑八ヶ岳山荘）学生が多いことの表れと言える。展望2023（令和5）年度よりカリキュラムが改編され、環境科学分野を専門とする教員が加わった。学生は化学や生命科学に関連した領域をより幅広く学ぶことが可能になる。また、教員間での共同研究がさらに活発化することも期待される。その一方で、生命科学・化学系は毎年80名前後の新入生を迎えてきたが、近年、その数はやや減少傾向にある。その理由の一つとして、関東圏を中心とした他大学において「生命科学」または「化学」と「生命科学」の両方が名称に含まれる学部・学科が増え、他大学への進学を希望するケースが増えたことが考えられる。今後、当学部学生が連名で行っている学会発表該学系がさらに発展していくためには、教員によるオリジナリティーの高い研究の推進とその成果の積極的な発信をするとともに、学生に魅力的なカリキュラムを提供し、学生の丁寧な指導に一層力を入れた教育が重要になることが考えられる。18歳人口が今後減少していく中、生命科学・化学系は重大な局面に立っていると言える。理工学部総合理工学科機械工学系沿革本学創設と同時に「機械工学科」として発足し、第1期生80名を迎えた。2005（平成17）年には改組して「機械システム工学科」となり定員を100名とした。さらに2010（平成22）年に「総合理工学科機械工学系」として定員65名で再出発した。現在（2022（令和4）年度）、8名の専任教員（教授6名、常勤教授1名、准教授1名）、4名の実習指導員、その他複数の非常勤講師により機械工学系の教育研究活動を実施している。教育方針・カリキュラム力学（材料力学、流体力学、熱力学、機械力学）の教育が特に徹底されるように、2010（平成22）年の改組時にカリキュラムを見直した。機械に親しむことで興味と理解をより深め、同時に機械工学的な思考力を育てることを目的として、体験型科目であるプロジェクト科目を設けた。また、2年次には機械工学系基礎実験、3年次には機械工学系実験を設け、4年次には力学を始めとする主要な学問が確実に身につくように実験科目を座学と連携した形で配置している。実験科目では卒業論文の作成に向けてレポートの書き方の指導にも力を入れている。また2016（平成28）年度入学生より、総合理工学科に学系横断プログラムが導入され、近接分野の横断的な学びが可能となった。これにより、機械工学系は電気電子工学系と共同で「社会エネルギー工学プログラム」を設置した。特色ある授業（プログラム）機械工学系では、プロジェクト課題の特色の1つとして学外活動を積極的に行っており、全国レベルの各種コンテストに参加している。ここでは、それらの最近の活動について紹介する。80を超える国内外の大学が参加する学生フォーミュラ日本大会に、亀井延明研究室が中（平成13）年度から参加しており、これまで、ルーキー賞、ユニークデザイン賞を受賞してきた。2021（令和3）年度は、日本自動車工業会会長賞を受賞しており、今後のさらなる活躍が期待される。山崎芳昭研究室では、RoboCupJapanOpenレスキュー実機リーグ、NHK大学ロボコンなどの大会に毎年積極的に出場している。最近では、「WorldRobotSummit2020福島大会災害対応標準性能評価チャレンジ」（経済産業省、NEDO）において奨励賞を受賞している。寺田耕輔常勤教授の指導する学生が衝撃振動吸収構造体の提案品」で、日本マグネシウム協会第29回学生マグネシウムデザインコンテスMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory373

## Page 188
![Page 188の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000188.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況374明星大学UNIV.理工学部ト製作部門のアイデア賞を受賞した。熊谷一郎研究室では、2012（平成24）年以来、日本機械学会流体工学部門主催の「流れの夢コンテスト」に参加している。2021（令和3）年には2年連続4回目の「一樹賞」を受賞し、強豪校としての存在感を示している。特色ある研究これまで堅実な成果と実績を上げ続けている。例えば、最近5年間（2018（平成30）年～2022（令和4）年度）の科研費の採択件数は、研究代表件となっている。本稿執筆時（2022年度）では、小山昌志准教授の「非破壊検査のための超音波励起赤外線サーモグラフィ法に関する研究」と「超高速回転するフライホイールに使用する複合材料の設計に関する研究」、亀井延明教授の「遠隔看護システムの実施基準やモニタリング手法に関する研究」、高三徳教授の「軟滑物体および表面液体層の変形・グリップ特性に関する研究」、熊谷一郎教授の「微小気泡を用いた船舶抵抗低減技術の研究開発」と「局所熱源による液体金属対流の熱物質輸送に関する研究」など、今の社会に求められている多角的で幅広いテーマの研究が進行中である。また、これまでの研究活動が評価され、各学会から様々な賞を受賞している。例えば、明星学苑創立85周年誌以降では、齊藤剛教授が「不活性ガス希釈下におけるレーザー着火式内燃機関の運転特性」の研究で日本燃焼学会2015（平成27）年度日本燃焼学会論文賞を受賞している。2017（平成29）年には、熊谷一郎教授が「気液二相流のスマート制御に基づく船舶の乱流摩擦抵抗低減技術の実用化」で日本機械学会賞（技術）を受賞した。2019（令和元）年には、宮本岳史教授が「鉄道車両のダイナミクスに関わる基礎教育」で日本機械学会教育賞を受賞し、また同年、高三徳教授が日本と中国の図学会交流への多大なる貢献を評価され、日本図学会賞を受賞した。設備機械工学の教育研究に必要な各種の設備が整っているが、以下、特筆すべき設備の一部を紹介する。現在の産業界で主力の3次元CADソV5を他大学に先駆けて2003（平成15）年に導入し、大学におけるCATIA教育の中心的な存在になっている。さらに、マシニングセンタ（MC）や3Dプリンターなどの設備とも連携し、プロジェクト活動や卒研でのものづくりに活用されている。また、大学としては数少ない鉄道関連の研究を行っており、その研究を支えている設備が自作した5インチ鉄道模型走行実験設備である。試作した比較的大型の鉄道模型車両を走行させて実験することが可能で、本設備を利用した実験がTVなどのメディアに紹介されるなど、他大学では例を見ない貴重な設備となっている。その他、アクティブサー高機能3次元CADソフト「CATⅠA®」を授業で使用WorldRobotSummit2020出場メンバー（福島ロボットテストフィールド、2021年10月6日～10日）モグラフィや翼列風洞設備など、充実した教育研究設備が整っている。展望機械工学は製造業の根幹を支える学問として多岐にわたる製品分野で必要とされている。製造業は大手から中小に至るまでグローバルな厳しい競争にさらされており、それに打ち勝つために高度な知識と技術を持った優秀な人材を必要としている。そのニーズに応えるため、本学系では、研究活動のレベルをより高めるとともに、教育においては、実践躬行と学生の個性に合わせた丁寧な指導を特徴とする人材育成を行っている。今後も引き続き、それらの教育効果の見極めや問題点の洗い出しを行って、特色ある教育にさらに磨きをかけ、本学独自の教育システムとして学外から高く評価されるよう改善を図ってゆきたい。理工学部総合理工学科電気電子工学系沿革電気電子工学系は本学創設時1964（昭和39）年4月に他の4学科ともに理工学部に設置された「電気工学科」を前身とし、電気に関する理論的研究とその技術を実用方面に応用することを使命としている。電気工学科は2005（平成17）年における「電気電子システム工学科」への学科名変（平成22）年に設立された「総合理工学科」の一つの学系として「電気電子工学系」に改組された。教育方針・カリキュラム電気電子工学は数学、物理学に基づいた基礎技術分野と、日々進化する新技術分野が有機的に結びつき、新たな技術分野へと発展していく特徴を持っている。現在、電気電子工学が適用される技術は社会インフラ、エネルギー、情報通信をはじめとした、生活のあらゆる局面にて必要不可欠となっている。このような背景のもと、電気電子工学系では学生に基礎技術のみならず、関連する周辺技術を修得させ、多様な実業分野で活躍する人材を育成することを目的として、以下の目標を掲げている。（1）自己実現力を持った技術者の育成プロジェクト活動をはじめとした活動を励行し、各学生の習熟度に応じた目標をまず与える。その目標への実現方法を自ら具体化することで、自己実現を行う力を有する電気電子技術者を育成する。（2）複数技術分野に通用する技術者の育成電気電子工学系の基本的な学修を踏まえ、一つの技術分野に特化することなく、エネルギー関連分野、電子デバイス分野、電気材料分野、ロボティクス分野をはじめとした電気電子工学が守備範囲とする幅広い分野に通暁した電気電子技術者を育成する。（3）資格取得の奨励在学中に単位を取得することで資格の取得が有利になる認定制度（例：電気主任技術者）を活用して、学生への資格取得を奨励し、実務に強い電気電子技術者を育成する。特色ある授業（プログラム）（1）電気電子通信工学概論～電気電子工学を学ぶ上での基礎を修得する1年時において、まず電気の発見から今日の電気電子工学の隆盛までの歴史を学ぶ。この科目では電気電子工学の学問分野である電磁気学、電気回路学、電力工学、半導体工学、制御工学、通信工学、エネルギー工学、電子回路工学が現在の社会にどのように貢献しているかを、実例を通して学び、電気電子工学に対する基本的なMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory375

## Page 189
![Page 189の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000189.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況376明星大学UNIV.理工学部考え方を身につける。（2）電気電子実験～電気電子工学の基礎科目を中心に学ぶ2年時において、電気電子工学の実務に向けて必要となる基本的な測定（直流・交流の電気回路の電圧、電流、電力、位相）技術を、多様な測定機器を用いて学修する。また、学生は実験報告模擬送電線の実験組み込み系システムの実験電子回路の実験書を作成し、実験の経験をもとづいて、問題を発見・解決する力を身につける。（3）電力電子実験～電気電子工学の応用科目で学びを深める3年次では電動機、発電機、変圧器、送電線をはじめとした電力工学分野のシステム・コンポーネントの測定実験を通じて、普段の生活を支える鉄道・発電所をはじめとした社会インフラの運用に対する実務的な技術を修得する。（4）卒業研究～集大成としてゼミ・卒業研究に取り組む3年次後半から4年次において、学生はシステム・エネルギー分野、情報通信分野、物性・ロボット分野のいずれかの研究室に所属し、3年生までに学んだ技術と知識を用いて卒業研究を行い、卒業論文をまとめる。また、その研究成果を各々の学会に発表して電気電子工学系の情報発信に努めている。展望本学系はその発足当初より、電気電子情報通信の基礎技術教育に重点を置いている。電気主任技術者や電気通信主任技術者をはじめとした関連する技術者資格を取得させることによって、エネルギー・エレクトロニクス・情報通信分野に卒業生を送り出している。今後も電気設海外での論文発表他校との交流備、鉄道、情報システムをはじめとした社会インフラ分野で世界に貢献する電気電子技術者を育成する。電気電子工学は未来の社会を発展させる基礎となる学問であることから、今後も社会に貢献する人材を輩出し続けていきたい。理工学部総合理工学科環境科学系沿革理工学部土木工学科の都市・環境分野を基に、2005（平成17）年の改組時に環境分野に特化した教育研究を行う「環境システム学科」を開設した。2010（平成22）年の理工学部改組での総合理工学科「環境・生態学系」への改新を経て、2016（平成28）年には学系名称を「環境科学系」へ改めた。その教育プログラムは、環境システム学科（平成21）年度に日本技術者教育認定機構（JABEE）による認定を受けた。教育方針・カリキュラム教育理念・目的は「生活者として環境に配慮し、職業を通じて環境保全のための社会貢献ができる知識と実行力を持つ技術者（環境プロフェッショナル）を育成すること」で、次の8つの学習・教育到達目標を設定している。（A）多面的に環境をとらえる能力（B）技術者の社会的責任（C）環境技術者に必要な基礎学力（D）環境技術者に必要な専門知識と応用能力（E）問題解決のためのデザイン能力（F）コミュニケーション力とチームワーク力（G）自主的・継続的学習の能力（H）実践対応力特色ある授業（プログラム）環境科学系の教育プログラムは、JABEEによる認定を受けており、卒業生（修了生）は、技術者としての最低限度の知識や能力を身につけていること、さらにそれが国際的レベルにあることを保証される。また、技術者にとって重要な国家資格である技術士試験において、その一次試験（環境部門）が免除される（技術士補資格取得）。教育課程は基礎教育課程と専門教育課程からなり、学科共通科目と学系専門科目を中心に履修する。学系専門科目は地球環境分野、生態・MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory377

## Page 190
![Page 190の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000190.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況378明星大学UNIV.理工学部理工実験実習2（環境基礎実験）環境基礎ゼミ（緑地保全実習）資源分野および環境化学分野の3分野からなっている。8つの学習・教育到達目標の達成状況は、学生自身が学生別達成度評価システムを使って随時確認できる。環境分野での教育は実際の環境に触れることが重要であり、学生が可能な限り現場で学ぶようにしている。学内授業においても、実験・実習や演習を多く開設し、座学に偏らない教育プログラムとしている。教育活動の成果環境科学系（旧環境システム学科を含む）の卒業生の多くは卒業時に進路を決めており、主要な進路先は環境調査・分析関連の専門企業の他、建設・製造業、情報サービス業および大学院進学などとなっている。環境分野の資格取得に関しても一定の成果が見られており、在籍学生・卒業生の一部は以下の公的又は民間団体による資格試験や検定に合格している。技術士一次試験（環境部門）環境計量士気象予報士公害防止管理者生物分類技能検定など研究活動研究活動に対する学生の寄与は主に大学院生によるものであり、学系として大学院進学を強く推奨している。進学率は15～30％である。学系所属教員の取り組みとしては次のような研究があげられる。•地域規模の気候変動と都市の熱汚染に関する発現機構と緩和・適応策についての研究•数値シミュレーション及び観測データによる大気汚染の発生メカニズムや環境影響に関する研究•持続可能な社会および自然環境の形成に向けた緑地や生態系の多面的機能の評価とデザインの研究•廃棄物の処理・処分や循環資源としての有効利用についての研究•水環境保全のための生態工学の研究（特に、有害ラン藻を抑制できる人工生態系創りを目的としたタイの大学との共同研究）•金属材料中微量成分元素の分析法開発と環境中の有害元素の動態解析の研究•木質系バイオマスを原料とする新規機能性材料の創製、炭素循環型CO2吸着剤の開発など教育・研究のための施設・設備環境科学系の主な教育・研究機器として、技術系では各種の分析装置（LC-MS、ICP-MS、GC-MS、AAS、その他多数）や遺伝子解析などに用関連機器を設置している。情報系の機器・ソフトウエアの充実も図っている。教育・研究成果の発表学生は授業内の課題発表のほか、卒研を口頭またはポスターで発表する。学系としての教育・研究成果は、学系WEBサイトや理工学部FD研修会などで発表し、各教員の研究成果は各々の学会・ジャーナルなどで発表している。特色と展望本学系の最大の特色は、JABEE認定を受けたプログラムによる技術者教育を行っており、その修了生のレベルが国際水準にあることを保証されていることである。今後も教育プログラムの継続的な評価・改善を進めながら、時代に合った技術者教育を実践していきたい。同時に、卒業時の進路決定率90％以上を目指して、学生の丁寧な指導を行っていきたい。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory379

## Page 191
![Page 191の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000191.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況380明星大学UNIV.人文学部人文学部人文学部国際コミュニケーション学科沿革国際コミュニケーション学科は、1965（昭和40）年に創設された人文学部3学科の中の1学科として開設された「英語英文学科」に出発点を持つ。英語英文学科は、英米文学・英米語学を専攻する学科として開設され、アカデミックな英米の文学・語学の教育研究とともに英語の技能的方面―話す、聞く、読む、書くなどの能力―の修得のための教育にも力を入れてきた。その後の国際化の進展、人・資本・情報が高速で世界中を飛び交う状況に対応して、2005（平成17）年に国際コミュニケーション学科に改組した。外国語運用能力にとどまらず、多様な地域の社会的・文化的・歴史的背景や、それらの地域の人々の持つ考え方・価値観を理解し、多様な人々と円滑にコミュニケーションできる人の育成を目指すこととした。教育方針・カリキュラム国際コミュニケーション学科では、グローバル化が進む現代社会において活躍できる人材を育成するために、実体験を重視したカリキュラムを展開している。自分の意見を発信できる能力を磨くことができるよう、多くの学生が留学を経験するなど、実際に世界に触れる機会が数多く用意されている。UNIV.特色ある授業（プログラム）1年次では、コミュニケーションの基礎・理論を学ぶために、必修科目「基礎研究」や選択必修科目「実践英語1」「実践中国語1」が設けられている。選択科目では、語学やコミュニケーション関連の科目に加え、文化・文学、異文化理解、グローバル研究などの科目が幅広く設けられ、映像翻訳やサマースクール、フィールドワークと年次より選択できるようになっているのが特色である。2年次では、必修科目・選択必修科目として、学科所属のすべての専任教員が担当する「専門基礎研究」が設けられている。学生は、これらを4科目履修して、3年次におけるゼミ（専門研究）選択に向けて準備を進める。選択科目では、1年次に引き続き、文化・文学、異文化理解、グローバル研究などの科目、体験を重視した科目を積み重ねて学ぶ機会を用意するとともに、日本語教育を行うための基礎を学ぶ科目「日本語教育法」なども設けている。3年次では、「国際社会論」や中級者向けの「コミュニケーション英語2」「コミュニケーション中国語2」などの選択科目を通してより高度な学びを深めつつ、必修科目であるゼミ（「専門研究1・2」）で自身のテーマを見つけ、仲間とともに研究に着手していく。また、2年次及び3年次には、海外学術提携校へ留学する学生も多い。新型コロナウイルス感染症蔓延以前、多い年では年間40名を超える国際コミュニケーション学科の学生が留学に参加していた。4年次では、必修のゼミ（「専門研究3・4」）においてさらに研究を深化させつつ、「卒業研究」で卒業論文を完成させる。この過程で、卒業論文中間発表会や卒業論文発表会が開催され、下級生にとっても刺激をうける機会となっている。こうしたカリキュラムを貫く教育活動場の特徴は、ほぼすべての科目がアクティブ・ラーニング型の授業になっている点である。映像翻訳やサマースクール、アジア・ヨーロッパ・アフリカ各地に赴いて多彩な活動を実施するフィールドワークはもとより、教室で行う座学中心の科目でも、グループディスカッションやプレゼンテーションを組み合わせた授業や、PBL（Project-BasedLearning）型の授業を行っている。新型コロナ禍が高等教育に深刻な影響を与えた2020（令和2）～2022（令和4）年度でも、国際コミュニケーション学科では、ほとんどの授業がZoomを駆使した同時双方向型で実施されていた。また、国際コミュニケーション学科で開講さ/TAが活躍している。資料や教材の配布や回収などの補助業務にとどまらず、コメントや履修者への助言などを通して、履修者・教員とともに学びの場をつくっていくのである。学年を超えたつながりの中で、学国際コミュニケーション学科生どうしが切磋琢磨しながら学びを深めていくのも国際コミュニケーション学科の教育活動の特徴である。展望グローバル化の進展は、言うまでもなく、明星大学が立脚する多摩地域においても顕著である。今後は多摩地域における体験系の科目をいっそう充実させ、名実ともに、世界と多摩でグローバル・コンピテンシーを鍛える学科を目指す。人文学部沿革人間社会学科人間社会学科は、1965（昭和40）年に創設された人文学部3学科の中の1学科である「社会学科」として開設された。創設時から社会学科では、社会の根本的理論の教育研究とともに、応用的実際的方面に活動し得る人の育成を目指した。その目的を達成するために社会の基礎理論の解明とともに、社会の実態を実証的に討究する方法の修得、現代社会の現実的問題の研究に留意した教育研究が行われてきた。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory381

## Page 192
![Page 192の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000192.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況382明星大学UNIV.人文学部2002（平成14）年に学科内に「社会福祉士受験資格課程」を開設したことを契機として、2003（平成15）年に学科名称を「人間社会学科」に改称した。学生が人間社会に関する社会学的理解を深め、人間社会が要請する現実的課題に対応し、自らの人生の指針となるべきものを構築することを可能とする教育研究のより一層の充実を目指すこととした。教育方針・カリキュラム人間社会学科では、人間関係や教育制度、就職難、環境問題、若者文化、地域格差など、身近な問題からグローバルな問題までを幅広く学ぶ。興味関心や、将来の夢に応じて、学生が主体的に学びの道筋を選択することができるように、特色ある4つのコース（履修モデル）からなるカリキュラムを設定している。「社会調査コース」では、社会調査の技法を習得し、実際に調査を行うことで、社会調査士資格の取得を目指し、社会を読み解く力を身につける。「社会貢献コース」では、現代社会を取り巻くさまざまな問題の原因を学び、その解決のために動く。「共生社会コース」では、多様化の進む現代社会において誰もが生きやすい社会にしていくために必要な知識とスキルを身につける。社会科教員を目指す学生には「社会科教育コース」を用意し、社会科を教えるために必要な知識を習得し、現代社会の仕組みを理解することで、社会を見通す力を備えた教員養成を目指している。これらのコースは、分野横断的な学びも柔軟にできるようになっている。特色ある授業（プログラム）4つのコースに共通して、1年次では、「レポート作成とプレゼンテーション」「フィールドワークへの招待」などの必修科目を配している。これらの科目の学修を通して、自立した学習態度や地域の自治会との連携基礎的な学習スキルを育成するとともに、社会学的な考え方を基礎付ける理論・学説史的背景について学び、2年次以降に学ぶ専門分野への興味関心を喚起している。2年次では、必修科目「社会学原論」で社会学理論の基礎を修得する。同時に2年次から3年次にかけては、必修のゼミ「社会学研究」を設けて研究を深め、ディスカッションやプレゼンテーションを通して表現力やコミュニケーション力を培う。4年次では、必修科目「卒業研究」で専門性を深め、4年間の学修の集大成として卒業論文を完成させる。4年間を通して、学生たちは、それぞれのコースに応じて、多岐にわたる社会学の専門分野のコアとなる科目群として「専門科目」を学ぶ。社会学の方法論を応用して多様な社会事象を分析する科目群「応用科目」では、社会学理論の活用法を修得させている。さらに、社会調査士資格取得に関する科目群「社会調査関連科目」も設けており、社会調査士に求められる専門的知識とともに、社会に貢献できる能力を伸ばしている。社会調査実習や各学年のゼミなどでは、アクティブ・ラーニング等を通して、実践的かつ能動的な知識や技術を身につけながら、学生自身が課題を発見し、その解答を探求する体験的な学修環境を整えている。日野市内の団地や自治会をはじめとする地域の方々と連携し、協働しながら実践的な学修を促進している点も、人間社会学科の特徴である。展望現行カリキュラムでは、「社会調査コース」「社会貢献コース」「共生社会コース」「社会科教育コース」という履修モデルを設定しており、これらはいずれも「地域のニーズを把握した、地域のゼネラリスト」の育成につながっている。今後はカリキュラムの再検討と合わせて、よりわかりやすい将来像をイメージできるように練り直していく。人文学部日本文化学科沿革日本文化学科は、1992（平成4）年の青梅校創設学部4学科の中の1学科である「日本文化学部言語文化学科」に出発点を持つ。言語文化学科では日本の伝統文化固有の諸価値を国際社会の中で問い直し、言語文化の探究を中心として、日本の伝統文化を継承、発展、発信することのできる人の育成を目指した。2010（平成22）年の大学の広範な学部・学科の改組の中で、教育研究の中心を言語のみに留めることなく、幅広い日本文化全般に関する知識と発信力を身につけた人の育成を目的として、「日本文化学科」に改組した。その目的を実現するために、総合大学の一環としての利点を活かし、近接諸科学との連携を図るために人文学部に編入し、日野校に移転開設した。教育方針・カリキュラム日本文化学科では、日本の伝統文化から最新の文化まで幅広く学び、世界に発信できる能力を身につけることを目指している。カリキュラムは、多くが必修科目からなる基本科目群、歴史・古典文学・伝統芸能に関する選択科目からなる伝統文化科目群、近現代日本文学・日本語・視覚文化などを扱う現代文化科目群から構成されている。各科目群を履修し、体系的・総合的に日本文化を学ぶことにより、ディプロマ・ポリシーを達成するように設計している。特色ある授業（プログラム）基本科目群では、1年次で「日本語レベルアップ」、「古文入門」、「漢文入門」で日本語の基本技能を高め、「日本文化体験」では日本文化に関係ある諸方面から多彩なゲスト講師を招き、体験を通して百人一首、能楽、講談、茶道、写し絵などといった日本文化を幅広く学ぶ。また、2年次の「古典文化基礎演習」や3年次の「日本文化演習」では、専門知識の修得に加え、学生自身が研究を遂行する技能を学び、4年次の「卒研演習」で卒業論文を執筆する力を身につけて、「卒業研究」に結実する仕組みになっている。伝統文化科目群では、1年次から3年次にかけて、「歴史入門」、「古文書学」、「江戸文化論」などの授業を通して、古典文学や歴史史料を読解する技能と研究能力を養う科目を配している。現代文化科目群では、日本語や日本文学を学ぶ「日本文学概論」や「近代文学」などの科目に加えて、映画芸術などの視覚文化を学ぶ科目「映画芸術日本文化体験MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory383

## Page 193
![Page 193の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000193.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況384明星大学UNIV.人文学部論」も用意して、近代及び現代の文化・文学を研究する能力を培っている。現代文化科目群に位置付けられる2年次配当科目「地域文化研究」では、教員とともに学生が各地を旅して地域文化を学ぶ、フィールドワーク型の授業を行っている。教員が専門知識と人脈を動員して行うこの授業は、観光旅行では経験できない深い学習を得ることができ、上述の1年次必修科目「日本文化体験」とともに、日本文化学科の学びを象徴する科目となっている。また、カリキュラムに位置づけられる授業ではないが、教員が提示するテーマをめぐって学生たちが中心となって活動する「日文研究会」という勉強会が存在するのも、日本文化学科の際立った特徴となっている。研究テーマは、日中武道比較研究、映画研究、日本語研究、古典和歌研究、源氏物語研究、落語講談研究、近現代文学研究、言語学研究、美術・視覚文化研究、歴史研究からなる。歴史研究をテーマとした研究会は「歴史を旅する会」と称し、文献研究に加えて、寺社・城郭・古墳などをめぐるフィールドワークも行っている。中学校・高等学校教諭1種免許状（国語）の資格取得を目指す学生が多いのも日本文化学科の特徴である。実際、毎年のように何名もの卒業生が専任教員または臨時採用の教員として教壇に立ち、教育界に貢献している。展望日本文化学科のカリキュラムに備わる情報を読み込む力、分析する力、アウトプットする力をさらに伸ばし、社会における実践力につなげていく方針である。日本文化系学科には珍しい就職にフォーカスした科目の設置を検討しているほか、「ニチブン就職プロジェクト」（仮称）も立ち上げる計画である。人文学部福祉実践学科沿革1965（昭和40）年の開設以来、社会学科（当時、現：人間社会学科）においては社会福祉領域の教育研究にも力を入れてきており、特に2002（平成14）年からは学科に社会福祉士受験資格を取得するための科目を設置し、この領域の教育研究を積極的に推進してきた。2010（平成22）年の大学の広範な学部・学科の改組の中で、社会福祉に関する専門的・実践的な知識と技術を持った福祉職業人、福祉的視点を持つ社会人の需要が高まって来ている社会的要請に対応して、人間社会学科から社会福祉領域を発展的に分離して「福祉実践学科」を開設した。学科には資格の取得を目指す「社会福祉士コース」「精神保健福祉士コース」、福祉マインドを持った一般社会人を目指す「福祉実践コース」の3コースを設け、それぞれの目的や専門性に沿った教育研究を積み重ねてきた。また、多摩地域に多く設置されている社会福祉施設と共同して教育研究を展開することに取り組んできた。教育活動福祉実践学科では、社会福祉士や精神保健福祉士などの専門職はもちろん、一般企業や行政機関でも福祉の知識を活かして活躍できる人材の育成を目指している。これを実現するために、学年を問わず学生間の交流の機会を数多く設け、高度なコミュニケーション能力やチームワーク、問題解決能力を身につける体験学習を随所に配したカリキュラムを編成している。特色ある授業（プログラム）1年次では、福祉全般に対する理解を深めることを主眼に、必修科目として「社会福祉入門」や「地域ニーズ開発」などを設けている。また、基本科目（選択科目）である「社会福祉の原理と政策2」などの実践的・学際的科目を通して、福祉的な課題の発見や、それを解決する態度や方法を学ぶ。2年次では、基本科目（選択科目）の「多摩地域福祉論」等の地域に立脚した科目での学修で、地域と世界のつながりを理解し、広く多面的な視野から物事を把握し、判断する力を培う。「実践手話」等の科目では、発信力を養うために、日本語・外国語・手話などの多様な言語表現や、ノンバーバルなものも含む表現力とコミュニケーション力を高める。さらに、2年次からは、社会福祉士資格取得に必要な選択科目からなる社会福祉専門科目、精神保健福祉士資格取得に必要な選択科目によって構成される精神保健福祉専門科目が置かれている。これらの科目は、福祉職業人、福祉社会人、精神保健分野の福祉専門職として社会に貢献できる能力を身につけさせることを目的としている。2年次の演習を通して、学生たちは各自の適性を見つけていくが、3年次では、より実践的な演習に取り組んでいくことになる。「相談援助実習」や「精神保健福祉援助演習」などの科目のほか、「福祉インターンシップ」のようなキャリア科目も設けられ、自立した福祉職業人、福祉社会人として将来について考え、社会において自らが果たすべき役割を意識化する。また、「社会保障」では、異なる文化の中で暮らす人たちへの支援方法を学び、自国の文化とは異なる環境で生活する人たちの心理的・社会的問題に適切に対処していくためのソーシャルワーク・スキル習得を目指す。4年次では、「スクール（学校）ソーシャルワーク実習」などの選択科目に加えて、学生一人ひとりが研究課題を見つけ、教員の指導を得ながら、卒業論文にまとめる作業を進める。徹底した体験的な学びが福祉実践学科の特徴であるが、上述の「多文化ソーシャルワーク論」のような、グローバル化時代の地域という今日の現実を踏まえた学びを展開している点もまた、この学科らしさを表している。学生どうし、そして学生と教員の距離が非常に近い学科の中で、こうした濃密な教育活動が日々実践されている。なお、人文学部では「学部共通科目」というカテゴリーの科目も設けており、学生たちは、各学科の枠を超えた、幅広く学際的な人文知の探究が可能となっている。国内外における様々な格差や差別、2023（令和5）年時点で未だ完全には収束していないコロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻に見られるグローバルな背景を持つ戦争など、人類はなお重大な諸問題を克服できていない。このことに鑑みたとき、古代から今日に至るまで連綿と続く人文系諸学問が果たすべき役割は、極めて重いと言わなくてはならない。明星大学人文学部は、こうした重責を自覚し、日々、学生たちの教育に当たっている。展望構想中の新カリキュラムでは、「社会福祉学を基盤に社会的課題に対し福祉の視点と技術を活用できる人材」の育成を目指す。社会福祉学を基盤としたグローバル教育や多彩なキャリア指導はすでに実施されているが、そうした良さをわかりやすく学生に伝えていく方策を練っている。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory385

## Page 194
![Page 194の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000194.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況386明星大学UNIV.経済学部経済学部経済学部経済学科沿革1966（昭和41）年に「人文学部経済学科」を創設した。経済学科の1学科構成をそのままにして、2001（平成13）年に「経済学部」に改組した。2005（平成17）年に情報学部経営情報学科と統合し、経済学部は経済学科と経営学科の2学科構成となったが、2012（平成24）年の経営学部の設立により、1学部1学科（経済学部経済学科）構成に戻り、現在に至っている。教育方針・カリキュラム経済学部は社会の変化に対応できる中堅のリーダーを育成することを目的とする。経済の生きた知識を獲得するため、学生自身が考える姿勢を大事にしている。税金や保険、物流や金融など、毎日の暮らしの中にある問題を見いだし、生活の質を改善できる方法を考える。そのため、経済学に特有な知識だけでなく、金融、会計、法律、政策、歴史なども学び、社会の活性化や発展に貢献できる知識と動機のある人材の育成をめざしている。特色ある授業（プログラム）経済学部の入学定員は260名であり、教員は専任教授10名、准教授9名、常勤教授2名、特任教UNIV.員4名である（2023（令和5）年5月現在）。主要な授業科目はミクロ・マクロ経済学、経済史、金融論、経済政策、財政学、地方財政論、労働経済学、都市経済学、統計学、中小商業論、マーケティング、国際経済学、国際金融論、国際会計論、財務会計論、国際法、租税法、企業法などである。学生の人生目標に応じて学ぶための履修モデルとして、ビジネスパーソンや税務・会計専門職に必要な専門知識を学ぶ「ビジネス・金融会計コース」、地域の視点から法律や政策を学ぶ「政策・法律コース」を設置しており、2023（令和5）年度からは「データ解析コース」が新たに設置された。キャリア教育にも力を入れ、専門学校と協力して、日商簿記検定、FP（ファイナンシャルプランナー）3級、旅行業務、税理士、公務員等の試験対策を充実させている。学部で学ぶ経済系の知識を生かして、特任教員によるキャリア教育では、インターンシップ授業はもとより、企業数社の協力を得て、多角的な企業研究も行っている。「地域参画ワークショップ」と題して、企業の担当者から提示される課題に対して、グループ毎に解決案を検討したり、必要な情報・データの収集と報告を行ったりする実践躬行の授業を実施している。多摩地域の実業家の子弟も多く入学しているので、地域に根ざした企業人を育成するため、「多摩の産業と経済」をテーマとした講義では、地域経済の研究者、地元の起業家や銀行員、ファイナンシャルプランナーなどの多様な講師陣による授業を展開している。ここでは、多摩地域経済の概観から企業人による起業体験や起業における資金調達の実際まで学び、多摩地域に根ざした企業人を育成することを目指している。講義科目でも地方財政論のように教育の場での実践躬行の一つの手法として、1）自治体の制度や仕組みに関する授業を受け、次に、2）自治体の職員を招聘し、現場の話を聞いた後で、3）学生自身が居住地の地方自治体の財政や行政サービスを調べるという手続きで、地方自治の理解を深める作業を行っている。全学共通科目の「自立と体験」の授業の他に、経済学部の演習科目として、1年から4年まで少人数クラス（20人以内）の必修科目を設けて、授業のテーマに沿った研究を行っている。さらに、毎年4月に新入生交流イベントを実施して、学生間の交流をはかると共に、学生が自らの目標に適した履修モデルを探るためのワークをおこない、学生個々人に応じた学びを実現することを目指している。入学後は検定試験の合格率を発表したり、各学年10人の成績優秀者を対象とした表彰を行ったりして、学習動機の開発にも目を配っている。卒業後の進路を見据えた取り組みとしては、学生主体の「未来応援プロジェク新入生対象のイベント未来応援プロジェクト地域参画ワークショップト」として、の定期的な開催を学部として支援している。このイベントでは、経済学部OB・OGや就職活動で内定を得た4年生と在学生が交流し、先輩の経験を共有することで在学生が職業観や人生観を育てることを目指している。展望2022（令和4）年度、明星大学は4学部の協力のもと、データサイエンス学環を新設した。経済学部は、この協力学科のうちの一つとして、データサイエンス学環の運営に参画すると同時に、翌年度、経済学部内に新に「データ解析コース」を新設して、学環の協力のもと、経済学部内におけるデータリテラシー教育の強化に乗り出した。経済学部においては、従前よりデータリテラシー教育には力を入れており、すべての学生に基本的なデータ関連スキルを身につけさせて世に送り出すことを、教育上の一つの柱としていた。データ解析コースの新設によって、より高度なスキルを身につけたい学生の要望に応えられる体制が整えられることとなった。2027（令和9）年度には、新たな教育カリキュラムが開始される予定となっており、より現代的な教育体制へと刷新するとともに、ややもすると抽象的になりがちな経済学関連領域の知識を、学生の具体的なスキルへと結びつける体制が整えられる予定である。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory387

## Page 195
![Page 195の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000195.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況388明星大学UNIV.情報学部情報学部情報学部情報学科沿革情報学科の前身、情報学部電子情報学科は、1992（平成4）年に定員100名で青梅校に開設された。2005（平成17）年の改組に伴い、情報学の学際的特色を生かした学部間交流と学生の利便性を考慮して、キャンパスも教育・研究環境を再整備した日野校へ移転した。これにより、情報学科1学科3コース制（コンピュータ科学コース、システムネットワークコース、ディジタルクリエイトコース）となった。2014（平成26）年度から情報技術の社会的要望の高まりと最新の情報技術をいち早く取り入れるため、改組によって2コース制（コンピュータ科学コース、ソフトウェア技術コース）となった。2019（平成31/令和元）年度から多様な専門を横断的に学習できるようにコース制を廃し再編成した。この再編成に伴い、プロジェクトベースドラーニングを取り入れ、学生と社会をつなげた実践教育を実施している。教育方針・カリキュラム本学部は、社会発展や情報技術の進化に柔軟に対応でき、情報学に関わる基礎知識や専門知識を有する人、倫理観を持って、基盤分野及び応用分野で幅広く活躍し、社会貢献する人の育UNIV.学会発表（2019年）成を目指している。1年次のカリキュラムは、プログラミング技術の学習を中心とし、情報学の知識や技術の基礎を実践的に身につけ、専門的学習につなげる。2年次以降は、専門的な知識や技術を実践の積み重ねで深化を図る。7つ用意された履修モデルを参考に各学生各キャリア設計を踏まえ、履修科目を決定する。2年次は、実践的に専門の理解を深め、社会と繋がることをテーマとし、情報技術を用いて社会問題を解決するプロジェクト科目が始まる。3年次は、専門性が高い科目が複数設置され、これまで修得した情報技術の基礎、専門的な知識や技術を融合し、卒業研究着手の準備を行う。4年次は、卒業研究で、情報技術の目覚ましい発展による著しい変化を伴う社会に柔軟に対応し、貢献できる人材となることを目指す。特色ある授業・カリキュラム情報学科では、特徴的な3つの特徴ある科目群を配置している。1．学生同士や社会との相互作用で学びを深める科目群これはグループワーク主体の授業で、与えられる目的に向かい学生同士が協力し合い、情報技術を習得する。社会とのつながりを目的とした実践的プロジェクトを通し、情報学がどのように必要とされ、活用されるのかを考えるきっかけが得られる。社会と関わることで、仕事における共働についても学べる。情報技術、人、社会を横断した学びの場となり、大学で学ぶことの意義、社会に出ることを意識した学び、情報学の楽しさが体験できる。2．最先端の専門分野を学ぶ科目群この科目群は、社会で話題となる移り変わりの速い技術を含めた最先端の専門分野が学べる。「先端情報学」は、その時代で話題になっている、もしくは話題になるであろう最新の専門分野をいち早く取り入れている。社会で必要とされる技術を学び、最新技術を学ぶ環境である。3．教育分野で情報学を活用する科目群教育の明星大学といわれる本学の情報学部には、教育分野、教育産業に興味を持つ学生が多く、小学校のプログラミング教育が2020（令和2）年から始まり、「情報と教育」は非常に注目されている。情報学と教育分野の親和性の高さを生ゼミ風景かし、広く情報と教育の可能性についての学びを提供する。ワークショップでは、グループで設定された目的を達成するためにディスカッションを行い、相互に学び合うことで「学びとは何か」「教えることの手法」などを実践的に考え身に付けることが可能となる。また、プログラミング教育について、教え方はもとより、ICTを活用したプログラミング教育のための環境の構築方法を学ぶことができる。展望2023（令和5）年からの新カリキュラムでは、以点に注力し情報学部の教育を発展させる。1．ソフトウェア技術、コンピュータハードウェア、ユーザーエクスペリエンスを横断的に活用し、自身のアイデアをプロトタイピングとして出力する力の育成2．社会、国を繋いだ、開かれた教育の推進3．学際的な教育研究の推進この改革により、コンピュータの基礎から専門までの幅広い知識や実用的プログラミング能力と応用力を持ち、変革時代で必要とされる社会の様々な分野で活躍できる人の育成が可能になると考えている。2023（令和5）年度に、データサイエンス学環が発足することから、情報学部はデータサイエンス学環と教員組織、カリキュラムで連携し、学部横断の教育を推進する。授業風景MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory389

## Page 196
![Page 196の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000196.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況390明星大学UNIV.教育学部教育学部教育学部教育学科沿革教育学部教育学科は、1965（昭和40）年4月設置の「人文学部心理・教育学科教育学専修」を母体に、2010（平成22）年4月に改組されて設置された。設置当初は、「人間に対する深い洞察力と共感的態度を養い、学校教育及び保育・幼児教育についての専門的な知識と技能並びに幅広い教養を身につけた教員、保育士及び教育・福祉関連で活躍できる人の育成」を目的とした。学科の中に小学校教員養成、中学校・高等学校の各教科専門の教員養成、特別支援教員養成および幼稚園教員・保育士養成の4コースを設置1年次フレッシュマンキャンプUNIV.してスタートした。さらに中学校・高等学校の教科専門のコースの中は、国語、社会・地歴・公民、理科、数学、英語、音楽、美術、保健体育の教科を専ら中心的に学ぶコースを置いている。教育方針・カリキュラム教育方針先に学部学科紹介であげた学部学科の目的と同時に、自己実現を目指し、地域社会に創造的に貢献できる教育・保育のスペシャリストの養成を目指しつつ、学生に対しては、「人格接触により手塩にかける教育」や「実践躬行の体験教育を行う」ことによって、着実に教育の成果を上げることに努めることを教育方針としている。カリキュラム教育学部の教育課程は、全学共通科目（必修科目と選択科目）、学科科目（必修科目と選択科目）及び全学共通社会的・職業的自立促進科目（自由科目）で構成し、それぞれ必要な科目を開設している。教育学部の人材養成の目的に掲げる、「人間に対する深い洞察力と共感的態度」「幅広い教養」を身に付ける観点から、主に全学共通科目及び全学共通社会的・職業的自立促進科目を開設し、教育・保育についての「専門的な知識と技能」を育成する観点から学科共通科目を開設している。学科選択科目については、「教育職員免許法」及び「同施行規則」に基づく教員免許を取得するための科目と、厚生労働省告示第198号に基づく保育士資格を取得するための科目を配置している。カリキュラムの体系は、教員・保育士の養成を大きな目的とする教育学部においては、ディプロマポリシーに定める資質能力を育成することを目指し、カリキュラムポリシーを踏まえ、1年次から4年次まで学年段階を追って特に教員・保育士としての実践力を高めるよう、教育内容を設定している。まず、教育学科共通で学ぶ体系を紹介する。1年次では、教職の意義と基礎理論を学ぶことに重点を置き、「教職入門」「教育原理」「教育の制度と経営」「特別なニーズの教育総論」「発達心理学」、各教科・保育内容等の科目とともに、少人数で教育の諸問題に関する考察等を行う「教育学基礎演習」を必修としている。2年次では、引き続き「教育学基礎演習」を履修しつつ、大学での学修と学校現場での体験的な学びの連動を図ることに重点を置いて、「教育心理学」「教育の方法及び技術・情報通信技術の活用」「教科教育法」の科目を学ぶとともに、小・中・高の教職必修として「教育インターンシップ」を履修している。3年次では、教員としての専門的知識や実践的指導力を養うことに重点を置き、「教育課程論」「教育相談の基礎と方法」と教科等の「指導法研究」、保育内容の「指導法」を学ぶとともに、「教育実践ゼミ」を必修としている。また、介護等体験も行う。4年次では、教育学部での学修の総まとめを行うことに重点を置き、「教育実習」や「保育・教職実践演習（教諭）」を行うとともに、引き続き「教育実践ゼミ」で教育についての考察等を深め、「卒業研究」に取り組むことになる。さらに沿革で取り上げたようなコースの構成を元に学生は、次のように学びを重ねていくことになる。小学校教員コースでは、体験・実践型の授業を重視して初等教育の幅広い知識と実践力を備えた小学校教員を養成すると同時に心理学を背景に児童・生徒の発達、学習、臨床の各分野にわたり学ぶことも可能となっている。このコースでは、小学校1種教員免許状、学校図書館司書教諭資格、幼稚園1種教員免許状を取得できる。また選考により2年次から1教科に限り中学校・種教員免許状も可能である。教科専門コースは、8系統のカリキュラム構成からなり、国語、社会・地歴・公民、理科、数学、英語、音楽、美術、保健体育の教科コースを設置。中学校・高等学校の当該コースの1種類の教科1種免許状と併せて、小学校1種教員免許状が取得できる。また選考により2年次から特別支援学校1種教員免許状も取得可能である。また、すべてのコースで、学校図書館司書教諭資格が取得できる。青梅デイキャンプMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory391

## Page 197
![Page 197の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000197.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況392明星大学UNIV.教育学部特別支援教員コースは、教育や特別支援に関する授業はもちろん、病理学、心理学、福祉学など関連分野も学べる教育課程を設置している。このコースでは、障害のある児童・生徒の自立と社会参加に向け、適切な指導・支援の行える専門性を養い、小学校1種教員免許状、特別支援学校1種教員免許状が取得できる。また選考年次から各教科の中学校・高等学校1種教員免許状が取得可能である。子ども臨床コースは、乳児期から児童期まで、子どもの発達と学びを理解する「子どもについてのスペシャリスト」を養成する。幼稚園と共に、保育所、乳児院、児童養護施設、各種障害児施設といった児童福祉施設を中心に子どもと保育に関わる、幼稚園教員と保育士を養成する。保育士資格、幼稚園1種教員免許状、小学校1種教員免許状と学校図書館司書教諭資格が取得できる。また選考により2年次から特別支援学校1種教員免許状が取得可能である。特色あるプログラム教育学部教育学科は、2010（平成22）年の設置後も、これまでの心理・教育学科教育学専修の伝統を引き継ぎ、教育学・保育学の基礎的・理人250200155150132122100845002014年2015年2016年2017年公立小・中・高・特別支援学校合格報告件数論的教育・研究を重視する一方、教科教育学や学校・施設現場に密着して実践的な教育学・保育学の教育に力を注いでいる。「教員、保育士及び教育・福祉関連で活躍できる人の育成」を人材養成の目的に掲げ、「磨きあい高めあう熱意ある教育者・保育者の養成」をモットーに、知識と体験をつないで理解を促す体験教育の方針に基づき、少人数教育、学生が企画する参加型授業や体験プログラムなどを展開している。具体的には、通学課程と通信教育課程の教員養成の伝統で培ってきた教育・保育界や地域との連携のもとに、他大学に先駆けて2003（平成15）年より教職インターンシップの活動を展開してきた。大学で身につけた知識を教育や保育の現場で確認し、その知識と経験を融合させることによって、学生一人ひとりの実践力を向上させ、実証的な教育研究能力の育成を目指している。現在、2年次に設置されている「教育インターンシップ」は、小・中・高の教職の必修科目として、近隣8市の教育委員会などと提携した教育支援活動を実践し、現職教員から指導を受けるとともに、それらの省察を含めた大学内での授業と連携させて、理論と実践の融合を図っている。学校などの協力により、教育の支援力の基礎を培うとともに、教職に対する関心と実践小学校中・高特別支援2101671262018年2019年1821442020年2021年2022年力の向上に大きな成果を上げている。1年次の教育学基礎演習とともに、課外活動における学生参画型の体験教育にも力を入れており、上級生が企画・運営するフレッシュマンキャンプやウェルカムプロジェクト、各種体験ワークショップ、体育祭や音楽祭、コースの交流会などの、学生自身による主体的な活動を通して、企画力やリーダーシップ、コミュニケーション能力を培う教育が推進されている。展望社会が教育学部に求める人物像は、以下のように想定される。すなわち学校教育・児童福祉の現場で働くことに対する強い意志と、園児・児童・生徒・利用者と積極的に関わっての深い理解をもとうとする意欲をもち、自ら人間的に成長したいと願う人である。同時に、豊かな感性と、自ら考え自ら学ぶ姿勢をもち、面倒なことをいとわず周囲の人々と協調しながら物事に取り組みことができ、熱心かつ謙虚にさまざまなことを学べる人である。以上の理念を踏まえた教育の成果は、次にあげるように進路状況に着実に表れている。学生の進路は、小学校教員の希望者が最も多く、保育士、幼稚園教員、特別支援学校教員、中学校教員となっている。公立学校の教員採用選考や保育所・幼稚園の採用試験の結果、心理・教育学科教育学専修時代から、通信教育課程と共に多くの教員・保育士を輩出してきたが、教育学部設置とともにその数は年々増加傾向にある。今後は、中学校・高等学校の教育現場にどれだけ卒業生を送り込むことが出来るかが課題である。なお教育学部1期生からの教員就職者数は、別表のとおりである。教育学部教育学科では、学生の教育に資する研究活動も活発に行われている。心理・教育学科教育学専修時代から、『教育学研究紀要』（1986（昭和61）年3月創刊）を継続して刊行しており、教育関係の諸学会も開催され、学生も参加している。さらに心理・教育学科教育学専修時代の1996（平成8）年から、本学卒業生の現職教員を対象とした「明星教育会」が設立されている。また教育学部教育学科になってからは、明星小学校の公開授業研究会や教科の授業研究会に学生が参加している。地域貢献として、教育学専修時代の2004（平成16）年より「教育・保育セミナー」を主催し、本学科のみならず、外部講師も招聘して近隣の教師・保育者・住民の方々においでいただいている。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory393

## Page 198
![Page 198の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000198.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況394明星大学UNIV.経営学部経営学部経営学部経営学科沿革1992（平成4）年4月に青梅校に開設された「情報学部経営情報学科」は、2005（平成17）年度の改組に伴い、日野校の経済学部に統合され、「経営学科」としてスタートした。しかし、経営学科の教育・人材養成の方針や特色を、より明確にするため、2012（平成24）年に経済学部から発展的に分離・独立し、「経営学部」を設置した。2017（平成29）年には、学生の進路や将来を念頭に置いた5コース制を柱とするカリキュラムをスタートさせた。そして、2023（令和5）年からは1コース追加した新たなカリキュラムをスタートさせている。経営学部は1学科で組織し、入学定員は200名である。教育方針経営学部では、①経営の現実や現象を正しく認識し、問題解決の能力、経営改善、新しい発展の方向を提示し、企業や組織、そして事業の生誕・発展・持続・変革に係るあらゆるプロセスに対応できる人材の育成、②「実践性」「時代や環境への適応」「学問的基盤と科学的根拠」をベースとした、今後の日本社会において必要とされるローカルな視点と、グローバルな視点を兼ね備えた人材の育成、③高い教養と常識、経営の専門知識と技能を持ち、広い視野と協調性UNIV.に富み、企業・その他組織体並びに社会に貢献できる人材の育成、の「3つの人材育成」を教育の方針としている。カリキュラム経営学科では、学科科目を（1）基幹科目、（2）学科専門分野科目、（3）キャリア開発・資格取得関連科目に区分し、体系的にカリキュラムを編成している。（1）基幹科目1年生に「経営基礎1・2」、2年次に「経営基礎3・4」を必修科目として配置し、経営学の基礎を修得させる。また、3年次に「ゼミナール1・2」、4年次に「ゼミナール3・4」「卒業研究」を必修科目として配置し、専門性を深めさせるとともに、4年間の学びの集大成として卒業研究を完成させる。（2）学科専門分野科目以下の6コース制を採用し、学生はいずれかのコースを選択する。そして各コースにおいて、実践的な体験学習のほか、「経営管理」「マーケティング」「会計」の各領域を横断的に学ぶ機会を設けている。①地域ブランドマネジメントコース地域に立脚した学習を通して、基礎（事例と理論）と応用（フィールドワークと実践）の双方から地域と世界のつながりを理解し、物事をグローバルに把握できる人材の育成を行っている。事業承継塾の授業風景②観光・ブライダルコース観光・ブライダル・ホスピタリティの分野の学習を中心に、理論と実務の両面から学び、サービス業で活躍する人材を育成している。③事業承継・イノベーターコース事業承継やイノベーターを目指す人に実務的かつ学際的な学びによって、多角的な視野から積極的に課題を発見し、商品や事業を通した新しい価値の創出を目指す人材を育成している。④金融・会計プロフェッションコース金融や会計の知識と技法を習得させ、金融機関や会計系専門職（公認会計士や税理士など）での活躍に必要な資質を持つ人材を育成している。⑤戦略的キャリアデザインコース経営戦略や、組織の中の人の行動と心に関する理論とスキルを修得するとともに、実践的授業を通して、日本社会や幅広い産業に貢献する人材を育成している。⑥スポーツ・エンターテインメントビジネスコーススポーツやエンターテインメント業界を目指すために必要な実務的な知識や一般的なビジネスに必要な経営学を学び、当該業界で活躍できる人材を育成している。（3）キャリア開発・資格取得関連科目2年次から3年次にかけて開講される選択科目で構成する。2年次に「キャリア開発1・2」、3年次に「キャリア開発3・4」を配置し、社会的に自立した自己の将来像について考える機会を提供し、社会において果たすべき役割を自覚させる。あわせて、経営やキャリア開発に関連する資格取得を目指す科目を設置し、知識と技能の統合を図っている。教育の特色経営学部は、将来の多摩地域の産業活動、企業活動を担うリーダーを支援するため、多摩信用金庫などの協力のもと、多摩地域の次世代の事業承継者向けのセミナー「TAMAネクストリーダープログラム」を開催するなど、多摩地域の創生・活性化に資する地域連携活動を積極的に行っている。また経営学部の教育については、3つの特色がある。第1に、有力企業への就職や進路決定率・就職率が高いことである。経営学部教職員が一体となり、2・3年次に受講するキャリア開発1・2・3・4の授業も設置し総力を挙げて学生の就職にMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory395

## Page 199
![Page 199の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000199.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況396明星大学UNIV.経営学部／デザイン学部取り組んでいる。第2に、在学生における女性の比率が高く、2023（令和5）年度時点で約40％強が女性となっている。女性たちの社会での活躍、リーダーシップの発揮の支援にも力を入れている。第3に、実践的体験授業の充実である。実践的体験授業科目を多く設置しており、このことにより学生の経験知や実践的能力が高まり、社会で求められる人材に成長することになる。地域への貢献に徹し、真に学生の実力や社会人として必要な基礎能力を身に付けてもらうことを重視し、その成果を着実にあげてきたのが経営学部の特色である。展望2023（令和5）年度から経営学部は新時代に対応した新しいカリキュラム体制を整え、教育の刷新をはかっている。新カリキュラムは、明星学苑の建学の精神「和の精神のもと、世界に貢献する人を育成する」を大事に堅持しつつ、新時代の経営学教育とは何が求められるのかを探求す谷井ゼミ産学連携発表会る。学生、保護者の方々、中学生や高校生、そして社会や企業など、多くのステークホルダーのニーズを考慮して、新時代に必要な知識や知恵、スキル、発想、人間力などを涵養することを目指すなど、経営学の視点から、時代にマッチした革新と変革を続ける。そして、DX（デジタルトランスフォーメーション）やSDGs（持続可能な開発・発展目標）、環境への対応など、2020年代に寄与する人材というだけではなく2030年代を見据えた教育を進めている。デザイン学部デザイン学部デザイン学科沿革デザイン学部デザイン学科は、1992（平成4）年に開設された日本文化学部生活美術学科として出発した。総合大学の中の一学科ではあるが、学科の特色は他の美術系大学とは異なり、入学時に専門コースは決めず、入学後にそれぞれの美術・デザインの基礎を学んでから専門コースを選択できること、もう一つは専門コースに進んだ後も、4年次までに2コースを同時に履修できることである。この特色は他の美術系大学には類例のない斬新なカリキュラムであった。今振り返ると多様な可能性があり、優秀な卒業生を輩出している。生活芸術という学科名称も日本の美術の歴史を俯瞰して見れば、明治以降の西洋化以前の生活に根付いた日本文化を鑑みると、この命名は相当であった。2000（平成12）年には、学科名称を造形芸術学科に変更した後、2005（平成17）年には学部として独立し、「造形芸術学部造形芸術学科」となり、絵画・空間造形・木材造形・ビジュアルデザイン・プロダクトデザイン・テキスタイルデザイン・ファッションデザイン・ガーデンデザイン・造形デザイン・陶芸・ガラスの11コースの構成になり、2013（平成25）年までに、卒業生名を超え、デザイン・芸術分野に限らず様々な分野で活躍している。また、青梅校も開学部4学科あった構成から、情報学部とUNIV.日本文化学部の日野校移転に伴い、2010（平成22）年度以降は造形芸術学科のみが青梅校で教育を継続することになった。その後2014（平成26）年度には全ての学部が日野校へ移転し、総合大学の利点を活かした教育環境の中で、造形芸術学部は「デザイン学部デザイン学科」への改編を行った。教育方針・カリキュラム社会とつながるデザイン力を育成する教育、具体的には適切な方法で人に伝えるための「デザイン」。社会の仕組みを考えるための「デザイン」。ヒト、コト、モノを上手く繋げて機能させ、最良の結果を得るために、企画し、表現することがデザイン学部のコンセプトである。このデザイン学部のコンセプトの基本理念は、本学の教育方針である「実践躬行の体験教育」を具現化した造形芸術学科の主要な科目「体験学習」から始まった。特色あるプログラム地域社会と繋がり、青梅市の活性化から、地元の企業との連携による商品開発、青梅市のイメージキャラクター「自然超人オーメンジャー」、また、有志の学生による旧青梅街道沿いに87枚の映画看板の制作展示や、現代美術作家と学生が参加して、美術による活性化「アートプログラム青梅」への作品出展は、忘れ難い経験である。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory397

## Page 200
![Page 200の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000200.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況398明星大学UNIV.デザイン学部企画表現演習5基礎実習科目コンピュータこの経験はデザイン学部の「企画表現5（統合）」に引き継がれ、学生が主体的に、日野市、八王子市、立川市で、公共施設や、民間企業、実生活の中での問題や可能性を考え、明星大学ビジョン・教育目標「多摩に根差し、地域社会に貢献する大学」を実現している。4年間の学びは次のようになる。基礎実習科目は明星デザイン独自の「企画し表現するデザイン」を実践する上で表現する技術や材料加工の方法を基礎から学ぶこと。専門演習科目では幅専門演習プロダクト広い分野から、興味のある科目を選択し、知識・技術・方法について実践的、横断的に学び、専門分野を研究すると共に、領域を超えて必要となる汎用的な力を身につける。また、カリキュラムの中心となる企画表現演習1から6では、課題や問題を自ら発見し解決する方法を実践的に学ぶ。企画表現演習5では、地域からの依頼に基づき、今代の発見・分析・具体的な企画の考案を、協働してプレゼンテーションを行います。そして、卒業研究では、学生一人ひとりが自ら興卒業研究展示（2019年）卒業研究展示（2022年）味のあるテーマについて、指導教員とゼミ形式で、調査・分析等を通じて企画提案を行い、調査報告書を作成し、展示会とプレゼンテーションを行い、企画×表現のデザイン力の集大成となる。展望今まで、社会につながるデザインを目指し、企画（分析力、発想力、構想力）×表現（コミュニケーション力、美的構成力、プレゼンテーション力）の6つの力を身につけるために、企画表現演習科目を段階的に養うカリキュラムであったが、2024（令和6）年度から、早い段階で、小さなプロジェクトであっても社会と繋がる実践的な企画表現を目指す方向に舵を切る予定である。その理由は、身近な出来事の問題に気づくことや、協働して解決する力は、学年を問わず必要とされ、これからの社会に重要不可欠だと考えるからだ。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory399

## Page 201
![Page 201の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000201.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況400明星大学UNIV.心理学部心理学部心理学部沿革1965（昭和40）年に97名の入学者から始まった心理学専修）」は、2010（平成22）年に「人文学部心理学科」としての再編を経て、2017（平成29）年には1学年120名の「心理学部心理学科」として一層の飛躍を目指して生まれ変わった。さらに、1974（昭和49）年には、大学院人文学研究科心理学専攻修士課程を、そして、1978（昭和53）年には同博士課程を開設し、2020（令和2）年には心理学研究科心理学専攻として独立した。また、開設以来の中心的研究分野であった基礎心理学に加えて、2002（平成14）年には、心理学専攻（臨床心理学コース）が、日本臨床心理士資格認定協会から第1種指定大学院（大学院修了をもって臨床心理師試験の受験資格取得）として多摩地域で初めて認定され、その後、2017（平成29）年の心理学部開設に合わせて、本邦で心理職の国家資格としては初めてとなる「公認心理師」の養成に対応したカリキュラムを整備した。教育方針・カリキュラム心理学部の教育目標は、社会の多様な場面で心理学の専門知識を活用できる一般職業人を育成するとともに、大学院で専門資格を取得して医療・福祉・教育の現場で活躍できる専門家をUNIV.養成することである。その目標達成のために、以下の4つの方針を掲げている。①少人数制の体験教育として、厳格な実習を実施する。1年次の「心理学統計法」、2年次の「心理学実験」「心理的アセスメント」、3・4年次の「専門演習」（ゼミ）など、心理学の専門性に深く関わる必修科目は、すべて少人数制で開講し、濃密な体験教育を実現している。②心理学で社会に貢献できる人材を育成する独自のキャリア教育を行う。3年次を対象とした、卒業生による就職活動についての講演など学部独自の就職支援プログラムや、専門教員が担当する学科科目「心理学で拓くキャリア」の開講を通して、キャリア形成の支援を行っている。③専門科目でビジネススキルを培う。本学部では、レポート作成、データ収集と分析、研究成果の発表などの課題を通して、自己管理、コミュニケーション、論理的思考、プレゼンテーションといったビジネスパーソンに不可欠なスキルと、そしてプライバシーの保護や時間厳守といったビジネスマナーを養っている。データ処理や研究推進の過程で、情報機器の使い方や活用法も身につけることになる。その結果、心理学の知識と素養を活かして社会で活躍するためのビジネススキルを、日々の授業を通して自然に身につけることを目指している。④大学院心理学研究科と連携して、国家資格「公認心理師」を養成する。この国家試験受験には、省令で定められた学部で24科目、大科目の単位修得を必要とするが、本学部は大学院心理学研究科心理学専攻と連携して、その全てに対応している。これら4方針は、卒業後の進路を見据えた学びの指針として掲げている「人間科学」「産業・社会」「カウンセリング」「発達支援」の4つの履修モデルとして具体的に示している。そして、これらの教育目標・指針の実現を図るために、カリ（平成29）年からは、産業・組織分野の専任教員を配置し、2019（平成31/令和元）年には公認心理師・臨床心理士の学内実習施設である「心理相談センター」に、公認心理師・臨床心理士の両資格を有する実務家教員（特任教員）を4名配置した。特色ある授業（プログラム）（1）公認心理師への対応公認心理師の国家資格は、2015（平成27）年9月に公布され、2017（平成29）年をもって全面施行となった（第1回国家試験は2018（平成30）年）。心理学部（2017（平成29）年開設）および大学院心理学研究科（2020（令和2）年開設）では、既述のように、公認心理師の受験に必要な省令科目の全てを開講している。心理的アセスメント（実習）心理学的支援法（カウンセリング実習）（2）明星大学心理学会4年間の学びの集大成として、卒業研究の成果を報告する明星大学心理学会を毎年開催し、全学年が参加している。施設心理学部では、教育目標の達成を支えるために、様々な実験室・実習室を備えている。（1）視覚実験室室内の光量を調節できる遮光暗室であり、動画像の呈示に適したコンピュータや視線の動きを捉える注視点解析装置などを用いた実験を行うことができる。（2）聴覚実験室音の生成・呈示と解析のための装置を備えており、外部音を遮断した環境で聴覚に関する心理学実験を行うことができる。明星大学心理学会MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory401

## Page 202
![Page 202の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000202.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況402明星大学UNIV.心理学部／建築学部行動分析研究館「認知心理学・社会心理学実験に用いる汎用実験室」（1）行動分析研究館主にデンショバトを用いた動物実験を行う施設であり、動物愛護や動物実験の倫理規程をクリアした衛生的な環境で、コンピュータ制御されたオペラント実験装置による実験を行うことができる。（2）臨床心理技法実習室ミニチュア玩具や砂箱が用意されており、主に、箱庭療法の実習室として利用する他、いろいろなグループ・セラピー、グループ・ワーク、そして、催眠療法の実習や研究を行うことができる。（3）心理面接実習室静穏な環境のもとで、面接や心理検査を一人ひとり個別に実施するための施設であり、学部生や大学院生は、ここで面接や検査を実施して、研究のためのデータを収集することができる。（4）プレイルーム発達臨床の実験や研究を行うための施設であり、隣接する観察室では、子どもがプレイルームで活動している様子をマジックミラー越しに観察することができる。（5）心理相談センター心理相談センターは、1990（平成2）年に心理学専修に併設された心理相談室を元に、臨床心理（平成13）年に開設された。現在では、2017（平成29）年の公認心理師法施行プレイルーム心理相談センター内の相談室に伴い、同法が大学院生のみならず学部生にも実習科目を定めているため、公認心理師の学内実習施設としても重要な役割を担っている。展望心理学においても、AIの活用は喫緊の課題と言える。AIを正しく利用することによって、多様な側面を持つ私たち人間をいっそう様々な視点から捉えることが期待される。さらに、コロナ禍を経てますます加速化したデジタルコミュニケーション技術の進歩により、社会におけるコミュニケーションのあり方も大きく変わってきている。心理学部は伝統的に、バランスのとれた人間観を養うことを目標に掲げてきたが、デジタル化された社会における人間の多様性理解を深める教育がますます必要であると考えている。建築学部建築学部建築学科沿革建築学部建築学科は、1964（昭和39）年4月、明星大学創設時の理工学部土木工学科を前身としている。当時、土木技術者の育成が社会の強い要請であり、土木工学科の卒業生は5,263人に上る。2005（平成17）年度、土木工学科の改組が行われ「建築学科」が開設された。これに伴い、意匠系専任教員の拡充が行われた。2010（平成22）年度には総合理工学科6学系のコース制に移行し「建築学系」となった。建築学科、建築学系の（令和3）年度までで833人となっている。2020（令和2）年度には学部の改組が行われ、文理融合を掲げた「建築学部建築学科」が開設された。教育方針・カリキュラム建築学部建築学科では、文系理系を超えた幅広い教養と、建築学に関する専門知識、実践的な技術を学び、時代や環境の変化に対応した安全、健康かつ快適な建築、住宅、都市空間を創出、提供できる人の育成を目的としている。建築学科の教育課程の特徴に、明星大学が開学当初より実践してきた「体験を重視した学び」がある。授業では実験・実習や体験活動の機会を多く設け、自発的な課題発見とそれを解決する力を培っている。UNIV.カリキュラムを「基礎科目」「専門基幹科目」「専門発展科目」に分け、体系的かつ体験的に、幅広い教養と専門知識・技術を学ぶことが可能である。また、すべての卒業生が一級建築士の受験資格を得られるよう科目構成している。「専門発展科目」では、学生の希望進路に応じた「3つの履修モデル」を設定している。建築物全般を対象に、デザインから歴史、都市、環境まで建築デザインを総合的に学ぶ「建築デザインモデル」、住宅建築を対象にインテリアや住宅構法、住環境などを中心に学ぶ「住宅デザインモデル」、大規模建築や都市を対象に、耐震構造や材料、防災など建物の安全性を探究する「建築都市エンジニアリングモデル」がある。各モデルにはプロジェクト型の「デザインスタジオ」科目があり、専門性の高い知識と発展的技術を学ぶことができる。また、インターンシップでは夏季2週間の実務体験を通して職場体験をすることが可能である。4年次の卒業研究・卒業設計では、学会の研究発表会や卒業設計展での発表をめざし、毎年多くの学生が挑戦している。主な受賞例として、日本建築学会大会シェル・空間構造部門優秀発表賞（2010（平成22）年）、団地再生卒業設計賞（2011（平成23）年）、日本建築学会関東支部若手優秀研究報告賞（2011（平成23）年）、大学コンソーシアム八王子学生発表会優秀賞（2012（平成24）年ほか多数）がある。2021（令和3）年度の就職状況では、57％が建設業に就職している。例年、大手総合建設業やハMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory403

## Page 203
![Page 203の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000203.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況404明星大学UNIV.建築学部ウスメーカーが主な就職先となっており、建築設計事務所、構造設計事務所、市役所へも就職している。その他、不動産業やサービス業への就職者もあり、明星大学大学院への進学者もいる。研究活動と施設・設備2022（令和4）年度現在で建築学科は次の16研究室で構成されている。建築意匠・建築設計／建築史・建築再生／建築・構造・環境／住宅デザイン・住環境デザイン／建築計画・住宅計画／都市環境計画／コミュニティデザイン／建築環境工学・建築設備／AR開発・建築生産／構造デザイン／コンクリート構造・耐震工学／鋼構造／地震工学／地盤工学／水防災工学／構造解析29号館15階には150台、30号館3階には144台の製図机を備えた設計製図室があり、大型プリンタはじめ、3Dプリンタやレーザーカッターもある。また30号館地階には300kN疲労試験機、大型の3次元振動台などが設置され、教育と研究活動で活用されている。特色ある授業（プログラム）1年次の造形デザイン実習から基礎設計製図、2年次の設計製図1・2、3年次の設計製図3まで、必修科目である建築設計製図はカリキュラムの根幹をなす科目である。1年次は造形の基礎力から建築図面の基本までを修得し、2年次では住宅などの小規模な建築物からスタートし、徐々に公共性が高く複雑な要件を踏まえた建築物の設計に取り組む。この一連の実習では、設計力の修得以外にも、社会における問題を発見し、建築を通してその解決策を提案するデザイン力やプレゼンテーション力の向上を目標にしている。卒業設計審査会での学生プレゼンテーション造形デザイン実習での授業風景建築デザインワークショップ実物大の建築をつくりたいという学生の要望を受け、2007（平成19）年度から始めた授業であり、発案から設計、施工まで学生主体に行うワークショップである。課題発見力や学習意欲の向上、学年を超えた協同作業によるコミュニケーション能力の育成を目的としている。作品は学内外のコンペなどで発表・展示し、2009（平成21）年度には日本建築学会「形態創生コンテスト」優秀作品に選ばれた。2022（令和4）年度からは、分野を広げ「デザインスタジオ」に引き継がれる。建築デザインワークショップでの作業風景施工実習2年次の「施工実習」では、鉄筋の組立てや足場の組立てなど、実物大の建築構造物の一部の施工を体験できる。学生にとって難解な施工図や詳細図から、施工に必要な情報を読み取るためには、AR技術を用いたウェアラブル端末を用いるなどICTを活用した教材を用いている。また、「材料実験」「構造実験」など、肌身で感じながら学ぶ実践的な学習ができる。展望（平成17）年度の開設後2022（令和4）年度で通算17年目となる。2020（令和2）年度に開設した「建築学部」は、総合大学として関東圏では初めてであった。文理融合の建築学を掲げ、文系の建築志願者も受け入れる体制と整えた。幅広いバックグラウンドを持つ学生に対し、体験的・実習的な教育研究を通じ、学生個々の資質を育てるきめ細やかな指導が求められる。さらに少子化が進む中で、本科の特徴を対外的にアピールする機会を増やすことも重要である。施工実習での足場の組立て実習施工実習での左官実習施工実習での配筋実習MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory405

## Page 204
![Page 204の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000204.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況406明星大学UNIV.データサイエンス学環データサイエンス学環データサイエンス学環沿革データサイエンス学環は、学苑創立100周年に合わせ、2023（令和5）年4月に開設され、時代の要請するデータサイエンスに精通し活用できる人材を輩出するための学位プログラムを提供している。ワンキャンパスに理工系・人社系・融合系の学部学科を有する総合大学であるという明星大学の強みと特色とを活かせるよう、学部等連係課程制度を活用し、情報学部、理工学部、経済学部の3学部の連係協力により、設置された。入学定員は30名であり、開設時点では連係学名の教員が参画している。学位名称は「学士（データサイエンス）」である。教育方針・カリキュラムデータサイエンス学環は、幅広い教養と数理科学・統計学・情報学を基盤とするデータサイエンスの専門知識を修め、さらに実践技術と実社会における活用方法を修得することにより、社会の多様な諸問題に対して、課題発見から課題解決に至る過程のデータを活用し、デジタル社会の基盤を支えるデータに精通し、大量のデータを正しく扱い、新たな価値を創りだせる人材を育成することを目標としている。様々な分野におけるデータサイエンスの応用UNIV.を理解するために連係協力学部開設科目を基本とする応用科目群を、基盤となる数理・データサイエンス・AIを基礎から学ぶ基幹科目群を、そして実践力を養成するための研究実践科目群を学科等科目として用意し、これらに全学共通科目を加え、カリキュラムが構成されている。これらの科目を体系的に学んでいけるよう、1年次には数学やプログラミングの基礎と概論科目を配置し、2年次以降の専門的な学びに備えられるようにしている。2年次と3年次には演習科目を各学期に置き、段階的にデータの扱いや分析手法について身に付けられるようにしている。また実際に近いデータや課題に取り組むた年次と3年次に置いている。このように、横串としての数理・データサイ教育と、縦串としての連係学部の専門分野教育とをミックスし、さらに実践的な演習・実習を各年次に配置することで、4年間を通じてデータサイエンティストとしての素養が身1期生とともに（学生と教員の懇親会）に付けられるようにカリキュラムが組まれている。特色ある授業（プログラム）連係協力学部のデータサイエンスと関連のある専門科目を履修できるのも学環の特色である。それらの多岐にわたる専門分野について横断的にかつ効果的に学べるよう、履修モデルを提示している。開設時に設定した履修モデルは、「AI・機械モデル」「地球・都市環境モデル」「ファモデル」「IT・情報サービスモデル」の4つである。「AI・機械モデル」はAIを用いた機械制御やロボティクス、ヒューマンインターフェース等の理工・情報系技術を広く学ぶモデルである。「地球・都市環境モデル」は地球環境問題への理解を深め、併せて都市形成過程における都市交通・環境問題について学ぶモデルである。「ファイナンス・FinTechモデル」は、各種事業や証券取引等の投資における意思決定過程でのデータサイエンス活用を学び、併せてFinTech等の新しいテクノロジーの可能性を考えるモデルである。「IT・情報サービスモデル」は自然言語処理や、情報系分野におけるデータサイエンスを活用する汎用的アプリケーションを学び、量子コンピュータやブロックチェーン等の新しい基盤における応用も考えるモデルである。もう一つの特色として、データの分析手法を単に使えるようになるだけでなく、理論的背景・基盤を理解できるよう、数学や統計学等の数理科目が揃えられていることも挙げられる。数学の基礎科目として、1年次に6科目が必修として置かれている。その基礎の上に、統計学関連では「回帰分析」「多変量解析」「統計の数理」「応用統計学」といった科目が開かれ、さらに「AI・機械学習」「解析学」「離散数学」といった科目が置かれている。応用事例の紹介このように、時代の求める複数分野への適応力や理解力を備えつつ、将来にわたって新技術・新手法を学び続け、その発展に寄与できる人材を産み出すプログラムとなっている。展望データサイエンス学環は、前身となる学科等がなく、また学位プログラムの実施組織として従来とは異なる形態を取っており、これからの高等教育の在り方を本学の目指すべき視点から考えるための挑戦的な試みでもある。そのためにも、データ駆動型社会、人間中心社会、Society5.0といった未来志向の社会実現に向けて、社会変革をもたらす新技術や新理論の創出はもとより、社会に隈なくデータサイエンス的思考や知見を広め理解と活用を促進する存在となれるよう、新時代を担う人材育成と研究発展を進めていかなければならない。データサイエンス学環は、まず情報学部、理工学部、経済学部の連係協力をより深化させることにより、またさらなる応用分野開拓や連係拡大を目指すことにより、各学部を環状につなぐ学環という名に込められた役割を果たしていきたい。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory407

## Page 205
![Page 205の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000205.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況408明星大学UNIV.通信教育部通信教育部―教育学部教育学科―通信教育部沿革通信教育部は、1967（昭和42）年4月、教育の機会均等と大学教育の門戸開放の理念を掲げ、人文学部心理・教育学科として創設された。当初の教育課程は、社会の進展に寄与する人間形成と、資質優秀な初等および幼児教育に携わる人材育成を目的としていた。翌年には、現職教育の重要性にかんがみ、卒業を目的とせず、小学校・幼稚園教育免許取得に必要な科目を履修できる聴講生の課程を置いた。その後、1984（昭和59）年に学校図書館司書教諭ならびに社会教育主事、翌年には図書館司書の各コースが開設された。1988（昭和63）年からは、主に心理学を学べるコースを設置し、1994（平成6）年に認定心理士の資格認定を受けた。2010（平成22）年の改組改編により教育学部教育学科となり、小学校教員コース・教科専門（国語・社会・数学・理科・音楽・美術・英語）コース・特別支援教員コース・子ども臨床コース・教育学コースという編成になった。教育方針・カリキュラム現在の通信教育部は、教育という分野の専門性を高め、様々なニーズに応えることのできる人材育成をめざしており、教員免許取得に有益なカリキュラムと指導を提供している。UNIV.小学校教員コースでは、創設時からの強みである小学校教育に特化したカリキュラムが提供される。教科の指導力および学級経営力の資質向上を意図した科目が多く配置されている。中学および高等学校の教科免許取得をめざす教科専門コースでは、各教科の専門知識の習得だけでなく、指導技術の向上も視野に入れている。特別支援教員コースは、障がいのある子どもの自立に向けた適切な指導と支援を体系的に学ぶ。子ども臨床コースは、子どもの発達と学びを基礎に子どもについてのスペシャリストを育成する。教育学コースは、教育学自体を深く学び、自己と社会のあり方を探る。もちろん、全コースとも学士（教育学）の学位が取得できるように構成されている。特色ある授業（プログラム）通信教育部の学生の多くが、教員免許取得を遠隔会議システムによるスクーリング授業教育実習前の個別面談めざしているため、教職に従事することを意識したプログラムを提供している。制度面では、教育委員会および複数大学との教育業務提携事業を進めている。学内の通学生向けとしては、教育学部以外の学生に対して、小学校教員免許取得が可能となるプログラムを提供している。通信教育の学び方の特色としては、レポート・対面型スクーリングの授業風景科目修了試験・スクーリング授業が基本となる。学生の目的達成のため、継続的に学習が維持できるように、通学課程と異なる工夫を展開している。入学時より、オンラインによる学び方のガイダンスや教育実習前後の面談など、学習者の学びの支援に力を入れている。学びの過程においても、ICTを活用し、自分が指導する立場になった場面を意識したプロセスが提供されている。展望少子化社会・高度情報化社会が進展する中、教職に対するイメージや要請も変化しつつある。今後は、新しい時代を背負う人材育成能力、実践的な指導力を有する教員が求められるという点を意識しながら、通信教育の事業を進める必要がある。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory409

## Page 206
![Page 206の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000206.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況410明星大学UNIV.全学共通教育委員会全学共通教育委員会全学共通教育委員会沿革1964（昭和39）年の開学以来、本学の一般教育は教育課程の中で重要な位置を占めてきた。2010（平成22）年度の大学改組改編により日野・青梅両校の一般教育委員会が統合され、全学共通教育委員会となると同時に、一般教育科目は全学共通科目として5つのコア科目群へと再編成された。2019（平成31/令和元）年度からは、さらに明星大学が拠って立つ「多摩」をも科目群に組み込んだ6つの科目群からなる新カリキュラムを展開されている。教育方針・カリキュラム「幅広い教養を身に付け、知性、感情、意志、及び心と体のバランスのとれた人格を育み、総合的な思考力と的確な判断力を土台として、自立し、世界の人々と共生できる自己教育能力を持つ人」の育成を学修目標に掲げる。その科目群は、①「明星大学と多摩」、②「情報の活用とコミュニケーション」、③「科学的思考科目群」、④「現代社会課題解決科目群」、⑤「人文知探究科目群」、⑥「心と体の健康」である。これに加えて、教員職員免許状、各種資格取得のために「全学共通教職・資格科目」が設置されている。（1）「明星大学と多摩」1年配当科目として「自立と体験1」、「自立と体UNIV.多摩を歩く（向島水車）験2」、「多摩と生活」、「多摩を歩く」、「多摩と自然」が設置されている。（2）「情報の活用とコミュニケーション」1年次配当科目として「情報の活用と倫理」、「コンピュータ基礎演習/応用演習」が設置されている。またコミュニケーションツール・スキルに関しては、「英語」、「ドイツ語」、「フランス語」、「中国語」、「韓国語」、「スペイン語」の1A/2A、1B/2B、「海外語学研修A」および留学生を対象に「日本語」1A/2A、1B/2Bが設置され、2年次配当科目としては、「英語」、「ドイツ語」、「フランス語」、「中国語」、「韓国語」、「スペイン語」の3A/4A、3B/4Bおよび「海外語学研修B」が、また留学生を対象に「日本語」3A/4A、3B/4Bが置かれている。さらに3年次配当科目として、「実践英語会話1/2」、「実用資格英語1/2」、「中級ドイツ語1/2」、「中級フランス語1/2」、「中級中国語1/2」、「中級韓国語1/2」、「中級スペイン語1/2」が配され、4年配当科目として、「上級ドイツ語1/2」、「上級フランス語1/2」、「上級中国語1/2」、「上級韓国語1/2」、「上級スペイン語1/2」が置かれて、世界とつながることのできる学生の育成が図られている。（3）「科学的思考科目群」1年次配当科目としては「自然哲学」、「地理学で知る自然と環境」、「都市と建築」、「論理学A/B」、「生命と自然の倫理A/B」、「統計学A/B」、「自然科学A/B」、「数学A/B」、「物理学A/B」、「化学A/B」、「地球惑星学A/B」、「生物学A/B」、「科学技術論A/B」が設置され、2年次配当科目として「科学コミュニケーション論」、「人類とその環境」、「技術・科学史」が置かれている。（4）「現代社会課題解決科目群」1年次配当科目としては、「21世紀の世界を考える」、「現代社会と平和」、「外国事情A（アジア）/B（欧米）」、「メディア論」、「図書館の基礎と展望」、「現代社会の仕組みA/B」、「社会科学論A/B」、「法学A/B（日本国憲法）」、「現代政治A/B」、「国際関係論A/B」、「グローバル時代の経営A/B」、「社会に生きる私たちの人権A/B」、「現代経済への視点A/B」、「情報社会文化論A/B」、「ジェ/B」、「生涯学習論A/B」、「日本事情A/B」、「ボランティア論」が設置されている。2年次配当科目としては、「情報法制論」、「グローバル時代の英語」を置いている。（5）「人文知探究科目群」1年次配当科目としては、「イスラームの歴史と文化」、「地理学で知る人間と社会」、「美術を読み解く」、「音楽といきる」、「舞台芸術を読み解く」、「世界のことばと文化を知る」、「哲学A/B」、「倫理学A/B」、「宗教学A/B」、「考古学A/B」、「日本史A（前近代）/B」、「東アジアの歴史と文化A/B」、「西洋の歴史と文化A（古代・中世）/B（近現代）」、「教育学A/B」、「民俗学A/B」、「文化人類学A/B」、「図像学A/B」、「美学A/B」、「日本の芸能A/B」、「言語学A/B」、「外国の文学A（アジア）/B（欧米）」、「日本の文学A/B」が置かれ、2年次配当科目としては「哲学から考える人間」、「哲学から考える世界」、「日本の歴史と文化A/B」、「表象文化論」、「人類の社会と文化」が設置されている。（6）「心と体の健康」1年次配当科目としては「健康・スポーツ科学論」、「健康・スポーツ実習A/B」、「心理学A/B」、「現代スポーツ論」が配され、2年次配当科目として「食と健康」が設置されている。特色ある授業本学苑の教育方針である「手塩にかける教育」「実践躬行の体験教育」を体現する授業として全学共通科目では、本学が位置する「多摩」を地理・歴史・自然といった角度からフィールドワークを中心に探求する「多摩を歩く」、コミュニケーションツールとしての言語とそれを支える文化への視野を開く「世界のことばと文化を知る」、まさに学生がそこで生きており、また生きていかねばならない現代社会の諸問題を様々な角度から考えていく「21世紀の世界を考える」「人類とその環境」、夏期・冬期休暇中に合宿形式で行うスクーバダイビング、アウトドアアクティビティ、スキー・スノーボードなどの「健康・スポーツ実習」を設置している。アウトドアMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory411

## Page 207
![Page 207の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000207.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況412明星大学UNIV.全学共通教育委員会／明星大学学友会展望2023（令和5）年度より、「学び続ける力と協働する知性」を兼備した人間を育成するという明星大学教育新構想の方針を踏まえ、全学共通科目は「現代社会での自分の生き方を考える」新たなカリキュラムへと移行する。このカリキュラムでは一つのテーマを複数の切り口（専門分野）から読み解く、いわば専門をクロスさせる「クロッシング」科目を数多く新設し、幅広い教養を身につけつつ、現今の新型コロナウイルス感染症の蔓延のような不測の事態に直面しても、その事態を他者と協働しながら乗り越えていくことができる学生の育成が図られることになる。※なお、全学共通教育委員会についての詳細と本委員会が展開する全学共通科目については本委員会オリジナルサイト「つなぐ学び」（https：//zengaku.meisei-u.ac.jp/tsunagu/）を是非ご覧頂きたい。全学共通教育委員会「つなぐ学び」特色あるプログラム（「21世紀の世界を考える」（輪講））明星大学学友会明星大学学友会沿革明星大学学友会は、1966（昭和41）年の正式な発足以来、学生の課外活動の運営を支えている。1964（昭和39）年の大学の創設時は学生の自主的なサークル活動の集いであり、体育団体12、文化団体11の23団体が結成された。発足当時は十分な施設・設備も整わない中での活動ではあったものの、志しを高く持った学生と教職員が一丸となり基盤づくりを行った。クラブハウス棟Ponte（ポンテ）UNIV.学友会は、2020（令和2）年から始まった新型コロナウイルス拡大による行動制限を受けながらも存続し、2023（令和5）年には委員会6団体、団体数109団体まで大きく成長。2024（令和6）年では、委員会5団体、部活等の団体数71団体が活動している。施設は、クラブハウス棟である「Ponte」が2010（平成22）年に竣工し、学友会活動の拠点となっている。この他にも2013（平成25）年には硬式野球部学生寮が整備され、学友会活動の環境整備が推進されている。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory413

## Page 208
![Page 208の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000208.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

金賞を受賞するなど、日々切磋琢磨し、好成績を収めている。その他、硬式野球部と男子籠球部からはプロの選手が誕生しており、近年目まぐるしく成長を遂げている。特色学生たちは正課学習および課外学習活動の中で様々な経験を重ね、人間形成をしている。大学生活は、この正課学習と課外活動の両輪がバランス良く連動することによって、学生たちがより多くの学びを得て成長していき、学生生活という時間を豊かなものにしていくことができる。課外活動は、正課学習では得られない経験や学年・学部・学科を超えた繋がりを持つことができ、豊かな人間性が育まれ、社会で活躍できることを期待される人材の育成の場となる。現況委員会、体育会・文化会などで組織される学友会は、現在、下記の組織体系で運営されている。組織は、執行委員会、体育会本部、文化会本部、星友祭実行委員会、吹奏楽団からなる委員会の下に、部、同好会、愛好会の各団体が置かれている。2023（令和5）年現在の学友会団体は、下記の一覧のような組織体系で運営されている。2023（令和5）年一部の団体の活躍としては、女子送球（ハンドボール）部が関東学生ハンドボール連盟秋季リーグ2部Bグループにおいて優勝という成績を残し、男子籠球部（バスケットボール）が全日本大学バスケットボール選手権大会出場という快挙を成し遂げた。また、吹奏楽団は、「東京都吹奏楽コンクール」や「令和5年度第49回東京都大学アンサンブルコンテスト」にて明星大学学友会組織学友会会長（学長）統括副会長（学生生活担当副学長）【顧問会】会計者会議（分科会）執行委員会特別会員︵教職員︶愛同好会部部同好会同好会団体に所属していない正会員︵学生︶体育会本部文化会本部団体に所属する正会員（学生）星友祭実行委員会吹奏楽団副会長（合役会議議長）【合同役員会議】➀体育会（会長・副会長）➁文化会（理事長・副理事長）➂星友祭実行委員会（委員長・副委員長）➃吹奏楽団（団長・副団長）➄執行委員会（委員長・副委員長）414第2部設置校の現況PART2展望課外活動は、学生たちが自主的・自立的・主体的に活動する場であり、自由な発想を表現する場でもある。このような活動が活発になることは、大学全体が活発化し、学生たちが生き生きとした学生生活を送ることができるようになることであり、大学教育の中での大きな役割を果たしている。学友会は、学生自身が課外活動を推進していくための組織であり、学生サポートセンターをはじめとする大学の積極的な支援を得ながらも学生の自主的な活動として取り組んでいるが、こうした支援を受けながらも学生自身が主体性を持ち、更なる成長を遂げ、活躍していくことが期待される。男子ラクロス部女子排球部男子排球部女子バスケットボール部男子バスケットボール部水泳部卓球部男子送球部軟式庭球部軟式野球部陸上競技部部活・同好会（文化会団体）パフォーマンスサークルTRYCLUBいけばなさつき会授業研究会「おはよう」の会アカペラサークルカラフルギター・マンドリン部フォークソング部へき地教育研究部囲碁部劇団時間ドロボウ教育研究部軽音学部混声合唱部写真部茶道部鉄道研究部学友会団体一覧委員会執行委員会吹奏楽団星友祭実行委員会体育会文化会部活・同好会（体育会団体）バドミントンサークルMAJESICチアリーディング同好会Miracle☆Starsアイススケート部アメリカンフットボール部アルティメットフリスビー同好会“SPARKS”インパクトテニス同好会ゴルフ部ダブルダッチ同好会ShaikynKey!!ダンス部DASH！器械体操部弓道部洋弓班弓道部和弓班剣道部空手道硬式庭球部硬式野球部自動車部蹴球部柔道部女子ラクロス部天文同好会「すばる」天文部電気部美術部文学研究部防犯ボランティア隊「MCAT」漫画研究部愛好会・サークル音楽ボランティアサークルFreedommusic音楽サークルFretless福祉実践学科ボランティアサークルmerciMUSICMANボランティアサークルSEASONボランティアおもいやりサークルSMILYソサイチサークルVALIENTEアウトドア愛好会テーブルゲーム研究会明星TCG（トレーディングカードゲーム）サークルMPG（メイセイシティポケモンジム）献血ボランティアサークルドナーズハートICC（InternationalCommunicationClub）初等教育研究会どろんこの会中国文化愛好会日本拳法愛好会経済学部公認サークルEADS和太鼓集団鼓蝶415MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory明星大学UNIV.明星大学学友会

## Page 209
![Page 209の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000209.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

GS明星大学大学院

## Page 210
![Page 210の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000210.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況418明星大学大学院GS大学院大学院GS「基礎物理学分野」「宇宙物理学分野」「物性物理理工学研究科物理学専攻学分野」を設けている。各分野には最先端の研究沿革に携わる教員が所属し、指導にあたっている。博士前期課程には物理学系卒業生が年に数名物理学専攻は、1979（昭和54）年に修士（現：博進学している。修士論文中間報告会を毎年開催士前期）課程を、1981（昭和56）年に博士（現：博し、分野横断的に研究の進捗や課題について情士後期）課程を開設した。自然に対する理解を深報共有し、修士論文の完成度を高めている。研めることを通して、自ら専門性を深めていく力、究成果を学会で発表するなど、院生の対外的な複雑な情報を整理・考察し、科学を人にわかり研究活動をサポートしている。修了後は、研究やすく伝える力を有し、人との相互理解を深め、職、教職、IT関連会社など広い分野で活躍して学術分野のみならず社会活動においてもリーいる。一方で近年は博士後期課程に進学する院ダーシップを発揮できる実践的な能力を有する生が大変少ない現状である。専門職業人を養成することを目的としている。特色ある研究教育方針・カリキュラム研究施設・設備は充実しており、明星大学天物理学専攻では、人材養成の目的を達成し、現文台や連携研究センターが設置されている。在の物理学の幅広い研究領域に対応するため、2007（平成19）年に新設した天文台では、太陽系ドラフトフード内での基板洗浄（クリーンルーム内）内天体や変光星、星雲や星団などの天体観測が行われ、学部授業のみならず大学院の研究にも大いに活用される。連携研究センターには極低温物性測定装置、電子顕微鏡（TEM、SEM）、NMR、各種X線構造解析装置があり、関連分野の高度研究の推進に寄与している。展望物理学専攻では、大学院生と教員、また大学院生同士のより良いコミュニケーションによって、優れた専門家、研究者を育成する環境を整えてきた。これに相応な大学院学生数を確保する努力の継続が必要である。方策として、学部から大学院進学者の割合の増加に努めている。物理学が役立つ分野は自然科学にとどまらない。実験による実証科学、論理的推論による論証科学という物理学の手法は、社会科学など広い分野に適用可能である。物理学の学修を通じて、社会に貢献する人材を継続的に輩出することが、物理学専攻の使命と考えている。理工学研究科化学専攻沿革化学専攻は、理工学部化学科開設の9年後であ（昭和48）年に修士（現：博士前期）課程を開設、3年後の1976（昭和51）年には博士（現：博士後期）課程を開設した。1975（昭和50）年に3名が修士の学位を、1992（平成4）年に1名が博士の学位を取得したことにはじまり、数多くの技術者・研究者を輩出している。現況学部レベルの幅広い知識と先端研究で必要とされる深い知識とを繋いでいく教育を心がけており、基礎知識が実際の研究開発においてどの安全キャビネットを用いた無菌操作ように具現化されているのかをしっかりと認識しながら、応用へと結実することのできる人材の育成を目標としている。この目標のもと、多少の増減はあるが毎年博士前期課程への進学者がおり、化学の知識を持つ技術者を育て社会へと送り出している。近年の医薬、食品、環境など様々な分野で生化学やバイオテクノロジーの知識・技術が必要とされている状況に対応すべく、生命科学分野の拡充を図っている。特色ある研究旧来よりの化学の代表分野である有機化学、無機化学、分析化学、物理化学をしっかりと押さえつつ、新たに重要性を増しつつある「化学と生命科学の中間領域」の研究を専門とする教員が多く在籍している。例えば環境負荷の少ない化学工業を実現し得る「生体分子を触媒とした有機合成反応」や、医薬品の開発で重要となる「生体分子と薬剤分子との相互作用の解明」といった研究に取り組んでいる。研究設備に関しても、排気を滅菌し外部への汚染を防ぎながら遺伝子組み換え実験を行える安全キャビネット、生体分子の迅速な分離を可能とするタンパク質自動精製装置などを導入し、研究・教育に役立てている。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory419

## Page 211
![Page 211の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000211.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況420明星大学大学院GS大学院展望化学の関係する分野はますます広がり、それとともに本専攻の修了生に必要とされる知識も広がり続けている。個々の知識を伝えることももちろん大事ではあるが、それ以上に、原理・原則をしっかりと身につけさまざまな場面で応用する能力や、自ら情報を探し出し理解する能力がますます重要性を増している。化学専攻では日々の実験と研究活動を通し、基礎をおろそかにせず、向上心を持ち、データの信頼度に常に気を配れるような人材の育成に取り組みつづけていきたい。また、大学院、特に博士後期課程への進学者の確保は喫緊の課題である。しっかりとした就職支援を通して院生に明確な出口を提示し、大学院への進学をより魅力的なものとしていくことが我々教員の責務である。理工学研究科機械工学専攻沿革機械工学専攻修士（現：博士前期）課程は1980（昭和55）年に開設し、1982（昭和57）年には博士（現：博士後期）課程を増設し、多くの学位取得者を輩出してきた。また、国内共同研究、委託引張・圧縮試験機研究、科学研究費研究、国内・国際学会での研究発表、原著論文なども数多くあり、院生と教員が協力し、成果を得ている。現況現在、8研究室に分かれて教育研究活動が推進されている。研究分野は、航空宇宙構造体への先進複合材料、強度や衝撃に対して最適な構造体およびニーズに対応した新しい工法、コンピュータを駆使したものづくり技術、レスキューロボットと自律移動ロボット、鉄道車両の安全な走行を支える技術、クリーンで高効率な燃焼技術、人間工学と福祉システム、流体工学である。教育および研究のための設備は、3Dスキャナー、3Dプリンター、マシニングセンター、コンピュータ数値制御（CNC）ワイヤ放電加工機、引張・圧縮試験機、鉄道模型実験装置、レーザー着火内燃機関、流れの可視化装置など、多くの製作機械、試験装置および実験装置がある。特色機械工学は、自動車、鉄道、航空宇宙、ロボット、そして各種産業機械など、我々の生活を支える重要な専門分野である。本専攻では、変革の激しい時代が求める新しいテクノロジーを、CNC工作機械鉄道模型実験装置経験豊富な教員とともに研究開発していくことで、高度な専門知識と技術力を身につけた人材を育成・輩出している。本専攻の教育および研究では、4つの力学（機械力学、材料力学、熱力学、流体力学）の各分野において、実験装置、計測装置の作製や、または、実験的検証を重視し、理論的裏づけも行い、産学連携なども積極的に取り入れ、社会との関連性を重視した研究教育を目指している。展望今後は博士前期課程入学者に加え、博士後期課程入学者も増やしていきたい。2課程での大学院授業をデイプロマポリシーに沿ったものに厳格化し、無駄なく一貰した授業と先端的な研究とのバランスにより、本機械工学専攻の発展を遂げてゆきたい。理工学研究科電気工学専攻沿革電気工学専攻は、開学16年目の1979（昭和54）年4月、理工学研究科に修士課程（現：博士前期）が設置され、11名の専任教員と2名の入学者で始まり、それから45年を経過している。1981（昭和56）年4月には博士（現：博士後期）課程が年次進行型単位制で設置された。2023（令和5）年までに、修士課程（博士前期課程を含む）の136名が修士号を取得し、9名が博士号を取得している。この間、専任教員51名、客員・特任・常勤教員3名が教育と論文指導にあたってきた。専攻が具備する実験設備も電気工学に求められる社会の要請に従い整備されてきた。単独の建屋に設置された高電圧実験棟や半導体製造に活用されたクリーンルームは役を終えたが、電気自動車の走行試験に使われたシャーシダイナ号館の地下に設置されている。現況航空宇宙、半導体、磁性体、超電導、人工知能（AI）、感性工学、センサー、電気自動車（EX）、カーボンニュートラル、再エネ等、電気工学分野に係る学際分野は多岐にわたり、社会から常に注目を集めている。実践力のある学生は学部を卒業してすぐに社会に巣立つことが多く、博士課程前期課程の入学者数は伸び悩んでいるが、より高度な学業を続けようと進学する学生には丁寧な教育を心掛けている。カリキュラムは初年度に共通基礎科目を充実させる他、各教員がそれぞれの専門分野の先端動向を紹介する電気工学総論の講義を設けてジェネラルエンジニアリングの素養を養っている。修了生の就職先は電機メーカー、プラントメーカー、システムエンジニアリングなど多岐にわたり、学生は自由度の高い選択をして進路を決めている。特色本学の電気工学専攻では教員一人当たりの学生数が少ないので、学生と教員の距離が近く、研究活動においては早くから共同研究者として研究に参画することができる。成果は国内外の論MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory421

## Page 212
![Page 212の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000212.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況422明星大学大学院GS大学院海外での学術発表文発表にまとめることが多く、多くの経験が積める。一方研究指導には複数の教員が当たることで徒弟制度的な弊害が生まれないよう配慮している。教員には実務経験者や海外大学での教育経験者が多く、他大学・他研究機関と連携を図って学生を指導する体制を保持している。展望大学院の授業はディプロマポリシーをはじめとする3ポリシーを定期的に見直し日々改善を図る一方、本学苑の基本理念でもある「手塩にかける」教育を実践し続けたい。さらには地域の大学院として社会人学生や留学生の受け入れ拡大にも取り組み社会的要請に応えたい。理工学研究科建築・建設工学専攻沿革建築・建設工学専攻の前身は、土木工学専攻であり、1972（昭和47）年、理工学研究科の中でも他専攻に先駆けて修士課程（後：博士前期課程）を開設した。2008（平成20）年、学部改組の年次進行に伴い、土木工学専攻を改組し、新たに建築・建設工学専攻を設置した。よりよい住環境の創造、都市や社会基盤の構築、そして防災といった時代が求める幅広い設計、研究の場を提供できる体制とした。現況博士前期課程では、建築デザイン分野、構造工学・材料工学分野、建築設備分野、建設工学分野に重点を置く履修モデルを用意している。博士後期課程では、構造工学、材料工学、防災工学の領域を設けている。当初は最短年数の実務経験で一級建築士を受験できる教育課程（科目）を開設していたが、現在は建築士受験要件の変更に伴い、博士前期課程に在学中に一級建築士試験を受験することができるようになったため、在学中に挑戦する学生もいる。設計・研究のため研究室ごとにゼミ室があり、大学院生は充実した環境で設計・研究を進めることができる。その他の施設・設備には、構造修士学生合同ゼミ（弘前にて）JIA日本建築家協会にて修士作品展で発表した福島勇希さん実験室、振動実験室、地盤工学実験室、コンクリート工学実験室、建築設備実験室などがあり、実験、研究に必要不可欠な設備が整っている。特色博士前期課程の修了要件には、修士設計と修士論文のどちらかを選択でき、建築学及び建設工学領域での大学院教育を幅広く行えるように工夫している。大学院生の設計作品、研究成果は、設計競技への応募や学会発表の場において公表している。また日本建築家協会修士設計展にも発表する機会も得ている。主な就職先は、総合建設業、建築設計事務所、官公庁などであり、各方面で活躍している。建築学研究科の設置2020（令和2）年に総合理工学科建築学系は建築学部建築学科に改組した。そのことを受けて、2025（令和7）年には建築・建設工学専攻から建築学専攻への改組を予定している。建築教育は世年から7年の教育が必要とされている。このことも考慮して、今回の改組では学部から連続した教育を考えた修士課程を設置することとした。また建築学部が文理融合型であることも考慮して、多様な建築教育に見合う教研究室が設置される。学部で用意したモデルである建築デザイン系、住宅デザイン系、建築・都市エンジニアリング系に繋がる開講授業も用意する。学生はこの多様な講義の中から選択することができる。これからの社会では建築が必要とされる場面が増えてくる。その局面に向き合える人材育成が期待される。理工学研究科環境システム学専攻沿革環境システム学科（現：環境科学系）の開設と（平成20）年度に環境システム学専攻（博士前期課程・後期課程）を開設、環境分野に特化した教育・研究を開始した。2021（令和3）年度までに、前期課程68名、後期課程に3名が入学し、65名の修士、1名の博士の学位取得者を輩出した。現況環境情報系、環境技術系から成る環境システム学を、前期課程はコースワーク、後期課程は研究に重点を置いて教育研究している。院生は自己の研究テーマに拘らず講義・演習科目を横断的に履修し、並行して、都市環境計画、環境評価、気象・熱環境、大気環境、水環境・バイオエネルギー、資源・廃棄物、生態工学、環境分析化学、エコマテリアルをメインテーマに掲げた各研究室で研究活動が進められている。教育・研究の施設・設備として環境情報系の各研究室にはビッグデータの計算・解析に用いるワークステーションやPCが設置され多様なソフトウエアが利用できる。環境技術系研究室には研究テーマに直結した機器・装置類が設置されている。加えて教育・研究を支援する共通室、演習室、機器分析室（ICP/AES、GC/MS、LC/MS・MS等）がある。院生は、研究活動で得られた成果を学会等で発表する。特色教育・研究を通して、高度専門技術・研究力を有する人材を育成し、地域から地球レベルまでの環境問題の解決に寄与することを理念・目標としている。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory423

## Page 213
![Page 213の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000213.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況424明星大学大学院GS大学院博士前期課程は環境分野における高度専門技術者、博士後期課程では高度専門研究者の育成に重点を置き、自国に止まらずアジアや世界で活躍する意欲を養成する。環境問題を理解し解決に導くには、自然科学的視点と社会科学的視点からのアプローチが必要であり、環境情報系と環境技術系の2つの専門分野が横断的に履修できるカリキュラムとなっている。留学生や企業・官公庁で実務経験のある社会人を積極的に受け入れている。国内外の大学等との合同研修や官公庁、企業等でのインターンシップ研修の機会も設けている。タイ・チェンライでの水産環境調査GC/MSによる有害成分分析展望環境技術者・研究者として社会に巣立った修了生は多い。今後、刻々と変わる地域・地球環境の保全と改善に対応できる社会人の輩出のために、社会ニーズに合ったカリキュラムへと更新していく。人文学研究科国際コミュニケーション専攻社会学専攻沿革大学院人文学研究科は、国際コミュニケーション専攻と社会学専攻から構成され、いずれも博士前期課程と博士後期課程を設けている。国際コミュニケーション専攻の前身である英米文学専攻は、1983（昭和58）年に修士（現：博士前期）課程、1988（昭和63）年に博士（現：博士後期）課程が設置された。2020（令和2）年に国際社会でリーダーシップを発揮する高度な専門性を有する職業人及び研究者の育成を目的として、国際コミュニケーション専攻として改組改編された。社会学専攻は、1971（昭和46）年に修士（現：博士前期）課程、1974（昭和49）年に博士（現：博士後期）課程が設置された。教育方針・カリキュラム国際コミュニケーション専攻では、コミュニケーション研究領域、言語学研究領域、文化研究領域、国際社会研究領域という4つの分野を横断的に学べるようにカリキュラムを編成している。教員志望者は、国際コミュニケーション専攻で中学・高等学校の専修免許（英語）を取得できる。社会学専攻の指導方針は、社会そのものと人間の生活の理解を深めることであり、そして研中国青島での研究発表究方法として社会学・社会福祉学を活用できるようにすること、さらに自らの研究対象を理論的・実証的に研究することとしている。カリキュラムは「社会学コース」「社会福祉学コース」の2コースに従って構成されている。また、専門社会調査士資格が取得可能となっている。展望近年、両専攻とも、中国をはじめとする外国人留学生が占める割合が多く、その点では、学部以上に国際化が進んでいる。経済学研究科応用経済学専攻沿革（平成13）年に開設されたが、学部開設当初から経済系大学院の設置を視野に入れていた。設置に向けて始動したのは2004（平成16）年6月であるが、2006（平成18）年1月31日に文部科学省による大学院設置認可が下り、同年4月に大学院経済学研究科応用経済学専攻の開設に至った。本研究科は、2022（令和4）年3月までに60名を超える多数の優秀な人材を輩出しているが、うち黒竜江大学、ハルピン師範大学、東北財経大学などの海外学術交流提携校出身者を中心とする留学生は20名を超える。近年は会計税務業界を目指す職業人養成に注力している。教育方針・カリキュラム経済学研究科の入学定員は10名であり、2022（令和4）年4月現在の教員は、専任教授7名、常勤教授1名、客員教授2名、准教授6名、兼任講師3名である。教育目的は、複雑化する経済社会の諸現象を論理的に分析する能力を伸ばし、高度な専門的社会人を養成することにある。そこで教育カリキュラムでは、経済専門コース、企業マネジメントコース、会計・税務コースという3つのコースを履修モデルとしている。本研究科においては「選択必須科目」による経済学の基礎的知識と分析手法を修得した上、「商学・流通」「地域・国際」「租税」「会計」「金融」「政策」等の「選択科目」において、修士論文執筆に必要な各応用分野の専門的知識と実証研究手法が修得できるプログラムとなっている。修士論文指導では、主査および副査2名の計3名による充実した指導が行われており、特定課題に関する調査・研究をまとめる特定課題研究の選択肢も設けられている。特色ある授業（プログラム）経済学研究科の教育の特色は、経済学を中心としつつ、経営学・商学・税務会計関連科目を融合し、実務と理論を融合させた教育を提供する点にある。こうした教育の提供によって、税理士試験一部科目免除につながる課程を修めることも可能となっている。税務のスペシャリストを目指す学生は、「租税法」に加えて、所得税法・消費税法等の各種個別税法を学ぶことができる。これらの科目は、本研究科における学修と税理士試験の受験勉強との両立に資するものであり、また実務家教員による教授であることMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory425

## Page 214
![Page 214の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000214.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況426明星大学大学院GS大学院から、本研究修了後にも役立つことが期待されている。さらに、税理士法人による租税実務特別講座（寄附講座）も提供されており、職業人としての自覚を深める機会となっている。事例研究などを通じて実践的知識を身につけられるよう配意している。展望今後の課題として、他大学からの進学者および社会人入学者の増加のみならず、現在停止状態にある留学生の受け入れのほか、近年の学内進学者の増加を一層推進するため、本研究科の充実した会計・税務コースのプログラムの周知理解をはかり、税理士資格取得プロセスにおける大学院での学びのメリットをアピールしていくことが肝要である。また、税理士資格取得者を中心に結成された職域同窓会（明星大学税務会計人会）との連携も充実していきたい。また、会計・税務コースのみならず、応用経済学分野やその他の資格の取得を目指す学生にとっても魅力ある履修プログラムを設置するともに、多摩地区の企業への大学院修了者の雇用確保に向けた努力なども挙げられよう。2017年度公開講座・ワークショップ「NakedEar」情報学研究科情報学専攻沿革情報学研究科情報学専攻の修士（現：博士前期）課程を設置するための準備は、情報学部の開設時から進められ、1997（平成9）年12月19日に設置認可申請が受理され、認可された。引き続いて翌1998（平成10）年度開設の情報学研究科修（平成12）年4月から博士（現：博士後期）課程開設の準備を進め、予定通り博士課程が開設にされるに至った。その後、情報学部の改組に伴って2005（平成17）年に日野キャンパスへ移転し、2011（平成23）年度より情報学研究科は、情報化社会の急速な発展に応えられる情報技術（InformationTechnology）に関する教育・研究中心の情報学専攻としてスタートした。教育方針・カリキュラム情報学研究科は、急速に進展するグローバルな高度情報社会を支える情報技術分野において、より先進的な専門知識と技術を身に付け、それらを活用して、新しい時代の技術課題を実践2019年公開講座・ワークショップ「JAM2019」ワークショップ的に解決できる応用能力を持った人材を育成するための教育課程を編成する。2022（令和4）年現在、情報学を専門とする専任教員17名による教員構成となっている。情報技術が急速に発展し、高度な知識と高い技術力が必要とされる時代には、専門領域の深い理解が求められているとともに、幅広い分野を横断した学際的見地も重要になっている。情報学研究科は、このような時代の要請にこたえるべく、コンピュータ・アーキテクチャなどのハードウェア、インターネットオブシングス（IoT）・モバイルインターネットやインターネット上の分散処理というネットワーク関連の知識、さらにはさまざまなソフトウェア分野の学問を研究することができる分野構成となっている。また、音楽やメディア表現などの情報技術を活用し具現化する表現・芸術分野などの複合領域も網羅している。特色ある授業・カリキュラムコンピュータ・アーキテクチャ、プログラミング言語、情報システム設計といったコンピュータ科学の基礎的な領域から、コンピュータ・グラフィックスによるイメージ情報、物理現象や運動のモデル化と解析をシミュレーションする数物情報、符号や暗号、人間の知能を明らかにする大規模な言語データの解析による計算言語学などの幅広い分野の科目を設置する。さらには、離散数学から情報音楽、ヒューマンコンピュータインタラクション、情報デザインなど表象設計に至るまで、多岐にわたる専門分野を選択し学ぶことができる。展望情報学の特性上、社会インフラストラクチャとしての重要性が増していることも踏まえ、社会と世界に開かれた情報学研究科を目指す。2016（平成28）年から大学の公開講座予算を活用し、学内外・国内外の講師を招聘し、公開講座を実施している。このような学外に開いた活動を通し、今後一層本研究科在院生を社会・世界と繋ぎ、学外・世界で活躍できる人財の育成を推進する。教育学研究科教育学専攻沿革1972（昭和47）年に設置された「人文学研究科（平成26）年に開設した。博士前期課程の目的は、教育・保育実践者、研究者として教育思想・教育史、教育課程・方法、教育行財政、教育心理、臨床教育、生涯学習、幼児教育、障がい児者教育及び教科教育などを多角的かつ学際的に理解し、批判的省察をしながら、実践できる人材の養成である。博士後期課程の目的は、前期課程での研究成果の上に、教育学の特定の研究領域に特化した研究、それを基礎に専門分野において指導的立場で活躍し、教育学の発展に貢献できる人材の養成である。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory427

## Page 215
![Page 215の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000215.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況428明星大学大学院GS大学院教育方針・カリキュラム知識基盤社会及び生涯学習社会を支え、教育の理論と実践から高度な研究を行う教員の養成と、職業生活の全体を通じて学び続けられる教育・保育分野の知見豊かな教育実践者および自立した研究者としての人材養成を方針としている。以上の方針から学部教育より高度な教育・研究を行い、研究者・教育者・保育者など高度な専門職業人の養成を行うことのできるカリキュラム編成となっている。博士前期課程のコースワーク（22単位）として、専攻科目に「教育学文献研究」「教育学調査研究」「幼児教育学研究」「障害児者教育学研究」「教科教育学研究」の5つの区分を設け、それぞれの区分の中に講義科目を開設している。リサーチワーク（8単位）として、論文指導科目である演習科目（ゼミ）を設置し、研究指導ならびに修士論文作成を行う。学生は、所属するゼミの研究領域の演習に専念するだけではなく、コースワークとして開設している5つの専攻科目群から、多様な講義科目を幅広く履修することで、教育事象に対する視野を広げて研究を行う。博士後期課程のコースワーク（8単位）として、専攻科目に博士前期課程と同じ5つの領域について講義科目を開設している。リサーチワーク（12単位）として論文指導科目の演習科目（ゼミ）を設置し、研究指導ならびに博士論文の作成を行う。博士後期課程では、博士前期課程における幅広い研究成果の上に、教育学の特定研究領域に特化したリサーチワークを中心としたコースワークの学修によって、より高いレベルで教育学を広く深く把握し、高度な専門性を持って研究することができる。展望障がい児者教育及び教科教育分野の充実を図り、また他の専門分野の知見や方法論を取り入れて学際的、総合的、実践的にアプローチするとともに、教育・保育の理論と実践との両面において密度の高い教育と研究を目指している。心理学研究科心理学専攻沿革1971（昭和46）年に大学院に人文学研究科が開設され、1974（昭和49）年には心理学専攻修士（現：博士前期）課程が開設され、さらに、1978（昭和53）年には博士（現：博士後期）課程が開設され、心理学の高度専門職から教育・研究者の養成までを担う一貫教育体制が完成した。さらに、人文学研究科心理学専攻を改組し、2020（令和2）年4月に心理学研究科心理学専攻を開設し、入学定員も10名から15名に増枠し、大学院教育が専門的教育研究活動の活性化を目指している。特色のある教育研究活動心理学研究科心理学専攻では、一般心理学コースと臨床心理学コースとを備えている。当専攻の特徴は、学部担当教員の全員が大学院の担当資格を有しているため、学部・大学院の一貫教育が可能という点である。公認心理師・臨床心理士の実習は、学内に設置されている「心理相談センター」の他に、学外では、日野市教育委員会の協力を得て行っているスクールカウンセラー・インターン制度」、東京都立七生特別支援学校の他、医療分野では、横浜市立大学附属市民総合医療センター、北里大学精神科、国立精神・神経研究センター他、福祉分野では、東京都立多摩総合精神保健福祉センター、社会福祉法人のSHIP、青い鳥他、産業・組織分野では、SBAtwork、東京海上日動メディカルサービス他、司法・犯罪分野では、東日本大学院臨床実習（医療分野）少年矯正医療・教育センター、多摩少年院他、多くの関連機関から協力を得て行っている。またユニークな特徴として、入学選抜試験では、学内の成績優秀を対象とした推薦入学制度に加えて、他大学からの受験者向けの推薦入学制度を設けていることを挙げることができる。博士後期課程では、基礎系のみならず、臨床系の教育・研究者を養成し、国立・私立大学の教員や学位を有する高度な研究のできる臨床心理技術者を輩出している。公認心理師国家試験支援当心理学専攻の特色の一つとして、公認心理師国家試験の支援として行っている受験対策講座をあげることができる。これは現役のみならず修了生にも受講の窓口が開かれており、大学院修了後も手厚く支援している。心理相談センター研究員制度心理相談センターは、元々、公認心理師・臨床心理士養成のための実習機関として設置されたが、博士前期修了者や博士後期課程の大学院生が、臨床研究活動を行う場として活用できるように、研究員制度を設けている。また、この制度により、研究員は、自身の臨床技術研鑽のために、臨床経験豊かな特任教員の指導の下で、臨床活動を行うこともできる。当専攻では、このようにして、卒業教育にも十分に注力している。展望2020（令和2）年の心理学研究科開設により入名に増枠したが、特に公認心理師を目指す学内推薦希望者が毎年増加している傾向にある。一方で、学部も同様ではあるが、学外実習枠の確保や巡回指導の手配も課題となっている。従来、実習協力機関の確保や巡回指導は、実習担当教員の個人的な負担に負っているところが大きかった。さらに、厚労省・文科省の通知により実習指導教員は指導者講習会受講（34時間）も義務づけられるようになるので、一層負担が大きくなることが明らかである。したがって、学生や社会的ニーズに応えるためにも、臨床心理実習支援体制の強化は喫緊の課題である。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory429

## Page 216
![Page 216の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000216.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況430明星大学大学院GS大学院通信制大学院沿革通信制大学院は、1999（平成11）年に、人文学研究科教育学専攻修士課程として設置された。この設置は、我が国初の設置であり、定員30名名を超えており、大きな反響があった。2006（平成18）年には、博士後期課程を開設し、修士課程から継続的に研究が展開できるようになった。また、これを機に、従来の修士課程を博士前期課程とした。その後、2014（平成26）年、通学課程の大学院教育学研究科設置（人文学研究科教育学専攻から改組）に伴い、通信制大学院も人文学研究科から教育学研究科へと名称の変更を行い、現在に至っている。なお、通信制大学院の入学者は、現職の教員・教育や福祉の関係者・医療系大学の教職員等が多い。仕事に就きながら学びと研究を続けてるい者がほとんどである。教育方針・カリキュラム博士前期課程および博士後期課程とも、主に「子どもの教育と成長」に携わる社会人を対象として、専門知識や技術の修得、研究能力の向上の支援を教育方針としている。その際、近年特に発展が望まれている分野に力を入れている。具体的には、①授業研究領域（学校教育などで展大学院スクーリング授業（幼児教育研究領域）開される授業等についての研究）・②幼児教育研究領域（家庭、子どもを取り巻く社会環境、保育方法などについての研究）・③障害児者教育研究領域（障がい児者の発達、支援についての研究）の3つの領域である。学びの過程としては、レポートと試験を基礎にする「研究科目」（博士前期課程）・「特殊研究科目」（博士後期課程）と、スクーリング指導を基礎にする「演習科目」を組み合わせていく。自分の研究や考察と、他者の見解を取り入れる仕組みを提供しながら、認識を深めるような指導と支援を行っている。論文の作成についても、面接指導と通信指導を組み合わせた指導を行っている。特色ある授業（プログラム）通信制という特質を活用しながら研究・実践に適した学びのスタイルを意識している点が特大学院スクーリング授業（授業研究領域）通信制大学院修士論文発表会色として挙げられる。大学院生の学びは、大学・自宅・現場の三者の相互作用にあるという認識のもとにプログラムが組み立てられている。大学では、ゼミナール形式の対面型授業により、多様な視点を持つ学生たちが意見交換をし、時には修了生も参加している。その際には、研究の指導も教員から直接的に受けることも可能である。自宅では、自学の成果を文書化し添削指導を受けることが日常的に可能となっている。そして現場でのフィールドワークや新たな発見を、大学での議論や自身の研究に反映できる。近年の情報化に伴うICT活用も特色である。事務手続きだけでなく、遠隔会議システムによる指導や授業も展開している。論文の各種発表や審査等でも、積極的に導入している。展望生涯学習やリカレント教育の重要性が高まっており、大学院に対する社会的要請は大きい。職に就きながら学びや研究を志す者にどのように応えていくか、今後の課題となっている。通信制大学院の一層の体制整備と充実が必要となってくる。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory431

## Page 217
![Page 217の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000217.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART2第2部設置校の現況432同窓会同窓会学校の運営は、在学生や教職員のみで成り立つものではなく、母校を支援する同窓生の存在も欠かせない。そのような同窓生同士のコミュニケーションを図る場を提供するのが同窓会であり、母校と同窓生を繋げ、そして在学生との交流の場を提供する存在でもある。明星学苑の同窓会は、府中校（中学校・高等学校、小学校）の明星同窓会（会長大室容一氏）と明星大学同窓会（明星会、会長青木秀雄氏）、明星大学通信教育部同窓会（星友会、会長駒橋利之氏）の3つの団体があり、母校と同窓生を結び付ける役割を果たしている。明星同窓会沿革府中校の同窓会組織である明星同窓会の発祥は、これまで不明とされていたが、『明星同窓会会報』第31号の明星同窓会副会長岩崎良子氏の寄稿によると「同窓会の発足も昭和10年だとばかり思っていたのだが、（中略）会誌第1号に掲載された写真のキャプションは第6回総会となっていたのだ。つまり、同窓会の発足は昭和5年となり、（後略）」とあり、1930（昭和5）年まで遡ることができると考えられる。第一次世界大戦のため、活動は一旦休止されたが、1947（昭和22）年には、児玉九十から同窓生である牛久保喜一氏や荒井正大氏に同窓会準備の指示があり、これが戦後の同窓会の始まりとされる。1954（昭和29）年には明星中学校・高等学校に女子部が開設したことにより会員数が増加していった。1970（昭和45）年は現在の同窓会会則が施行された。この年には、小学校の同窓会も発足し、小学校・中学校・高等学校の同窓生と在校生、母校を繋げる同窓会組織となっている。2019（平成31/令和元）年には、別団体であった明星小学校同窓会（当時の会長山本良一氏）が6月1日付けで明星同窓会に統合され、更なる発展を遂げている。活動本会では、毎年6月に評議委員会を開催して、前年度の活動や決算の報告、新年度の活動方針や予算を審議している。同窓会事業としては、学苑の理事・評議員の協力を得ながら、生徒奨学金・留学奨学金や校外活動やクラブなどへの助成金、応援歌の制作など在学生への支援を行っている。同窓生への支援としては、成人・還暦・古稀・傘寿・白寿同窓会へのお祝い金給付を行っている。また、二十歳の会・還暦の会などのイベントや同窓会（クラス会）開催、支部会開設などの支援も行っている。このような活動に関する報告やお知らせは、明星同窓会のホームページやfacebookで発信しているほか、年1回に『同窓会会報』を発行し、広く同窓会会員へ発送している。ホームページや会報といった会員への情報発信では、活動報告やお知らせのほかに、同窓生の活躍や恩師、母校の近況なども紹介されており、同窓生同士の繋がりや母校との結び付きを強化するものとなっている。一般社団法人明星会明星大学同窓会沿革一般社団法人明星会明星大学同窓会（略称：（一社）明星会、以下、明星会）は、1968（昭和43）年に第1回卒業生である理工学部1期生を中心に結成された通学課程の同窓会である。1970（昭和45）年の『同窓会名簿』の発行（現在は個人情報保護の観点から発行中止）をはじめ、会誌『葦』や会報の創刊、現在でも継続されている年1回の総会などの事業が始まった。1983（昭和58）年には現在のホームカミングデー及び「AllStars’Day」の前身となった「卒業15年目の会」が始まった。1998（平成10）年には同窓会創立30周年を迎え、規約改正をはじめ会務や各種事業の見直しが行われた。2004（平成16）年には「大学創立40周年記念奨学資金募集事業」のため独自の委員会を立ち上げ募金活動を行うなど母校の発展に寄与した。創設55周年にあたる2022（令和4）年には任意団体であった会を「一般社団法人明星会明星大学同窓会（略称：（一社）明星会）」として改め、公的に認証された法人格を有する社団へと生まれ変わった。その他、明星大学には、1977（昭和52）年の通信教育課程創設10周年を記念して開設された明星大学通信教育部の同窓会（星友会）もあり、通信教育課程の同窓生と母校を繋げている。活動明星会は同窓会活性化方針として決定したスローガン「明星の和で結束する母校愛に溢れた同窓会を目ざして〜我が大学躍進の最大支援者たる志を原動力として〜」を掲げ、これまで以上の同窓生や在学生への活動支援、同窓生と母校を繋ぐ役割を担っている。このような本会の具体的な活動は、以下の通りである。1．卒業期会・支部会（遠隔集会・会議含む）に対する支援2．Webサイト・SNS（会報・メールマガジン等発行）の管理・運用3．会員名簿の作成及び管理・運用4．奨学金、困窮学生等の学生生活、クラブ活動及び就職等の支援5．ホームカミングデー及びAllStars’Dayの開催6．講演会・研修会の開催及びリカレント教育・生涯学習等の後援7．明星大学通信教育部同窓会及び明星同窓会と連携した事業の展開8．明星大学の発展に寄与するための事業の推進9．その他、本会の目的を達成するために必要な事業上記のような活動を通して、母校の発展および在学生・卒業生の活躍と本会の活発化・会勢拡大のために活動を行っている。同窓会会員数2023（令和5）年6月現在学校（同窓会名）会長名同窓生数（会員数）※1明星幼稚園―7,502明星同窓会大室容一47,094（明星中学校・高等学校、明星【内訳：小7,389＋※小学校2、明星実務学校、明中高39,705】星高等学校工業科）（一社）明星会青木秀雄84,318※3明星大学通信教育同窓会駒橋利之3,138合計142,052※1現在、明星幼稚園の同窓会は組織化していない。※2明星小学校同窓会は2019（平成31/令和元）年6月1日付で明星同窓会と統合した。※3明星大学通信教育部同窓会（星友会）は登録者数を掲載している。MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory433REUNION同窓会

## Page 218
![Page 218の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000218.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

第3部｜資料

## Page 219
![Page 219の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000219.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

組織機構図2023年5月1日現在府中事務室（府中校事務ユニット）ユニバーサルデザインセンター（ウェルネス・UDサポートチーム）総合健康センター（ウェルネス・UVサポートセンター）明星教育事務室（明星教育ユニット）明星教育センター（明星教育チーム）国際教育センター（国際教育チーム）図書館事務室（図書館チーム）通信教育事務室（通信教育ユニット）教学センター（教学センター）学務センター（学務センター）アドミッションセンター（アドミッションユニット）総合学生支援（学生教育ユニット）学生サポートセンター（学生サポートチーム）キャリアセンター（キャリアチーム）総合学部等支援室（教務ユニット）教務事務センター（教務チーム）教学企画・学修分析センター（教学企画・学修分析チーム）教職事務センター（教職センター）学部支援センター（学部支援チーム）学苑・大学企画局理工学部人文学部経済学部情報学部教育学部経営学部デザイン学部心理学部建築学部デジタルサイエンス学環理工学研究科人文学研究科経済学研究科情報学研究科教育学研究科心理学研究科教職センター心理相談センター連携研究センター明星教育センター（資料図書館（併称：児玉記念図書館））国際教育センター図書館通信教育部発達支援研究センター情報科学研究センター内部監査室コンプライアンス室教学チーム総務チームマイルーム教育支援チーム教育支援室情報システムユニット財務ユニット情報システムチーム財務・経理チーム理事長・学長室ユニット秘書チーム大学企画チーム経営企画チーム広報チーム人事チーム給与・厚生チーム学苑連携推進チーム学苑一貫教育ユニット学苑連携推進グループ企画ユニット人事ユニット総務チーム調達・管財チーム固定資産管理チーム地域交流センターアドミッションチーム保健管理室学生相談室診療所総務ユニット教学組織学苑・大学事務局明星大学明星高等学校明星中学校明星小学校明星幼稚園監事理事会評議員会436第3部資料PART3児玉九十就任：1951（昭和26）年3月退任：1978（昭和53）年4月児玉三夫就任：1978（昭和53）年4月退任：1995（平成7）年5月児玉伸雄就任：1995（平成7）年5月退任：1996（平成8）年3月荒井正大就任：1996（平成8）年4月退任：2000（平成12）年3月斎藤和明就任：2000（平成12）年4月退任：2008（平成20）年6月蔵多得三郎就任：2008（平成20）年7月退任：2012（平成24）年11月吉田元一就任：2012（平成24）年11月現在に至る歴代理事長437MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory組織機構図／歴代理事長SCHOOLDATA

## Page 220
![Page 220の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000220.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART3第3部資料438明星学苑組織機構︵事務組織︶SCHOOLDATA明星学苑組織機構（事務組織）学苑・大学企画局学苑・大学企画局（以下、企画局）は、学苑及び大学等設置校の企画、広報及び秘書業を行うための組織である。企画局には、以下のユニットまたはグループが置かれ、さらにその下にはチームを置くことができる。企画局のユニットまたグループ、チームの役割は以下の通りである。括弧内は学外向け呼称として使用されることもある。（1）理事長・学長室ユニット（理事長室）（学長室）秘書チームと大学企画チームを置き、下記のような業務を行う。①理事長等役員及び学長等の秘書業務に関すること②理事会及び評議員会等、学苑の会議に関すること③大学評議会及び学部長会等、大学の会議に関すること④育星会（大学保護者会団体）に関すること⑤学苑及び大学の企画に関すること⑥その他理事長・学長室の業務に関すること（2）経営企画ユニット経営企画チームと広報チームを置き、下記のような業務を行う。①学苑の企画及び学苑のIR（InstitutionalResearch）に関すること②学苑及び大学の広報に関すること③その他経営企画ユニットの業務に関すること（3）人事ユニット人事チームと給与厚生チームが置かれ、下記のような業務を行う。①人事労務に関すること②人材開発に関すること③福利厚生に関すること④給与に関すること⑤その他人事に関すること（4）学苑一貫教育ユニット学苑一貫教育チームがあり、学苑の一貫教育に関する業務を行う。（5）学苑連携推進グループ学苑連携推進チームを置き、下記のような業務を行う。①学苑の募金活動及び寄附に関すること②学苑が設置している学校の同窓会及び卒業生に関すること③学苑の周年事業に関すること④その他周年事業、募金事業、同窓生のネットワークに関すること学苑・大学事務局学苑・大学事務局（以下、事務局）は、学苑及び大学等設置校の事務業務を行う組織である。以下のように、企画局と同様にユニットが置かれ、その下にチームを置くことができる。括弧内は学外向けの呼称として使用されることもある。（1）教務ユニット教務チーム（教務事務センター）と教職チーム（教職事務センター）と教学企画・学修分析チーム（教学企画・学修分析センター）が置かれ、下記のような業務を行っている。①教務及び学籍に関すること②教職センターの運営支援に関すること③教学データの整備及び教学マネジメントに係る企画・提案に関すること④大学全体及び学部学科のIR（InstitutionalResearch）に関すること⑤その他教務ユニットの業務に関すること（2）教学マネジメントユニット学部支援チーム（学部支援センター）が置かれ、以下のような業務を行っている。①教学マネジメントの推進に関すること②学部・研究科の運営支援に関すること③心理相談センターの運営支援に関すること④その他教学マネジメントユニットの業務に関すること（3）明星教育ユニット（明星教育事務室）明星教育・国際教育チーム（明星教育センター）（国際教育センター）と図書館チーム（図書館事務室）とボランティアセンターが置かれ、下記のような業務を行っている。①明星教育センターの運営支援に関すること②国際教育センターの運営支援に関すること③図書、その他の情報メディアの収集、整理及び管理に関すること④図書館の利用に関すること⑤ボランティアに関すること⑥その他明星教育ユニットの業務に関すること（4）通信教育ユニット（通信教育事務室）教学チーム（教学センター）と学務チーム（学務センター）が置かれ、下記のような業務を行っている。①通信教育課程の教務及び学籍に関すること②星友会（通信教育課程の同窓会組織）に関すること③その他通信教育ユニットの業務に関すること（5）アドミッション・就職ユニットアドミッションチーム（アドミッションセンター）と就職チーム（就職センター）が置かれており、下記のような業務を行う。①学生募集に関すること②入試実施に関すること③学生募集及び入試実施に関する諸調査、統計、分析に関すること④就職及び進路に関すること⑤その他アドミッション・就職ユニットの業務に関すること（6）学生支援ユニット（統合学生支援室）学生サポートチーム（学生サポートセンター）と地域交流センター、ウェルネス・UDサポートチーム（ユニバーサルデザインセンター）、保健管理室、学生相談室、診療所が置かれている。下記のような業務を行っている。①学生生活及びクラブ活動等に関すること②奨学金に関すること③フィットネスルームの運営支援に関すること④地域交流に関すること⑤保健管理室、学生相談室及び診療所の運営支援に関すること⑥障がい学生の学修支援に関すること⑦発達支援研究センターの運営支援に関すること⑧その他学生の厚生補導に関すること（7）総務ユニット総務チームと管財チーム、固定資産管理チームが置かれている。下記のような業務を行っている。①総務、危機管理に関すること②管財に関すること③固定資産管理に関すること④地域住民への対応に関すること⑤その他総務に関すること（8）財務ユニット財務・経理チームと調達チームが置かれ、下記のような業務を行う。①財務計画及び予算に関すること②税務に関すること③資金に関する計画、調達及び運用・管理に関すること④大学の学費等収納、学苑の会計処理及び決算に関すること⑤調達に関すること⑥その他財務、経理及び調達に関すること（9）情報システム・研究支援ユニット情報システムチームと研究支援チームが置かれている。下記のような業務を行う。①学苑の業務システム等の管理に関すること②学苑のシステムの運用及び支援に関すること③コンピュータセキュリティに関すること④情報科学研究センターの運営支援に関すること⑤連携研究センターの運営支援に関すること⑥その他情報システム・研究支援ユニットに関すること府中校の事務組織等府中校（明星中学校・高等学校、明星小学校及び明星幼稚園）に関する業務を行っている。（1）府中校事務ユニット（府中校事務室）教学チームと総務チームが置かれている。下記のような業務を行う。①校務に関すること②企画及び事業計画に関すること③学生募集及び広報に関すること④会計に関すること⑤その他府中校の事務に関すること（2）マイルーム府中校内のメンタル・ケアーなどに関する業務を行っている。（3）教育支援室府中校内の下記の業務を行っている。①府中校のIR（InstitutionalResearch）に関すること②教員の研修の支援に関すること③その他府中校の教育支援に関すること上記の組織の他に、内部監査室とコンプライアンス室が置かれている。内部監査室以下のような事項を分掌している。①学苑が設置している学校、学苑が支配権を持つ事業会社及びその他の学苑事務組織の運営・活動に関わる内部監査に関すること②監事の業務支援に関すること③その他内部監査に関することコンプライアンス室以下のような掲げる事項を分掌する。①コンプライアンスに関すること②リスク管理に関すること③法務に関することMeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory439

## Page 221
![Page 221の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000221.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

理事長副理事長（学長）理事理事理事理事理事理事理事理事監事監事特別顧問特別顧問特別顧問特別顧問特別顧問特別顧問評議員（学長）評議員（中学校・高等学校長）評議員（小学校長）評議員（幼稚園長）評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員評議員吉田元一落合一泰森光次郎山本真興大室容一小沢伸光青木秀雄八木敏郎柴崎菊恵小佐野台近藤伊佐夫諏訪洋司小川哲生西山昭彦白石洋司多司馬茂髙城秀一髙橋尚子落合一泰福本眞也細水保宏渡邊智恵子冨樫伸村山光子大室容一小沢伸光青木秀雄澤利夫宮﨑茂男髙橋尚子小佐野台吉田元一多司馬茂森光次郎八木敏郎柴崎菊江髙木幹夫福井みどり山村侑偀役付氏名理事、監事、特別顧問、評議員2023年5月1日現在440第3部資料PART3明星大学大学院明星大学理工学研究科人文学研究科情報学研究科教育学研究科心理学研究科経済学研究科理工学研究科人文学研究科情報学研究科教育学研究科心理学研究科教育学研究科（通信教育課程）教育学研究科（通信教育課程）44296――116111――――1,6972,0701,634713333041,572415――――5,4851,01548560226916,402522574―641001―1651,6681,9811,475680112071,577560207―――5,4721,02046157828316,103533085―741101―44251,6751,9701,34865751441,575794251―――5,1961,01641153129016,051513272―651211―45191,6932,0311,333679―731,547845370―――4,86798238448928815,762482884―651122―46141,6241,9071,258622―101,581869487140――4,8161,00335347528815,6073826143―551122―40151,6681,8331,219638――1,603898502267――4,5171,06237247728615,5033727131―721033―33181,6301,7291,201628――1,559893516388――4,2801,20336149929115,332461611312921021328201,5351,5591,152638――1,539880508503148―4,0711,26638853828815,17655611319141821331151,4541,5251,131658――1,515859524527283―3,6271,34239957826914,86052710022181931429111,2731,3791,052684――1,518850518545409―3,4471,23342061724014,3524489225161820628151,1681,3581,028667――1,624894548575549303,4501,25544463720214,593理工学部人文学部経済学部情報学部日本文化学部造形芸術学部教育学部経営学部デザイン学部心理学部建築学部データサイエンス学環教育学部（通信課程）明星高等学校明星中学校明星小学校明星幼稚園合計博士前期課程修士課程博士後期課程博士前期課程博士後期課程学校名研究科・学部等20132014201520162017201820192020202120222023（年度）理事、監事、特別顧問、評議員2023年5月1日現在学生・生徒等数最近の11年の推移各年5月1日現在付記1：明星大学大学院教育学研究科、教育学研究科（通信教育課程）在学者は、2013（平成25）年度には人文学研究科（教育学専攻）、人文学研究科（通信教育課程・教育学専攻）に含まれ、2014（平成26）年度には両研究科に在学者がいた。付記2：明星大学大学院心理学専攻（博士前期課程・博士後期課程）在学者は、2019（平成31/令和元）年度以前には人文学研究科（心理専攻）に含まれ、2020（令和2）年度は両研究科に在学者がいた。付記3：明星大学各学部については、学部の改編により在学者の異同がある。441MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory理事︑監事︑特別顧問︑評議員／学生・生徒等数最近の11年の推移SCHOOLDATA

## Page 222
![Page 222の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000222.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART3第3部資料460年表CHRONOLOGY年表西暦（和暦）月日出来事1921（大正10）年1922（大正11）年1923（大正12）年1926（大正15）年（昭和元）年1927（昭和2）年1929（昭和4）年1930（昭和5）年1931（昭和6）年1932（昭和7）年1934（昭和9）年1936（昭和11）年1937（昭和12）年1943（昭和18）年12月⚫星野鏡三郎、成蹊実務学校の廃校に際して自ら実務学校の創設を計画計画作成にあたって、指導を成蹊学園長中村春二、成蹊学園主事児玉九十に依嘱⚫教育計画を作成するとともに、校地を東京府北多摩郡府中町貫井（当時、現：東京都府中市栄町・現在の府中校所在地）に選定、1922（大正11）年はじめ校地買収完了⚫校名を星野鏡三郎にちなみ、『詩経』を参照して明星（めいせい＝漢音読み）実務学校と定める⚫校舎（教室・講堂・寄宿舎など6棟）の建築、設置認可申請など創設準備を進める7月17日⚫明星実務学校（3年制）設置認可となる、1学年1学級、入学定員30名、収容定員90名⚫「明星実務学校設立要旨」を作成・配布、生徒募集を開始3月⚫明星実務学校校舎（教室・講堂・寄宿舎など6棟）竣工4月1日⚫明星実務学校開設4月12日⚫明星実務学校第1回入学式を挙行、入学生30名、校長に成蹊実務学校校長宮本覚純が就任、教員8名5月20日⚫明星実務学校開校式・祝賀会を挙行3月⚫明星実務学校第1回卒業式挙行、卒業式後、宮本覚純は駒澤大学教授に就任のため校長を退任4月1日⚫1925（大正14）年3月に成蹊学園を退職し、1年間の欧米教育視察を行い、帰国した児玉九十が星野鏡三郎の懇望に従って校長に就任2月22日⚫個人経営の明星実務学校の財団法人明星中学校への改組が認可となり、児玉九十が理事長に就任⚫明星実務学校廃校が認可となり、1927（昭和2）年度から生徒募集を停止⚫明星中学校（旧制、5年制）設置認可となる、1学年1学級、入学定員40名、収容定員200名。児玉九十が校長に就任4月⚫明星中学校第1回入学式を挙行、1・2年生入学1月1日⚫広報紙『体験教育』（月刊）を創刊3月9日⚫明星実務学校第4回、最後の卒業式を挙行し、廃校7月8日⚫二宮尊徳銅像を神戸市の実業家・兵庫県会議員中村直吉から寄贈され、除幕式を挙行（1927（昭和2）年と記した資料もある）7月20日〜⚫夏の学校（水泳班・山岳班・学校班）開始、途中戦時体制下で学校班（作業班）のみの実施とするなどして、1941（昭和16）年度まで毎年実施7月17日〜30日⚫国際性涵養教育の一貫として、第1回鮮満（朝鮮半島、旧満州国（当時、現：中国東北部））旅行を実施、引率は児玉九十・岩河信義、5年生18名参加、第2回以降は日中戦争の影響により実施不可能となる10月23日⚫校旗を制定し、制定式を挙行2月4日⚫校歌（岩河信義作詞・鈴木米次郎作曲）を制定し、発表会を挙行3月10日⚫明星中学校第1回卒業式を挙行12月6日⚫星野鏡三郎、逝去、享年744月⚫1学年2学級、入学定員70名、収容定員350名に定員増、認可となる7月6日⚫定員増に対応して、校舎・講堂・寄宿舎などを増築、竣工2月26日⚫教諭山本又、二・二六事件に参加5月23日⚫明星中学校創立10周年記念式・祝賀会・学芸会・製作品展覧会を挙行4月1日⚫「中学校令」施行により戦時体制の一環として中学校4年と在学年数が短縮される5月15日⚫満州国（当時、現：中国東北部）在勤日本人子弟の教育受託受け入れについて、満州国国務院総務庁人事処長と協定締結9月2日⚫受託生受け入れに対応するため1学年3学級、入学定員105名、収容定員420名に定員増、認可となる⚫教室・寄宿舎の増築を計画（資材不足などのため竣工せず）10月15日⚫用紙供給の制約・印刷事情などにより『体験教育』第177号をもって休刊西暦（和暦）月日出来事1944（昭和19）年1945（昭和20）年1946（昭和21）年1947（昭和22）年1948（昭和23）年1949（昭和24）年1950（昭和25）年1951（昭和26）年1952（昭和27）年1954（昭和29）年1956（昭和31）年1957（昭和32）年1958（昭和33）年1959（昭和34）年1961（昭和36）年4月⚫第1回満州国受託生入学、1945（昭和20）年度第2回入学生までで終了11月3日⚫児玉九十、藍綬褒章を受章3月⚫中学校在学期間の4年間に短縮への独自の対応として、5年生・4年生が同時に卒業4月1日⚫生徒定員、1学年3学級、入学定員105名のままであるが、中学校5年制に復したことにより収容定員525名に増加3月31日⚫食糧事情により創立以来の寄宿舎を閉鎖4月1日⚫学制改革により5年制旧制中学校より3年制の新制中学校に改組、1学年3学級、入学定員150名、収容定員450名となる、児玉九十が校長に就任5月25日⚫明星中学校創立20周年記念式挙行4月1日⚫新制明星高等学校開校、1学年3学級、入学定員120名、収容定員360名、児玉九十が校長に就任。4月に第1回入学式挙行5月13日⚫高松宮殿下臨席のもとに明星高等学校開校式挙行3月4日⚫明星高等学校第1回卒業式挙行4月1日⚫明星幼稚園設置認可となる。それまで私設校内幼稚園明星子ども会として活動してきたが、認可を得て準備を行い、9月12日に開園式挙行、9月15日から認可幼稚園（年長組・年少組の2年保育）として正式開園、児玉九十が園長に就任3月20日⚫明星幼稚園第1回修了式挙行3月25日⚫新制明星中学校第1回卒業式挙行4月1日⚫明星小学校開校、1学年1学級、入学定員40名、収容定員240名、児玉九十が校長に就任⚫明星小学校第1回入学式を挙行、1・2年生が入学2月11日⚫明星小学校校舎、学苑講堂、高等学校校舎増築竣工3月1日⚫「私立学校法」施行に伴い、財団法人明星中学校を学校法人明星学苑に組織変更を申請し、学校法人設立認可となる、児玉九十が理事長に就任⚫児玉三夫が学校法人理事、評議員、各園・各学校の副園長・副校長に就任10月30日⚫小学校校舎増築、旧講堂の図書室・視聴覚室への改築竣工5月18日⚫三笠宮殿下臨席のもとに明星中学校創立25周年記念式挙行4月1日⚫明星中学校・高等学校に女子部開設4月9日⚫女子部中学校・高等学校第1回入学式を挙行、中学校1年生68名、高等学校1年生60名が入学12月4日⚫明星小学校第1回音楽と舞踊の会開催5月20日⚫広報紙『体験教育』（月刊）第178号から復刊3月⚫女子部第1回卒業式挙行、卒業式に合わせ「女子部の歌」（土岐善麿作詞・信時潔作曲）制定8月2日〜8日⚫西ドイツ・フランクフルトにて開催の第6回世界教育者会議に、児玉九十が日本代表として参加7月20日〜9月24日⚫世界教育者会議出席の児玉九十に児玉三夫が随行、会議終了後、ヨーロッパ（イタリア・スイス・ドイツ・デンマーク・スウェーデン・フランス・イギリス）・アメリカ（ニューヨーク・ワシントン・シカゴ・サンフランシスコ・ホノルル）の教育事情などを視察4月1日⚫明星小学校、全学年2学級に学級・定員増5月⚫明星高等学校校舎竣工11月15日⚫明星学苑創立35周年記念式・慰霊祭・祝賀会・祝賀式・展覧会・芸能祭を挙行。児玉九十古希祝賀会を挙行⚫創立35周年を記念して「学苑賛歌」（土岐善麿作詞・信時潔作曲）制定11月3日⚫明星幼稚園園舎竣工4月1日⚫明星高等学校工業科（機械科・電気通信科＝1963（昭和38）年度から電気科・電子科、1964（昭和39）年度から電気科に改組）2学級、開設MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory461

## Page 223
![Page 223の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000223.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART3第3部資料462年表CHRONOLOGY西暦（和暦）月日出来事1962（昭和37）年1963（昭和38）年1964（昭和39）年1965（昭和40）年1966（昭和41）年1967（昭和42）年1968（昭和43）年1969（昭和44）年3月⚫明星中学校・高等学校女子部校舎、明星高等学校工業科校舎竣工7月⚫学苑プール竣工3月⚫高等学校校舎、工業科校舎増築竣工⚫明星大学設立準備委員会発足5月17日⚫明星大学設立を決定、設立準備を進める9月17日⚫大学校地（東京都日野市程久保）取得の契約成立。校舎1棟・附属機械室1棟着工、大学設置認可申請など準備を進める10月⚫女子部校舎第1期工事、体育館増築竣工11月⚫厚生館竣工⚫明星大学設立募金委員会発足11月15日⚫明星学苑創立40周年記念式・慰霊祭・祝賀パーティ・祝賀式・展覧会・演劇発表会・音楽と舞踊の会を挙行3月⚫女子部校舎第2期工事竣工4月1日⚫明星大学開学、理工学部5学科（物理学科、化学科、機械工学科、電気工学科、土木工学科）、入学定員280名、収容定員1,120名児玉九十が学長に、児玉三夫が副学長に就任4月29日⚫明星大学第1回入学式挙行、235名が入学7月31日⚫明星大学本館竣工11月3日⚫児玉九十、勲三等旭日中綬章を受章11月⚫女子部創立10周年を記念して「希望の鳥」碑（清水綾夫・北村善平・伊藤喜久治、設計・製作）を設置2月16日⚫明星大学理工学部に教職課程認定となる3月⚫女子部校舎第3期工事竣工4月1日⚫明星大学人文学部（英語英文学科、社会学科、心理・教育学科）開設、入学定員200名、収容定員800名4月11日⚫明星大学第2回入学式挙行、理工学部495名、人文学部269名が入学5月⚫明星大学2号館（講義室など）・3号館（理工学部実験室など）、運動場の造成工事竣工9月⚫明星学苑インターアクトクラブ結成9月1日⚫明星小学校新校舎第1期工事完成3月5日⚫明星大学人文学部に教職課程認定となる4月1日⚫明星大学人文学部に経済学科増設、収容定員80名、入学定員320名5月⚫明星大学4号館（講義室・理工学部実験室・食堂など）・5号館（体育館）竣工5月27日⚫明星大学開学式挙行3月⚫明星小学校新校舎第2期工事完成4月1日⚫カフジ明星小学校・幼稚園をクウェート・サウジアラビア王国中立地帯（当時、国境確定により現：サウジアラビア王国）に開設⚫明星大学通信教育部、人文学部心理・教育学科を開設（入学定員2,000名、収容定員8,000名）、学生受け入れを開始する⚫明星大学職員住宅竣工7月⚫明星大学6号館（講義室・人文学部など）、7号館（理工学部実験室）、8号館（理工学部実験室）、9号館（理工学部実験室）、10号館（理工学部実験室）竣工7月20日⚫明星学苑八ヶ岳山荘竣工7月20日〜⚫明星大学通信教育部第1回スクーリングを開講8月25日3月24日⚫明星大学第1回卒業式挙行、157名が卒業4月1日⚫明星大学同窓会発足11月⚫明星大学11号館（講義室など）、12号館（通信教育部など）竣工、12号館1階に保健センター開設11月⚫府中校地に大講堂竣工11月15日⚫明星学苑創立45周年記念式・祝賀式・祝賀会を挙行4月1日⚫明星小学校全学年3学級に学級・定員増7月20日⚫明星大学高遠山荘竣工9月⚫明星大学13号館（総合体育館施設、プールなど）竣工西暦（和暦）月日出来事1970（昭和45）年1971（昭和46）年1972（昭和47）年1973（昭和48）年1974（昭和49）年1975（昭和50）年1976（昭和51）年1977（昭和52）年1978（昭和53）年1979（昭和54）年2月⚫明星大学14号館（理工学部実験室）竣工4月⚫コンゴ明星ムソシ小学校をコンゴ共和国（当時、その後国名の変更があり、ザイール共和国を経て、現：コンゴ民主共和国）に開校、9月6日に開校式を挙行5月24日⚫明星大学黒姫山荘竣工4月1日⚫明星大学大学院人文学研究科社会学専攻修士課程を開設7月11日⚫明星学苑伊豆松崎渓流荘竣工2月10日⚫冬季オリンピック札幌大会のリュージュ競技に明星大学1971年機械工学科卒小林政敏、1971年土木工学科卒荒井理、心理・教育学科2年川瀬美弥子が出場、小林・荒井チームが4位入賞4月1日⚫明星大学大学院理工学研究科土木工学専攻修士課程を開設、人文学研究科教育学専攻修士課程を開設5月⚫明星大学父兄会（当時、現：育星会）発足、10月29日に第1回総会を実施3月⚫明星高等学校工業科、生徒募集を停止する4月1日⚫明星大学大学院理工学研究科化学専攻修士課程を開増設10月⚫府中校地に（旧）学苑法人本部棟竣工11月1日⚫学苑創立50周年を記念して明星同窓会が「明星学苑賛歌」歌碑を寄贈、除幕式を挙行11月10日⚫秩父宮妃殿下臨席のもとに、明星学苑創立50周年記念式・祝賀会・慰霊祭・祝賀式展示会・ステージ発表・バザーなどを挙行3月3日⚫明星大学第1回ヨーロッパ研修旅行を実施3月⚫明星大田老校地（田老セミナーハウス）取得4月1日⚫明星大学大学院人文学研究科教育学専攻博士課程を開設、心理学専攻修士課程を開設4月29日⚫児玉九十が勲二等瑞宝章を受章10月5日⚫児玉九十が府中市初代名誉市民となる12月⚫明星幼稚園園舎増築竣工4月⚫イラン・シラズ明星小学校・幼稚園をイラン（当時、現:イラン・イスラム共和国）に開設。8月28日開校式を挙行、9月正式開校7月14日⚫株式会社めいせい出版（当時、現：株式会社明星大学出版部）を設立3月⚫ザイール明星ムソシ小学校を、政情不安による日本人家族帰国のため閉校する3月20日⚫明星幼稚園卒業記念「よい子」石碑を除幕4月1日⚫明星大学大学院理工学研究科に化学専攻博士課程・土木工学専攻博士課程を開設、人文学研究科社会学専攻博士課程を開設⚫明星大学付属幼稚園を東京都多摩市に開園5月29日⚫明星中学校・高等学校体育館竣工8月⚫明星大学15号館（児玉記念図書館、現在は資料図書館として使用）竣工11月3日⚫女子部校舎増築竣工7月⚫明星学苑第1回「アメリカ家庭滞在と英語研修の旅」を実施10月25日⚫明星大学児玉記念図書館開館11月24日⚫明星中学校・高等学校女子部校舎増改築竣工4月1日⚫児玉九十が学校法人明星学苑理事長などを退任し、学苑長（後、名誉学苑長）に就任⚫児玉三夫が学校法人明星学苑理事長、明星幼稚園園長・明星小学校校長・明星中学校校長・明星高等学校校長・明星大学学長、明星大学付属幼稚園園長に就任4月7日⚫明星大学大学院人文学研究科心理学専攻博士課程を開設8月28日⚫明星大学青梅キャンパス用地（85万㎡）を取得する8月⚫明星大学16号館（当時：大学会館）竣工12月⚫イラン・シラズ明星小学校・明星幼稚園を、イラン革命による日本人家族帰国のため休止する3月31日⚫イラン・シラズ明星小学校閉校・幼稚園閉園4月1日⚫明星大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程・電気工学専攻修士課程を開設6月1日⚫明星大学田老キャンパス（125万㎡、研修所・宇宙線観測所・土木工学実習所などとして利用）開設披露を実施11月30日⚫明星高等学校啓明1号・2号館増改築工事竣工MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory463

## Page 224
![Page 224の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000224.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART3第3部資料464年表CHRONOLOGY西暦（和暦）月日出来事1980（昭和55）年1981（昭和56）年1982（昭和57）年1983（昭和58）年1984（昭和59）年1985（昭和60）年1986（昭和61）年1987（昭和62）年1988（昭和63）年4月1日⚫明星大学大学院理工学研究科機械工学専攻修士課程を開設7月18日⚫明星大学第1回アメリカ語学研修旅行を実施7月⚫明星大学17号館（心理学実験室）、18号館（電磁流体発電実験室）竣工4月1日⚫明星大学大学院理工学研究科物理学専攻博士課程・電気工学専攻博士課程を開設4月29日⚫児玉三夫が藍綬褒章を受章5月1日⚫株式会社新伊豆ホテルを取得・開館（後に閉館し、明星学苑伊豆弓ヶ浜研修所として開館）7月⚫明星小学校専用プール竣工10月1日⚫児玉九十が名誉都民となる1月10日⚫明星中学校・高等学校至誠館（武道場・合宿所）竣工2月12日⚫明星大学児玉記念図書館に東京リンカーンセンターを開設4月1日⚫明星大学大学院理工学研究科機械工学専攻博士課程を開設3月⚫明星大学19号館（情報科学研究センター）竣工4月1日⚫明星大学大学院人文学研究科英米文学専攻修士課程を開設6月30日⚫明星大学情報科学研究センターを開設10月8日⚫明星大学占領教育史研究センター（当時、現：戦後教育史研究センター）を開設11月3日⚫明星大学児玉記念図書館と米フォルジャー・シェイクスピア図書館、親善友好関係を樹立11月14日⚫明星大学、米ミシシッピー州立大学と姉妹校関係を締結、以後各国の大学と姉妹校、提携校、学術交流校などの親善友好関係を結ぶ11月15日⚫明星学苑創立60周年記念式・祝賀会・慰霊祭・体育祭・明星祭などを挙行4月16日⚫1977（昭和52）年以来の交渉の結果、いわき明星大学創設計画が成立し、明星学苑といわき市の間の合意書に調印5月5日⚫女子部体育館竣工8月28日⚫明星大学創立20周年記念「リンカーン―人とその時代展」を三越本店にて開催10月14日⚫明星大学田老キャンパスに田老宇宙線観測所・田老鉱山資料館を開設10月25日⚫明星大学創立20周年記念式典・祝賀会挙行⚫駐日アメリカ大使マンスフィールド・前イギリス首相キャラハンに対し、明星大学名誉人文学博士の学位を贈る⚫児玉記念図書館「稀覯書展」を新高輪プリンスホテルにて開催11月7日⚫木造大型ヨット「エコー号」を取得5月31日⚫「エコー号」ミクロネシア連邦ヤップ州との親善のため、太平洋縦断航海（往復約8千㎞）を完走7月4日⚫明星大学高分解能分析電子顕微鏡センター（当時、現：連携研究センター）を開設2月14日⚫駐日アメリカ大使マンスフィールド夫妻、明星大学来訪、記念植樹を行う2月22日⚫いわき明星大学校舎建築起工式を挙行5月4日⚫児玉三夫、優れた図書館人に贈られるサー・トマス・モア・メダルを受賞9月⚫明星大学20号館（講義室など）竣工3月⚫いわき明星大学校舎竣工4月1日⚫いわき明星大学開学、理工学部（基礎物理学科、物性学科、電子工学科、機械工学科、入学定員240名、収容定員920名）、人文学部（日本文学科、英米文学科、社会学科、入学定員180名、収容定員720名）、児玉三夫が学長に、鈴木辰三郎が副学長に就任4月12日⚫いわき明星大学第1回入学式を挙行7月31日⚫明星大学青梅キャンパス敷地造成竣工、竣工式を挙行10月14日⚫いわき明星大学開学式を挙行10月28日⚫「エコーⅡ世号」を取得、台湾よりいわき市中之作港へ回航4月1日⚫明星大学大学院人文学研究科英米文学専攻博士課程を開設7月31日⚫いわき明星大学研修施設「しおさい荘」を開設8月1日⚫岩手県陸中海岸に「眺洋荘」を開設8月11日⚫明星大学第1回中国研修旅行を実施10月25日⚫「児玉九十先生満百歳を祝う会」を開催12月⚫明星大学外国語センター（当時、現：国際教育センター）を開設西暦（和暦）月日出来事1989（昭和64）年（平成元）年1990（平成2）年1991（平成3）年1992（平成4）年1993（平成5）年1994（平成6）年1995（平成7）年1996（平成8）年1997（平成9）年1998（平成10）年1999（平成11）年6月30日⚫明星大学図書館「シェイクスピア文献目録（shakespeareshakespeareana）」が第3回物集索引賞を受賞12月15日⚫名誉学苑長児玉九十逝去、享年1011月21日⚫児玉九十学苑葬を挙行1月⚫明星大学同窓会奨学金制度発足⚫明星大学青梅校体育館竣工6月1日⚫児玉伸雄が明星中学校・明星高等学校校長に就任⚫白川晶山が明星幼稚園園長に就任9月12日⚫いわき明星大学、ヨット「エコー3世号」を新造、台湾よりいわき市中之作港へ回航3月31日⚫明星大学青梅校本館、情報学部館、日本文化学部館、芸術実習館、図書館、厚生館竣工4月1日⚫明星大学青梅校、情報学部（電子情報学科・経営情報学科、入学定員300名、収容定員1,200名）、日本文化学部（言語文化学科・生活芸術学科、入学定員300名、収容定員1,200名）を開設⚫いわき明星大学大学院理工学研究科物質理学専攻修士課程・物理工学専攻修士課程、人文学研究科日本文学専攻修士課程・社会学専攻修士課程を開設4月14日⚫明星大学青梅校（情報学部・日本文化学部）第1回入学式を挙行9月1日⚫明星大学青梅校父兄会発足、後に日野校父兄会と合併、育星会と改称10月25日⚫青梅校開学式を挙行4月29日⚫児玉三夫が勲三等旭日中綬章を受章10月2日⚫明星学苑創立70周年記念式典・慰霊祭・祝賀会・明星祭・運動会・マラソン大会などを挙行4月1日⚫いわき明星大学大学院理工学研究科物質理工学専攻博士課程、人文学研究科日本文学専攻博士課程を開設⚫三澤幸子が明星幼稚園園長に就任4月22日⚫明星大学21号館（シェイクスピアホール、図書館など）開館11月3日⚫明星学苑創立70周年・明星大学創立30周年記念明星学苑日食観測団、チリおよびパラグアイで日食観測を実施11月18日⚫児玉三夫が第3回ペスタロッチ教育賞を受賞3月⚫いわき明星大学理工系館東館竣工4月1日⚫いわき明星大学大学院人文学研究科英米文学専攻修士課程を開設⚫児玉伸雄が明星小学校校長・明星大学学長に就任5月9日⚫児玉伸雄が学校法人明星学苑理事長に就任9月12日⚫明星大学22号館（新大学会館）竣工3月31日⚫児玉伸雄が学校法人明星学苑理事長・明星大学学長を辞任4月1日⚫荒井正大が学校法人明星学苑理事長に就任⚫清水正人が明星小学校校長に就任⚫田中誠之が明星大学学長に就任9月23日⚫元理事長児玉三夫逝去、享年8111月10日⚫児玉三夫先生を偲ぶ会を挙行4月1日⚫千原良治が明星高等学校校長、原悠基子が明星中学校校長に就任11月2日⚫いわき明星大学同窓会設立4月1日⚫明星大学大学院情報学研究科情報学専攻修士課程を開設⚫川上大作が幼稚園園長に就任⚫日江井榮二郎が明星大学学長に就任4月⚫明星幼稚園現園舎竣工7月⚫広報誌『明星学苑報』創刊⚫明星学苑八ヶ岳山荘竣工4月1日⚫明星大学大学院人文研究科通信教育課程教育学専攻修士課程（当時、現：博士前期課程、入学定員30名、収容定員60名）を日本初の通信制大学院の一校として開設MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory465

## Page 225
![Page 225の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000225.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART3第3部資料466年表CHRONOLOGY西暦（和暦）月日出来事2000（平成12）年2001（平成13）年2002（平成14）年2003（平成15）年2004（平成16）年2005（平成17）年2006（平成18）年3月⚫明星大学青梅校芸術実習2号館竣工3月31日⚫荒井正大が学校法人明星学苑理事長を退任3月31日⚫明星大学付属幼稚園を閉園4月1日⚫斎藤和明が学校法人明星学苑理事長に就任⚫明星大学大学院情報学研究科情報学専攻博士課程を開設⚫明星大学日本文化学部生活芸術学科を造形芸術学科に学科名称変更⚫明星大学父兄会を育星会に名称を変更⚫伊藤義雄が明星高等学校・中学校校長に就任4月17日⚫いわき明星大学理工学部電子工学科を電子情報学科、人文学部社会学科を現代社会学科に学科名称変更4月1日⚫いわき明星大学理工学部を環境理学科・電子情報学科・機械工学科の3学科、人文学部を言語文化学科・現代社会学科・心理学科の3学科に改組⚫明星大学経済学部経済学科を開設⚫明星大学大学院人文学研究科心理学専攻修士課程、臨床心理士養成第1種指定大学院としての認定を受ける⚫明星大学心理相談センターを開設6月21日⚫いわき明星大学人文系館別館（実験棟）竣工10月28日⚫いわき明星大学父母会を設立2月17日⚫明星大学経済学部開設記念シンポジウムを開催4月1日⚫明星大学人文学部社会学科に社会福祉士受験資格課程を開設⚫清水鞆夫が明星幼稚園園長に就任⚫氏原淳一が明星大学学長に就任8月⚫明星大学23号館（講義室など）竣工9月⚫明星小学校現校舎竣工、校舎外にビオトープを設置4月1日⚫明星大学人文学部心理・教育学科に保育士養成課程を設置⚫明星大学人文学部社会学科を人間社会学科に学科名称変更⚫明星中学校1年生から共学化を開始、以降学年を追って全学年共学化を実施⚫明星大学大学院人文学研究科心理学専攻修士課程、臨床心理士第1種指定大学院の認定を受ける⚫横地孝が明星高等学校・明星中学校校長に就任⚫明星大学教職・資格センター（当時、現：教職センター）を開設10月4日⚫明星大学青梅校学生談話室「ラウンジアゴラ」（育星会寄贈）竣工3月6日⚫明星大学24号館（通信教育部棟）・25号館（体育館）竣工8月⚫明星中学校・高等学校現校舎竣工9月1日⚫明星大学本館（管理棟）竣工3月⚫カフジ明星小学校・幼稚園、企業の操業形態変更にともなう日本人家族の帰国により、休校・休園3月9日⚫いわき明星大学心理学・環境理学実験棟、地域交流館竣工4月1日⚫明星大学理工学部機械システム工学科・電気電子システム工学科・建築学科・環境システム学科、人文学部国際コミュニケーション学科、経済学部経営学科、情報学部情報学科、造形芸術学部造形芸術学科を開設⚫いわき明星大学科学技術学部生命環境学科・電子情報学科・システムデザイン工学科、人文学部表現文化学科を開設⚫明星大学キャリア支援センター・学習支援センターを開設⚫いわき明星大学大学院人文学研究科臨床心理学専攻修士課程を開設、心理相談センターを開設⚫望月克彦が明星小学校校長に就任4月⚫明星大学26号館（講義室・情報科学研究センターなど）竣工5月16日⚫明星大学、青梅市と連携協力に関する協定締結8月⚫明星大学青梅校芸術実習3号館・4号館竣工4月1日⚫明星大学大学院経済学研究科応用経済学専攻修士課程を開設⚫明星大学大学院人文学研究科通信教育課程教育学専攻博士後期課程を開設、入学定員3名、収容定員9名、これにともない修士課程を博士前期課程に名称を変更⚫明星高等学校1年生から共学化を開始、以後学年を追って全学年共学化を実施西暦（和暦）月日出来事2007（平成19）年2008（平成20）年2009（平成21）年2010（平成22）年2011（平成23）年2012（平成24）年⚫明星大学、財団法人大学基準協会の加盟判定審査（文部省指定の大学認証評価に相当）に適合、協会加盟が認められる。以後、財団法人大学基準協会の認証評価を定期的に受け、認定を得る⚫井上明美が明星幼稚園園長に就任⚫城戸一夫が明星高等学校・中学校校長に就任4月2日⚫いわき明星大学大学院人文学研究科臨床心理学専攻修士課程、臨床心理士第1種指定大学院の認定を受ける2月19日⚫いわき明星大学、いわき市と連携協力に関する協定を締結3月23日⚫明星大学27号館（人文学部・経済学部など）、28号館（講義室・図書館・食堂など）、29号館（理工学部）、30号館（理工学部実験室など）竣工3月⚫いわき明星大学薬学部棟、学習センター、薬用植物園竣工4月1日⚫いわき明星大学薬学部薬学科を開設、入学定員90名、収容定員540名⚫北原都美子が明星高等学校・中学校校長に就任6月⚫明星幼稚園専用プール竣工7月1日⚫いわき明星大学陸上競技用グラウンドリニューアル、インフィールドを全面人工芝化2月20日⚫府中校地に明星学苑児玉九十記念講堂竣工、児玉九十記念資料コーナーを設置4月1日⚫学苑の教育理念を再確認し、各設置校などの教育目標・教育内容・教育方法・課題を明らかにする「明星学苑ヴィジョン」を策定⚫明星大学大学院理工学研究科建築・建設工学専攻博士前期課程および博士後期課程、環境システム学専攻博士前期課程および博士後期課程を開設⚫小川哲生が明星大学学長に就任⚫明星大学総合健康センター、ボランティアセンターを開設⚫明星中学校・高等学校全学年の男女共学化が完成⚫明星中学校・高等学校全6クラス体制を実現、3ステージ制による体系的な中高一貫教育体制の確立をめざす⚫学校法人明星学苑・明星大学合同で、教育研究活動の質的向上のための点検・評価・改善活動としてのMI21プロジェクト・MI21推進会議を開始⚫小学校プールを撤去、自然体験教育施設としての畑地とする⚫菅野秀二が明星小学校校長に就任6月7日⚫府中校地に明星学苑総合体育館竣工6月21日⚫学校法人明星学苑理事長斎藤和明逝去、享年737月11日⚫蔵多得三郎が学校法人明星学苑理事長に就任8月⚫北京オリンピック女子体操競技に明星大学通信教育部在学の大島杏子が出場、団体総合5位に入賞11月15日⚫明星学苑創立85周年記念式を挙行1月⚫明星大学、大学コンソーシアム八王子に加盟4月1日⚫「明星学苑ビジョン」に基づく経営の取り組みについての長期プラン「Action100」を策定⚫明星大学連携研究センターを開設（産学官連携推進室・物性研究センターを統合）9月10日⚫学校法人明星学苑本部・事務局を明星大学日野校地に移転4月1日⚫明星大学教育学部教育学科、理工学部総合理工学科、人文学部日本文化学科・福祉実践学科・心理学科を開設⚫明星大学通信教育課程人文学部心理教育学科を教育学部教育学科に改組⚫明星大学明星教育センター、学生サポートセンターを開設6月⚫いわき明星大学、IMUビジネスカレッジを開校12月18日⚫明星大学31号館（サークル棟）竣工3月11日⚫東日本大震災発生、いわき明星大学は入学式・新学年授業開始などを5月に延期4月1日⚫明星大学TAMANEXTリーダープログラムを開始（多摩信用金庫と共催）10月⚫いわき明星大学復興事業センターを開設3月31日⚫明星大学田老宇宙線観測所を廃止、田老鉱山資料館は町に移管4月1日⚫明星大学経営学部経営学科を開設⚫いわき明星大学、原発事故の影響を受けた双葉地区の3高等学校、楢葉町役場・幼児施設・小中学校に施設・設備を提供⚫渡邊智恵子が明星幼稚園園長に就任11月21日⚫蔵多得三郎が学校法人明星学苑理事長を退任11月22日⚫吉田元一が学校法人明星学苑理事長に就任MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory467

## Page 226
![Page 226の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000226.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART3第3部資料468年表／土地面積・建物面積CHRONOLOGY西暦（和暦）月日出来事2013（平成25）年2014（平成26）年2015（平成27）年2016（平成28）年2017（平成29）年2018（平成30）年2019（平成31）年（令和元）年2020（令和2）年2021（令和3）年2022（令和4）年2023（令和5）年1月⚫明星幼稚園・小学校合同活動の日を「にこにこの日」として活動開始4月⚫広報誌『明星学苑報』休刊⚫明星小学校・中学校連携「ひらめき算数」始まる8月⚫明星小学校・大学連携、台湾の小学校児童との「元気玉プロジェクト」参加開始10月5日⚫学校法人明星学苑創立90周年記念式典を挙行2月19日⚫明星大学硬式野球部寮を多摩市落合（明星大学付属幼稚園跡地）に開設4月1日⚫明星大学デザイン学部デザイン学科を開設⚫明星大学大学院教育学研究科教育学専攻博士前期課程・博士後期課程、明星大学大学院教育学研究科教育学専攻（通信教育課程）博士前期課程・博士後期課程を開設⚫明星大学発達支援研究センターを開設⚫味形修が明星小学校校長に就任⚫大橋有弘が明星大学学長に就任7月⚫明星大学創立50周年記念事業の一環としての明星大学資料図書館（15号館）改修工事竣工、展示機能を強化、10月26日に島津久永・貴子夫妻を招いて披露式を実施2月⚫明星大学32号館（デザイン学部棟）、33号館（教育学部棟）竣工4月1日⚫いわき明星大学教養学部地域教養学科を開設⚫畠山武が明星高等学校・中学校校長に就任9月1日⚫いわき明星大学を学校法人明星学苑から分離し、学校法人いわき明星大学を設立10月⚫明星大学、シェイクスピア没後400年記念行事を実施12月27日⚫明星大学、八王子市と包括協定締結2月2日⚫明星大学、日野市と包括協定締結4月1日⚫明星大学心理学部心理学科を開設、入学定員120名、収容定員480名⚫いわき明星大学看護学部看護学科を開設、入学定員80名、収容定員320名4月1日⚫細水保宏が明星小学校校長に就任4月⚫学校法人の課題解決のために学校法人理事長の下に学苑経営計画推進会議、改革作業組織を設置、経営・運営のありかたを検討・解決の効率化を図る9月10日⚫明星大学、あきる野市と相互協力・連携に関する包括協定を締結4月1日⚫学校法人いわき明星大学を学校法人医療創生大学に、いわき明星大学を医療創生大学に名称変更3月⚫新型コロナウイルス感染症拡大・緊急事態宣言などを受けて、各園・校・大学で対応策（例：リモート授業・行事の変更・経済的支援策など）を実施4月1日⚫明星大学建築学部建築学科を開設、入学定員120名、収容定員480名⚫明星大学大学院心理学研究科心理学専攻博士前期課程・博士後期課程を開設⚫明星大学大学院人文学研究科国際コミュニケーション専攻博士前期課程・博士後期課程を開設⚫福本眞也が明星高等学校・中学校校長に就任⚫落合一泰が明星大学学長に就任3月31日⚫明星学苑八ヶ岳山荘を閉鎖4月1日⚫明星大学、多摩市と連携に関する基本協定書を締結8月⚫東京オリンピック女子体操競技に明星高等学校卒業の村上茉愛が出場、個人種目別ゆか銅メダル、団体総合5位に入賞3月15日⚫ロシアのウクライナ侵攻に対して明星大学学長落合一泰「ウクライナの早期平和的解決の呼びかけ―学長メッセージ―」を発信3月25日⚫明星中学校・高等学校、府中市と相互協力・連携に関する包括協定を締結3月28日〜30日⚫明星学苑、「多摩共創プロジェクト」の一環として高校生が起業を体系的に学ぶ体験教育プログラム「高校生アントレプレナーズキャンプTAMA」を開催4月1日⚫明星大学、学部等連係課程実施基本組織としてデータサイエンス学環を開設、入学定員30名、収容定員120名4月3日⚫明星大学に教員・職員・学生の協働や連携を促進する場として「MEISEIHUB（多彩な学びの空間）」を開設、多彩な学びの提供をめざす9月30日⚫学校法人明星学苑創立100周年記念式典を挙行土地面積・建物面積2023年5月1日現在府中校校舎概要●明星中学校・高等学校校舎名竣工年月概要面積（㎡）主な用途中高校舎総合体育館第2体育館部室棟至誠館（武道館）小学校校舎園舎児玉九十記念講堂旧本部棟記念館2004年8月2008年5月1984年9月2008年5月1971年12月2002年8月1998年4月2008年2月1973年10月1984年3月日野校校舎概要●明星大学地上6階地上4階、地下1階地上2階地上2階地上2階地上3階地上2階地上2階地上4階、地下1階地上1階4,4052,067958総合体育館に含む7312,8201,2081,846442136教室、スタードーム、カフェテリア、和室、屋上庭園アリーナ、サブアリーナ、室内プール、トレーニングルームアリーナ部室、器具倉庫剣道場、柔道場、卓球場教室、屋内体育館、明星っ子クラブ保育室、ホール、屋外プール、預かり保育講堂、児玉九十記念資料コーナー教育相談室、明星同窓会室、会議室、中学校PTA室記念館校舎名竣工年月概要面積（㎡）主な用途本館大学会館（22号館）23号館24号館体育館（25号館）26号館27号館2004年8月1号館1964年7月3号館1965年7月7号館1966年4月8号館1967年6月11号館1968年11月12号館1968年11月13号館1969年11月資料図書館（15号館）1976年8月16号館1978年8月17号館1980年7月19号館1983年3月20号館1986年9月21号館1993年11月1998年7月2002年8月2004年3月2004年8月2005年4月2007年3月28号館2007年3月29号館2007年3月30号館2007年3月31号館（-Ponte-）2010年12月32号館2015年2月33号館2015年2月地下1階、地上7階地上4階地上4階地上4階地上1階地上1階地下1階、地上5階地上1階、地上4階地上4階地上3階地上2階地下1階、地上3階地上2階、地上6階地上3階地下2階、地上3階地下2階、地上6階地上4階地下1階、地上2階地上5階地上19階地下1階、地上10階地上17階地上5階地上3階地上5階地上5階6,1016,4993,1684024023,3001,1923,1125,1471,259873,2014,1375,2727,6167,7824,2004,89412,02322,18638,18123,3649,8162,5058,7376,122アドミッションセンター、財務・経理チーム、情報システムチーム、経営企画ユニット広報チーム、会議室、理事長・学長室─ものづくりスペース──講義室・演習室学友会委員会室温水プール、卓球場、多目的練習場、柔道場、剣道場、弓道場貴重書室、明星教育展示室、企画展示室、アート・デザイン系資料閲覧室保健管理室、ステューデント・サロン、学生相談室、診療所、発達支援研究センター─教職事務センター（教職センター）連携研究センター、学苑連携推進グループ、一般社団法人明星会（同窓会）シェイクスピアホール食堂、コンビニエンスストア、ブックセンター、地域交流センター、ユニバーサルデザインセンター、学生サポートセンター、教務事務センター就職センター心理相談センター、明星大学出版部、通信教育事務室アリーナ、フィットネスルーム講義室、情報システムチーム、情報科学研究センター教員研究室、人文学部支援センター、教育学部支援センター、心理学部新センター、経済学部支援センター、経営学部支援センター、情報学部支援センター講義室・演習室、図書館、食堂、コンビニエンスストア教員研究室・実験室、理工学部支援センター、建築学部支援センター実験室部室講義室・演習室、デザイン学部支援センター、さくらカフェ実験室・演習室、教員研究室府中校総面積（校舎以外の設備を含む）：71,564.41㎡日野校総面積（校舎以外の設備を含む）：265,067.07㎡MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory469SCHOOLDATA

## Page 227
![Page 227の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000227.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

PART3第3部資料470キャンパスマップSCHOOLDATAキャンパスマップ2023年5月1日現在府中校FUCHUCAMPUS212011❾101721正門20南門明星中学校・高等学校明星小学校明星幼稚園学校施設1814北門1215❸1320❷❹❺❶❻❽2119❼16❶校舎❷総合体育館❸第2体育館❹部室棟❺至誠館（武道館）❻グラウンド❼テニスコート❽中央広場❾校舎10グラウンド11学校園12園舎13園庭14プール15リーブ広場16児玉九十記念講堂17購買部（1F）18いこいの広場19記念館20守衛所21案内板日野校HINOCAMPUSAG多摩モノレールBH26中央大学・明星大学駅I28F1627E1224本CD❶❺明星大学❶1号館❺5号館（室内練習場）1212号館1313号館1616号館1919号館2323号館2424号館2626号館2727号館2828号館2929号館3030号館3232号館3333号館13本本館AシェイクスピアホールB資料図書館C大学会館D体育館EPonteクラブ棟FソルブランGアーチェリー場H野球場Iテニスコート明星学苑の環境・施設についてご紹介いたします。https://www.meisei.ac.jp/mg/education/campus.html323319292330MeiseiGakuen100thAnniversaryofItsFoundationMemorialHistory471

## Page 228
![Page 228の画像](https://img01.ebook5.net/meiseiuniv/meisei_100/contents/image/book/medium/image-000228.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

編纂担当者一覧【企画・構成】高島秀樹（明星大学名誉教授）【明星幼稚園】渡邊智恵子（園長）、秋山博子、芦川令子【明星小学校】渡邊保【明星中学校・高等学校】上杉剛（教頭）、大野直美、川邊靖【明星大学】冨樫伸（副学長）、伊庭健二（理工学部）、菊地滋夫（人文学部）、児島秀樹（経済学部）、尼岡利崇（情報学部）、松川秀夫（教育学部）、石橋貞人（経営学部）、渋谷和良（デザイン学部）、石井雄吉（心理学部）、齊藤哲也（建築学部）、篠原聡（データサイエンス学環）、菱山覚一郎（通信教育部）、林伸一郎（全学共通教育委員会）【編纂事務局】学苑連携推進グループ山本和男、鈴木隆、清水孝晃、松井利之、三浦寛之、宮崎茂男、本村愛、長谷川倫子【編纂協力・資料提供】府中校事務ユニット、理事長・学長秘書ユニット、経営企画ユニット、人事ユニット、教学マネジメントユニット、総務ユニット、明星同窓会、PTA星座会、小学校PTA、中学校・高等学校PTA連合会、一般社団法人明星会明星同窓会、一般社団法人明星会明星大学同窓会執筆者一覧第1部学校法人明星学苑の歩み第1章高島秀樹（明星大学名誉教授）第2章・第3章小川哲生（明星大学名誉教授）第2部設置校の現況明星幼稚園渡邊智恵子（園長）明星小学校細水保宏（校長）、渡邊保明星中学校・高等学校福本眞也（校長）、上杉剛（教頭）、大野直美、川邊靖明星大学落合一泰（学長）［理工学部・大学院理工学研究科］伊庭健二、赤坂哲也、香川亘、熊谷一郎、石田隆張、亀掛川幸浩、古川一暁、西條純一、高三徳、星野勉、岩見徳雄、村上晶子［人文学部・大学院人文学研究科］菊地滋夫［経済学部・大学院経済学研究科］坂本秀夫、中田勇人、安田満［情報学部・大学院情報学研究科］尼岡利崇［教育学部・大学院教育学研究科］松川秀夫［経営学部］石橋貞人［デザイン学部］渋谷和良［心理学部・大学院心理学研究科］石井雄吉［建築学部］齊藤哲也［データサイエンス学環］篠原聡［通信教育部・通信制大学院］菱山覚一郎［全学共通教育委員会］林伸一郎、浜野喬士【装丁デザイン】保田卓也【デザイン監修】（明星大学デザイン学部）西本剛己、川又淳、三本松淳学校法人明星学苑創立100周年記念誌2024（令和6）年3月発行発行者学校法人明星学苑吉田元一〒191-8506東京都日野市程久保2-1-1TEL：042-591-5111（代表）編集・制作印刷製本株式会社出版文化社日経印刷株式会社株式会社博勝堂東京・日本橋茅場町大阪・新大阪名古屋・金山Ⓒ2024MeiseiGakuen.PrintedinJapan

